信仰と従順 [4]

教会は二千年間、聖書が求め言わんとする信仰について多くの誤解の中で信仰してきた。現代教会の信仰教育は、聖霊の働きに替えて、聖書を科学的で合理的な思考方式へと飛躍発展させた。その結果、教理や人間的な方法と手段で信仰に到達しようとする誤謬を犯しているが、これは聖書に逆行する徹底した人本主義の所産物だ。こうしたキリスト教の教育方法や教理、体系では決して信仰に至ることはできない。教理的信仰の結果は、キリスト教の本質である‘愛’が、時間が流れるにつれ色あせ、世俗化してゆき、最後には結局、利己と欲へと歪曲し、人本主義を量産するだけである。

その証拠に、キリスト教の教理と信仰を国家の政治理念とするキリスト教国家の通ってきた行跡を見れば、その結果が明確である。ほとんどが世界列強のキリスト教国家は、政治、経済、外交、倫理、道徳、社会規範等あらゆる面において、彼らの国家統治理念であるキリスト教の教理と信仰が、実際的現実に反映され現われなければならない。しかしその国々は世界列強に君臨しながら、力の優位を土台に、ただ自国の利益のみに血眼になり、今日のような世界の情勢版図を生み出した。他人の国は死のうが生きようが関係ない無慈悲な行為は、過去のキリスト教史と世界情勢を通して数多く検証されている。これが今日当面しているキリスト教国家の実体だ。それは教理がもたらした教理信仰の顕著な実である。

現代教会の教理主義者たちは、失敗した信仰の補完策として、革新的で進歩的な方法と、立証されたものだけを信じる科学的な方法をもって信仰教育に対処している。しかしこれは、真のキリスト教の本質である信仰とは全く関係のない肉の教育である。これらは信仰の実を結ぶことのできない人本主義のもがきである。

信仰は、肉で見る時には疑問や神秘、愚か、非常識そのものだ。こうした疑問、神秘、愚かさを信仰によって心に秘めたまま無条件的な従順で一貫して行くと、やがて聖霊が来られて秘密の幕を取り去り、疑問と神秘から、確信と信仰の世界へと導いて行くのである。キリスト教は愛と共に従順の宗教である。信仰と従順に関し言及するに先立ち‘信仰1,2,3’を通し提示した‘信仰’についてもう一度整理してみよう。

1) 信仰とは

キリスト教信仰の窮極は聖霊充満である。そして聖霊充満に至るには信仰が絶対的に必要である。聖書が求める真の信仰とは、ただ神(創造主)の力によって完成した信仰である。信仰の種類は、律法的(肉的)信仰と霊的信仰に分類される。聖霊のない肉的信仰がその力に達するには、人間の意思から始まった律法的信仰から初め、段階ごとの順序と手順を経なければ霊的信仰に到達することはできない。

● 律法的信仰

律法的信仰(基礎的信仰)とは、成文化された律法を言う。こうした信仰は霊的信仰へと進むための準備過程である。つまりイエス様が言われた二つの戒めである“心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ”と“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ” (マタイ22:37-40)と言う戒めをもって、聖徒の信仰生活の全てに無条件に適用させていくことを言う。細部的な行動綱領としては、マタイの福音書五章(あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。)の御言葉に立脚し、信仰の倫理観、また信仰規範とする信仰を言う。

律法的信仰は、聖霊の無い肉の人たちが霊の世界へ進むための方法として、全き愛に歩み、‘幸福の使信 ’(マタイ5:3-12) の手段と方法を通し、求め、探し、たたき(マタイ7:7-8)、呼び求めもがく段階までだと言える。このような律法的信仰をもっては、信仰の窮極である聖霊充満に至ることはできない。だが現代教会は律法の行ないだけで信仰が完成したかのように錯覚していることが問題だ。律法的信仰の到着点は、聖書が求める信仰生活の始まりであり、聖霊の導きを受ける始発点に来ているに過ぎない。

● 霊的信仰

霊的信仰は、聖霊の導き、つまり啓示による信仰であり、律法のように行ないの過程がなく直接信仰に到達する。たとえば、サッカー競技を観覧するには、お金を払って入場券を購入し、入口でその券を出し競技場に入ってはじめて心行くまで競技を見ることができる。そのように信仰は聖霊の導き(啓示) による完全な信仰を持っている時にのみ‘天国、天の御国 (聖霊充満)’ に入って行く権利が与えられるのである。

