リスト者の良心とは? [1]

    キリスト者たちはみな愛を目指し、愛で形成された良心を持たなければならない。即ち ‘愛はキリスト者の良心’ であり、‘キリスト者の良心は愛’  であると定義されよう。しかし愛から離脱した教理は、どんなに発展したとしても霊的闇を増すだけである。

    このように霊的闇と言う夜を迎えたキリスト教に、何年か前イランの “バム” 地域で発生した大地震で古代都市が完全に破壊され、4~5万人の人命被害を出した事件は、悔い改めのない臆面もないキリスト教を、このように懲らしめると言う神の警告のラッパの声のようだ。(韓国語で夜をパムと言う) これは、この地の不法を行なう悪いしもべたちを引き抜いてしまうという象徴性を内包している。キリスト教が今日のこのような形で流れて行くなら、結局、以前イランの “バム” 地域で起こった大地震で、イランが誇った世界的文化遺産の古代都市が、石の上に石一つ残ることなく完全に崩れて破壊され、無残に変わり果てたように、キリスト教の今後もそのような暗澹と悲惨な終末だけが待っていることであろう。神は既成教会に対してこのように語っておられる。

● 教理の最後は散乱だ

    今日のように、教理を偶像化し神に背くようであれば、キリスト教は分裂に分裂を繰り返し、教会は今後空っぽになるだろう。韓国キリスト教は、聖霊で始まり肉で終わった西欧のキリスト教のように、老人たちが時折座っているだけの空っぽの教会と化すことだろう。

    また、神が下さった各種の恩賜を濫用して大きな教会を建て、たくさんの信徒を集めるだけにあくせくしていた今の大型教会と小宗派教会は、欲心から来るその欲のために、恩賜ではないショーマンシップと、実のない言葉だけの生い茂る口達者として体面を維持するようになるだろう。聖霊の去った教会は結局滅びゆく如く、そのように、人本に引きずり回され、紛乱と不信と雑言、そして後ろ指を差され、背を向けられる羞恥を受け、徐々に教会は門を閉じることだろう。

● 教会のかしらは聖霊だ

    聖霊を支えていた信仰の12の柱を全て打ち倒し、人間自身が、分けて整え作り上げた教理を柱に立て、栄光を自分のものとしたゆえ、艱難の日、柱を支えていた繋ぎ目は亀裂が生じて裂け、その倒れ方は甚だしい。巨大な教会は切れ端となった柱の角に敷かれ、ばらばらに砕け散り、粉と化すだろう。これは聖霊を無視し、自らが立てた各種の教理によるものであり、絶え間なく湧き上がる良心の声、即ち、聖霊の声に背いて、自らが大型教会を立てた欲の結果である。

    聖霊の、瞬間ごとに呼び覚ます良心が少しでも残っている牧会者なら、自ら防御し飾る為に立てた高い教理 (知識) の壁面を全部壊して、聖霊に従いなさい。知識のない者、愚鈍な者、愚昧な者、学べなかった者たちが思う存分入って行って、生ける神に栄光を帰せるよう、牧会者自らが知識の仮面を脱ぎ捨て、教理の面を壊してつぶし、良心に乗って流れて来る聖霊の声に耳を傾けよ。

    キリスト教は、この時代の大きな流れとなっている “生命軽視現象” の責任を、自ら負わねばならないだろう。生命軽視現象は、教理による副産物であるからだ。生命軽視現象は今後も更に長い間、甚だしく続いていくだろう。彼らの流した無謀な血の代価は、教理の追従者であるこの時代の全ての牧会者たちが代わって受けなければならない。これは、聖霊を捨て教理に追従した罪の結果である。

    聖霊の、瞬間ごとに呼び覚ます良心が少しでも残っている牧会者なら、教会の高い壁を全て打ち壊し、愛に飢え、貧しく、疎外されたやもめや孤児、貧者の安息所となるようにしなければいけない。黄金で飾ったエルサレムの神殿を誇ったユダヤ人たちに、“この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう”  (ヨハネ 2:19) と言われた、二千年前のイエス様の御言葉のように、つんつん尖った高い城のような教会の壁面を全て打ち壊してしまいなさい。

