信仰の本質と対象 [2]

 

    信仰とは無から有を作り出すことである。教会の目的は、神 (創造主) の約束、御心、願いなどを信仰によって成就させ、神の栄光を世に現すことだと‘信仰1’で言及した。だがこのような信仰を現代キリスト教はまるで、小さく繊細な木彫り人形を斧1本で作ろうと言うような無謀な信仰をしてきた。ここで聖書が求める信仰とは何であるかを細分化し言及してみよう。

[信仰の本質]

    信仰は、全宇宙のあらゆることを解決できる鍵である。また、その鍵である信仰の本質は、神 (創造主) の御言葉に根本を置かなければならない。御言葉とは、農夫が春に農作をするのに必要な種のようなものだ。種がなくては農作ができないように、御言葉なくしては万物の全ての物は何一つ成り立たない。また御言葉は全宇宙を創造し治める原理と理致であり、これを‘真理’と言う。この真理はイエス・キリストであると同時に聖霊である。真の信仰とは、完全にイエス・キリストを救い主として信じる信仰から始まる。御言葉は、全万物創造の始発であり、最後の終着点である。即ちアルパとオメガである。そしてこの御言葉は、聖霊を通して聖徒に啓示されたことを信仰によって受け取ることだ。

    ギリシャ語で信仰を‘パスティス’と言うが、これは信実忠誠(faithfulness)と言う概念と非常に密接な相互関係がある。形容詞‘ピストス’(pistos)と、名詞‘ピスティス’(pistis)は、どちらも能動的な意味や受動的に使われる言葉であるが、信頼する時や信頼に価するという事実を表わす時に使われる言葉である。

    キリスト教の信仰は、神 (イエス・キリスト、聖霊) の御名を信じる信仰から始まる。その理由は‘生き物につける名は、みな、それが、その名となった’  (創 2:19) とあるように、その名の中には神の属性がはっきりと表われているからだ (‘信仰1’)

    信仰を分類すれば次のとおりである。

1) 律法的信仰(基礎的信仰)

    律法的信仰とは、イエス様が言われた二つの戒め、即ち ①心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。②あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ(マタイ22:37-40)と言う戒めをもって、聖徒の信仰生活の全てに無条件に適用していくことである。細部的な行動綱領は、マタイの福音書5章 (・・・あなたの右の頬を打つような者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。) の御言葉に基づき、信仰の倫理観、または信仰規範とする信仰を言う。

    聖徒は、万物を主管される神の主権と審判を信じる信仰を基礎に、イエス様が語られた二つの戒めの愛を全て従順に行なうことをもって良心の基準とし愛の行ないの可否を悔い改めの基準点として、律法の求める戒めを守ることで、ただ愛だけに一貫した信仰生活をすることである。即ち、私が損をし被害を被ったとしても、私が痛み傷ついたとしても、人を自分のように思い、ただ主が報いて下さり、慰めて下さり、癒して下さることを信じ、どのような立場や状況にあっても愛に一貫した信仰を言う。キリスト教は二つの戒めに忠実に従順することで、キリスト教らしい最小限の形態を維持できるのである。

    このように人間の行為で、こうした愛の行ないに到達しようと力を尽くした努力の限界までを‘律法’と言う。愛 (戒め) のために心を尽くして従順し努力はしても、人間の力では足りない時、貧しい者が乞い求めて生きるように、力と権勢のある絶対者であられる神に、私の足りなさを、求め、探し、たたき、叫び求めるまで、ここまで来た時が‘律法の極点’である。

    恰も、トンボが幼虫から殻を脱いで飛ぼうともがくように、律法は、完全に愛を行なうことによって霊的段階に進む為のもがきである。そして霊的信仰は、トンボがもがきの末、殻を脱ぎ捨て空を自由に飛ぶように、コリント第一13章4~7節(寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜ぶ、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ)の愛の世界、即ち、聖霊充満 (天国、天の御国) で心ゆくまま航海し、その時ごと聖霊の啓示 (聖霊の導き) の中で生きて行くことを言う。