つまり、誰でもサッカー競技を観覧できる資格はあるが、ただ入場券を購入した者に限り競技観覧の許可が与えられるように、聖霊もまた誰でも受けられるよう開放されているが、聖霊充満は、ある公式と法則に符合した時受けることができる。その法則に符合するものが信仰という要素であり、信仰は、聖霊に満たされるにあって競技場の入場券のような効力を持っている。

聖霊の導きを受けることは信仰の最高の法であり、あらゆる宗教にあって最高の境地である。このように聖霊に満たされた時に、コリント第一13章の愛(寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを絶え忍ぶ心、Ⅰコリント13:4-7)に完全に符合できる。これが完全な信仰と言えるのである。

2) 信仰の世界とは

聖書では信仰の世界を‘天国や天の御国’として、聖霊充満な心霊を表現している。従って天の御国は‘ここにある、あそこにある、ではなくあなたがたのただ中にあるのだ’ (ルカ17:21)と言われたように、天の御国は、聖徒の心霊の中にある、観念的で形而上学的で、信仰の中において実際的原因と根元的世界を言うのである。

つまり、電子顕微鏡でしか見られない核の世界のように、実際的に存在する根本となる世界を言う。聖書が追求するのは、目に見えつかめる肉的な世界ではなく霊的世界である。そこでは聖霊の導きという高次元的な信仰の世界が求められる。このように‘聖霊充満’とは、聖徒の心霊を神が完全に統治され関与し、神政国家を築くことを言い、神の統治体制の中に入った聖徒の心霊を‘天国、天の御国’と言う。

この世界を築くために、まず初めに先行する要求条件が信仰(信じること)である。信じる世界は、この世的な肉の観点で見れば、常に人間の知恵では到底理解できない、非常識で不合理な疑問そのものである。信仰の目でしても、信仰は秘密と疑問に包まれた神秘の世界だ。こうした非常識と疑問は、聖霊に満たされれば聖霊の力を上に着、信仰のあらゆる要求条件や、信仰、希望、愛などが自ずと解決されるが、聖霊のない律法的で教理的な肉的信仰においては、その疑問等を如何なる方法でどのように信仰へと昇華させるのかが問題だ。

● 信仰の善なる戦い

今まで教理によって成長した信仰は、非常識と疑問等を通過する方法として常に教理だけを使用してきた。しかしこうした方法は、パリサイ人たちがイエス様の信仰を律法的な視覚だけで理解し解釈したのと同じ、非常に幼稚で奇形的、低脳児的信仰に至らせる手段となる。

キリストの信仰とは、異邦宗教のように自分たちだけの教理や規範、または規則だけに従って信仰するのではなく、その時々導いて下さる聖霊の導きの中で、信仰に要求される多くの疑問との戦いを、確固たる信仰によって攻め入り征服し、信仰によって昇華させ、聖霊充満(天国、天の御国)に到達する宗教である。

このように疑問から信仰へと昇華させる過程を、使徒パウロは‘善なる戦い’と言った。この戦いは血肉の戦いではなく、疑問を信仰で越えて昇華するのか、又は、疑心にそのまま停滞するのかと言う心霊の中で起こる葛藤の戦いである。こうした信仰の熾烈な霊的戦争の果てに勝利した者だけが信仰を勝ち取ることができるのである。

“私は勇敢に戦い…信仰を守り通しました”(Ⅱテモテ4:7)

“私たちの格闘は血肉に対するものではなく”(エペソ6:12)

また、こうした戦いに勝利したとしても、信仰が形成される絶対的環境である、純粋、真実、愛という条件と環境でなければ、その信仰を最後まで持続、維持することはできない。罪は信仰を破壊し腐敗させる性質を持っているため、信仰を管理するためには常に悔い改めを通した自己管理をしなければならない。

たとえば、商売をし、多くの逆境と苦労の末に財産家になった人でも、その財産を身代つぶすことなくきちんと管理してこそ、財産家としての生活が維持できる。このように、信仰もまた、善なる戦いの果て勝利して勝ち取ったとしても、管理ができなければ、道端、石地、いばらの中に蒔かれた種のようにすぐに枯れ、消滅してしまう。そのため信仰を維持するには、愛という環境が絶対的に必要なのである。

それ故、聖書は、常に聖霊に満たされていなさいと言うのだ。信仰は、常に聖霊充満でなければ、結局、霊的な盲目と言う信仰の両極現象に逢着する。従って如何なる形態であれ信仰を営むためには、聖霊充満へと攻め入らなければならない。そこに符合する環境を築くために聖書は‘愛しなさい’と強調している。は直ちに聖霊充満につながり、聖霊充満は愛であるため、恰も夫婦は一つという概念で見るように、愛(Ⅰコリント13章)と聖霊充満は一つであり、互いが互いを共有する。