    聖霊の、瞬間ごとに呼び覚ます良心が少しでも残っている牧会者なら、金持ちだけを選別し上席に座らせ、彼らにおだてられ、仕えられ、その影響力に自ら満足した偽善の仮面を脱ぎ捨てよ。貧しいやもめのレプタ銅貨二枚を、より尊いとされた、二千年前のイエス・キリストの叫ぶ声、つまり良心の声、聖霊の声に耳を傾けよ。貧乏で暮らしが貧しく、貧窮した者たちがおびえながら手を開く、その恥ずかしさでいっぱいになった心霊を慰めてあげ、教会は、生き残る為には今からでも全てはたいて施しに力を尽くしなさい。十分の九を惜しみなく与え、十分の一で教会は満足し、神に栄光を帰する為に喜び、喜びなさい。

    聖霊の、瞬間ごとに呼び覚ます良心が少しでも残っている牧会者なら、自分が生き残る為に罪のない相手に向かい、異端だと後ろ指を差したその指を切ってしまい、自分の醜い姿を見よ。もし、目が罪を犯すなら目をえぐり出して捨ててしまい、手が罪を犯すなら手を切って捨ててしまいなさいと言われた、二千年前のイエスキリストの叫ぶ声に耳を傾けよ。牧会者一人が相手に指した指一つが、その教会に所属する全ての信徒たちの指をみなそのように指差すようにし、牧会者一人が背を向けたその単純な行動一つが、その教会に所属する全ての信徒たちが、理由もわからずについて背を向けるとんでもない事態に、袖手傍観するだけで、責任を逃れることだけにあくせくするのか。愛に帰りなさい。聖霊は今も各自に良心を通して愛を叫んでいる。その愛の力の中で互いが和合し、罪を包んで抱き、愛で勝利することを叫んでいる。

    異端がどこにあろうか。利己と冷徹な教理に捕えられ、その物差しを基準に異端だと指をさすその者こそがまさに異端だ。彼らの心霊に果たして良心が少しでも残っているのか。愛の心が少しでも残っていたら、日夜、突き立てる良心の呵責によって、とても相手を批判したり、異端だと指差すことはできないはずだ。愛の中では怨讐も極悪な殺人者であっても、一人の兄弟に生まれ変わるようにすることを知らないのであろうか。

● 異端研究家たちに下る神の審判は次の通りである。

    1.傾き歪んだ良心の目に照らし、自分自身が審判者となり、教界の上に君臨し、感情に従い、気分に従って善し悪しを判断したことで、教会は教会同士、信徒は信徒同士、互いを異端に追いやる不信の沼に深くはまり込ませた異端研究家たちに、神の災いとのろいの審判が、行なった通りに応じるであろう。

    2.あるものをないと証し、ないものをあると証して、偽りの判断に一貫してキリスト教界を紛乱に追いやり、今日のような白黒論理によって ‘愛’ の純粋性を喪失する原因を提供した異端研究家たちに、神の冷厳な審判が、今から各個人の頭上に、行なった通りに返されるであろう。

    キリスト教は今や、巨大な木が倒れ、枯れた切り株から一つの芽が出て、枝が延び、幹が拡がり、正しくまっすぐと大きな木に育って行く。これは、二千年前イエス・キリストを通して叫ばれた聖霊の声をそのまま受け継いで叫ぶ者 (二人の証人)  の声である。この時代、焼印を押された良心を呼び覚ます鞭打つ声であり、麦と毒麦を分けて、麦は倉に、毒麦は火に焼く審判の声として、草はしおれ花は散る、しかし主の言葉はとこしえに変わることがないことを証ししなければならない。以上は、現代キリスト教が教理で全てに代替したことに対する神の判断と、絶叫の声である。

    聖霊の語られる声を、教会と耳のある者は聞きなさい。

    聖書は全てキリストについての証だ。即ち、イエス・キリストの霊であられる聖霊についての証である。イエス・キリストを信じるというのは、その霊であられる聖霊の導いた教訓、教え等の証を信じることだ。それはイエス・キリストが下さった新しい戒めである愛を守ることで、我々の心霊に聖霊を迎える完全な宮を建てることである。この心霊に神の宮が完全となる時はじめて、霊的信仰である聖霊の導き等が可能なのである。

