‘義’(信仰)の意味 [5]

現代キリスト教は、‘イエスを信じさえすれば救われる’と言う。勿論‘信仰によって救われる’と言うのは間違いない御言葉であるが、その基準は、必ず聖書の求める信仰の性格と条件に符合した時に救いの恵沢を見ることができるのである。しかし今日のキリスト教は、こうした信仰の基準を無視したまま‘無条件的に救われる’と糊塗している。

1.‘義’(信仰)の真の意味は何か

この世の‘義’と言うのは、一般的に高度の道徳性と倫理的な行為に中心が置かれ、これを追求し行為として移す時、これを‘義、または義人’と言う。一方、聖書が求める‘義’は、神(創造主)を絶対的に信頼する信仰を意味し、そうした信仰によって生きる人を‘義人’と言う。つまりどんな説得、論理、科学でも説明できないことを、聖霊の力でのみ成される確信を‘信仰’と言い、これを信じることを‘義’と言う。このように、この世の‘義’と聖書的‘義’は、概念と性格が完全に異なるのである。

‘義’(信仰)を形成する方法においても、この世の‘義’は、限りない自己の修養と努力によって成そうとする一方、聖書での‘義’を形成する方法は‘幸福の使信’ (マタイ5:3-12)に立脚し、求め、探し、たたき、叫び求める (マタイ7:7-8) 過程を通し、聖霊を受ける時にはじめて‘義’に至ることができる。

キリスト教の信仰の世界とは、常識的で普遍、妥当性のあるものを信じるのではなく、童話のような神秘と、信じられないある高次元の世界を信じることだ。そのためこの世の目で見れば無知と愚かそのものである。しかし私の心にひとたび下さったからし種ほどのある確信一つだけをもって、最後まで信じようと命をかけるべく無謀さと愚かさ、そして合理性の全くない非常識の世界を、時には自分すら信じたくない、だが信じなければならない、疑心と葛藤とためらいとの戦い等、この世の常識的で正常的な思考をもっては到底理解できないのがキリスト教であり、これがキリスト教の信仰生活である。

キリスト教は、御父の御心に基づき、その御心通りに動かなければならない (マタイ7:21,ルカ12:47)。父の御心を知るのは、啓示を受ける者以外は父の御心が何であるかを、誰も知ることのできない奥義である (ルカ8:10)。即ち、聖霊の導き(啓示)を受けたいと言う強い願いがある時に受けられるが  (ルカ10:22)、しかし啓示を受けてもその御言葉に従順しない者は、永遠のいのちはおろか、御怒りがあると言われた (ヨハネ3:36)。このように信仰を営むには、その日その日心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして (マタイ22:37)常に日ごと新しく役事される聖霊の導きを受けなければならない (ローマ7:6)。イエス様が負われた十字架を私も負い (ルカ9:23)、数多くの疑問、葛藤など、心霊から湧き上がるものを否認し、聖霊によって啓示された御言葉だけに従順し、付き従うことである(マタイ16:24)

旧約聖書のサムエル記第二24章1~25節、歴代誌第一21章1~30節を見ると、ダビデが人口調査をする主要な場面が出てくる。ダビデが人口を数えた結果、神の怒りを受け、神が提示された3種類の罰のうち一つを選ばなければならなかった。その3種類の罰の一つである、3日間の疫病によって7万人が死んだ出来事が記録されている。これを通した教訓は、聖霊の啓示された御言葉を心霊に信仰によって受け入れたなら、計算してはならないと言うことだ。

啓示された御言葉を、現実に照らし合わせ妥当性や合理性によって計算する時は、もはやその信仰は疑心によって死んだも同然だ。‘良質のぶどう酒を得るには、かめの中でぶどうが完全に熟成し発酵するまで開けてはならない’のと同じで、啓示された御言葉をもって人間がどうのこうのと判断するのは高慢である。それは即ち、神を判断することであり、神の権威に対する挑戦であるため、ダビデの人口調査(計算)の象徴を通して言わんとすることは、聖霊による啓示は、計算せずにそのまま信じなさいと言う教訓である。

イスラエルの7大例祭の一つである過ぎ越しの祭りの象徴を通しても、同じことが語られている。つまり過ぎ越しの祭りのおきての中に“腰の帯を引き締め、足にくつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過ぎ越しのいけにえである”(出エジプト12:11)とある。これは、聖霊によってひとたび下さった信仰の道を、人間の考えで計算せず、すぐに従順し、信仰で守り抜けと言う、過ぎ越しの祭りの思想が含まれているのだ。

このように信仰とは、論理性や合理性があろうとなかろうと、妥当性があろうとなかろうと、私に益があろうとなかろうと、常識であれ非常識であれ、こうしたことを問題とせずただ信じることである。このように信じるには、信仰のないことを悔い改め、信仰を下さいと求め、叫ぶ時はじめて聖霊の力が臨み信仰に至るのである。

