キリスト者の良心とは? [3]

3 愛と良心の相互関係

人間は誰もが、神のかたちに創造された原形の証を良心の中に持っている。それは、信仰者でなくとも、教育を受けなくても、良心は善 (愛)を要求し追求しようとする欲求がある。この欲求を拒否した時、または放置した時、心に呵責を感じることでわかる。人間の心の中には、誰もこのように神の証がある。この誰にもある愛を行なおうとする希望や欲求が、まさしく神のかたちに創造された原形の名残である。

神のかたちは、コリント第一13章の愛で成された心霊(心、霊魂、良心)であり、堕落前のアダムが持っていた心霊であった。つまり、寛容であり、親切で、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不義を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、という愛の本質で完璧に形成された良心である。これがまさしく神のかたちだ (愛の中ではすでに信仰、希望、愛が一致している)。

しかし堕落後、肉に転落した人間の心霊は、罪に汚れた心霊を持つようになった。つまり、肉的要素である、不義、悪、むさぼり、悪意に満ちた者、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、代言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者、等の、人間の内面にあるこうした肉的要素に転落し、いのちから死の権勢の支配下に置かれているため、神はもはや人のうちにはとどまらないと語られたのである(創6:3)

我々の心霊に、こうした肉的要素がたった一つ残っていても、決して神と共にはできない(ローマ1:28-32)。再び神を迎えるには、清潔で清い心霊になってはじめて神を見るのである(マタイ5:8)。それは、悔い改めを通して心霊をきれいにし、愛の良心に新たに正しく立つ時、良心に神の明かりを照らすことができるのである。

● 良心に神を迎えられる器とは?

愛で完成された心霊だけが、神を迎えることのできる器である。これを聖殿(宮)と言う。律法的信仰は成文化された律法を通して神に会うことができるが、その出会いは恰も、アメリカにいる息子と韓国にいる父の関係のようだ。お互いの距離があまりにも離れているため、電話の中でしか会えないのと同じだ。律法の聖書の求めは、親が子どもに、さあ気を付けなさい、勉強しなさい、パソコンはいいかげんにしなさい、友達と喧嘩するな、足を洗いなさい、歯を磨きなさい、顔を洗いなさい、小遣いを大事に使いなさい…等、親たちのこうした要求と教育は、すべてその子どもの将来の幸せにつながっている。このように、律法のあらゆる要求や注文はすべて、愛という直線道路に進入するための幹線道路である。つまり、愛のために準備された段階が律法だ。聖書に真心から忠実にすれば直線道路である愛につながり、神に出会うことができるのである。

霊的信仰で、神に会うためには愛という道具が必ず必要である。どんなに技術に優れ能力のある漁師でも、魚を捕る道具がなく素手では決して一度にたくさんの魚を捕ることはできない。このように、神を見、感じ、共にするには必ず愛という道具が必要である。愛は神を迎えることのできる完全な器である。愛は、幸福の使信 (山上の垂訓) に立脚した心霊さえ備われば、直ちに聖霊によって愛に到達し、神と共にすることができる。キリスト教は幸福の使信に立脚して求め、探し、たたいて、攻め入り、愛(神の国)を勝ち取ってくる宗教だ。心が貧しいと言うのは、天国で通用する愛が貧しいと言うことで、するべきことを知りながらも愛を行なうことができないことだ。また悲しむと言うのは、その御国とその義である愛を行なうべきなのに、行なうことのできない自分の分際を悲しむことであり…幸福の使信の求める対象はすべて愛に対するものである。

キリスト教信仰のキーは、このように、愛を目標に幸福の使信に立脚して求め、探し、たたくこと以外には信仰の王道はない。これが、キリスト教信仰のすべてを解決する王道である。小さい子が自分の目的の為には道端であろうとどこであろうと関係なく、両足を突っ張って泣きながら自分の要求が通るまで親に求める。

