信仰と知識の相互関係 [3]

    キリスト教は、真の霊 (霊魂) の宗教だと自任しているが、いざ人間の構成要素である、霊、魂、肉について等閑視してきた。二千年の間、霊、魂、肉が何であるのか、聖書に立脚し正確に糾明されたものが何もないと言うのは大変な矛盾と言わざるを得ない。霊、魂、肉の正しい解釈こそが聖霊との一致、即ち神  (創造主) との交わりができるのだが、今日のような哲学に依存した抽象的で大まかな間違った解釈では、到底神との正しい関係は成立できない。

    初めから間違った設計図で建てた建築物は、結局は崩壊するように、キリスト教は、人間の本質  (霊、魂、肉) についての間違った解釈によって、今日のような大変な誤謬を犯している。人類はこれまで多くの宗教や哲学等を通し、人間の本質要素と機能に対する糾明と説明に随分努力をしてきた。だがその努力に比べ、人間の本質は表われていない実情だ。その本質は神 (創造主) の属性と共に神秘に包まれた部分として残っている。

    この世はこれを精神科学 (心理学) として糾明しようとするが、部分的にはできても完全で絶対的な規定とは言えない。総体的で細部的な信仰と知識を説明するには、人間の本質上、霊、魂、肉の説明なくしては不可能である。これら一つ一つを含蓄させ説明するにはあまりにも膨大で容易なことではないゆえ、十分ではないが‘信仰と知識の相互関係’だけを言及してみよう。

1 肉的信仰における信仰と知識の相互関係

1) 教理の成立方法と役割

    信仰は、全宇宙のあらゆることを解決できる鍵である。また、その鍵である信仰の本質は、神の御言葉に根本を置かなければならない。この御言葉は全宇宙を創造し治める原理と理致であり、これを‘真理’と言う。この真理はイエス・キリストであると同時に聖霊である。故に‘真の信仰とは、完全にイエス・キリスト (聖霊) を救い主として信じる信仰から始まらなければならない’と‘信仰2’で言及したとおりである。これまで教理は、聖霊ではなく、肉的信仰である人間の理性と論理による知識で信仰に至ろうと言う試みが発端となった。

    一般的に教理主義者たちは、知識の追求に対する当為性についてこのように主張する。

    ‘信仰をするにおいて知識が伴うべき重要な理由は、信仰とは、神に対する完全な信頼を通じて神に服従する主従の人格的関係を言う。こうした主従関係に至るには、知識の収容と決断の過程を通るが、信徒がイエス・キリストに対し寄り頼み、服従しようとすれば、寄り頼もうとする対象についての正確な知識なくして望ましい信仰とはならない。信仰の定義は知識(understanding)、同意(synonymous)、信頼(reliance)等、3種類の要素に区分され、この3種類の要素を全て兼ね備えてこそ正しい信仰となる。従って知識が欠如した単純な信仰というのは不健全であり、イエス・キリストについての知識がないために結局はキリスト教が間違った道に行くのだ’と、教理主義者たちは指摘する。

    ‘聖書と教理’編でも言及したとおり、この世は事物を観察し実験して、一定の結果を出す科学的方法によって論理を成立させ事物の真偽を説明し、信じるに至る。この世はこの方法により事物を識別する知識と収容、決断することで完全に信じ受け入れるのである。これを‘常識’と言う。この世はこうして明らかにされた常識の中だけに安住しようとする。しかしこうした科学的方法の実権者 (主体) は人間の理性であり、理性での判断に従って真偽が決定されるという弱点を持っている。一時期の定説が新しい学説により随時覆される事などを通し、科学 (理性) は結局、本当の事実に到達できず、常にその周囲を漂うだけであるのを我々は数多く見てきた。

    ところがキリスト教の中でもこうした人本主義が発達し、この世と同じ科学的な思考と方法によって信仰を営み信じようとしている。教理は方法論においてこの世の哲学をそのまま踏襲、もしくは模倣したに過ぎない。この世の物をそのまま模造し、聖句に華やかな装飾と衣を着せただけだ。つまり信仰においてもこうした科学的方法を通して信じるのを合理的方法だと考えている。こうした試みから‘教理’が誕生した。