    心霊に愛が完成されないため、韓国教会の霊的信仰のほとんどが両神 (聖霊、悪霊) の役事に終結した。このように、自ら霊的信仰だと言う聖徒たちは、聖霊の役事と、悪霊、つまりこの世の霊の役事が一緒に起こったのである。これが、時代ごとに世界のあちこちで起こったあらゆる聖霊の役事が、聖霊で始まったが肉的信仰をもって運命を遂げた理由である。両神の役事は、韓国キリスト教が聖霊の役事を迎えることのできる基礎となる愛の不実の為であった。不実を持って来た原因は教理である。神の戒めである愛より、人間の教えである教理に重点を置いたことが原因であった。キリスト信仰は人間の謀や知恵ではなく、ひたすら真実と真理に対する馬鹿正直なほどの忍耐による信仰をもって遂げられるのである。

    今キリスト教は、教理ではなく、愛の良心に帰らなければいけない。キリスト教は教理ではなく良心の宗教だ。キリスト者の良心とは何なのか、宗教的脈絡、哲学、社会科学、心理学で各々相異なる見解を持って解釈しているが、ここでは聖書的でキリスト教的な良心についてのみ言及することにする。(便宜上、良心、心、心霊を全て一つにして同一な意味として解釈する)

 1. キリスト教は二人の証人である油注ぎによる宗教だ。

    黙示録に出てくる二人の証人とは、聖霊のバプテスマで生まれ変わった心霊の中で、聖霊によって起こる証である。その証は、心霊なる良心の中で、神の法を心碑に書いて下さる証である。二人の証人の作用は油注ぎの作用で、それは義、罪、審判について全てのことを教え、思い起こさせるもので、これを油注ぎ、または聖霊の導きと言う。聖霊の確かな証と導きは、全て我々の心霊である良心の中で起こる。それで良心の宗教なのである。

    良心は主のともしびである (箴言 20:27)。ともしびとは主の命令であり (箴言 6:23)、それは、良心の中でその主の声 (レマ) を聞けるようになることだ。従って良心は神の宝座から出る神の声であり、また御言葉である (ヨハネ 14:24)。良心の呵責は、つまり、神のかたちである愛へ復帰しなさいと言う復帰命令だ。しかし人間はアダムの堕落以後肉に転落した。このように転落した人間の良心は、みなまちまちに自分たちの要求と必要に応じて、時代に従い、各国の法と制度に従い、または宗教、哲学、教理、教育・・・等に従って、知識によってそれぞれ習得され、神のかたちの名残の上に上塗りされた。創造時の本来の神のかたちである良心は、谷間の干からびた骨のように、肉の欲によって死んだ状態になっている (エゼキエル 37:1-10)。干からびた骨は神の息 (聖霊) を通してのみ再び生き返ることができ、神の義に至ることができるため、如何なる良心も、聖霊によって生まれ変わる新生を経なければだめなのである。この時はじめて、死んでいた良心は再び聖霊によって蘇生される。これを復活と言うのだ。即ち、死んだ生命が再び霊的に復活し、堕落前のアダムへと回復されるのである。これを洗礼 (バプテスマ)と言う。

    洗礼 (バプテスマ)とは、正しい良心の神への誓いである (Ⅰペテロ 3:21)。キリストにつぎ合わされることを意味し、新しいいのち (アダム創造時のいのち) の中に歩むようにすることがその目的である (ローマ 6:3-4)。バプテスマが象徴する真の意味と目的は、悔い改めだ。悔い改めはまた死ぬことである。なぜなら悔い改めとは、霊を生かすため肉の属性を追い出し葬ることである為、結局バプテスマは死を意味するのである。水の中に浸るというのは、古いものは死んで、再び聖霊によって新しいいのちへと復活することだ。古い属性、即ち、死の権勢である肉の属性から脱し、新しいいのちとしての復活を象徴する意味が込められている。新しいいのちとは他でもない、神のかたちである愛に生まれることを言う。(ここではバプテスマと良心の相互関係だけを言及するとする)

● 水のバプテスマ

    水のバプテスマは、人間の意思と努力によって成せる。

    水のバプテスマは、バプテスマのヨハネを象徴する。ヨハネの父ザカリヤが神殿で受けた、ヨハネの出生についての預言を通し、その意味が何であるか具体的に知ることができる。バプテスマのヨハネがエリヤの霊と力によって、主の前に先立って主の民を用意する使命であったように、水のバプテスマは、霊的信仰である聖霊を受ける前に経なければならない心霊の準備過程である。

“この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。”  (マタイ 3:3)