このように、神の愛を取得するには、ヤコブがヤボク川で天使と戦ったように、手段方法を選ばず愛に攻め入り勝ち取ってくるのだ。それも自分の練達の目的ではなく、真実な心で、神の国とその義のため、つまり心霊の天国を築くため、信仰全般に必要なあらゆる心霊の条件となる知恵、大胆さ、力、愛、信仰、神の御心、善し悪しの善悪の判断…等を探し叫び求める時、神は喜ばれるのだ。それでイエス様は‘神の国と神の義’を求めなさいと言われたのである。

その時、律法が到底到達することのできない愛に対する希望を、聖霊の力によって、神の属性である愛の世界(天国、神の国)へと押し入るのである。このように愛を勝ち取り、完璧にコリント第一13章の愛へと形成された良心が、神のかたちである。これに準じて、信仰を常に維持し営んで行くことのできる信仰を、成長した信仰、つまり霊的信仰と言い、満ち満ちた身たけまで成長して行けるのである。

● 霊的信仰とは?

霊的信仰とは、ひたすら聖霊の導きに基づく信仰である。律法的信仰が、聖書の文字的な御言葉だけを証しとして信じる信仰であるなら、霊的信仰とは、律法 (聖書) の教育を基礎として、更に神が直接教え関与される信仰である。キリストの法である愛の戒め (コリント第一13章)を信じ、守り、行ない、ただ愛の完成だけを望む。その中で聖霊は、私が意識し感覚する必要なく、ただ私の体の一部のように自然に私と共にあり、私の良心を宝座として座られ、義、罪、裁きについて判決される神を、心と行ないによって信じ、従い、仕えることである。

キリスト教はこのように、直接神の陣頭指揮を通した教えを受けながら、各々の性品や性向に合わせ、再び主のかたちを築いていくことである。従って必ず律法の完成となる愛の基礎の上に立っていなければ、キリスト教信仰は進行できない為、愛以外には如何なる規律や規則…等、どんな重荷も負わせない宗教なのだ(使15:28)。愛の戒め以外に何かを要求するなら、それは人間の教えである。聖霊に従う霊的信仰をするには、まず全てのものをちりのように全て捨て、初めから終わりまで、ただ愛一つを基礎としていく時可能なのだ。そうした心霊の上に、神は、良心の宝座に座られ、我々を導いて下さるのである。

その導きは、我々の良心に、影法師の如く瞬く間に、実体を全て見せて過ぎて行く。稲妻のように瞬く間の瞬間であるが、どんなにたくさんの内容であっても全て説明し、証し、良心に記録して、証しされて電光石火のように去って行く。このように、我々の光として良心を照らしてくれるが、人間はやみを愛したため (ヨハネ3:19)、耳で聞いて、見て、回心し、いやされることを恐れるのである(ヨハネ12:40)

神は、我々の良心を宝座として座られ、わたしの愛する子よ、これはこうしなさいと、我々の良心に伝えるが、肉の欲と共謀した我々の良心は、いわく「え!これを私に今信じろと言うのですか。今こんな時代にこの言葉を伝えろと言うのですか。私にはできません。この言葉を伝えて恥をかいたら、私はいいけど神様が神の栄光を遮られるじゃないですか。」と反発するが、神は、わたしの愛する子よ、それでも伝えることがわたしの栄光だ、と言われる。だが我々の良心は再び、「いずれにせよ私は忙しいんです。今私にこれを信じて行なえと言うのですか?非常識な老人みたいだ。今のこの声は本当に神様の声?私は信じられない。本当に神様なら私にわかるように大きな声で言って下さい。大きな声で。今この声は聞かなかったことにします。お宅が誰かはわからないが、再びこんな常軌を逸したことはもう言わないでほしいな…この次からはちょっと人がもっと理解しやすい普遍妥当な常識的なことを言ってくれればいいけど。私は、霊的と言うのはちょっと人が理解し難いことが多い神秘だとは、早々に聞いて知ってはいたけれど、これはあまりにも深刻ですよ。いずれにせよ私は聞いてませんから。変な老人を見たもんだ」と言いながら、我々はその良心の声を拒否する。