    このように教理は、理性 (論理) という道具を使用し、聖書に対する事実を論証して信仰に到達しようとするもので、これは至極肉的な人たちに必要な信仰だ。従って教理の役割と言うのは、初心者や異邦人たちに、信仰の概念についての認識と分別、そして考慮等をするようにするだけだ。つまり、この世の異邦人たちとキリスト教との区分を有らしめる境界線程度の水準に過ぎない。(‘教理を捨て聖書に帰れ’編参照)

2) 聖書と教理の相違点

    教理は信仰生活を始めようとする異邦人たちにおいて、信仰の補助の役割程度であって正確で繊細な案内書ではない。外形的にはむしろ教理が合理的で、体系化され、よく整い整頓されているため、より良く見え、聖書と取り立てた違いがないように見えるが、内容と概念性では完全に異なることがわかる。これは二千年前、イエス様と律法主義者たちも外形的には同一の神おひとりに仕えているようだが、内容的には完全に反立状態にあったのと同じである。その当時の律法主義が、今日となって教理主義として台頭したのだ。教理が聖書と異なる点は、聖書は聖霊の感動により聖霊によってできたが、一方、教理は人間の必要に応じて人間の知識によってできたため、その時々聖霊の導きに従う信仰ではないと言うこと、また聖書を成文化 (教理)、体系化したことである。

    御言葉は聖書だけでも十分である。信仰は聖書と聖霊の出会いの中で、キリスト教の真理と絶妙さに出会うものだ。だが教理は、聖書の中の御言葉を再び人間の知識によって成文化し絶対化させた。聖霊の役事は枠がないために、聖書を見れば聖霊が個別的に働いて下さり、見る人ごとに各自の解釈が異なり、また、1つの内容をもっても個人的に数多くの解釈を下すことができるが、教理は、成文化、画一化させ聖霊の働きを制限させている。

    たとえば、すでに小麦粉で食パンにした物を、また捏ねてすいとんにすることは不可能なように、教理はすでに1つの体系化されたもの、つまり形質ができているため、その形質に合う用途以外には使うことができない。

    教理主義者たちは、‘聖書と教理に何の違いがあろうか。相互が補い折衷して並行すれば、むしろ良いではないか’と言う反問をするだろうが、これは2匹のウサギをみな捕まえようとする二股信仰である。聖書と教理は折衷できない。その理由は、聖霊  (霊) と理性  (魂) というのは、完全に異なる体系  (次元)  に置かれているからだ。その証拠として、聖霊中心の恩賜教会と、御言葉中心  (教理中心)  の教会は理由が何であれ、互いに対立関係にあることを見ればわかる。教理主義者たちは両立的な教会を要求する。それが一番合理的な方法のようだが、それはあくまでも人間が望む要求事項に過ぎない。その折衷は聖霊の完全さの中でのみ可能である。‘真理とは何か’編で言及したように、それは壺を保管する倉庫と壺の違いと同じで、倉庫の中に壺が入るのであって、壺の中には倉庫は入らない。このように、聖書の中に教理が包含することはあっても、教理の中に聖書が包含されることはない。

3) 教理の問題点

    キリスト教はこれまで、聖書に対する知識があってこそ信ずることができると、多くの教会が教理の学び  (公課学習) にほとんど重みと比重を置いて教育してきた。しかしその実によって木がわかるように、教理主義が量産した現代教会の結実を見ればその問題点がわかる。教理主義者たちには二通りの特徴がある。その特徴を二人の息子に表現するならば、一人の息子は‘背倫児’であり、もう一人は‘低脳児’である。‘背倫児’は異端論争の是非である。これは神の権威に挑戦する悪行と驕慢であり、人間が犯せる最悪の蛮行である霊的殺人行為だ。

