信仰とは [1]

[現代キリスト教が直面している信仰の現実]

    現代キリスト教は、真の聖書本来のキリスト教の目的と使命から外れて異邦宗教のように転落してしまった。聖徒たちははぜ教会に行かなければならないのか、なぜイエスを信じるのか、イエスを信じると言うことはどういうことなのか、信仰の基礎的なこともわからない状況で習慣的に教会に通っている。教会は聖徒たちに、教会に出席する程度をもって、イエスをちゃんと信じ信仰生活をきちんとやっているかのように錯覚させている。こうした教会の間違った教えと黙認の中で、聖徒たちは本当の信仰とは何か間違った理解をし、個人個人の信仰の程度に従い、信仰と現実生活が分離し矛盾した信仰生活をするようになった。

こうした水準の信仰では、聖書が求める信仰に達することも理解することもできない。聖徒たちはかえって人本主義と教理によって信仰が破壊され、信仰は次第に抹殺されている。それでは神(創造主)が、この時代に求められる信仰の正しい定義とは何であり、信仰の基礎とは何なのか聖書的に言及してみよう。

キリスト教は聖霊の宗教であるため、聖霊に満たされた時はじめて聖書が求める完全な信仰に到達することができる。従って聖霊の導きによらない全ての信仰の行為を‘肉的信仰’と言う。このような肉的信仰は、律法の完全な行ないを通して霊的信仰に達することができる。聖書で求める律法は、律法の行ないを通して霊に至らせようとする目的を持っているため、律法は聖徒が肉的信仰に属している時、霊的に上がるための段階、過程、順序に過ぎない。これは、3階に上がるには1階から上がるのと同じで、聖霊に満たされていなければ、誰でも律法から段階的に上がって行かなければならない。

一般的に律法を悪く考える傾向があるが、決して律法が悪いのではない。ただ、信仰の目的地である霊的信仰に至れず、常に律法の中に留まりながら、信仰の最終目的地に達したかのように思っている間違った信仰を指摘しているのである。現代教会のほとんどは律法の水準に留まっている。その律法に安住しようとし、それが信仰の最終目的と信仰の全てであるかのような誤った教えをしている。これはまるで農夫が農作をするにあたり、苗を植えただけで農作が全て終わったと言っているようなものだ。苗を植えることは、農作の目的である稲を収穫するための過程に過ぎない。

しかし多くの教会が信仰本来の目的から逸れ、人本による行ないの面に全ての信仰の基準を置き、あたかも道徳性をきちんと備えるのが正しい信仰生活であり、高度の道徳性を備えてこそ、キリスト教信仰の目的地に到達するかのように強調している。高度の道徳性は、聖霊に満たされれば自分の中で完成され、自然にあふれ出す成熟した信仰の一部であって、それが信仰の目的とはなり得ない。このような高度の道徳性は世の人々が追求し要求する事項であり、キリスト教信仰とは何等関係ない。また聖書が求める信仰の目的とも一致しないゆえ、キリスト教はこの点において決して誤解がないよう願いたい。高度の道徳性を要求することは、礼儀、礼節を崇め尊ぶ偶像崇拝に過ぎないことを悟るべきである。

    教会の目的は、神(創造主)の求めと約束、御心、願いなどを信仰によって成就させ、神の栄光を世に表わすことである。神の栄光を成就するには信仰がなければならない。この信仰の窮極点が、信仰の成就 (実)である。それはつまり実として完成する。この信仰の実が神の栄光となるのだ。これは、葉だけが生い茂り、実を結ばないいちじくの木がイエス様にのろいを受けたように、実を結ばずして神に栄光を帰すことはできない。

● 信仰とは無から有を造りだすこと

信仰とは、目に見えたり現れたものから始まって信じるのではなく、何も見えたり現れたものがなくとも、神の御言葉ひとつを(参照:啓示、聖霊の導き)自分の胸に大切に納め信じ、その御言葉をそのまま共感し、認めることのできる形として成就させ (実を結ぶ)、神の栄光が現れるまで信仰を守り続けることが、信仰の最終目的地、到着点である。