このように、良心に伝える主の声を誰が信じたか。主の御腕は誰に現われたのか。彼は若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように、粘り強く良心に静かに伝える。この世のように見とれるような輝きもなく、論理や合理的な妥当性や説得力をもっていない。この世の基準では到底理解できないことが多い。また主の御言葉は、この世のように美しく常識的で普遍的な妥当性や合理性がないため、慕うような見ばえもなく、さげすまれ、屠殺場に引かれ、毛を刈られるため黙っている小羊のように、ひと言以外には決して付随的な説明はしない。良心の声はじっと浮かんだ雲のような声で、我々が思うには愚かで知恵がなく、決して実現の可能性のない理想論であるゆえ、その御言葉を尊ぶこともなく、蔑み、十字架に数え切れないほどつけてしまっている。

このようにイザヤ53章は、イエス・キリストに対する預言と同時に、我々の心霊に役事される聖霊の役事を証したものである。即ち、神の声は我々の心霊で、若枝のように、砂漠の地から出る根のように、この世の美しい論理や、普遍的で妥当性のある常識を持っていないことに対する預言である。すでにこの世の常識と知識によって侵された心霊には、聖霊の声は愚かな道に過ぎないため信じることができない(Ⅰコリント1:21)。それで旧約から新約まで、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と語られたのである(へブル4:7)

● 聖霊の役事は毎日毎日新しく始まる若枝(芽)の宗教だ

聖書に預言されている、「わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝(芽)を来させる(ゼカリヤ3:8)。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す(ゼカリヤ6:12)。」これらの御言葉は、我々の心霊(良心)は常に古い枝から若枝が芽生える信仰であるから、古い伝統主義の弊害から脱し、古びて病み放置されたものを果敢に切り捨て、聖霊の若枝によって新しく信仰を始めるべきことを象徴している。若枝とは、巨大な木が倒れ、枯れた切り株から新しく芽生えた芽である。その芽が出て枝をはり、根が拡がり、まっすぐに大きな木に育ち、二千年前イエス・キリストを通して叫んだ聖霊の声をそのまま受け継いで叫ぶ、二人の証人の声である。この時代、焼印を押された良心を呼び覚ます鞭打つ声であり、麦と毒麦を分け、麦は倉に、毒麦は焼き尽くす、審判の声である。草はしおれ花は散る。しかし主の言葉はとこしえに変わることはないことを証しする声である。

従って、新しいぶどう酒、新しい衣等、これらは全て、毎日毎日聖霊の教えたことによって始め、終えることを喩えたものである。イスラエルの民が荒野で毎日毎日新しいマナを通し日用の糧を供給されたように、キリスト教は、聖霊を通して毎日毎日新しい糧を供給される若枝の如き宗教であることを象徴したものである。聖霊に導かれた御言葉が救いとなり、いのちであり、また永遠のいのちとなるのである。教会はこのように、常に生ける新しい御言葉の連続の中で成長するのである(Ⅰペテロ1:23)

このように、聖霊によって始まる新しいキリスト信仰を‘その日の後’の信仰と言う。聖書は、「それらの日の後、わたしが彼らと結ぼうとしている契約は、これである、と主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける」(へブル10:16)と言われ、これまでの全ての律法的信仰を、新しい聖霊の約束によって履行することを預言している。つまり、‘その日の後’から預言された信仰とは、聖霊が、心霊の奥の良心の宝座で我々と共にあり、我々の引導者、指導者、先生、監督…として、神の法を直接我々の良心に置いてくださる。その良心に記された思いによって、我々を、義について、罪について、さばきについて教え、思い起こさせ、平安…等を教訓し教えられる。その導いて下さったことをそのまま行なう信仰である。これを油注ぎと言う。即ち、人の知恵に教えられた言葉ではなく、ただ聖霊の教えることによって行なうことが、油注ぎである(Ⅰコリント2:13)