    異端剔抉は、神のみが成せる神だけの固有業務であるため、人間自らが教理のものさしで選別するという行動は慎むべきである。そうした行動は、①キリスト教の核心思想である‘愛’に逆行することであり、②審判主は神のみであられるのに、人間自らが審判主になるというのは驕慢の極地、罪悪であり、③さばき、定罪、批判してはならないと強調する聖書の御言葉に完全に違反するという事実を悟るべきだ。

    「使徒の働き」で、ガマリエル律法学者は“もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます”(使徒 5:38-39) と言ったように、本当に異端であるなら人間が関与しなくとも自ら自滅するのだ。

    ‘祝宴の日に豚をほふるように’、悪人と悪行を行なう者に対しては、神の審判と言う方法を通して教会に教訓を与え、神が生きて働くことを表わし、愛する神の教会に現れて栄光と敬畏を受けようとされることを知るべきだ。我々がすることは“復しゅうはわたしのすることである。わたしが報いをする”  (ロ-マ 12:19) と言われたように、そこに対する審判は神に委ねることが聖書的なことである。異端論は、万が一牧者の些細な誤った判断による失敗でも、直ちに多くの魂の大量虐殺につながる重大なことである。それで異端論を主張した者たちは悲惨な末路を迎えたのである。また今後もそうなるであろう。

 耳のある者は聖霊の語られる声を聞きなさい。

    またもう一人の息子は‘低脳児’のため基礎的信仰の一つも処理できないのである。形式的には神を信じると言いながら、最も小さいことすらも信仰によって成就させ神の栄光を表わすことができず、常に自分の知恵や世の常識の懐の中だけで信仰を営もうとし、本質上は世の人々と全く同じ生き方をする信仰の低脳児である。こうした信仰の低脳児にあって、神の存在と神を信じると言うことが、果たして何の意味があるだろうか?教理による信仰はこのように神を死んだ神、無能な神に転落させているのだ。今の教理は、神と聖徒の間を分離し、到底神と聖徒の間を一つに結ぶこと (交わり) のできない結果をもたらす、異端者の役割をしているだけだ。

    ‘聖書と教理’編でも言及したように、教理は、論理として人間の理性に伝達され知識として残るが、一方、聖霊は人間の霊に到達し、人間の霊魂を蘇らすことに目的がある。キリスト教の目的とするのは、肉  (理性) ではなく霊である。霊に達するのは神の霊である聖霊だけができるのである。知識 (教理) では、人間の理性 (魂) に達する機能と手段にしかならず、人間の霊 (霊魂) に達するのは不可能である。これは、聖霊だけが人間の霊に到達することのできる唯一で固有の聖霊の業務なのだ。しかし教理主義者たちは今まで知識一つであらゆることに通用させ、霊にまで至ろうとし、知識が信仰の万能であるかのように思っている。

    このように教理の問題点は、

① 聖霊を除外し人間の理性によって聖書を画一化、成文化した結果、異端論の是非を呼び起こし、②信仰とは、無から有を創造し神の栄光を世に表わすものなのに、最も小さいことすらも信仰によって成就できない信仰の無能さと、③聖書では、人間の理性から始まるものは決して認めてはいない。それを肉であると定義している。これを即ち人本主義と言い、聖霊によらない全ての事を肉と言う。キリスト教の目的とするのは霊であり、霊を追求する宗教であるため、教理では決して霊に到達することはできない。

    霊的なしもべであるほど、教理や律法を脱皮するのは何故か?彼らは、教理に忠実なら聖霊を受けられず、聖霊に忠実にすると教理を守れないと言う結論に達したために、聖書に立脚し聖書を守るための方法として教理や律法を脱皮したのだ。

    ある人は言う。教理も聖書から抜粋したのだから聖書の御言葉ではないかと反問もできる。だがこれは、刀が誰の手に握られているかによって凶器にも義刀にも変わると言うことだ。どんなに世界に一つしかない宝刀でも、強盗の手に入れば凶器と化すように、聖なる聖書の御言葉が教理主義者たちの手によって律法的で肉的なものへと変質したのだ。