    主の道を備えると言うのは、神を心霊に迎えるにあたっての準備段階、つまり聖霊を受けるにおいて妨げとなる要素を除去することである。アダム堕落前の神のかたちへと帰るための橋頭堡の構築であり、それは悔い改めによって成される。それで彼は主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよと言う使命を受け、ヨルダン川でバプテスマを施したのだ。そのバプテスマの実質的な象徴は悔い改めである。悔い改めは、我々の行ないを聖書の律法的な御言葉に照らし合わせて悔い改めることで、肉的要素を除去し、神のかたちを作っていくことである。モーセからバプテスマのヨハネまでの全律法の数多くの要求は、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさいと言う、ただ一つで完成される。

    従って悔い改めの基準は、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい (マタイ7:12) である。これは律法の完成である。この基準が常に我々の良心の正確な物差しの目盛りとして作用し、これに準じられなかったり放置される時、激しく呵責を感じるのである。その激しい呵責が直ちに悔い改めへとつながっていく。この良心の水準を、水のバプテスマと言う。これは、この世に属する道徳性や倫理性を超え、更に異なる世界、即ち、神の世界 (神の国、天国) の門の前まで来ている水準で、霊的信仰入門のための過程である。

    たとえば、朝の出勤時間にバスに乗っている時、前に老人が立っていた。良心は律法をもって席を譲りなさいと叫ぶが、その声を黙殺し、そのまま席を譲らず見ないふりをして席に座り続けていた。それが一日中気にかかって良心に呵責を受ける。こうしたことは誰もが何回かは経験したことだろう。キリスト者たちは、事の誤りを、自らの良心の呵責を通して判断が成されていく。その判断する審判機関が、良心である。

    律法は、文字で教わった通り、良心の内で預言者の声を叫ぶ。その預言者は、心という心霊の荒野で常に同一の物差しをもって叫んでいる。それは ‘あなたがしてもらいたいことは、あなたも人にそうしてあげなければいけないのではないか、それじゃいけない’ と言い、電光石火のように律法を伝えて影のように去って行く。この声を聞くや否や心の片方で、全ての肉の欲という国々が騒ぎ立つ。民たちは虚言をつぶやこうと計画していたのに、良心の声である預言者の声に妨害されたため、この世の死の権勢を握る君王が前に進み、そこに役人たちまで進み出て集まり、その良心で語られる主の御言葉に対し ‘私は死んでもそんなことはできない、世の中のどいつがそんなふうに生きる奴がいるか、おまえがやれば…私は自分の思い通りにやるから’ と言って、こうして愛の要求に敵対する (使徒 4:25-26節 比喩参照)。こうして死の権勢である肉の欲によって、愛しなさいと言う戒めである主の御言葉を、何の分別もなく、公議の裁判や証人の出席もなく一方的に、うるさい騒がずに出て行けと、胸倉をつかんで門の外に投げ出してしまうのである。

    このように律法信仰は、まるで、いくつかの英単語しか知らない子どものようだ。その実力では英語の原文書籍を全て解釈し内容を把握することはできないように、霊的に分別する分別力がない。それで使徒パウロはコリント教会に、私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えなかったと言ったのである。その理由を、あなたがたは肉に属しているため、キリストにある幼子は乳のほかに堅い食物は無理だったからだと言った。つまり肉に属しているため、御霊のことは無理だと言ったのだ  (Ⅰコリント 3:1-2)

    神のかたちを作ると言うのは、つまり、アダム創造時の神のかたちそのままに成らなければならない。だが律法の水のバプテスマを通してでは、堕落前のアダムの姿への完全な復元は不可能だ。水のバプテスマは単に、画家が絵を描くにおいて構図をつかむ程度の水準までである。再び正確で完全な神のかたちへの回復をするには、聖霊のバプテスマを通さなければできない。

● 聖霊のバプテスマ

    聖霊のバプテスマは、聖霊の力である愛の強い力によって、肉的要素を踏みつけ、追い出し、愛の真の基準によって、心からの悔い改めが新たに成されることである。悔い改めの基準は、第一に、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。第二に、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ (ルカ 10:27) の二つの戒めと、コリント第一13章の愛の基準に照らし合わせて悔い改めるのである。初心者の時には誰でも信仰によって呼び求めれば聖霊を受ける。だが信仰の年数が長くなるほど、悔い改めをいくらしても聖霊充満が起こらない。それは、飲料水をただで試飲したなら、さあ、あとは買って飲んで下さいと言う意図と同じで、聖霊も買わなければならない。即ち、聖霊を受ける為には代価を支払いなさいと言うことだ。その代価が、愛で一致した良心である。そうした良心になるよう死ぬまで努力しなさいと言うのが神の要求事項だ。つまり、あなたはわたしを愛するのか、愛するなら律法の戒めである、第一、心と思いと力と知性を尽くして神を愛せよ、第二、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、それと、コリント第一13章の愛と一致するよう努力しなさいと言うのだ。