●  ‘義’(信仰)の到達方法

‘義’(信仰)の完成に至る方法は二段階に分類される。一段階の信仰は、悔い改めて何を信じるべきか信仰の対象を求め探す段階であり、二段階の信仰は、下さった御言葉と教訓を最後まで信じ守る、信仰の善なる戦いの段階に分けられる。このような過程を通し、信仰の善なる戦いに勝利した時、信仰の完成に至ることができる。

一段階は‘信仰と従順’編でも言及したが、キューピットの矢に当たった人は無条件的な愛の化身となるように、愛の刻印をされれば聖霊の純粋な力によって、義と平安と聖霊による喜びを帯同した中で(ローマ14:17)、その信仰について何の論証や検証等がなくとも、ただ心霊にはっきりとした確信として届く信仰の段階を言う。即ち、啓示を受け神の御心を分別し、信仰の対象を探す段階を言うのである。

“神の国は…義と平安と聖霊による喜びだからです”  (ローマ14:17)

“それらの日の後、わたしが彼らと結ぼうとしている契約はこれであると、主は言われる。

わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き彼らの思いに書きつける”  (へブル10:16)

二段階は、聖霊により心碑に書かれた御言葉を、啓示、聖霊の導き、法、戒めと言うのだが、こうして啓示された御言葉を握り、信仰によって最後まで忍耐をもって昇華させ、成就させて神の栄光を表わすのか、それとも、石地の畑に蒔かれた種のように、乾いて死蔵させるのかと言う、信仰の善なる戦いの段階だ。即ち、啓示された御言葉を最後まで守るために、信仰の善なる戦いを戦う段階を言う。このような信仰の段階に達し勝利するためには、必須的に聖霊の力を受けなければならない。まず一段階の、信仰の対象となる正しい啓示を聖霊から受けるために、一定した水準の条件を備えなければならない。

即ち、行ないの基準をコリント第一13章に立脚した‘愛’ (寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ心、Ⅰコリント13:4-7) に照らし、心霊を正しくして行く事と、また悔い改めを通して心霊をきれいに磨いておかなければならない (これを供え物と言うのである)。それと同時に、乞食のナザロが物乞いによって生きたように、自分の知恵と方法、能力などを否認し、人本的な全てのものをチリのように捨て、ただ神の全知全能を信じる信仰の中にある時はじめて、上から来る神の力を着、神の御心が聖霊を通し啓示されるのである。

こうして啓示された御言葉を信仰の対象とし、二段階に入って行くと、私の心の片方でこの世的な要求である疑問と合理性が、啓示を検証してみようという不信、不安、世の常識的比較、評価等を武器に虎視眈々と攻め寄る。この時信仰によって勝利しようとするなら、こうした思いを否定し、啓示された御言葉だけを信仰によって守っていかなければならない。‘ラグビー選手が、ラグビーのボールを持って死力を尽くし最後まで疾走するように’聖霊により啓示された御言葉を、最後まで忍耐を持って信じ守り行なえば、必ずその御言葉どおり成就するのである。信仰さえあれば、神の御言葉(真理)は決してこの世の中に捕われる事もつながれることもない(Ⅱテモテ2:9)。信じさえすれば必ず成就するため、イエス・キリストもこうした信仰によって‘世に勝った’と言われたのである(ヨハネ16:33)

● イエスを信じ救われると言う意味

‘イエスを信じ救われる’と言うのは、前記したように1,2段階を通して勝利した時に聖書が求める信仰に達したと言える。このような水準の信仰が救いを受けられる成熟した信仰だ。

“主の名を呼ぶ者は、みな救われる”  (使徒2:31)

即ち、キリスト教の救い (信仰、愛等)とは、幸福の使信(山上の垂訓)に立脚した心霊と、求め、探し、たたくことだけが唯一の方法である。その方法に符合した時、キューピットの矢のように、我々の心霊に聖霊が臨まれるのだ。その時はじめて肉に属する疑問、疑心、反目、貪欲、嫉妬等は去り、心霊が‘愛’に変わり、何の証拠もないが何でも信じられる確信が生じるようになる。このように聖霊によって我々の心霊の中に、義、平安、喜びが築かれた世界を‘天の御国、天国’と言う(ローマ14:17)

‘信仰によって救われる’と言う意味は、このように聖書が求める一定した水準、つまり聖霊による信仰が形成され符合される時有効なのだ。例えば、士官生になるには、一定水準の資格が与えられた者に限る。一般軍人が士官生の服を着たからと士官生になれるのではない。それと同様に誰でもイエスを信じ救われるには、1,2段階の過程を通過して勝利した者だけが救いを得られるのである。

● 聖霊を信じる信仰への転換

こうした次元で見る時、キリスト教はこれまで、教会の本分が何であり、イエスを信じればどんな救いの恵沢があるのか、信仰の数多くの恵沢もわからないまま、神の方法である聖霊による信仰よりは、ほとんどが各自の教理に依存し信じようと労して来た。こうして無為徒食し二千年を過ごしてきた。しかし、こうした努力は、いくら人間の目にはそれなりに良く見えたとしても、それは人本主義に過ぎない。これは聖霊の方法ではないため、結局、聖書的な信仰の基準では精品ではなく不良品となる。