前記したように、信じることは信仰の目的とする霊的世界をつなげる橋頭堡の役割をする。今我々が生きている現実世界から霊的世界、即ち聖霊によって心霊に築かれる天国、天の御国をつなげる媒介体である。こうした媒介体である信仰無くして聖書の求める霊的な変化は不可能である。どんな努力をしたとしても肉的信仰である律法的信仰に留まってしまうのである。

だが教理によって成長した現代教会の信仰は、こうした善なる戦いの経験がほとんどなく、これと言った重要性を感じていない。彼らは真理についての有無を教理だけで比較し、その確認程度で信仰が育ってきたため、実践には全く経験がない。従って現代教会の信仰教育は、マラソンに出る選手を卓球競技に出る選手のように卓球の練習だけをさせているようなもので、聖徒たちを信仰の霊的戦争の無知の中に閉じ込めている。

霊的へと進むには、必ず霊的戦争に打ち勝たなければ信仰に到達できない。だが教理的信仰はそうした過程を全て無視し、教理をもって霊的戦争に対峙させた結果、聖書が求める信仰には全く到達できない信仰の奇形児だけを量産した。

● 信仰 (義)と神の力

    神の力はキューピットの矢のごとし

キリスト教は一般的に、教会に行きイエスを信じさえすれば誰でも救われると言う。

しかし‘信じさえすれば救われる’と考える信仰はどこに根拠を置いた信仰なのか。このように教会が理解し教える信仰と、聖書が主張する真の信仰とは相当な誤解と誤謬がある。この誤解が解決されない限り、キリスト教は限りない信仰の誤謬をもたらすだけだ。今までのキリスト教の信仰は完全な霊的信仰ではなく、律法的信仰で止まっていた。信仰の窮極は聖霊充満である。聖霊充満の内には信仰の完成までを含んでいるため、聖霊充満の中での信仰の作用が何であるかを詳しく言及してみよう。使徒パウロはコリント教会でこのように言っている。

“あなたがたのもつ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした”  (Ⅰコリント2:5)

神の力とは何か?それは、何であれ信じるようにする力であり、こうして築かれた信仰だけを神は‘義’とされた。たとえば、古代ギリシャローマの神話に出てくる愛の神であるキューピットの矢は、その矢に当たれば誰もが愛の化身となり、その愛は愛すべく如何なる理由、原因、対象、条件、根拠とは関係なく‘無条件に愛するようになってしまう力がある’ように、神の愛の矢である聖霊を受ければ、無条件に信じられ、信仰へと変わることを言う。聖書ではこの信仰を恵みと言う。これが神の力であり‘義’と言うのである(エペソ2:8)

パウロが言った神の力とは、このような意味の次元での信仰を強調したのである。こうして信じるに至らせる力以外の、哲学や初等学問等は、信じると言う信仰の到達には何の助けも意味も無いため、ちりのように捨てたと言ったのだ。

聖霊は聖徒の心霊に、理論と論理などなく、ただ確信という一つの証だけで信ずるに至らせる神の力である。つまり、キューピットの矢に当たれば無条件に愛するようになるように、力 (聖霊) による信仰は、どんな原因や理由、結果、理論、論理等、合理的、常識的、人間的な方法が全て完全に排除された、純粋に神の力による義 (信仰) と平安と喜びの中で、心の確信一つで(聖霊と水と血が与える証し)築かれるのが神の力である。

このような力について旧約では、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を捧げたことをもって、また、イザヤ53章で預言したイエス・キリストの姿を通し、心霊で働かれる聖霊の姿と力を描写している。

“メルキゼデクは…義の王であり、次にサレムの王。すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなくその生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく…”  (へブル7:2-3)

“彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく私たちが慕うような見ばえもない”  (イザヤ53:2)

一般的に新約に出てくる全ての疑問や要求に対して、旧約では全ての象徴の中の、歴史、人物、事物等を通して、具体的に新約の疑問と要求の答えが説明されている。それが旧約聖書の目的である。メルキゼデクは、父も母も系図も、生涯の初めも、いのちの終わりもない疑問と神秘の人物として描写されている。そうした人物に、旧約では信仰の祖先であるアブラハムは、彼に仕えるという契約の証票として十分の一を捧げている。このようなメルキゼデクを使徒パウロはヘブル人への手紙7章で、義の王、平和の王として描写することで、イエス・キリストの有形として証明している。その理由は何であるか?イエス・キリストについては、イザヤ53章にきちんと描写されている。