    たとえば、神の御言葉である‘モーセ五書’が、回教徒やイスラエルのユダヤ教徒たちによって凶器と変わった様に、彼らは、目には目、歯には歯という‘モーセ五書’の中の御言葉にかこつけて、周辺国家に対する報復と、戦争の正当化で中東地域を常に紛争の素地のある世界の火薬庫にしてしまったのと同じだ。

    以上のように、教理によっては信仰に至ることはできない。教理は聖霊がないため、自分たちの便利に従って勝手に教理という体系と構造を作ったに過ぎない。ただ、聖霊のない構造の中では、教理に立脚したこうした方法が絶対唯一の方法とならざるを得ない。しかし第三者の立場で見ると、全て不必要な行為である。

    共産主義国家では、彼らの体系を維持するため共産主義思想が必要だが、民主主義国家の立場から見ればそうした思想は全て不必要であるのと同じだ。現代教会もやはり、今のキリスト教体系を運営するには、教理の知識なくして信仰に至れないと考えているため、教理の絶対的必要性を主張する。しかし聖徒たちは、公課学習で教わった知識をもってイエス・キリストを知り、その方を信じ、また学んだ知識を活用して信仰生活をちゃんとやろうと努力はするが、実際生活においては、信仰と生活は別々と言う二律背反的な信仰生活に逢着する。

    信仰の足りない理由について、聖霊を体験した信仰者たちは、自ら’祈りと聖霊充満でなかったからだ’と診断を下すが、逆に知識に立脚した教会と信徒たちは、聖書の知識がないためだと自己診断を下し、その結果さらに学びに拍車をかけるのである。

    寒さに長くさらされ凍死の危機のある人を回復させるには、服を脱がし皮膚マッサージを通し、血液循環を促進しなければならないのに、寒さでこうなったからと布団だけをしきりにかぶせ、体温を維持すればいいと考えているような理屈だ。このように人間の理性による知識だけで信仰 (霊) に達しようとするのは、知識と霊との相互関係を無視した霊的無知と聖書に対する無知の至りであり、結局キリスト教没落の原因の一つとなったのである。

2 律法的信仰における信仰と知識の相互関係

1) 律法の役割と限界

    律法は魂的信仰で、広い意味では肉的信仰に含まれる。

    聖霊の助けのない、聖書の中の成分化された律法、即ち、①心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。②あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(マタイ 22:37-40)と言う二つの戒めをもって、全ての信仰生活に無条件的に適用させていくことを言う。細部的な行動綱領ではマタイの福音書五章  (・・・あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい・・・)  の御言葉に立脚し、信仰の倫理観とし、また信仰規範とする信仰を言う。

    従って聖霊の導きなく人間の力と努力でも信仰が可能である。そのため律法が何であるか知らなければならないため、必須的に知識が首班となるのだと知識礼賛論者たちは主張する。だが律法の役割は、肉に属する幼い信仰に、霊の概念を教えるための基礎的段階だと言える。これは、幼い子どもに算数の概念を教えるために、まず基礎的な数字を教える程度に過ぎない。

    律法は常に、どの時期どんな時であれ、幼い信仰が育ち、信仰の窮極点である霊的信仰ができるよう準備し、基礎を押し固める過程に過ぎないのに、その律法が信仰の全てであるかのように、その枠の中に閉じ込めてはならない。基礎に過ぎない律法をもって、まるで信仰が完成でもしたかのような錯覚から脱するべきだ。

    前でも引用したように、信仰において律法だけに固執するのは、幼稚園生に算数の概念を教えるため1,2,3などの基礎的な数字を教えるが、その学生が大きくなって大学生になっても、幼稚園水準の算数の概念でも数学の全部が応用できると主張するようなものだ。律法の役割は、霊的信仰という終着点に到達するために通過する簡易駅に過ぎないのに、その簡易駅が終着点だと主張するから問題となるのだ。