このように現代教会はつやの良い杏の実のように、人間の意志で教会が運営されている。キリスト教という名称を使用しているだけで、神の全知全能を、人間の理性という知恵と知識の囲いの中に封じ込め、世の常識の中だけで理解しようとする。そして、口では神は常にいつでも何でもできる全知全能なる方だと信仰告白しながらも、実際の行動は全知全能を信じない二律背反的な信仰をしている。

“この民は、口先ではわたしを敬うが。その心は、わたしから遠く離れている。

彼らがわたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから”  (マタイ15:8-9)

使徒パウロが人間の初等学問、哲学、知識等を全てチリのように捨て、ただ聖霊によって到達したと告白した理由は何であろうか?ダマスコでサウロをパウロに変えた方は聖霊であった。その時サウロは変えられる為に人間的な如何なる努力もしなかった。ただ神の経綸に従って聖霊を受けてからイエス・キリストを信じたのだ。その信仰は如何なる努力も知識も苦労も対象もなく、聖霊の力によって信じた純粋な信仰であった。

しかし一般的に教会ではこうした信仰について、このように教えている。‘称義’(justification)とは‘義とされる’という意味で、人間自身は不義だがイエス・キリストを信じる事実ゆえに、審判者である神が‘正しく義である’または‘無罪’と宣言されることを意味する (ローマ3:28,4:25,5:16,8:30-34)と教えている。

信仰によって救われ、信仰によって‘称義’が成立するのは間違いない。しかしその信仰とは、聖書が求める性質と成分が同じ時に、救いと称義等を受けられる効力があるのだ。救いを得るにはまず信仰を形成しなければならない。またその信仰の形成は、前記したように、1、2段階の過程を通し、最後まで守り忍耐した従順の結果として得られる実であり褒賞である。信仰とは、マラソン選手が、競技の規則通り遵行した時のみ優勝が認められるのと同じだ。このように信仰を形成する過程と手順と法を無視した信仰は不法であり、全く効力と救いの恵沢を見ることはできない。

‘見ずに信じる者は幸いである’とあるように、現代教会が追求し教える常識的、合理的、科学的な信仰と言うのは、実は抽象的でどんぶり勘定だ。逆にこうした教育によって形成された信仰は効力もなく信仰としての価値もない。

信仰は‘啓示 (聖霊の導き) によって成される世界 (天国) を信じることだ’と定義できよう。ないと言うならないのであり、あると言うならあるのである。また、ないけれどあると言う信仰をもって、あるものに造り出す世界だ。それによって世を創造して行くのである。

今日のような合理的な思考方式では、律法的信仰はできるが霊的信仰を営むのは不可能である。そのため聖霊の助けを完全に受けて行かなければいけない。今キリスト教は、二千年前十字架で死なれたイエス・キリスト自体を信じる信仰から、イエス・キリストが死なれた代価によって、霊として来られた聖霊を信じる信仰へと転換すべきだ。即ち、聖霊の導きに従って信じることがイエス・キリストを信じることであるため、イエス・キリストと聖霊を別々に二分化して信じてはならない。イエス・キリストの実体は聖霊であり、聖霊は二千年前の五旬節の日、マルコの屋上の間での聖霊降臨以後、聖霊の時代が到来したからである。

たとえば、我々の食生活では主食は米であるが、結局食卓に上がるのは米ではなく一杯の白いご飯であるように、ここで米をイエス・キリストに例えるならば、ご飯は聖霊である。米の目的は結局ご飯であるように、イエス様の窮極は聖霊である。従ってイエス様自体は、我々の信仰生活に実質的な助けと影響を与えない。それは律法的な信仰を生み出すことになる。(米がなければご飯もないが、ただ、米よりはご飯が我々の食生活に実質的役割をするという意味であり、誤解がないよう願う) 聖霊が来られてはじめて実質的な信仰の助けとなるために、イエス様は‘わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです’と言われたのであり(ヨハネ16:7)、昇天される前、聖霊を受けることを懇切に願われたのである。

この時代は聖霊無くしてキリスト教の信仰自体が不可能なことは、誰もが知っている一般的常識であるため、聖霊の満たしを求めるが、教会は聖霊に満たされる正しい方法を提示してあげられず、漠然と、キリスト教信仰と教会の本分である信仰生活を、教理の理論でしようとする旧態依然の姿勢から抜け出せずにいる。

これは、サッカー選手が運動場に出て実践練習をせず、365日室内にすわって理論の練習をしただけでワールドカップに出ると言っているようなものだ。教理による信仰は結局、知識をもって自分も入れず、人も入ることができないようにする(ルカ11:52) 死んだ信仰だけを量産した。