キリストとは、‘油を注がれた者’と言う意味である。イエス・キリストが公生涯の間、ひたすら聖霊の導きのままに、神の御心に仕える見本を見せて下さったように、キリスト者は誰でも油を注がれて神に仕える信仰をする人たちである。旧約では特定な人たち、つまり王、預言者、祭司長たちだけに限られていたが、新約では誰であれイエスを信じ呼び求める者たちに油を注いで下さる。それで聖徒を王である祭司だと言われ、神の所有とされた民だと言っているのである(Ⅰペテロ2:9)

油注ぎはもはや旧約聖書を完成させている。そして、全ての約束と預言を成就するキリスト信仰の核心である。聖書は、その油注ぎが、全てのことをあなたがたに教え、その教えは真理であって偽りではなく、また、誰からも教えを受ける必要がないと記している(Ⅰヨハネ2:27)

聖霊の導きとはこのように、良心(心霊)の導きに従うことである。あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊 (マタイ10:20)であると言われたように、今も我々の中で、神は、聖霊を通して語られているのである。

従ってキリスト教の伝える真の福音は、聖霊によって証しされたこの御言葉を伝えることである。これが「草はしおれ、花は散る。しかし主の言葉はとこしえに変わることはない。とあるからです。あなたがたの宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」の真の意味である。

愛はキリスト信仰の完成である。その時には、顔と顔を合わせるように互いを知ると言われた。完全な愛はすでに神の性品によって全宇宙を包み、同化し、キリストと一つの肢体になっている。それは堕落前のアダムへの回復である。完全な愛に到達するには、毎日瞬間ごとに、連続的に、水と聖霊によって生まれ変わるところから段階別に良心を変えていかなければならない。また、水と聖霊によって生まれ変わったとしても、聖霊充満を維持できず、今、自分が聖霊に満たされていなければ、義 (信仰) に至ることはできない。それで毎日毎日、瞬間ごとに、聖霊の導きによる御言葉によって生まれ変わることが求められる(Ⅰペテロ1:23)。そのため霊的信仰において霊の分別は必須である。

● 霊の分別

キリスト教はただ愛一つだけをもって霊の分別をしていけばよい。つまり愛の中にいれば完全であり、愛の外にいるなら肉に属した霊だと言うことだ。従って愛以外の、現在横行している他の霊分別方法は全て異邦宗教、特に道家、仏家からの借用であるから、全てチリの如く捨てるべきである。この方法では分別は不可能だ。かえってこれは霊的混沌と混乱を加重させるだけだ。霊の分別は、誰でも自分で簡単に自己診断ができる。それは恰も、世の全てが白い雪で覆われた雪の国で、黒い色は盲人でない限りすぐに区別できるように、キリスト信仰では、愛でなければ全てみな偽物である。霊の分別は易しく簡単だ。

霊的信仰とは、私が今、心と思いと理性と力を尽くして神を愛しているのか、また、私自身のように隣人を愛しているのかを自ら自己診断して、そうした心霊でないなら、その霊はキリストの霊ではなく、この世の利己的な霊、つまりサタン、悪魔、悪霊の支配下にいるということだ。人に対して、私とは関係ない無感覚、冷笑主義、利己主義の形態に私たちの心があるなら、それはすでに悪魔、悪霊の支配に完全に掌握された心霊である。こうした心霊はみな悪い霊を追うようになっている。韓国の霊的信仰の問題がここにある。それ故、愛に完全に帰らねばならない。それだけが霊的信仰をすることのできる唯一無二なる完全な方法であり、活路である。

● 自分たちだけに救いがあるという者たちへ

これまで、自分がメシアだと主張したり、自分たちこそが救いの箱舟だと言う小宗派たちや、自分たちの教理と教団こそが正統で救われると言ったり、自分たちの主張こそがキリスト教の真の真理だと主張するのを多く見てきた。これらは全て、真理を知らない聖書の無知から始まったことだ。アラム語のメシアとは、ギリシャ語では‘キリスト’、即ち‘油を注がれる’と言う意味だ。キリスト教は油注ぎの宗教であり、これがキリスト教の本質であり核心である。