このように信仰の完成には、多くの過程を通過しなければならないにもかかわらず、教会は、信仰をとてもやさしく簡単で、ただ (無料) だと安逸に教え、結局は信仰の実を結べないだけでなく、かえって聖徒たちの信仰を放縦、怠惰にさせている。そんなに容易く信仰が得られるのであれば、聖書ではなぜ、死に至るまで忠実であれと言われ、命を得るために命を捨てろと言い、狭い門から入れ・・・等、なぜ信仰をするにおいてこのような悲壮な決心を要求するのだろうか?これまで信仰の先駆者たちが示した貴い信仰の手本を、現代教会は無駄にしないよう願うものである。(啓示と聖霊の導きは同じ内容だが説明のため二分化した)

● 信仰とは限りない善なる戦いの連続であり苦しみだ

これまで多くの先輩牧師たちが、神社崇拝拒否と共に様々な殉教の道を選択したことにより、今日まで信仰者たちの証と手本になっている。その方たちのように一度の殉教で信仰を守ることができたらどんなに良いだろうか!しかし私たちは、毎日毎瞬間この世との戦いを、殉教の精神をもって、信仰の善なる戦いの激戦を打ち進まねばならない。その戦いに勝利する時にはじめて信仰を守って行くことができるのだ。この信仰の戦いを立派に戦うために、聖書では聖霊の剣と信仰の盾とかぶとを着けるよう言われた。信仰の力を得るため使徒パウロは、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難を喜ぼう(Ⅱコリント12:10)と言った。このように自分が弱い時こそ信仰が強くなると言うことを語っている。

● 異端が多いのではなく信仰がないことがより大きな問題

このように正しい信仰生活を教え歩まなければならないキリスト教が、口では御言葉、御言葉、あるいは聖書的、聖書的と言いながら、行ないはむしろ神の御言葉を否認し、破壊する行為をためらわずに恣行している。その証拠にあらゆる教会が異端論という深い中毒症に陥っていることだ。異端論を主張する者たちは、キリスト教の本質をきちんと悟っていないどころか、その行為は結局聖書に対する無知、徹底した独善、傲慢の極地であり、人間最悪の霊的な蛮行を犯しているのだ。自分だけが正統だと主張し、福音を妨げ信仰を破壊し、数知れない多くの純粋な魂を真理でない間違った道に導く罪ほど大きな罪悪がどこにあろうか!聖書はそのような者たちを指して、むしろ生まれなかったほうが良かったと言っている。

このように現代キリスト教の最も大きな問題点がまさに、信仰の真なる本来の目的と趣旨を脱ぎ捨て、まるで‘異端剔抉’だけが信仰の全てであり完成であるかのような錯覚に陥っていることだ。その結果信徒たちは同じクリスチャンに対し、絶対的な愛と信仰と信頼よりは、互いをさばき定罪し、反目と嫉視、疑心の病にかかり、真の信仰とは全く関係のない、相反する道を歩くというまことにもどかしい実情である。

今、教会がまず先行すべき差し迫った問題は、聖徒たちに正しい信仰を定立してあげることだ。その理由は、信仰さえ正しく定立すれば異端は全く問題にはならないからだ。

異端論の間違った風潮は、神を信じる絶対的信仰のない者たちが、聖霊なく人間自ら判断し分別しようとするところから出たものだ。しかしその分別力というのも聖書的ではなく、自分たちだけの教理と人間の知恵から出たと言うところに問題がある。これを分別する基準の物差しから間違っているのに、何を公正に分別できようか。異端だとしても全ての信徒は誰も同じように神に仕えようとしている。ただその方法と解釈が違うだけだ。神に仕える方法が、教理によって違うからと言って、むやみに異端だとさばいてはならない。異端論は、人間による徹底した人本主義(教理主義、教派主義)が作り出した時代状況の悲劇だ。そのような定罪は神のみがなさることだと聖書は語っている。

異端論を焚きつけ主張する者たちは、必ず神の災いと審判が直ちにあろう。

   耳のある者は御霊が語られる声を聞きなさい。

[信仰の基礎]

どの宗教であれ、その信仰の主体となる信仰の対象が必ずある。キリスト教はその信仰の対象がイエス・キリストである。だがほとんどの聖徒たちは、キリストの何をどのように信じたらよいのか、また具体的に生活の中でイエス・キリストの御言葉がどのように適用されるのか等全くわからないまま、ただ漠然とキリストは私たちの罪のために十字架で死なれ、故に信じさえすれば救われるというような信仰観(救済観)を持っている。勿論こうした信仰観は広い意味では信仰に対する正確な表現であるが、個別的、具体的な意味においてはあまりに抽象的である。