    この時は愛が完成されているため、再び律法にとらわれる必要はない。聖徒は常に聖霊充満を当然維持すべきなのだが、しかし罪がある以上、常に聖霊充満を維持するのは難しい。聖霊に満たされても、罪を犯せば律法を通して (悔い改め)再び聖霊充満を回復し維持しなければならない。信仰は、自動車のエンジンのピストンの上下反復運動のように、聖霊に満たされても、また聖霊充満でなくなれば、再び戒めに照らし合わせて悔い改めるという、反復的信仰生活の中で信仰が成長していくのである。聖徒が聖霊の中にある時、即ち、聖霊充満な時を、天国、天の御国と言い、聖書はこの時を‘その日の後(へブル 8:10)と言っている。聖霊に満たされた時はじめて、罪の赦し、救い、信仰等の聖書で約束されている数多くの恵沢を受けるのである。(キリスト教の救済観の誤解がここにある。)

    律法だけでは罪人であるしかない。また聖書で約束された恵沢を受けることはできない。律法的信仰は愛の完成に到達できない段階であるから、マタイの福音書5章と二つの戒め  (マタイ 22:37-40) を信仰の行動規範と良心の標準とし、良心の標準に符合した愛の到達と、そして聖霊を受けるために、幸福の使信  (マタイ 5:3-12)  の手段と方法で求め、探し、たたき (マタイ 7:7-8)叫び、もがく段階までである。律法は即ち、愛の完成に至ろうとする段階までだと言えよう。

● 律法と聖霊の相互関係

    前述したように、聖霊から始まる力を受けず、自分の力だけに頼って行なうことを‘律法的信仰’と言う。一方、聖霊から (上から) 受けた知恵、力、権能、能力等、聖霊によるものを‘霊的信仰’と言う。イエスを信じると言うのは、神の御名  (‘信仰1’参照) を信じるのは勿論のこと、イエス様が語られた全ての御言葉を疎かにせず、絶対的に信頼する信仰を言う。

    律法的信仰は肉的な信仰である。成文化された律法を規範として守りさえすればよいため、聖霊の導き (啓示) がなくとも、人間の力と努力で信仰が可能である。また、知識礼賛論者たちは‘律法とは何かを知らなければならないため、必須的に知識が首班となる’と主張する。

    しかし、イエス様が公生涯の間に語られた御言葉の中で、特に強調された御言葉は、第一に、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。第二に、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(マタイ 22:37-39) という律法の二つの戒めと、聖霊を受けることを命じられたのである。愛の綱領を詳しく見れば、律法的信仰をもって聖徒が力の限り戒めを守って行けば、聖霊に到達することがわかる。これは機関士が釜山  (プサン) から汽車を運転し、鉄道に従って走り続ければ、目的地であるソウルに到着するのと同じで、マタイの福音書5章に立脚した倫理的行動指針と、マタイの福音書22章37~39節に立脚した、新しい戒めである愛の綱領を、忠誠をもって歩めば自ずと目的地である聖霊に到達するのである。

    このように律法の役割は、鉄道軌道の連結により、釜山 (プサン) からソウル駅に到着するまでの役割だと言える。その次からは各自の行き先を行くように、聖霊に到達すれば、律法による行ないはやめ、新しい案内者である聖霊の案内を受けて行けばいいのだ。律法の到着点は聖霊の導きであり、また聖霊の導きを受ける始発点である。

    愛の戒めが完成されるまで、律法のない聖霊の導きは基礎のない建物と同じだ。また、聖霊のない律法は親のない子供のようで、信仰が完全とならない。10階建ての建物に例えれば、律法は基礎工事であり、完成した10階の建物を霊的信仰だと言えよう。このように律法と霊的 (聖霊の導き) 関係は、互いに無視することのできない絶対的な相互関係である

    信仰の尺度は、教理から外れているかが重要なのではなく、私が愛から外れていないか、と言うことがより重要な問題である。律法的信仰は、教理がなくても愛  (マタイ 22:37-39)  の中で十分に可能である。霊的信仰も律法と教理の中ではなく、ただ聖霊の中で可能なのだ。しかし現代教会は、このような律法的信仰すらも教理の枠の中に閉じ込めている。

2) 霊的信仰(聖霊の導き、即ち啓示による信仰)

    律法の信仰が‘山上の垂訓’に立脚した手段と方法によって愛の完成に至ろうとするもがきだとすれば、霊的信仰は‘愛’に到達してから始まる信仰の段階だ。この時からは聖霊の導きの中だけで信仰ができる。それまで律法は養育係りの役割であり、啓示となる信仰 (聖霊の導き) が来るまで、即ち、聖霊の役事があるまで律法の効力があるのである。神の御言葉は真理である。真理は大きく二つの種類に分類できる。