イエス・キリストが油注ぎの見本を見せて下さったように、今日の聖徒たちもまた、キリストから直接油を注がれればみな‘メシア’なのである。それでキリスト教は油注ぎのメシアの宗教であり、聖書は油を注がれた聖徒たちに対して、王のような祭司長、国、聖徒だと言明したのだ。誰もがみな聖霊の油注ぎを受けられるのに、自分こそがメシア、また自分たちの教理にこそ救いがあると言うなら、これは愚か極まりないことである。このような誤った思想は全て聖書に対する無知と、聖書解釈の誤謬から始まったことだ。また自分たちの教理と教団こそが正統で真理であり、救いの箱舟だと主張するなら、それはキリストの真理を全くわからず、聖書の真理の外にいる異邦宗教だと言うことを、自ら立証することである。

なぜなら神は公義の神であり、真理は、誰でも、求め探したたく者に差別なく公平に与えられるからだ。正統主義は、誰でも信じさえすれば救われると主張しながら、裏ではまた自分たちこそが正統で、救いのある真理だと言う。これは「誰でも」というのを取り除き、自分たちだけに救いがあると、無理な主張をし自らの矛盾に陥っている。聖霊の役事に対しても、一部では、自分たちだけに聖霊の役事があると主張する。だが聖霊の役事は、信じる者には誰にでもみな起こることである。聖霊の役事が起こらないのは、つまり信仰がないと言う証拠であり、また救いがないと言う立証だ。それはイエス・キリスト信仰ではない。従ってイエス・キリストを真実に信じ求める者には、誰にでも聖霊の役事が起こるようになっている。それでも自分たちの主張こそが真の真理だと言い張るなら、その教理を通した信仰の実が現われるべきだ。そしてその実は必ずや、万物を差別なく憐れむ心がなくてはならない。

愛の完成は憐れみである。

そして、憐れみは犠牲をいとわない心を生む。真理は、一番高い頂点であり、遮られるものが全くないため、ぱっと開かれた視野と心を持つ。そしてその心霊は、全ての人類が本当にかわいそうだと言う思いが、心の底から白い霧のように一面に拡がりながら、憐れみがこみ上げて溢れ出す。真実に憐れむ心、かわいそうで仕方なく痛ましい思いで、常に愛する人を慕う如くに憐れみの心に引かれ、到底何かの行為をせずにはいられない。そしてその行為は総合的に涙の祈りとしてほとばしる。

国と民族の為に、世界人類の現実と将来の為に、異邦宗教者たちの為に、さらには万物の動物たちの為の祈りにまでつながる。そのほとばしり出るものを止める才幹も方法もなく、座っても立っても憐れみに捕えられ、その憐れみはすぐさま前後をいとわない犠牲へとつながる。犠牲のない憐れみはなく、憐れみと出会わない真理はない。憐れみと真理は一つである。

真理の到着点は憐れみの心であり、犠牲としてほとばしる。犠牲の実は、決して自己主張、論争、分派ではなく、和合であり、誰をも尊重し認めることである。もし、自分が提示する教理だけが本当に救い、いのち、永遠の命を得ると主張するなら、聖書のとおり、その信仰の結果は必ず和平に到達しなければならない。

聖霊の力で隣人と和合すること、これが塩の役割である。もし分離、分派、独善や閉鎖的となるなら、それは決して救いを得る信仰ではない。真の真理には論争や主張は存在し得ない。それは恰も、明日死刑執行される息子に面会に来た親の心のような、ただ振り返って立ち尽くし、あの息子を生かしてほしいと言う涙と、信仰のとりなしの祈りしかない。

真のキリスト教の姿は、このように限りない犠牲と、尽きぬ愛と、和合である。このような実のない全ての宗教や宗派、宗教指導者は全て真理から外れた偽物であり、反キリストであり、異端邪説である。それは人を支配しようとする、汚れた人間の本能である支配欲を、そのまま聖なる教会まで引っ張って来て、教会を野卑な強盗の住みかにすることだ。 