メルキゼデクとイザヤ53章に描写されたイエス・キリストの姿を通し、その象徴の中で信仰とは何かについて、信仰の形状と形態を形而上学的な比喩として表現している。信仰の祖先アブラハムが、疑問と神秘の人物であるメルキゼデクに仕えたように、信仰は、聖霊が聖徒の心霊に底も果てもなく投じてくれた、一度下さった御言葉一つを握り、それが信じられようとなかろうと、人間の理論と論理と常識などを排除し、心に確信したその信仰だけを最後まで堅く握り(へブル3:14)、無条件、力によって役事されるその信仰だけを信じ仕えることを象徴的に表現したものである。

信仰とは、アブラハムが‘義の王’であり‘平和の王’であるメルキゼデクを信じたように、心霊に義(信仰)、平安、聖霊による喜び (ローマ14:17) の中で役事する確信一つだけを持って信じることだ。その平安と喜びがどこから、何のために、どんな理由も過程もなく、ただ一つの法が現れると言う意味で、父、母、系図、生涯の初めも、いのちの終わりもないと言う意味で表現されている。同時にイザヤ53章を通して描写されたイエス・キリストの姿は、二千年前十字架上で死なれたイエス・キリストの姿を表現したものであるが、また、聖徒の心霊に働かれる聖霊の形状と姿を表現したものである。

この世の姿が、科学や哲学等の全学問が備える論理的、合理的、常識的、説得等、美しく慕われる華麗な方法であるのに比べ、聖霊の姿は、人間の常識と論理などとは関係なく、心の中に平安と喜びを帯同する中に純粋に湧き上がる、ある確信 (力) である。砂漠の地から出る枝のように見とれる姿や見ばえもなく、輝きもなく役事される聖霊の姿を比喩として表現したものだ。このようにメルキゼデクはイエス・キリストの象徴であり、今も聖徒たちの心霊に聖霊によって役事する形而上学的な信仰の世界を、形状と形態で表現したものである。

この時代に聖霊によって働くその役事を、我々はどんな根拠によって信じるのか?前記したように、信仰というのは何の理由や根拠がなくても、心霊で役事する心の中の確信一つだけを握って戦う戦いである。つまり私の心の片方ではそれを認めようとするが、もう片方では、論理と根拠がないから信じられないと言う戦い、信仰の葛藤が起こる。

こうした霊的葛藤はどちらか一方が勝利して終わる。その戦いの結果は、‘人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となる’ (Ⅱペテロ2:19)。ひとたび下さった信仰 (確信) を、最後まで信じて勝利した者だけがその信仰を所有でき、信仰を所有した者だけが聖霊充満に入って行ける。だから信仰は万物を得る鍵であり、信仰生活における信仰の三大条件(信仰、希望、愛)の中に含まれているのだ。

キューピットの矢に当たった人は、その瞬間から理由条件等なく、ある力によって愛の化身となるように、聖霊に満たされている時には心霊の中で信仰が自動的に完成され、ある力によって信じる確信、つまり知恵や知識ではなく、聖霊の力によって成されるのが神の力である。こうした力の信仰によって救われるのだと言ったのだ。この信仰を‘義’と言う。こうした次元に限り‘義’が示されたと言うのである (ローマ3:21-22)。この‘義’を信じる時、救われるのであり、こうした信仰で生きる人を‘義人’と言う。

● 信仰には偽物はない

信仰というのは、信じる当事者の絶対的な信仰の程度に関係した問題であるため、信じると言うことの中には偽物はない。信じる中に偽物があると言うのは、人間が作り出した仮想であり推測に過ぎない。信仰の世界では当事者の信じた通りに成るだけだ。つまり、信仰がないと言うならないのであり、あると言うならあるのである。従ってキリスト教は体系と合理的宗教ではなく、ただ神が下さった力によってのみ形成される神秘の宗教である。

イエス様も“あなたがたの信仰のとおりになれ” (マタイ9:29) と言われたように、私に信仰があれば成就するし、信仰がなければ成就できないのだ。信仰に関する限りは当事者の信仰にかかっているため、信仰を得るには、農夫が種を蒔くために田畑を準備し、管理するように、常に備え準備する賢い5人の娘とならなければならない(マタイ25:4)。一つの対象をもっても、この人が預言者と見るならば預言者の報いを、その人が義人と見るならば義人の報いを、当事者の信仰の関係によって報いると言われた (マタイ10:41)。信仰の世界は、この世のように本物と偽物の区分がなく、ただ当事者の信仰の程度に応じて関係し通用する国であり、これを‘天国、天の御国’と言う。