こうした人間の合理的、論理的方法で信仰を確立、定立させてはならない。信仰を助けると合理性を突出させた今日のような教育方式は、逆に信仰を打ち壊すだけだ。これは現代教会の脆弱点である。信仰をもって信仰生活を営むには、我々の心霊に聖霊の力の介入なくして信仰への到達はできない。

2 旧約時代の捧げ物の目的は、新約ではほとんどが悔い改めの雛型であり、悔い改めの目的は聖霊である

キリスト教は、聖霊を基礎とした時はじめてキリスト教らしいキリスト教が形成される。聖霊充満はキリスト教信仰の基本となっていなければならない。このように聖霊を通して我々の人生と信仰が完全となるのであるが、このような聖霊を受けるには必ず一定水準の条件を備えなければならない。たとえば、人が配偶者を求める時にも、環境、年齢、学識等の様々な条件が相互合ってこそめぐり会えるように、聖霊も、悔い改めの水準がどの程度で、真実度がどの程度であるか等、聖霊が求める条件に符合してはじめて受けることができるのだ。

特に、悔い改めと真実と信仰は、聖霊に満たされるにおいて決定的な役割をする。だが悔い改めの仕方が、聖書の中に出てくる全ての罪を動員しても、聖霊の満たしに特に助けにならない時もある。聖霊はとても繊細で敏感であり、各個人に応じて役事に個人差がある。こうした聖霊に対する正確な知識はすでに旧約の捧げ物の規定を通して記録されている。旧約時代のイスラエル民族の捧げ物の目的は、ほとんどが新約の‘悔い改め’である。捧げ物の規定の中に表われる思想は、神との結合、即ち聖霊との結合を象徴し、捧げ物を通して悔い改めの具体的な問題等を扱おうとされたのである。

神は聖であられるため、罪があれば神と交わることはできない。

アダムの善悪の実の出来事によって罪を負った人間は、神との交わりが断絶したまま常に罪の中で生きるしかなかった。だが神は人間を罪から救い、断絶した神との関係を再び回復された。即ち、旧約時代には捧げ物を通して罪から救って下さり、再び神との交わり、つまり和解を成して下さった。新約では捧げ物に代わり、多くの預言者を通し預言された、イエス・キリストによって救いを遂げられた。

即ち、イエス・キリストが十字架上で犠牲の羊として死なれた代価によって約束の聖霊が来られ、我々はその聖霊が語られる全てのこと (聖霊の導き、交わり) を無条件に信じ従順する時救いを受ける。その時はじめて神との交わりが成されるのである。このように旧約時代の捧げ物の目的は、民と神との交わり、つまり和解が目的であった。旧約の捧げ物の規定は、新約時代以後、聖霊に満たされるための悔い改めの方法の雛型となった。

捧げ物の規定を正確に霊的に解釈する時、今この時代に神が求められる悔い改めの仕方に符合できる。こうした悔い改めの仕方を通して神との和解、つまり聖霊に満たされる方法を正確に具体的に説明できるのである。しかし今日の教理主義者たちは、教理という物差しを持って、まるで聖霊充満の方法を技能的な技術を習得するかのように取り扱い、いくつかの方法さえ習得すれば聖霊に満たされるかのような無知と誤解をしている。聖霊は、悔い改め、真実、信仰と言う枠のメカニズムの中で成されはするが、その方は本当に繊細で奥深く、精密で人格的な方であることを知るべきである。

現代教会は、聖霊に満たされるにおいて根本となる悔い改めから根本的に間違っている。悔い改めは、罪の種類と性質に従って繊細に細分化されている。しかし今のような大ざっぱな悔い改めでは決して聖霊充満を体験することはできない。神学で他の科目は全てチリのように捨ててもよいが、この捧げ物の規定である悔い改めは、学問として発展させ‘悔悟学’が新設されるべきだ。このように悔い改めが聖霊を受けるにおいて決定的な鍵を握っているのである。

3 聖霊論について

上記のように、教会は聖霊の重要性を知りながらも、聖霊を受けるための正しい努力が全くなかったため、聖霊論においても相当陳腐な状態だ。近代を経て現代に至るまで、聖霊の生きた役事を体験した国はそれほど多くはないが、イギリスやアメリカ、韓国は、一時聖霊の復興運動が大きく起こった代表的な国として数えられる。

しかし現在、聖霊が消滅した理由は何であろうか。それは、聖霊に対する誤った視覚と解釈、そして聖霊を持続保存する管理能力の無知と無能によって聖霊を消滅させる結果を招いたのだ。聖霊を、流行のように一時的に起こった役事として取り扱い解釈してはならない。このように貴く貴重な信仰の遺産となる過去の失敗と教訓を礎に、聖霊の事実を新しく証しするべきである。これまで奥義としてのみ維持されてきた。求め、探し、たたく者たちだけに知らせて下さった聖霊に関する全案内書は、すでに聖書の中に比喩や象徴として全て記されている。聖霊について正しい知識を持つには、多くの成功と失敗の教訓を持つことだ。そうしなければ聖霊について正しい提示はできない。