4 教理と良心の相互関係

教理の発達は、愛を代用して神を探そうとする人間の企みから始まったものである。教理が本当に聖書的であるなら、良心が全てコリント第一13章の愛を目的とし指向されるべきなのが、今キリスト教の進む方向は愛の逆方向へと流れている。教理の内容はみなキリストについての証しであるとは言うが、その結果は相反する見解と異見の為、反目、判断、論争、不信、分派、ねたみが生じる原因となっている。そして恐れ多くも、神だけが使われる審判の宝座にまで上がり、判断定罪するさばきの声をやたらに乱発する。このように愛ではなく混沌を与えるのは、聖書に似せ、かこつけているが真理ではないということだ。それ故、こうした教理による良心は、厳密に言えば良心だとは言えない。それはキリスト教ではなく、カルヴァンによるカルヴァン教だと言えよう。なぜならキリストの教えの愛に従うのではなく、人間の教えであるカルヴァンの教理に従っているからだ。こうして教理によって固まった良心を、焼印を押された良心と言う。

● 焼印を押された良心

良心に焼印を押されたと言うのは、この世の教育や思想、哲学等の教育によってしっかりと刻印された心霊を意味する。多くの宗教で、自分たちの教理を教育することで良心に刻印しているのである。こうして刻印された良心は、愛に対して無感覚になり、その教理以外は全く受け入れない良心である。

これを簡単に説明すれば、半導体は、用途に応じてその機能を作り出し、その機能でない他の用途には決して変更ができない。このように、ある教理が完全に教育されていて、他のものへの変更が不可能な良心を言う。このような良心は、教理で武装し、鎧を着ているため頑なになり、それは聖霊への背きにつながっていく。きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならないと言う法に背くことであり、良心に記された聖霊の声に背くことである(へブル3:8)。かたくなになるなと言われた理由は何であろうか。聖霊の声は常に新しい御言葉の連続の中で成長するため、古くからの伝統主義が新しい知識をふさいではならないと言う警告である。イエス・キリストは、良心の門の外で門をたたいておられるが、焼印を押された良心は、自分たちの声の教理以外は聞き取れないため、本来の先在した良心(アダム創造時からあった良心)を、深い谷間の洞窟の監獄に閉じ込めて眠らせ、ひたすら自分たちが教えられた良心だけを律法官、裁判長、先生、引導者としているのである。

焼印を押された良心の特徴は、自分たちの目的のためには正道から逸れざるを得ない為、見かけは華麗でもっともらしいが、常に内の真実は偽善や嘘として現われる。それは偽りの父である悪魔から出ているからだ。従ってそうした良心は死の権勢の奴隷となり、人生全体が肉のことに仕えて生きて行く。それは全て貪欲の結果である。

この世は、肉的本能をもった人間たちに、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢と言う三つのエサを投げる。そのエサ一つ一つは、更にまた数多くのかけらで構成されている。人間は意識しようと無意識であろうと、そのエサの誘惑を決して振り切れず、がぶりと食いついて飲み込んだ結果、罪に引っかかり、結局は死に至るのである。その実は肉の行ないとして現われる(ガラテヤ5:19)。この世はこのように繊細に稠密に編まれた罪の網のようで、全ての人類を自分の奴隷としてこき使っている。奴隷は当然この世の偶像崇拝者となる。愛ではなく貪欲に仕える為、偶像崇拝と言うのである。偶像崇拝は他でもない、自分の心に満足感、達成感・・・等を果たそうとする欲求、こうした貪欲として現われる。貪欲をもっては、いくら神に仕えようとしても決して完全な信仰をすることはできないゆえ、貪欲(むさぼり)を偶像崇拝と言うのである。