こうした信仰の世界の中では、どんなに偽物だと言っても、信仰によって偽物を本物に成就させ創造し出すことができる。これはどの宗教もすることのできない、ただキリスト教聖徒たちだけが成せる特権である。信仰は、各々自分の心に確定したものを信じるため、信仰の程度が異なると言ってむやみに他人をさばいてはならない法則がある (ローマ14:1)。故に信仰は相互間の尊重と愛の中でのみ解釈できるのである。

事物の核を観察するためには、電子顕微鏡を通じなければ事実を見ることができないように、信仰は、愛という観点を通じなければ信仰の世界を見ることができない絶対的な原則を持っている。従って、信仰については本物偽物の真偽を選り分けること自体が愚かである。ただ相互間の尊重と愛の中でのみ観察され解釈されるものであり、信仰の中では全て事実の世界があるだけである。

信仰は、私が望む事がらを実体にすることができる。今私が見ることはできなくても、見たように信仰の証をもっていれば (へブル11:1) 見ることになるのである。従って“信じる者にはどんなことでもできるのです” (マルコ9:23) と言われたように、キリスト教で主張する信仰の世界とは、信じれば信じたとおりになる世界だ。この世の目で見れば神秘主義や荒唐な迷信的要素に見えるだけだが、これらは霊的にのみ分別することのできる神秘な世界であり、人間の理性では到底はかることのできない高次元的な世界が‘天国、天の御国’である。このような霊的世界は、信仰によってのみ行くことができる信仰の世界だ。

3) 信仰と従順の相互関係と目的

律法的信仰が‘天国、天の御国’に入っていくための橋頭堡ならば、従順は信仰へと進むための橋頭堡だ。従順とはその信仰に対する行為である。信仰が内的に起こる観念的なものならば、従順は外的に表われる行為である。観念的な信仰は従順と言う行為を実行することで信仰が完成される (ヤコブ2:26)

男性、また女性という各々互いに異なる異性の個体が、結婚を通して夫婦というひとつの概念として成立するように、信仰と従順の相互関係は、別々に分離することのできない一つの信仰の概念だが、従順は自分の意思と選択の余地に従って決定することができる。常にこれに対する決定権はまさに自分自身にあるのだ。

上記のように、信仰の過程において聖霊充満は、聖書が求める信仰の目標であり完成の段階だ。聖霊充満に至るには信仰に到達しなければならない。信仰に至るには、疑問や神秘を信仰の関門として通過しなければならないのだが、全てキリスト教信仰がここに引っかかり、信仰によって通過できずにいる。

信仰によって通過するのに最も大きな障害物は、常に疑問と疑心である。これを通過できる方法は、一次的に徹底して自分を否定することだ。つまり聖徒の心霊から湧き上がる数多くの欲求と反問、疑心、反抗、不満、背き、自分の知恵やはかりごとなどを否定することである。盲人が目の代わりに杖を使うように、ただ従順という杖を使って信仰に至るのだ。このように従順とは、信仰がなく疑問と律法的(肉的)信仰に属する者たちにとっては、信仰と霊的世界に進むための信仰の完璧な補助材であり、盲人の杖の役割をする。

● 従順の役割と定義

信仰するにおいて聖霊に至るには、信じて(信仰で)越えなければならない。また信仰は従順によってのみ超えられるため、従順は信仰の下部構造を形成している信仰の基礎である。このように信仰は、従順の可否に従って信仰に到着する道が開かれているため、結局信仰は誰にでも公平なものであり、信仰がないと言い訳はできない。

聖霊が充満な霊的信仰において、信仰と従順は完璧な一致をなす。従順は、聖霊の力による確信によってその行動や思考が自発的で能動的であるが、それに対し聖霊がない律法的信仰では、信仰と従順がそれぞれ分離し二元化した姿となる。従って聖霊のない律法的信仰においての従順は、漠然とした疑問や義務感のため、それが自発的ではなく命令であるかのような誤解を呼び起こしているが、ここで重要なのは従順する姿勢である。不満と不平の中でではなく、喜びの中で従順しようとする姿勢をとれば、聖霊は直ちに降臨されるのである。このように従順は、肉的信仰において信仰の絶対的要素であり、従順とは、信仰(聖霊)のない者たちが信仰へと進むための近道であり綱領である。