    律法的信仰は、律法に基づいて、恰も‘トンボが幼虫から殻を脱いで飛ぼうとあえぐように’、霊的信仰に達するために人間の力と努力を尽くすが、しかし聖霊に基づかない信仰は、聖書から外れた羊の仮面をかぶった反キリスト的な行為に過ぎない。彼らは聖霊の重要性はわかっていても活用できず、捨てるにはもったいない室内装飾品程度に扱っている。むしろ人間の理性による知識だけで真理に達しイエス・キリストを知る手段としている。その手段で霊的世界まで達することができると錯覚しているのだ。しかし彼らの到達点は常に普遍的常識と言う、肉に属するこの世の目的地と同じ場所に到達するだけだ。これがまさに律法的信仰の限界である。

2) 律法的信仰の問題点

    律法的信仰の問題点は、聖書に証しされた御言葉の節から信仰の根拠を探そうとするところにある。成文化された律法の中で信仰の拠り所を探すことから、混乱した二重的信仰を量産した。これはつまり、自分の必要と有益に従って主観的な聖書解釈を下したと言うことだ。客観性より自分自身の便利や霊的水準と有益に従って各自が異なった解釈を下していたのだ。

    律法による文字的聖書解釈は、文字そのままを解釈することが特色であるため、規格品のように画一性が求められ、その要求から外れれば壊れた物と規定する。その結果多くの教理と教派主義がはびこり、一つの問題をもって互いが異なる主張をすることで、信仰における深刻な障害物となっている。結局こうしたことが信仰の究極的目的に至るにあたって阻害要因にまで作用している。

    それぞれ異なる聖書解釈の誤謬により、信徒たちはその間で信仰の放心と、傍観者の構えに一貫する、そのような結果を導いた。聖書の全ての解釈は、神中心的、つまり霊的に作られているため、霊の観点で理解し解釈してこそ、真の真理の目的に達するのである。それで聖書は、聖霊の立会いのもとで霊の視覚で解釈するよう命じているのである (Ⅱペテロ 1:20)

3) 律法的信仰における信仰と知識

    律法は魂的であるため、信仰の窮極に達することはできない。信仰は現実世界から霊的世界に進むための橋頭堡の役割をする。これは、幼な子のように信じる純粋な信仰、即ちアブラハムの信仰がある時に可能である。そこには人間的な知識が加入されてもならず、ただ聖霊の力によって聖徒の心霊の中に、水と血と聖霊の証の中で受けた確実な信仰 (証し)を信じることである (Ⅰヨハネ 5:8)。その信仰によって霊的世界  (天国、天の御国、新しい天と新しい地)  に攻め入るのだ  (マタイ 11:12)

    このように信仰とは、真理の世界に属するもので、人間の理性を超越した高次元的な世界であるにもかかわらず、これを人間の理性で推し量ろうとすること自体が驕慢である。キリスト教の実体はイエス・キリストであり、イエス・キリストの実体は聖霊であることを刻印しなければ律法的信仰へと流れてゆく。そして律法的信仰すらも気を引き締めなければ、肉に属する者たちに必要な教理的信仰に流れ、結局堕落してしまうのである。

3 霊的信仰における信仰と知識の相互関係

    霊的信仰とは、聖霊の導きを受けていく信仰を言い、これはキリスト教信仰の窮極であり最高の信仰である。キリスト教は霊の宗教である。人間の本質である霊、魂、肉の中で、霊に達することのできる方法は唯一、聖霊だけである。このように霊的信仰は、まさに聖霊の導きを受けていく最高の信仰の段階で、その基礎は‘’から始まる信仰の段階である。‘聖霊の導き’とは、普遍的な常識の中にあるのではなく、ひとつの‘神秘’だ。聖霊との交わりの中で、各個人の用途と信仰の水準に応じた個別的な聖霊との交わりであるため個人差がある。