たとえば、砂漠のど真ん中で、一滴の水もなく多くの人が取り残された時、誰かが死を覚悟して水のあるオアシスの道を開拓しておけば、残っている多くの人が幾人かの犠牲によって死を免れることができる。このように、成功のためには多くの失敗と問題点が伴わざるを得ないが、多くのたましいを生かす為にはこのような冒険は不可避だ。

● 異端論争による聖霊の消滅

聖霊は霊に関するものであるため、聖霊の役事とサタン(悪魔、悪霊)の役事を区分する複雑な過程と共に、当然危険性が随伴するのだが、知識だけで武装した教理主義者たちは、一風変わった体験に対しては無条件拒否、否認し、人間の戒めの教理の中だけに閉じこもって安住し、無事安逸を最高とした結果、今日のような異端論を創出し、聖霊については無知とも言えるような知識しか持てなくなった。こうした水準の知識では決して聖霊に満たされることはない。それでキリスト教が今日のような生命力を失った死んだ宗教に転落したのだ。

聖書に記された全ての神の御言葉と、今も我々の心霊に聖霊によって啓示される御言葉は、聖徒たちの信仰と結合さえしていれば、その御言葉は生きた生命体として、また力として復活する。これは即ち、御言葉が肉体となることを意味する(ヨハネ1:14)。こうすることが教会の使命であるため、教会は真理の柱と言うのだ。しかし今日のような教理と人本主義の誤った解釈によって、逆に聖霊を徹底的に抹殺している。

その証拠として彼らは、彼らが自慢する教理と知識によって、羊たちを、精誠を尽くして養い育ててはいるが、始めは美しく華麗に見えても、結局は時間が経つにつれ、教会と聖徒はイエス・キリストの形ではなく、奇怪千万な形へと変わっている。その実でその木がわかるように、そのように変質した木は、イエス・キリストの教えではないと言うことだ。人間は利己的な動物であるため、決して正義社会、合同、団結等を完成できない。完成したとしても、それは、ある個人個人の目的と利益が符合した時に一時起こりうる、一時的変化に過ぎないため、その完成が決して永遠となることはない。

しかし、この世が不可能なことを教会の中では聖霊によって可能にしなければならない。なぜならイエス・キリストの王権(聖霊の力)の前には、人間が持つあらゆる力や、人間の最大の弱点である利己心は無力にロウのように溶け落ち、愛が心霊の中で完成されるからである。ところが今日のような教理では、聖霊充満に至るには聖霊に対する知識があまりにも不十分だ。一時、流行のように誰もかれもが聖霊について執筆した。その結果、数多くの聖霊論が町中に出回ってはいるが、紙切れのように投げ捨てられている実情だ。

一般的に教えている聖霊に満たされる方法論は次の通りだ。

①悔い改めによって受けられる (使徒2:38)

②信じ求める時受けられる (ヨハネ7:38 ルカ11:9)

③従順することによって受けられる (使徒5:32)

④祈りに力を注いでこそ受けられる (使徒2:1-4)

⑤御言葉に耳を傾けることによって受けられる (使徒10:44)

⑥按手を受ける時受けられる (使徒8:17)

⑦聖霊を認識する時受けられる (使徒19:1-7)

⑧聖霊を下さることを信じて求める時受けられる (使徒1:4 ルカ11:13)

しかし、このような方法と手順を全て動員しても、到底聖霊充満にならないことに問題がある。こうした方法を総動員しても聖霊に満たされないなら、この神学はすでに死んだ神学であり、ひとつの理想論に過ぎない。

神は人類に、創世の時から始まり、モーセを経て、五旬節の日マルコの屋上の間での聖霊降臨以後、今日まで、聖霊を教えるため多くの時間と労力が必要とされた。その結果現代教会は、聖霊の存在と必要性は誰もがわかり感じるようになったが、当面の問題は、聖霊をどのように受けるのかを正しく提示できずにいることだ。前述したように、今まで出た聖霊論は未完成なため、聖霊に満たされる方法を完全に提示するには今から多くの発展が必要とされる。

使徒時代の聖霊の役事は、ユダヤ人たちにとって理解することのできない信仰の行為であったが、二千年という多くの時間が流れた今日のキリスト教では、信仰生活において聖霊充満の当為性を否認する者はなく、誰もが知る常識となったように、今こそ教会は聖霊に満たされる方法について具体的に提示すべきである。その為には、聖霊の実体が新しい角度で再び解釈されるべきであろう。

ただ、我々が理解している聖霊に対する知識の水準は到着点ではなく、到着点のために通過する簡易駅に過ぎない。これまで教会は真の聖霊論を提示できず、羊たちは信仰に迷い蹂躙されていた。これは今まで多くの預言者たちの声を聞かない驕慢のためである。その預言者たちの叫ぶ声を、この世の多くの雑言の一つとして葬り去り、逆に異端として罵倒した結果である。