キリスト教はそれなりに整えられた教理という知識をもっている。これに基づいて教理主義者たちは、教理によって信仰の完成まで至ろうと愚かなことをしている。これはまるで、月を網袋の中にとって入れると言う、童話の中の話をしているようなものだ。

これまで教理は、頭を大きくするには卓越した効果があったが、いざ手足を成長させ動かすことに何の影響力も発揮できずにいる。即ち、知識は積めても行動まで変えられないため、聖書では、知識はただ人を高慢にするだけだと強調している(Ⅰコリント 8:1)。このように教理によって発生した信仰者たちの被害と悲劇は言い尽くせない。では聖書が語る信仰の基礎が何であるか言及してみよう。信仰の基礎には、‘基礎的観念的信仰’と‘基礎的行為的信仰’がある。

1 基礎的観念的信仰

誰をどのように信じるべきかの、信仰の対象と方向などを正確に把握するには、神(創造主)の属性を知らなければならない。

たとえば、大田 (テジョン)からソウル行きの汽車(上り)に乗るために駅まで行ったが、乗車口がわからず、反対側の釜山(プサン)行きの汽車(下り)に乗ったら大変な事になる。このように神の属性を正確に知らなければ、正しい信仰の方向と目的を設定することはできない。聖書66巻は、神はどのようなお方なのか、神の属性についての教えが正確に記されている。つまり信仰の鍵は神の属性を知ることであり、神の属性はその御名を通して知ることができる。

● 神(GOD,エル、エラ、エロヒーム、エロアハ):

我々が信じる神は、宇宙万物を創造された創造主であり、我々の主イエス・キリストの父である。万有を主管し、納め、統治され、我々を救われる唯一無二な方である。そのお方は自らおられる方、天上天下全ての万物の主管者であられる。従って、神は全ての人間から礼拝を受ける方であり、我々が信ずべき唯一の真の神である。

● ヤーウェ : 自らおられる方

“わたしはある、という者である”(出エ3:14)

● ヤーウェ(アドナイ)・イルエ(Yehowah Yireh): 神は全てのことを予め備えられる方

 “アブラハムはその場所をアドナイ・イルエと名づけた。今日でも 主の山に備えありと言い伝えられている” (創22:14)

場所を備えるために、イエス様は去って行かれることで助け主を遣わされ、その助け主、聖霊の中で平安と信仰によって、また聖霊の力と奇蹟によって私たちの信仰を助けてくださる。その備えは、イエス様が二千年前に十字架の死をもって完全に聖霊を準備しておかれた。

● ヤーウェ ラファ(Yehowah Rapha) : 神はあなたがたをいやす主である

“わたしは主、あなたをいやす者である”(出エ15:26)

● ヤーウェ(アドナイ) ニシ(Yehowah Nissi): 勝利者

“モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び・・・”  (出エ17:15)

“わたしはすでに世に勝ったのです”  (ヨハネ16:33)

“私たちは・・・圧倒的な勝利者となるのです”  (ローマ8:37)

“なぜなら神によって生まれた者はみな、世に勝つからです”  (ヨハネ1 5:4)

● ヤーウェ(アドナイ) シャロム(Yehowah Shalom) : 主は平和。主は平安。

“ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた”(士師記6:24)

平和の君と呼ばれる”(イザヤ9:6)

“われらの足を平和の道に導く”(ルカ1:79)

● ヤーウェ ラハ(Yehowah Raha): 導かれる牧者。聖霊によって私たちを導かれる。

“主は私の羊飼い”(詩23:1)

“わたしは、よい牧者です”(ヨハネ10:11)

“しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたを

“すべての真理に導き入れます”(ヨハネ16:13)

● ヤーウェ(アドナイ) シャマ (Yehowah Shamma) :現実の中で共におられる主。

インマヌエル

“この町の名は「主はここにおられる」と呼ばれる”  (エゼキエル48:35)

“その名はインマヌエルと呼ばれる (訳すと、神は私たちと共におられるという意味である)”  (マタイ1:23)

“見よ、わたしは、世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます”(マタイ28:20)

● ヤーウェ エル ゲルムート (ゲムラ、Yehowah EL Gemulah) : 報復の神

“わたしは報復の神で・・・”  (エレミヤ51:56)

“主はねたみ、復讐する神”  (ナホム1:2)