    第一に、‘新しい戒めと成文法化された律法’ (戒め) があるが、この法は個人個人の良心に適用するには細分化がされていない。今日のような高度な文明と多様複雑な現代生活には、尚更そうした律法だけでは、現代人の良心の基準や信仰生活に適用するのは難しい。

    第二に、大体は新しい戒めと成文法化された律法の土台の上に成り立つ‘不文法的な聖霊の法’がある。聖霊の法は最高の法である。聖書の全ての教訓と御言葉は、聖霊の法を目的とし目指している。霊的信仰は、律法のように信仰の規範や知識、形式、戒め等を持つ必要がなく、ひたすら聖霊の導きの中だけで信仰をする。

    聖霊は、信仰と愛の中にいる時のみ維持することができる。律法的信仰と霊的信仰は、信仰とそのシステムの運営自体が完全に異なる。それはちょうど自動車と飛行機の違いのようなものだ。自動車はタイヤの回転で地上を走るが、飛行機は推進力によって空中に飛び立っていく。飛行機のタイヤは離着陸以外には必要がない。このように霊的信仰は、律法ではなく聖霊の導きだけを受けて行くのである。イエス様と使徒パウロも、ただ聖霊に満たされることと、聖霊の導きを受けることだけを強調された。

    聖霊の法に従えと言うのは、複雑多様な現代生活にあっても、各個人に対しその環境と立場によって、その時ごとに我々の良心と信仰に個人指導すると言っているのだ。これはアダムの堕落以後、イエス・キリストが人類の罪を負い十字架上で死なれた後、聖霊として来られ、罪と悪を分け、罪に打ち勝つ力を下さることで、人類を罪から救うための人間救済計画の完全なプログラムなのである。聖霊の導きを受けることは、即ち、真理の導きを受けることである。

“わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり・・・”(ヨハネ 6:63)

“主は御霊です”(Ⅱコリント 3:17)

    この御言葉は、キリストは聖霊だという意味である。これは即ち、聖霊によって教えられる教訓と導きという意味だ。こうした聖霊の導きを受けるのが霊的な信仰である。御言葉は真理であり (ヨハネ 17:17)、真理は御霊であり (ヨハネ 15:26)、御霊はイエス・キリストであり (ヨハネ 14:20)、主は御霊である (Ⅱコリント 3:17)と言われた。従って二千年前イエス様が公生涯の間に弟子たちに肉声で語られた御言葉も、今の助け主、聖霊の導きの中で聖徒個人個人に働かれるすべての御言葉も、同等である。つまりイエス・キリストの御言葉は、聖霊が語られた御言葉であるからだ。

    “新しい御霊によって仕えているのです” (ローマ 7:6) と言われた御言葉は、これまでの律法的信仰のシステムから、霊的信仰のシステム、つまり聖霊の新しい導きに従って仕える新しいシステムに替えなさいと言うことだ。即ち、聖霊の導きによって聖徒たちにとって永遠に先生となり、指導者となり、救い主となると約束されたのだ。その契約はマルコの屋上の間以後、今日までもその役事が忠実に降り続いている。それは、聖霊として永遠に私たちと共におられ、その時々ごとに、聖徒の必要な全てのことを助け、教え諭し  (教訓)、人生の全てを主管して下さり、罪と悪から救うことは勿論、永遠の命に至るまで案内者の役割をして下さると言う、神の契約である。

[参照] - 聖霊の導き:聖霊の恩賜、聖霊が教え思い出させ、罪、義、審判・・・等々を言い、聖霊によって神の御心を教えてくれることを‘啓示’とも言う。

● 聖霊を維持させる方法

    霊的信仰において最も重要なことは、如何なる状況に置かれても絶対的に‘コリント第一13章4-7の愛’を離れてはならないことだ。聖霊は愛の土台の上でのみ働かれるため、愛の戒め以外に脱してはならない。それが霊的聖徒たちの最高の良心基準であり、信仰の尺度と標準となる。どんなに聖霊に満たされた聖徒も、心霊の中に聖霊が長くおられず聖霊の寿命が短いのは、愛から離脱したからだ。聖霊の導きを受けるのは信仰の最高の法であり、全ての宗教にあって最高の境地である。