    教理と律法は、異邦人たちと信仰の幼い者たちを霊的信仰へと育てるものであるため、画一性と規格性に基づいた生活規範を必要とするが、聖霊の導きを受ける成長した信仰者たちは、一定した規範と規則が無く、多様性と自律性が保障される代わりに、相互信頼と相互尊重の土台を基礎に、高度の道徳性と倫理性、人格性が要求される。全生活の規範と行動綱領は、ただ‘愛’という絶対的な土台の物差しに合わせて行なわれるため、‘愛の完成’を成さなければ霊的信仰を営むことは不可能である。

    聖書は、啓示を受ける者以外は、父が誰であるか知る者はなく (マタイ 11:27)、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできない  (Ⅰコリント 12:3) と、くぎを打っている。この御言葉の意味は、聖霊はひとつの神秘であるから、聖霊の助けなくしては主が成される神秘なわざを理解することはできないと端的に言われたのだ。即ち聖霊の役事は人間の常識では糾明することのできない神秘な役事であり、このような神秘を通過しなければ信仰には至れない。神秘の世界は人間の常識と論理では行くことのできない世界である。

    たとえば、おとめマリアがイエス・キリストを如何にして生み、長血を患った女が、イエス様の服をつかんだという理由ひとつでどうして病が癒されたのかについて、医学的や生物学的にどのような論理で説明できようか?聖書に登場する数多くの神秘の世界を、どのように飛び越えてイエス・キリストの世界 (霊的世界) へ入って行けたのか。このように信仰の世界は、人間の常識と論理では到底糾明することのできない信仰の過程があり、こうした過程は聖霊の力によってのみ通過できる。韓国からアメリカに行くのに、馬車では不可能だが飛行機に乗って行けば可能なように、神秘を通過するには、聖霊の助けを受けずには不可能である。

    信仰の世界はイエス・キリストの世界である。聖書では、天国や天の御国、新しい天と新しい地等で表現されている霊的な世界である。これは一般的な常識で理解する世界ではなく、聖霊の神秘な力によってのみ理解することのできる世界だ。これは、聖霊を通じて真理と非真理を分別し、意思や能力等の神秘な力によって、私たちの心にひとたび伝えられた信仰 (ユダ 1:3) を通して理解させて下さるのである。

    このように我々が信ずるべき信仰とは、その時々に聖霊が教え、思い起こさせ  (ヨハネ 14:26)、罪について、義について、さばきについて証しされ  (ヨハネ 14:26)  教えられる御言葉である聖霊の導き、即ち啓示だけを信じる信仰であり、聖霊が教えて下さる事だけが真の知識となる。律法は信仰の実体の影であり、信仰の実体は聖霊の導きである。聖霊の啓示  (聖霊の導き)  は信仰の実体であり、母胎となり、我々の信仰を主管する実際である。

    ‘教理’は異邦人たちのために必要なものであり、‘律法’は信仰の幼い者たちに必要で、‘聖霊の導き’は成長した信仰者たちに必要なものだ。従って肉的で律法的な信仰には、教理的知識が多少の益もあるが、霊的信仰とは全く係わりがない。ただ啓示  (聖霊の導き) だけが真の知識となるのである。

    使徒パウロの信仰綱領は、聖霊意外には何事も認めなかった。聖書を見れば、聖霊以外の全ての物をチリのように捨てた。すがるな、味わうな、さわるな、とあるように  (コロサイ 2:21)  人間の理性から出る全てのこと (哲学、むなしいごまかし、人間の言い伝え、世の初等学問等)  は無益であり、聖霊とは関係が無いため、霊はいのちであり、肉は無益だと語られたのだ  (ヨハネ 6:63)。即ち、霊はいのちにつながるが、肉は人間の魂と肉から出たもの (人間の能力だけで) であるため、全て無益だと言われたのだ。従って聖書の全ての御言葉は、“聖霊に満たされなさい (エペソ 5:18) と言うひと言に全ての意味が含蓄されている。故に教理だけを主張することは聖書に対する違背であり、聖霊に対する冒涜であり、イエス・キリストを再び十字架につける行為である。