二千年前イエス・キリストがこの地に来られた時、ユダヤ人たちがこの方を拒否したように、今この時代にも、信仰の独善と驕慢の座にすわって聖霊を拒否してはならない。謙遜に降りてきて、この時代に叫ぶ神のしもべたちの声に耳を傾け、その通り従順し、自分がまず活用し力が表われたなら、それを証として人に伝え、聖霊の導きを受ける信仰の手本を、子々孫々に伝える指標とするべきである。

この時代のメシヤはほかでもない、我々の心霊の中で今も役事される聖霊である。聖書に帰れと言う数多くの神のしもべたちの叫びは、つまり聖霊による信仰に帰れと言うことに帰結する。肉の観点で見れば、枠も模様も形体もなく、人間の感覚器官では感知できない、無形の一つの人格体の霊として存在する、聖霊の教え、教訓、力などの役事を信じることを‘信仰’と言う。そしてこれを従順によって一貫するのが‘信仰生活’である。即ち、聖霊が提示する全てのことを、ないけれどあるように、見てないけれど見たように、信仰は望んでいる事がらの実体であり、目に見えないものを確信として信仰することを言う(へブル11:1)

4 キリスト教史の重要性

今までのキリスト教教理は、実質的で具体的な信仰ではなく、不確実で通り一遍の信仰の提示と教えであったにもかかわらず、大多数の神学者たちはキリスト教信仰の水準を完成した宗教として認識している。だがキリスト教は今やっと建物を建てるための敷地と建築資材を準備した程度である。アブラハムの‘義’から始まり、五旬節マルコの屋上の間での聖霊降臨以後、現代に至るまで、キリスト教はキリスト教史を通して、失敗した数多くの羞恥と恥辱の教訓を納め、如何なる条件下で信仰がどのように利用され変質したのか、信仰の失敗史としての観点で解釈し認識すべきだ。今からそれを土台に、新しく建物を建て始める基礎工事に入らなければならない。今後これは多くの努力と歳月が流れることではじめて完工されることだろう。

今、韓国教会の復興と発展はこれをするだけでも十分だ。かえって量的な教会復興や成長は、キリスト教の成長において極めて大きな障害となる。その証拠として、福音伝道の完成とも言える、キリスト教を国教とするキリスト教国家の終着駅がどこであったのか考えてみるとよい。敢えて言及する必要はないだろう。

● 二千年間キリスト教失敗の教訓の歴史は第二の聖書

キリスト教史的に見ると、国教と認定されてからキリスト教は腐敗した。政治と宗教の政教癒着現象によって、あらゆる蛮行と腐敗が恣行されて来た羞恥的な教訓を忘れてはならない。キリスト教は常に迫害の中で成長してきた。豊沃、安楽、権力の保護の中ではかえって腐敗すると言う教訓を忘れてはならない。

使徒パウロが、神の力を留める為に、弱さと侮辱、苦痛、迫害、困難を喜ぶと言ったように(Ⅱコリント12:10)、真の聖職者の道を行くことを願うならば、名誉と富など腐敗となり得る全ての要因を自ら遮断し、貧しさを敢えて選択して出発して行く事が、聖職者たちが初めに取るべき準備段階である。神学の全ての科目、聖書神学、歴史神学、実践神学、組織神学のほか、キリスト教倫理、教育、宣教等は、霊的信仰をするにおいては何の役割もできなかったばかりか、かえって人本主義を量産する要因となり、信仰生活で実質的に何の助けにもならない。だが、キリスト教の歴史を取り扱うキリスト教史だけは、信仰の生きた教訓が入っているため非常に重要である。そしてこれは、キリスト教信仰の興亡盛衰のあらゆる教訓が入っている‘第二の聖書’だと言えよう。

なぜならそこには、人間による欲望と貪欲、戦争、欲心、利己、自慢、驕慢等によって成された結果に対する審判の生きた歴史と共に、歴史は真理に従って審判され動いていたと言う、信仰の教訓がこめられているからだ。このように貴く貴重な信仰の遺産であるキリスト教史は、時代に合わせ新しい観点で再照明され、子孫たちに立派な教訓そのものとして、つまりキリスト教は真理に従って動いていたと言うことと、聖書が生きていると言うことを証しする完全な証票となるべきだ。

今後、子孫たちはその失敗の教訓を鏡として、キリスト教が追求する正しい霊的信仰を営むことができるよう再照明しなければならない。これがこの時代の韓国キリスト教が成し遂げるべき使命である。今までイスラエルが、肉的信仰である律法的信仰の使役をしたとするならば、この時代の韓国は、信仰の完成段階と言える、霊的信仰である聖霊を証しする証人となる民族として、神はこの国この民族を選ばれたのである。

● 新しい酒は新しい袋に

イスラエル、ユダヤから始まり、聖霊の必要性を認識するのに二千年の時間を要した。

今から韓国教会は、今日のような西洋の教理に立脚した肉的な律法的信仰ではなく、霊的信仰方法の聖霊の導きと聖霊充満の方法を、人類と信仰の子孫たちに順にきちんと解いてあげ、解決策を提示してあげなければならない。

