国立公園でしもべたちの姿勢を考えて


今、教会は権威主義を捨て、しもべや聖徒としての本然の姿勢に帰るべきだ。権威主義が美徳ではなく、愛と犠牲と苦難という困難に一貫し、こうしたことを喜ぶ姿勢へと帰ることがしもべたちの本然の姿勢である。

1990年6月のある日、国立公園で祈りを終え、岩の上に座って休んでいた時、国立公園所属の清掃員に会った。その清掃員は、片付けるゴミが多いのか、登山客たちが無分別にゴミを捨てると言って悪態をつき、不平を並べ立てていた。その瞬間私は、あの人は誰の為に清掃員として存在するのか、誰の為に給料をもらい家族を養って生きているのか? ゴミの無い世の中なら、誰が清掃員を必要としようか? ゴミを捨てる人がいるから清掃員が必要なのに、これを罵り不平を言うのは、自分の職務を忘れ去る愚かなことでないのか、と思った記憶がある。

このようにしもべたちは、苦難のパンと従順の見本の為に存在 し、また教会が存在するのだ。しもべは教会の為に、憎しみ、苦難、心配、失敗、挫折、難しさ・・・などの、どんな苦難や逆境の中でも、苦難道の演技をするスタントマンのように、ただ愛で勝利する信仰の示範を見せて生活する為に存在するのだ。清掃員がすることがなくて手を後ろに組んでぶらぶら歩き回っているなら、企業主はその清掃員を退かせるだろう。それと同じで、しもべたちは権威の為に存在しているのではない。

しもべたちの正しい姿勢は、教会の為に苦難の生活を繰り返 し、こうした生活を喜びとしなければならない。尊敬や認められることに注意して、安楽を排斥し、信徒たちからの疑心と不従順の中にあっても、今後戻ってくる信頼に対する望みを内心に喜び、苦難や苦痛という困難を真に喜び楽しむことのできるしもべが、忠実な聖徒としもべの正しい姿勢なのだ。

しもべは羊の群たちに頼ってはならない。万事において彼らが自ら、無理やりにではなく、自発的な発露で行なうまで長く長く待ってあげなければならない。羊の群たちに、教会の十字架を共に担ってもらおうと期待してはならない。期待は常に失望を増すだけだ。彼らの信仰が完成されるまで尽きることのない繰り返しで、愛と犠牲、苦難と苦労に一貫し、彼らにしてあげるべき義務だけが存在するのみだ。

あなたの使命にいつも喜び感謝する心を常に抱き、人々から慰められることを願ってはならない。あなたが倒れる一歩直前にいつもあなたを救ってくださる神だけを、ただ望み頼りなさい。不平と不満、ねたみ、嫉妬、欲の幕を破り、美しい幻想を信仰によって心に描いて成就させ、美しい装いの中にいつも素敵に主と共にいられるよう準備しなさい。