4 韓国キリスト教の行くべき方向

    現代キリスト教は、これ以上聖徒たちを律法と教理という枠の中に閉じ込めてはならない。霊的により深くより遠く飛べるよう放してやるべきだ。あらゆる知識の鍵を持って、私も入れず、人も入れないようにしている教理と律法の主張はもうやめ、高い上座から降りて来て、聖徒たちが思うまま霊的な道を行けるよう放してやるべきだ。そしてキリスト教本来の姿である聖霊との交わりの中で信仰の実を結び、信仰の成長を成すべきである。

    即ち、聖霊の導きと啓示 (教訓) の中で真なる善と知識を探し、それをそのまま心に信じて従順し、その御心を成就させ、主と結び合わされ一つの霊に達し、主と共に生きることを求められているのである。教理や律法のような初歩的な信仰をもって、聖霊の導きを受ける成長した信仰を判断してはならない。そうした判断が今日まで韓国教会の霊的信仰の発展に大きな阻害要因となってきたのだ。今キリスト教は、キリスト教らしい位置と姿勢に戻り、本然の任務を遂行すべき時点に来ている。今後、韓国教会が霊的成長をするには、全てのものを捨てて明け渡す‘狭き道’と言う関門を必ず通過しなければならない。

    イスラエルの民たちが、三日あれば行ける道を40年かかっても達しなかったこの道は、いつかは誰もが霊的に通過しなければならない関門だが、3500余年を過ぎた今日まで完全な征服をできないまま持ち越されてきた。このような関門を通過しようと試みる者たちを、教会は逆に間違っていると罵倒している。その関門は、ヨルダン川を渡り、カナン7族を退け、3500余年前イスラエルの民が達しなかった乳と蜜の流れる神霊なる (霊的) カナンの福地に入ることだ。‘カナンの福地’とは、信仰によって聖霊に満たされる過程を、イスラエルの歴史を通して説明したものだ。霊的阻害要因である人間の内面で働く肉を象徴したもので、その肉を支配することによって神霊なる霊の満たしを受けることを象徴しているのである。

    その見本を、イエス様は‘世に勝った’  (ヨハネ 16:33) と言われ、信仰によって私たちに手本を見せて下さった。私たちはその足跡をたどって行きさえすればいいのだ。‘世に勝った’と言われたのは、ただ信仰によってのみ世に勝つことができると言われたのだ。世の本質と構成は、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢で構成されているため  (Ⅰヨハネ 2:16)、この世は神と敵対する関係だ (ヤコブ 4:4)。これをただ聖霊  (信仰)  によって勝ったと語られたのである。

    このように私の中にある肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢など、カナン7族を征服し、カナンの福地、つまり霊的へと進む道を象徴したのである。今キリスト教は霊的な大路を備えてあげなければならない。到達できなかったカナンの地奪還において、この時代こそ韓国キリスト教が霊的完成を通じてあらゆる宗教を統合すべき時代的使命を果たさなければならない。また共に成すべき責任がある。

    6.25による凄惨な同族争いの悲劇と、50年分断の悲劇を迎えた原因は、新教教界指導者たちの教派の争いと分裂に対する神の戒めである。これは韓国教会が今後を備えるためのわずかな警告に過ぎない。もし韓国のキリスト教が今のような教理の体制を固執し続けるならば、二千年間イスラエル民族が流浪彷徨したように、韓国も流浪の民族へと転落するであろう。

    時代的使命である大路を備えてあげられず、教理に立脚した信仰に固執するのは、聖霊に逆らうことである。聖霊に逆らうことは、二千年前ユダヤ人たちによって死なれたイエス・キリストを、再び十字架につけるのと同じ罪悪であるため、その責任はこの時代の韓国キリスト教指導者 (教役者) たちが負わなければならない。我々の故に韓国が、虐待と冷遇の中で二千年をさ迷ったイスライルのように、第二のイスラエルとなり、我々の後孫たちがさ迷うことの無いよう切に願い、祈るものである。主よ!そうなることがないよう切に切にお願い致します。

耳のある者は聖霊が語られる声を聞きなさい!

    ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン

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