    即ち、コリント第一13章の、寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、と言う物差しをもって、一日に起こった自分の思いや行動を、一つ一つ測ってみて悔い改めるのだ。この時、真心から胸が張り裂ける悔い改めが成されると、聖霊は愛の完全な真の姿で、電光石火のように我々の良心を照らし、罪人であることを悟らせる。この時悔い改めを通して、再び良心と心霊は神のかたちとしての完全さを成して行き、火のバプテスマも共に訪れる。聖霊の火のバプテスマは、人間の心霊に残っている肉的要素、即ち、神に敵対する悪霊的要素を消滅させることを言う。つまり肉の欲や要素が、愛の強い力によって圧倒されるのだ。これはイエス様が語られた王権、即ち王の権力によって、愛が、我々の肉に属する悪霊的な要素を圧倒することで、肉の欲をすべて焼き尽くしてしまうのだ。その瞬間 ‘私は罪人です。私から離れて下さい’ と言う痛悔自服  (罪を自ら言い表し真心から悔い改めること) が噴き出す。これが火のバプテスマである。

    聖霊が聖徒の心霊に臨むと、完全な愛の物差しで、我々の心霊の隅々まで闇が光によって照らされ、罪が罪として一瞬のうちに全て露わにされる。それまで罪が罪だとわかっていても、或いは知らずとも、傍観と罪に対する無知によって闇の中にいたが、愛が良心を隅々まで照らすことで、「暗闇の中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に光が上った」 (マタイ 4:16)と言う御言葉が成就するのである。

    この預言は、イエス・キリストの公生涯の使役と同時に記された預言であるが、愛の光が我々の心 (心霊、霊魂、良心) の全てを照らす時、張り裂けて出てくるのが、顔を覆い、ただひと言 ‘おお!主よ、私は罪人です。私から離れてください’ と言う痛悔自服が噴き出すのである。具体的な悔い改めは、少なくとも3ヶ月から3年の間、罪を言い表していく。それまでは堂々と自慢し、私はこの世の法律がなくても生きられる良心が正しい人間であり、倫理道徳的に間違いがなく、責任感が強く、自分で自分を考えても感心し、善良で、教養があり、誠実で、正義感があると言ったことが、聖霊の命の光である愛が私の心霊を照らす時、ペテロの告白のように、主よ!私から離れてくださいと言うのである。これは創造時の神のかたちである真と、今の自分の姿が比較される為である。

    それまでは聖書の御言葉に照らし、単なる推測か、或いはこの世の物差しである倫理や道徳性の物差しだけで自身を測定して、私が善なる人間なのか、悪なる人間なのか比較するだけであったのが、真の人間本来の光である、アダム創造の命、即ち愛が我々の心霊を強く照らす時、その時はじめて誰もが自分は罪人であり、どうしようもないほど目茶苦茶であったことを悟る。これが聖霊のバプテスマである。

    キリスト信仰の、驕慢、自慢、判断定罪はすべて、聖霊のバプテスマを受けていない真の証拠である。それは常に律法の物差しだけを基準にして自身を照らした為である。それはまるで、田舎に住むある美貌の娘が、その村では最高の美人だと言っても、国際舞台に出たら恥ずかしさを感じるように、我々の良心は、完全な愛の光を通してのみ今の良心が比較でき、完全な良心の求めが何であるのか、その時はじめて悟るようになる。従って聖霊のバプテスマを受けるまではキリスト者とは言えない。

    聖霊のバプテスマを受ければ痛悔自服と共に、自分の中に自分だけがわかる主観的な確実な証と確証があり、自分が変わったようだと感じるようになる。第一、イエス・キリストに対するとても確かな信仰が生じる。つまり聖書が全て神の御言葉であることをはっきりと信じるようになる。それで、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭いと言った使徒パウロの御言葉が、私の心霊にしっかりと感じるのである (へブル 4:12)。それまでは知識、頭だけで理解していたそんな信仰であった。