    キリスト教信仰の核心は聖霊である。聖霊を受けるには‘幸福の使信’(マタイ 5:3-12)に立脚して、求め、探し、たたき、叫び求める時受けるのである。(例外的なこともある)幼い信仰のような肉的な追求 (欲望の追求) のためにむやみに叫び求めるのではなく、信仰の霊的な追求(御国とその義)のために、コリント第一13章を良心の基準として叫び求める時、神のあわれみを受け、聖霊を受けることができるのである。この時を‘生まれ変わった’と言う。聖霊に満たされた時のみ、コリント第一13章の愛に完全に符合できるのである。

    この時重要なことは、悔い改めの基準、つまり聖徒の良心の基準がしっかりと‘コリント第一13章の愛’に一致できるよう切に願う。心霊が愛と一致できていなければ、貧しい者が哀願するように謙虚な姿勢で哀哭し、神が与えて下さることを信じ最後まで求めることだ。心の中心が立ち、悔い改めが神と符合してはじめて聖霊を受けることができる。聖霊が私の中に臨んだ時はじめて平安がおとずれ、救いが実現するのである。

    前述したように、律法的信仰において信仰  (信ずる)  に到達するには知識の追求が要求される。その知識とは概して教派と教理の枠の中に閉じ込められている聖書知識である。しかし、永遠のいのちを得る方法は、教理がなくとも愛という二つの戒め  (マタイ 22:37-40) を持つだけで、律法的キリスト教信仰は十分である。その一方、霊的信仰は、知識の中ではなく聖霊の中で聖霊の導きに従うことで信仰が成長し完成される。

信仰は教理による知識で得られるのではなく、聖霊に満たされた時にのみ得られる。

    マルコの屋上の間からの聖霊降臨以後、求め、探し、たたく者に聖霊が臨み、それによって聖霊充満に至るのである。これは、信仰を求める者には誰にでも差別なく下さり、人類に永遠に降らして下さる神の約束であり、恵みと恩寵である。聖書に、人間は誰も完全な知恵と知識をもっていない。完全な知恵と知識、即ち真理は、聖霊  (イエス・キリスト)  だけが持っており、知識の初めは主を恐れることである (箴言 1:7) と語られている。啓示によってのみ知恵と知識を与えて下さる。特に‘幸福の使信’に基づいて求める者に分け与えて下さるため、聖霊を受けるには、常に‘幸福の使信 ’ (マタイ 5:3-12)  に基づく、求め、探し、たたく (マタイ 7:7-8)  信仰をしなければいけない。

   キリスト教は、異邦宗教のように純粋人間理性により思弁的に形成された信仰ではなく、聖霊の導き、即ち啓示によってのみ真理を得ることのできる‘啓示の宗教’である。聖霊が交わりの中で関与される‘聖霊の宗教’である。キリスト教の奥義はまさに聖霊の役事にある。その一方異邦宗教は、自らの悟りの中で純粋人間理性によって思弁的に形成した教理を教え行なう、人間の理性による宗教だ。

    巫俗信仰とキリスト教がみな霊によって導かれるため、類似した点がある。巫俗信仰は、雑霊による雑霊との交わりの中で信じる信仰であり、キリスト教は、聖霊によって聖霊との交わりの中で、導き教えられたままを信じる信仰である。このように霊媒師も雑霊との交わりを成して呪術行為をするのに、羊の群れを導く牧者が、神でありキリストである聖霊との交わりがないならば、彼らの正体は何なのか。またそれが真の牧者と言えるだろうか?外形的に見れば異邦宗教(儒、仏、仙等)の教理が奥深く完璧に見える。その反面キリスト教は、最高の宗教だと自称しながら彼らの問いに何も答えられずにいる実情だ。

    もうキリスト教は、無知と独善と我執の鉄条網を打ち壊し、深い眠りから覚めるべき時だ。今や全ての宗教の疑問と質問に答えるべき時であり、あらゆる宗教の主張と混乱等の無秩序を捕らえて整理すべき時である。キリストだけが創造者であり、人類を救うことのできる知恵、権能、力のある真の神であることを伝えるべき時である。暗く窮屈な教理の枠を壊し、キリスト教はひたすら聖霊によって役事する宗教であり、キリストは今も聖霊として働かれ、我々と共にあり、生きて働く神であることを、全天下に知らせるべき時である。