● ヤーウェ ナッケ(Yehowah Nahke) : 滅ぼされる主

“あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ・・・この民すべてに滅びをもたらすことになる”  (民32:15)

“その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる”(使3:23)

“彼らの大部分は神のみこころにかなわず荒野で滅ぼされました”(Ⅰコリント10:5)

● ヤーウェ キヌア(Yehowah Khina):ねたむ神。

人間の計画等を消滅することで、ねたむ、という意味。

“あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神”(出エ20:5)

“あなたの神・・・ねたむ神だからである”(申4:24)

“主はねたみ・・・”(ナホム1:2)

● ヤーウェ シャハト(Yehowah Shaphat): 審判される神

“わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき”(エゼキエル7:8)

“人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません”(マタイ12:36)

“私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて・・・”(Ⅱコリント 5:10)

● ヤーウェ マケン(Yehowah Makhen): 主はわが盾

“主は・・・わが”(詩18:2)

“主は、われらの助け、われらの”(詩33:22)

“これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい”(エペソ6:16)

● ヤーウェ ヤサ(Yehowah Yasuh): 救いの神

“わたしが、あなたの神、主、・・・あなたの救いの主であるからだ”(イザヤ43:3)

“この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである”(ルカ1:71)

● アガペ(Agape): 神は愛

“愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです”(Ⅰヨハネ4:8)

信仰とは、上に列挙した神の御名、すなわちその方の属性を完全に信じる信仰を言う。その信仰を基礎として、イエス・キリストは、私たちがどんな状況や立場にあっても私たちを救われる救い主であることを信じる信仰を言うのである。

こうした信仰を‘基礎的観念的信仰’と言う。

2 基礎的行為的信仰

完全な信仰は行ないまでを要求する(ヤコブ2:17)

即ち、思い(観念) だけで終わるのではなく、行動に移して成就するまでを完全な信仰と言う。これは全知全能を信じる信仰で、マタイの福音書5章を基準にした愛の行ない(心の貧しい者は幸いです・・・喜びなさい。喜びおどりなさい。(マタイ5:3-12)・・・わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いる者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。・・・(マタイ5:39-42)が現れるまでを完全な信仰だと言えよう。

旧約時代ユダヤ人たちが主を信じた信仰行為は、上に述べた神の御名、即ち、神の全知全能を信じること(観念的)と、律法を守ること(行為的な事)であった。観念と行為が分離するのではなく一つに一致していた。即ち、観念と行為は信仰の同格で、ひとつであった。これは、夫婦は個々の男性と女性で成り立つが、ひとつという観念で見るように、観念的なものを行ないに移すまでをひとつの信仰と言う。

新約でイエス・キリストを信じるということも、信じ従順するまでを言っている。この従順は観念的に知っているだけでなく、行ないに移すまでだと言うことを忘れてはならない。このように信仰は、神の全知全能を信じ、愛の行ないにまで連結することを言うのである。そうなる時、聖霊の住まいが私たちの中に築かれる。その時はじめて完全な信仰と言えるのだ。

これまで誰もが、信仰は行ないまでだと繰り返し教えられたことだろう。だがほとんどの聖徒たちは信仰が思いの中だけに留まって安住し、行ないに移すことを躊躇している。むしろ行動に移せないことの弁明と自己合理化、或いは自分の当為性を掲げ、自ら良心を鈍くさせている。クリスチャンが信仰の年数が深まるほど弁明の多い理由がまさに、頭ではわかっていても、これまで実行できなかった間違った信仰に対する自己合理化が発達したためだ。今、我々全ての聖徒は、信仰は行ないまでだと言うことを堅く刻印しなければいけない。観念的信仰だけをもって自ら自分を、信仰によって歩んだと決して認めてはならない。

肉的信仰が外部 (環境、立場、状況・・・)と関わった信仰の戦いであるなら、霊的信仰は内部 (良心)との戦いである。キリスト教は肉ではなく霊を追求する宗教であり、これを目的とする信仰であるため、霊的に成長するには、上記した神の御名を信じる信仰から始めるべきだ。

これがキリスト教の最終目的地に達するための信仰の基礎段階である。今キリスト教はこれまでの信仰に対する誤解から脱し、神の属性のあらゆる力に信頼し、信じ、生活の中で多くの実を結び、神に栄光を帰す信仰者となるよう切に願うものである。

ハレルヤ!  世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン

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