何千年後に韓国の聖霊の時代が終われば、神はまた、東洋のある一つの民族を選ばれ、韓国により何千年間主流を成した聖書の解釈を、再び別の角度で解釈し照明して下さるだろう。その時その御言葉に従わなければ、イエス様を拒否した第二、第三のユダヤ人となるのだ。このように時代時代ごとに聖霊によって新しく叫ぶ、神のしもべたちの声を聞かなければならない。こうした過程を通してキリスト教の信仰は成長して行くであろう。そして今を生きるこの時代にも信仰は成熟してゆく過程にある。

春の成熟は夏であり、夏の成熟は秋であり、秋の成熟は冬であり、冬の成熟は春となるように、栄えがあれば衰えがあり、衰えは栄えの為の跳躍である。今肉的信仰に留まって総体的な危機を迎えている韓国キリスト教が、霊的信仰へと跳躍するための踏み台とするなら、時代時代ごとに時に従って役事する神のしもべたちの声を分別し、彼らの口で叫ぶ神の声を聞くべきである。それで聖書は“新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならない” (ルカ5:38)と言われ、常に新たな追求を求められたのである(ローマ7:6)

5 教会の役割と今後の伝道方法

● 教会の目的と役割

前編でも述べたように、信仰は万物を得る鍵である。これまで教会は信仰でもって何をしていたのか。なぜ神は信仰を最高の‘義’だと激賞されているのか。たとえば、大きな建物を建てる工事現場で、雑役をする人夫を求める条件は、人夫の人柄、学識、知的能力よりは、若くて力のある者が人夫の条件となるのと同じだ。このように、神が教会に要求する条件と、聖徒が神の子となる条件は、この世で使う人間的な何かの要素で成される信仰ではなく、ただ純粋聖霊のパワー、力によって確信し証しされた信仰だけを教会と聖徒たちに求め、認め、必要とされるからだ。

繰り返し強調するが、如何なる説得、論理、科学でも説明できないことを、聖霊の力によって遂げることを‘信仰’と言い、このように形成された信仰を持つ時に‘義’と言うのである。つまり、キューピットの矢に当たった者が無条件的に愛するようになるように、聖霊の印を受けた者だけが、心霊が、信仰と希望と愛の心で満たされるため‘義’と言うのだ。このように聖霊によって形成された信仰を持った時、教会はこの信仰を持って、世の中で神の御心を信仰によって成就しこの世に現す時、神は栄光を受けられ、また神と結び合わされるのである。

この世は、ある力と原理によって全ての万物が動いているが、これを‘真理’と言う。教会はこのように形成された信仰によって神の御心を成就することで、この世にもわかるように現し、また、世に信仰によって打ち勝ち主導して行き、神政国家を創造するのが教会の目的だ。へブル書11章を見れば、国々に打ち勝ったり、不義の勢力を滅ぼしたり等、信仰によって行なった数多くの業績が記されている。神の御心を教会が信じることによって‘神の国と神の義’を建設するのが教会の目的である。

神の御心は、ただ信仰によってのみ成就することができる。故に、聖徒たちの任務とは、信じることが神のわざを行なうことである(ヨハネ6:29)。しかしこの世は、この真理に対して病み、腐敗と混沌の中をさ迷っている病人である。それでその間に教会が必要なのだ。病人のために病院が必要なように、信仰の祈りによって真理の方向をつかみ、混沌のない正義の社会が具現されるよう、この世の誤った罪と悪を切り離してあげる霊的剪定をしてあげることが教会の役割の一つだ。

この世は今多くの問題に気付いている。尖鋭な対立による反目と葛藤、破壊、科学発展による価値観の混沌、未来に対する不確実の中で不安にさ迷っている状況なのに、教会はこの世に対して何を解決してあげたのか。こうした解決は絶対に教会がしなければならない問題である。つまり牧会者がすべき問題なのである。今のように自分のために身支度をするのではなく、混沌と不確実の中でさ迷っているこの世に対する身支度に気を使わなければならない時だ。

信仰によってのみ世に勝つことができる。教会は信仰を持っていなければ主人の役割を果たすことはできない。しかし現代教会は、教会の本質的な使命を忘れ去り、世を管轄すべきあらゆる主導権と使命を放棄し、世の哲学、思想、風潮等に押され、この世の主人ではなく、かえって彼らの侍女として世に傅いている。真理はすでにとうの昔にこの世に投げ捨てられた状態だ。世が意味し意図するこの世の方法のままに動いただけで、サタンによって完全掌握されている。

このようにサタンに掌握されたこの世は、今日、市場経済論理という弱肉強食の法則にまで流されてきた。この法則は、他人を倒さなければ自分が生きられず、自分の名誉のためには他人の名誉を誹って踏みつけ、生きるためには罪を犯さずには生きられない最悪の境地まで達し、人間らしい生である‘愛’(真理)から遠く離れ、獣のような生へと転落してしまった。今この世は弱肉強食の冷厳な論理だけが存在し、この地は人類が生きる美しい楽園ではなく、巨大な動物園と化してしまった。