   今から、コリント第一13章  (Ⅰコリント 13:4-7) の愛だけを追求し、‘幸福の使信’ (マタイ 5:3-12) に立脚し、求め、探し、たたき、哀哭する (マタイ 7:7-8)  信仰以外に、教理と知識による信仰だけを主張し教える者たちと、異端論を助長し主張する者たちの上に、神の災いと、のろいと、御怒りが直ちに臨むであろう。

  耳のある者は聖霊が語られる声を聞きなさい。

[信仰の対象]

    我々は信仰と言えばアブラハムを浮かべる。キリスト教は、アブラハムの信仰が標準だと言いながら、いざその信仰を実際生活には適用できず、常にその周囲をぐるぐる回っている。アブラハムが信じた信仰がどんなものだったのかもう一度考えてみよう

    アブラハムの信仰は‘ただ、幼な子のように信じることだ’と要約できる。番人が、夜が過ぎれば夜明けが来ることを信じ、また、朝には夕が来ることを信じるのと同じだ。又、農夫が、冬が過ぎれば春が来ることを当然信じて種を用意するように、誰かによる理由と知識と説明は必要がない。当然、当たり前に信ずべきものであり、信ずること、それをアブラハムの信仰と言うのだ。

    全宇宙の創造者であり、主管者であられ、万物の運行の理致と原理を真理と言い、又、御言葉とも言う。‘信仰の本質’でも言及したように、真理と御言葉のその主人公がイエス・キリストであり、聖霊様である。下の図表のように、御言葉は真理であり、真理はイエス・キリストであり、聖霊様である。

    二千年前、イエス様が公生涯の間に弟子たちに肉声で語られた御言葉も、今私たちに助け主聖霊によって聖徒個人個人に教え思い起こさせて下さる (ヨハネ 14:26) 全ての教訓と御言葉も同等である。聖徒たちは聖霊が導かれる御言葉に、幼な子のようにただ信じ従順することが、イエス様の御言葉に従順することである。これが、聖書が語るアブラハムの信仰の真意だ。現代信仰者たちの信仰はこの水準に合わせるべきである。

● 信仰とは対象が設定されるべきだ

    信仰とは、対象なく何でも無作為に信じることではなく、その時ごとに必ず対象が設定される。対象なく無作為に信じることは信仰ではなく、個人のひとつの‘信念’だ。“信仰は聞くことから始まり・・・” (ローマ 10:17) とあるように、聞いてないことを信じる、そのような信仰はないのである。従って信ずる対象がまず初めに設定されなければならない。これは、女性が結婚するにあたり、結婚相手の年齢、性格、生活環境などを全く考慮せずにした結婚は、破算に終わる確率が高いように、確実な信仰の対象がない現代教会の律法的な信仰を持ってしては、決して聖書に符合した信仰の実を結ぶことはできない。

    信仰とは、この世で一般的に使われる論理や説得力によって、または、確実な科学的、合理的な証拠の立証によって到達するのではなく、常識であれ、非常識であれ、事実であれ、神秘であれ、関係なく、聖霊によって各自の心と思いに書かれた御言葉 (へブル 10:16) を信仰だけで受け、見ることはできなくとも見たように、ないけれどあるかのように、最後まで心に信じて守ることを言うのである。

    全ての信仰の先陣たちはこうした経路を通し、到底信じることのできない境地で信仰を守り、神の栄光を表わしたのである。霊的信仰には、信仰の対象を得るために必須的に‘啓示’が首班となる。啓示を通し、その時ごとに何を信じるのか信仰の対象が設定され、聖霊が教えてくれる教訓の御言葉 (啓示) だけを信じ、信仰によって成就させ、形状化し、栄光を表わすのである。

    対象のない信仰とは、例えば、特殊部隊要員が作戦を遂行するには、上部から任務遂行命令を受け、作戦地域に投入されて作戦を遂行しなければならないのに、任務命令も受けない状態で、無作為に自分がやり易いよう、好きな所に行って作戦を遂行しようと言うのと同じだ。これまで教会は、聖霊の導きなく自分の理性と知恵のままに、自身の便利と有益に基づいてやり易く作った教理に従って信仰すると言う愚かさを犯してきた。