もしも真理を知る知識があると言いながら貪欲があるなら、それは真理を知る知識ではない。たとえば、炎々と燃える溶鉱炉の中に飛び込めば、焼けて死ぬのは誰もがわかっている知識なのに、その溶鉱炉の中に飛び込む人がどこにいようか。このように自分が確実な証を受けて真理を知っているのなら、決して貪欲を働かすことはできない。貪欲や肉の行ないをすると言うのは、聖霊の力を受けたことがない証拠であり、それは本当のキリスト者ではない。キリスト者が死の網に陥らない方法は、ただ愛である。ところがキリスト教は、神の戒めである愛を排除し、人間の戒めである教理を教えとして教えているため、聖書は「彼らがわたしを拝んでも、むだなことである」と言っているのだ(マタイ15:8-9)

表面では、互いに愛し合いなさい、敵をも愛しなさいと教え、裏では、真理を見張ると言う見かけの良い名分の下に、まずは人を警戒し疑うところから始まると言う、二律背反的な教えをまた受けている。このように徹底した二重的な教えの中で、彼らの信仰は矛盾から始まる。信仰の熱心は、直ちに熱心に信仰が壊れゆくことを意味し、三年以内に良心はみな壊れてしまう。そして徐々に教理による異なった良心へと焼印を押されていき、もう到底神に会う事のできない良心へと変わって行くのである。

これまでこうしてキリスト教信仰は壊れ、没落に向かっていた。教理によって焼印を押された良心は、教理から逸れれば容赦なく習慣のように裁き、定罪、疑心、不信、反目、冷笑を自動的に稼動させる。

代表的なのがパリサイ人たちである。彼らは非常に堅い律法によって焼印を押され、彼らの良心は固まっていた為、事実を事実として見る事ができず、イエス・キリストを排斥し、その福音を受けなかったのである。それでイエス・キリストはパリサイ人たちに対しサタンの集まりだと言われたのだ。今日でも、“忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは・・・その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。” (マタイ23:13-15)と言う御言葉を成就している。これは今日、誰に向けて語られた御言葉であろうか?

パイサイ人の後孫のイスラエルは、今もメシアを待っているが、来ずに脱力している。キリスト教の立場で見たら、どれほどユダヤ人たちは愚かであろうか。すでに二千年前に来られたイエス様をメシアとして認めなかった為、その報いとして二千年間あちこちさ迷いながら流浪し、叩かれ蔑まれ、ひどい目にあった。それでも満たない罪の値を、最後にはナチス、ヒトラーによる残酷な600万人虐殺を経てはじめてその罪の値から脱して回復し、奇跡的に国を回復した。だが今、また再び熱心に隣国に罪を犯し、罪を作り出している最中だ。その罪科が満ちれば、また降り注がれる血の悪循環は続くことだろう。一万年でも、十万年でも、彼らが悟る時まで失敗、苦痛、挫折の連続の民族だ。その理由は、神が彼らを愛しているからである。

愛すると言いながら、なぜ叩くのかと言うだろうが、彼らは頑なで誰の言葉も聞かない。神はひたすら自分たちだけの神であり、最高だと言う選民思想が堅く座を占めている為、絶対的に他宗教や他民族は認めない。いつかはメシアが現われ、イスラエルが世界を制覇し、残る世界の人々を属国として治める野心に満ちたイスラエル帝国を夢見ている。彼らはその夢によって二千年を持ち堪えてきた。ユダヤ教が存在する限りこの夢は決して捨てられないであろう。この夢を捨てられない限り、ユダヤ人たちは世界の中で悪役に当たった俳優として永遠に残り、神の信じ方を間違った者の象徴として、悲劇の民族として残ることだろう。その悪役は今日、神の信じ方を間違ったキリスト者と、今後の後孫たちの為に標本として残したのである。だから今のイスラエルの動態を注意してよく見よと言うことだ。その中にあらゆる教訓が聖書と共に対(連れ合い)を成している。その預言の成就を見ることで聖書の権威を増しているのである。

イスラエルと同じように、今のキリスト教も真理を誤解している。イスラエルの選民思想がどれほど間違った活用をされているのか、今も我々の目ではっきりと見ていながら、その外れた選民思想が今キリスト教の中に澎湃している。つまり、私だけの神、私の神と言いながら、あらゆる偏見と独善と閉鎖的な選民思想をユダヤ人のように作り出している。