今教会は、霊的水準を自慢してばかりいるのではなく、その霊的なものをもってこの世と共有して行くべきだ。霊的水準が高いと言うのは簡単に言えば、信仰の機能をたくさん持ち活用できると言うことだ。霊的に高い信仰とは、他人に孤高を自慢するとか、自分だけのために活用し認識し満足するのではなく、霊的に活用できる多くの能力をもって、この世がすることのできない万物の問題点である、根本的、根源的な実体等をまず解決してあげることで、この世を円滑に回るようにすることである。

この世がこのように変わり行く間、教会はキリスト教だけの優越感に捕えられ、この世や不信者に対し悪魔やサタンだと定罪してきたが、もう彼等に対して悪魔サタンとさばいてはならない。庭師が庭園を手入れするように、彼等を手入れしてあげなければいけない。教会とこの世は、俳優と観客の関係に例えられる。観客のために俳優が存在するように、教会はこの世のために存在しているのである。

● 21世紀からの伝道方法

イスラエルのユダヤ教が今日まで維持され持ち堪えてきた決定的な要因は、モーセ等を通して役事された数多くの奇蹟的な神の力を見、それを通して神に対する信仰が形成されたからだ。同じようにこの時代にも、教会が神の御心を信仰によって成就させ、世に表わし、この世から‘その通りだ’と、繰り返し認められる時、福音は伝えるなと言っても自ずと証しされる。

傷が生じる度に抗生剤を求めるのは、使う度に効果を得たからだ。その結果抗生剤を飲み、塗れば治ると言う信仰が確固としてあるから求めるのである。このように、教会は神の御言葉である真理を、世に繰り返し確認させてあげ、そうして証しされた御言葉を通し、この世は‘人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出る御言葉によって生きる’のであり、その御言葉だけが成就され、永遠であることを証しすべきなのである。その時この真理が世の中に自然的にしみ込み、まるで塩が解けて味を出すように、満遍なく世の思想等が統制されるのである。

三国時代から少なくとも現代の1960年代後半に至るまで、因果応報という仏教思想が、朝鮮時代を経て文学等の実生活に応用され、勧善懲悪という思想によって韓国民族の良心に生活全般の生きた規範となり、国民の情操を支配した。そのように、これからの福音伝道は、現実世界であるこの世(哲学、科学、思想、道徳、倫理、法、規範等)に、真理(神の御心)を生活の中で認識し活用するようにし、良心の規範として定着させることだ。

ただ聖霊の導きだけに救いがあると言うキリスト教の核心思想を、聖霊の力と成就を通し、この世に確認させてあげ証しすることだけが、世を真理へと導き入れ、この世を真理化することができるのである。

伝道は、今のような数だけ増やす量的な伝道ではなく、これから未来の伝道は、政治、経済、社会全般に満編なく真理の参与が成されることを、まず初めに先行するべきだ。しかし、教会は肢体によって役割は違うが、現代キリスト教の全ての中心が肉的に片寄り過ぎている。つまり肉的役割を教会の役割の全てであるかのように誤解している。

教会はこれまでの、肉的な飢えと貧しさ、病人や孤児と寡婦を面倒見るという教会の使役を越えて、今や霊的な心霊の飢えと貧しさ、さ迷い患ったこの世を面倒見ることに転換すべきだ。これがこの時代に教会がすべき真の役割だ。信徒を教会に出席させるだけが伝道ではなく、不信者、異邦宗教人、この世の人々にキリストの真理を生活の中で認識させ活用し、真理が安着したら、それが今後21世紀からすべき霊的な福音伝道方法である。

多くの教会が福音主義、福音主義と叫んでいるが、前でも言及したように、福音伝道の完成だと言えるキリスト教国家、即ちローマから始まり現代に至るまで、キリスト教国家の姿を通し、律法的(肉的)信仰で完成した福音化の結果の副作用と、失敗の教訓を決して忘れてはならない。

今、韓国教会の量的な復興発展はこの程度で十分である。これからは実質成長、つまり霊的な成長に力を注ぐべきだ。ほとんどのキリスト者たちの思いは、国全体がキリスト教化されることを望んでいる。しかし演劇公演において全部が俳優になったら全く公演の意味がなく、俳優と観客の比率が合ってこそ公演が盛り上がるのである。

教会の定義は、世に対して真理を演出する俳優たちだ。その時々に役事される聖霊の導きに従って従順することが教会の使命であり、それによってその御言葉に対する役事と奇蹟が起こり成就され、神の栄光を表わすのである。すなわち“人はパンのみに生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による” (マタイ4:4)と言う御言葉を、世に見せ証することが、まさに教会の使命であり目的である。

ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン

   関連メッセージ 〕