    どんなに私たちが、信仰があり、また信仰によって武装したと言っても、聖書が求める信仰の水準に達しなければ、キリスト教信仰の中心の一つである、救いとは何の関係もない。のみならず、聖書で約束された多くの恩賜と恵沢を決して見ることもできない。これは聖書に、主のみ名で悪霊を追い出し、主のみ名で多くの力あるわざを行なっても、主は‘わたしはあなたがたを全然知らない。不法を行なう者ども、わたしから離れていけ’(マタイ 7:23)と言われたように、聖書が求める信仰に符合した時にのみ、神の恩賜と多くの恵沢を受けられる約束の主人公となれるのである。聖書が求める信仰の標準は、信仰の祖先であるアブラハムに焦点を合わせて見るとわかる。我々はその信仰の水準まで上がって行かなければならない。

    信仰に対するアブラハムの代表的な出来事は次のとおりである。

① 神の御言葉に従順し、カルデヤのウルを発ったこと(創 12:1)

② 神の御言葉が幻のうちに‘あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの後を継がなければならない’と言われた時、信じたこと(創15:1-6)

③ イサクをモリヤ山で捧げたこと(創 22:1-13)などがあげられる。

    アブラハムは、イサクを捧げろと言われた時、躊躇せずに従順した。イサクをいけにえにせよと言ったが、神は再び生かして下さる事を絶対的に信じた。自分がいけにえの羊だとは知らなかったイサクが、いけにえを捧げるのになぜいけにえの羊がないのかと、アブラハムに尋ねた時、アブラハムは“神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ” (創 22:8) と‘主は備え’の神である事を絶対的に信じた。その結果、刀を取って息子をほふろうとした時、神 (主の使い) は、イサクに手を下してはならないと言われ、アブラハムの信じたとおり、雄羊が準備されていたのである (創 22:13-14)。ここで重要なのは、アブラハムがカルデヤのウルを発つ時も、いけにえを捧げる時も、神とアブラハムの間に交わりがあったと言うことだ。

    アブラハムとサラは、年をとって子を生めない体でみごもる事を、自分自らの思いで信じたのではなく、神との交わりの中でみごもる事を知り、神の御言葉によってみごもる事をそのまま信じたのである。アブラハムだけでなく、聖書では、ヨシュアがエリコ城を7週回る時、自分自身の知恵で回ったのではなく、神との交わりの中で、城を7週回ることを命じられ、それをヨシュアはその通り信じたのである。モーセもやはり神との交わりの中で、神の御言葉、即ち、命じられとことをその通り信じ従順したのである。このように信仰を形成するには、信仰の対象を聖霊によって注がれなければならない。

    信仰の先陣たちが歩んだ全ての信仰は、自分たちの知恵から出た声を無作為に信じたのではなく、聖霊が教え語られたことだけを信じたのだ。聖霊の教えではなく、自分自身が考え決定し信じる信仰 (信念) は偶像崇拝であり、祈福信仰(ご利益信仰)に成りかねないため、必ず聖霊の導きに従って信仰をしなければならない。

    銅像を作るには、金渋を注ぐ銅像の形の鋳型が必要であるように、信仰を形成するには、聖霊の導きに伴う御言葉の型、即ち、罪について、義について、さばきについて (ヨハネ 16:8)  教え、思い起こさせ (ヨハネ 14:26)  証しされる、聖霊の御言葉が絶対的に必要なのだ。異邦宗教は、彼らが作った教理  (律法) の通り行なえばよいが、キリスト教は異邦宗教と違い、聖霊がその時ごとに導いて下さる御言葉を信じ守っていかなければならない。この御言葉は、聖徒が聖霊との交わりの中でのみ得られる。啓示によって信仰の対象が決定し、その中で信仰が成長し完成していく‘啓示  (聖霊の導き) の宗教’である。

    正しい信仰が成立するには、啓示が必然的に並行する。人が正常な日常生活を営むには、目、鼻、耳、手、足等の全ての身体条件が正常で健康な時に可能だ。しかし現代のキリスト教は、まるで手一つだけで、正常な日常生活が営なめると言っているようなものだ。教会に出席すること一つだけで信仰生活をきちんとやっていると自負し、イエスを信じているから救いを受けたのだと言う、漠然とした安逸の中で信仰をしてきた。一言で、愚かな無知のいたすところと言わざるを得ない。