全ての人類は神の子どもである。私だけ特別なことは決してない。そうでなければ公義と言う言葉が色を失う。キリスト信仰で優越意識は直ちに死につながるため持ってはならない。常に謙遜に両手を前で合わせ、「お語り下さい。どんなことでも従います。私も彼らと同じ罪人でしたが、今、御父の御恵みを受けています。私が彼らよりも勝るものは何一つありません。主は全知全能であられるゆえ、いつでもそのお心ひとつで彼らも私と同じようにすることができます。」と言う、罪人と同等だと言う平等意識の中の謙遜だけだ。

神は全ての宗教を承諾された。それらの宗教は神の黙認下で成長してきた。その理由は、神を探り求め見いだすためであり(使17:27)、その目的は、競争を通じて最高の宗教を選択するようにしたのだ。ところが人間は何一つ神を正確に知ることも見いだすこともできず、全て偽り者となり(ローマ3:4)、全ての人が迷い出て、みな無益な者となるだけで(ローマ3:12)、人間が作ったかたちの、人間の教えによって神に仕えていただけである(マタイ15:8-9)

カトリックもやはり20世紀になってはじめて、異邦宗教にも真理の種があると宣布し和合しようとしている。こうして和合するまで旧教は二千年間の大変な路程があった。そこには、キリストに対する情熱、使命感、純潔、堕落、権力、名誉欲、醜悪、殺人、異端剔抉、魔女狩り、戦争、和合…等、人間が恣行することのできる霊的・肉的欲望の欲求…等、あらゆることを全て行ない経験してきた。二千年が過ぎた今日、この時代になってはじめて彼らは懺悔し、無謀であったことを宣布した。キリスト教は二千年間の、使徒時代と旧教の険しい信仰の教訓を決して無駄にせず、心に刻んで活用するべきである。

収穫の時とは、過去の歴史を通し、十分な検討の中で、何が良くでき、何が悪かったのかを研究し省察し、反省の中で直ちに悔い改めにつながり、再度、善し悪しを神の検証を受けて、その教訓を後孫たちに末永く残すことである。麦と毒麦はほかでもない、過去の教訓である。麦は良かった事であり、これは末永く継承し、毒麦は悪かった事として、これは焼いてしまい、痛い教訓として二度とこうしたことがないよう後孫たちに伝えなければならない。この割り当ては、部分的だが今日の宗教指導者たちの割り当てである。すでにカトリックでは、教皇パウロ二世を通して罪悪の懺悔が一部進行された。キリスト教の没落は直ちに人類の没落であり、また良心の没落である。今、人類がどこに流れるのかを見よ!我々キリスト教がこれを果たせなければ人類の未来は絶望であり、我々の後孫の未来は期待できない。私の教会、私の教理と言う主張をもう手放して捨て、愛以外は何をも取ってはならない。

キリスト教は、冒頭で言及した神の預言の御言葉を、甚だ恐れ震える思いで心に刻むべきだろう。最後まで心を頑なにせず、自分たち自ら刈り入れの働き人の班列に立ち、後孫たちの為に悔い改める心で、醜いことと聖なること、正しいことと間違ったことを、明白に教訓として残し伝えるべきである。この時代の神のしもべなら、一粒の麦が地に落ちて死ななければならないと、我々の口で繰り返し羊たちに強調したように、一粒の麦が地に落ちて死に、腐敗し没落したキリスト教の良心をもう一度起こして立てなければならない。今キリスト教は、人間の教えの教理を捨て、神の戒めである愛の良心へと帰るべきだ。完全な愛の法を基礎にして、更に聖霊の導きを受けていく霊的信仰へと、一段階成熟して行くべきである。

ハレルヤ! 世々限りなく主に栄光あれ

良心に座しておられるインマヌエルなる主よ! そう成さしめ給え

永遠に我らが内を宮とされ、栄光を受け給え アーメン

( 2004. 2 )


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