4) 信仰と従順の対象

    前記したように、信仰と言うのはこの世で一般的に使われる理論や説得力、または化学的で合理的な証拠の立証によって信じるのではなく、常識であれ非常識であれ、事実であれ神秘であれ関係なく、聖霊によって各自の心と思いに書かれた御言葉を信じることであり、聖霊がひとたび下さった御言葉を信仰によって受け、最後まで心に信じ守ることを言うのである。

“わたしの律法を彼らの心に書き、彼らの思いに書きつける”(へブル10:16)

ひとたび伝えられた信仰のために…”(ユダ1:3)

しかし、こうした信仰が形成される過程には必ず対象がなければならない。その対象は聖霊の導き(啓示)から始まる。これこそが正しい信仰が形成される絶対的公式であり法則だ。聖霊の導きなく自分自ら信じることは信念と言う。これは自分が望むことに対する希望に過ぎない。これまで教会は、信念と希望を信仰であると誤解してきた。‘信仰3’で言及したように、霊的信仰というのは聖霊の導き (啓示) から、教え、諭し、導いた、それだけを固く信じることである。これが聖書の求める真の信仰の到達である。

霊的信仰には、信仰の対象を得るために必須的に啓示が首班となる。その啓示を通してその時ごとに何を信じるのか信仰の対象が設定される。聖霊が教えて下さる教訓の御言葉(啓示)だけを信じ、信仰によって成就させ形状化させて栄光を表わすのである。到底信じられない状況で信仰を守った信仰の先祖たちは、こうした方法で神との交わりの中で、命じられたことをそのまま信じ従順したのである。

聖霊充満は、キリスト教信仰の完成である。聖霊が来られた時に律法の要求が完成され、キリスト者としての信仰が始まる。しかし聖霊のない肉的信仰においての従順は、歯がなければ歯茎で食べると言う俗説のように、信仰がない時は無条件自分を打って服従させる、従順という歯茎を使って救いに至るのである (ピリピ2:12)。キリスト教の戒めの綱領が‘’であるなら、信仰の綱領は‘従順’だ。従順は信仰の知恵である。従順は無知と混沌の中で真理へ向かう最高の知恵ある選択であり、完璧な知恵である。

即ち、肉的信仰から霊的信仰へと進むための唯一の選択である。

● 現代教会の問題点と当面した課題

    聖霊は、教会において聖徒たちの心を捕らえて良心を呼び覚まし、聖徒たちの生活に影響力を及ぼし、生命力ある御言葉と、全てを現実的にする役割をしている。しかし聖霊が欠如した律法と教理に立脚した今日の信仰は、形式的で、無気力で、御言葉の力が消滅し権威が消失した。それで生命力を失った現実性のない信仰へと変質し完全に堕落している。

誰もが、信仰をするにおいて聖霊の役事が絶対的に重要だと言うことはわかっている。しかし問題は、どのようにして聖霊を受けるかが重要な課題だ。今はこの疑問についての問題を解決すべき時だ。教会はこれまで多くの努力と方法を動員してみたが、苦労の割には全く効果が見られない実情だ。なぜこの時代は聖霊の恵沢を受けられないのか? 1960~1980年代まで盛んに恵みを受けた時代には、誰にでも役事された聖霊が、何故に今は全く消滅してしまったのだろうか?その当時聖霊の役事をしたしもべたちは去ってしまい、教会の中では聖霊の名残がほとんど去りゆき、真理の水が乾いてしまった時代に生きている。果たして聖霊は去ってしまったのか?

聖霊は常にどこにでも、いつの時にもおられる無所不在な方である。単に我々がその方を認めず、聖霊が働かれても感じずわからない程心霊が頑なになり、世俗にひどく汚染されているからである。聖徒と聖霊との出会いは、互いが同質な時に符合するが、聖霊と符合できないのは、教会内で間違った信仰教育を受けていると言うことだ。様々の方法で補完された良質のシステムの中で成されている信仰教育が、逆に聖徒たちの信仰を打ち壊す矛盾した結果をもたらしている。今日のような教理による信仰教育では、決して聖霊を受けることはできない。

それでキリスト教信仰がどこからどのように間違ったのかを、これからのメッセージで少しずつ順々に整理してみようと思う。ただ主の命令に従って伝えるものであり、このメッセージを通して公然と教会を批判したかのような誤解がないよう願い、解釈と見解が多少異なっても忍耐を持って見守って下さればと願うものである。

ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン

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