    そのためにキリスト教は二千年間さ迷わざるを得なかった。現代キリスト教が没落せざるを得ない決定的な理由は、聖霊への背きと否認、即ち、聖霊の導きを受けなかったことである。その原因は、聖霊なく聖書解釈をむやみに行なった結果である。 一部の教会では愛がないという批判と共に自省の声もあったが、根本的なことは聖霊がなかったことだ。これは信仰の重点を教理に置き、啓示を否認した結果である。啓示を否認することは、即ち、聖霊の導きを否認することである。

    今まで啓示に依存した信仰が、キリスト教の中で多くの問題と事件を起こしたことは事実であるが、これもやはり聖書を知らない無知の至りだ。啓示を否認する者たちこそが、聖書全体を否認する反キリストであり、羊の面をかぶった狼たちであり、二千年前イエス・キリストを十字架につけた、その群れの亡霊だと言えよう。彼らは知識を掲げ美しく包んでいるだけであって、サタンにそそのかされている群れたちである。啓示を否認する者はまるで、自分が盲人だから健康な人も盲人と同じように生きろと強要するのと同じだ。自分が盲人だと言って他人まで盲人になることはない。

    聖書の核心のひとつは、聖霊に満たされて聖霊の導きを受けて行きなさいと言うことだ。啓示のない信仰は、律法的信仰から進展できず停滞し、実がなく葉だけが生い茂るいちじくの木と同じだ。今キリスト教は、イエスを信じると言うのは何であり、イエスを信じて何をどのようにすべきなのか等々、信仰について具体的な提示をしてあげるべきだ。

    律法だけを強調し過ぎてもならず、道徳的、または倫理や社会規範だけに適用しようとする愚かなことをしてもならない。教会はこれまでそれなりに沢山の方法で、世に光を放とうと数多くの試みをやってきたが、聖書が求める真の教会らしい声と行ないはなかった。その結果は率直に言って浅はかな遊女の役割でしかなく、異邦宗教が行なってきた一般的な行為の踏襲に過ぎなかった。

    今日のキリスト教の母胎となったイスラエルとパレスチナ人の戦争を、第三者の側面で見れば、イスラエルの行動は、固執的、愚か、無知蒙昧な狂気じみた姿に映っている。しかし今のキリスト教は、イスラエルよりもっと目茶苦茶な状態だという事を悟るべきだ。イスラエルを、律法において妥協というものが全くない‘律法保守主義’だとするなら、キリスト教は、聖霊による聖霊の宗教であり、聖霊の導きの中で成長するはずのものが、この世と哲学という雑神を引き入れ、まるで美しい王妃が醜い遊女に転落してしまったようだ。

    このような聖霊によらないキリスト教の現実に対して、聖書ではこのように語っている。

“あなたはこのすべての悪行の後──ああ。わざわいがあなたに来る。神である主の御告げ。──あなたは自分のために小高い家を建て、どこの広場にも高台を造り、どこの辻にも高台を築き、通りかかるすべての人に身を任せ、姦淫を重ねて自分の美しさを忌みきらうべきものとした。あなたは、よい体をした隣のエジプト人と姦通し、ますます姦淫を重ねてわたしの怒りを引き起こした。”(エゼキエル 16:23-26)

    教会は、口では聖霊、聖霊と叫んでいるが、いざ聖霊に対しては全く無関心で無知である。むしろ聖霊を否認する、反キリスト的な行為をためらいなく恣行している。イエス様も‘この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らがわたしを拝んでもむだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから’(マタイ 15:8-9)と、今の教理主義者たちに語られた。現代教会が停滞せざるを得ない理由は、聖霊との交わりが切断されることで律法に留まり、それ以上の成長ができないためだ。神は預言者ホセアを通し‘わたしの民は知識がないので滅ぼされる’(ホセア 4:6)と嘆かれた意味が何であるのか考えて見るべきであろう。啓示 (聖霊の導き) と言えば無条件、異端視し排斥する無知蒙昧と悪逆から脱するべきである。

    盲人が盲人を導くように、今日までのキリスト教は、私も入れず、他人も入れないように塞いだ厄介な存在に転落していた。今キリスト教はその枠を破り出て、聖霊について、真理について、信仰について正しく証しすべき時である。イエスを信じ救われるという総体的、観念的信仰の中でさらに、実生活に適用できる具体的な実質的信仰の対象を教えるべきだ。それは、その時ごとに働かれ導かれる教えだけを信じて行けということだ。即ち、聖霊の導きに従って生きることを教えなければならない。

    ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン

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