    しかし聖霊のバプテスマを受ければ、聖書を見ても、説教を聞いても、すべて信じるようになり、大きな確信が私の心で起こる。イエス・キリストは私の完全なる主であり、私の力であり、岩であり、とりで、いのち、永遠の命であり救いである。私の完全なる救い主であられる。自ずと湧き上がる信仰の絶対的確信を持つようになる。あれほど信じられなかったおとめマリアからのイエス・キリストの誕生が本当だったんだ。五つのパンと二匹の魚の奇蹟もこうして起こりうるんだ。ああ!ほんとにこういう世界だったのか。聖書の御言葉一つ一つが本当に神が書かれた御言葉だったんだと言って、感嘆、感激し、泣き、笑い、ぴくぴくと息づき役事する確実な証を、私の心霊の中に持つようになる。

    また私の中に、いつからこんな愛や人に対する配慮や関心が多かったのか、自分自身が感嘆し驚くほどである。私の心はすっかり愛で包まれており、心の奥から憐れみの心として現われる。そして犠牲の覚悟ができており、それが本当に嬉しい楽しみだ。人のために奉仕して生きることが、この世で一番幸せで嬉しく楽しみであることをその時感じる。その時はじめて、さ迷っていた人間実在の完全な意味を悟るようになる。これが、私が私らしく、私がいるべきところであり、私がすべきことであり、環境とは全く関係なく、このようにこの姿で永遠に生きるべきこと、そして、とても幸せだと言うことだ。誰でも聖霊を受ければこのような愛の強い力が私を支配し、それによって確実な神の証が我々の中に築かれる。この証を、黙示録に登場する二人の証人と言うのである。

 ● 二人の証人とは?

    証人は、ギリシャ語)マルティスで、証人、見本と言う意味である。イエス・キリストは、聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります (使 1:8) と言われた。キリスト者は誰もがイエス・キリストを証しする証人たちである。福音を証しする為には、聖霊の権能と力が臨まなければキリストの証人としての使命は遂げられない。

    このように、黙示録の二人の証人とは、キリストの証人である。キリスト者となるため聖霊によって生まれ変わる過程で、神が我々の心霊に植える確実な証があるが、その証は、聖霊、水、血の証である。この三つが一つとなり、同時に起こるのである。

“あかしするものが三つあります。聖霊と水と血です。この三つが一つとなるのです”  (Ⅰヨハネ 5:7-8)

 水の証とは、聖霊によって義、罪、さばきについての全てのことを教え、思い起こさせ、各々の心に神の法 (御言葉) を、彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけることである。これを油そそぎ (Ⅰヨハネ 2:27)、または聖霊の導きと言う。

 血の証とは、イエスの血はいのちである (ヨハネ 6:53)  (またいのちは別の言葉で言えば聖霊だ)。いのちを得ると言うのは、堕落前のアダムのいのちへの回復、つまり神のかたちそのままの姿に回復することを言う。即ち、愛を我々の心霊に完全に回復し遂げると言う意味である。

 聖霊の証とは、大体は嬉しさ、平安、喜びとして現われる。水の証、血の証、聖霊の証がひとつとなって我々の心霊に ‘キリストは救い主だ、キリストは神だ’ と、とても確実なる証をする。こうして心霊にひとたび伝えられた信仰の証を信じることである (ユダ 3)。こうした聖霊の証を、黙示録に出てくる二人の証人と言うのである。

 二人の証人の証を油注ぎと言う。聖徒はこのように油注ぎによって、各々が神との交わりの中で成り立ち、その群れが集まった所が教会である。教会は、油注ぎを通して語られる神の御心に仕え行なう所であるゆえ、真理の柱と言うのだ  (Ⅰテモ テ3:15)。油注ぎを通して教え導かれた神の法をそのまま信じることを真の信仰と言い、この信仰を信じる時のみ真の救い、いのち、永遠のいのちに到達する。このようにキリスト教は、油注ぎで始まり終わる宗教であり、こうした聖徒たちを真のキリスト者と言うのだ。従ってキリスト教の真の福音の窮極は、‘「草はしおれ、花は散る。しかし主の言葉は、とこしえに変わることはない」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音の言葉がこれです (Ⅰペテロ 1:24-25)’  である。21世紀からの福音は、このように、聖霊の教訓と教えによるものだけを証しすることが真の福音であり、聖書の約束と預言の最後を終結させることである。(二人の証人についての詳しい敷衍説明は、次のメッセージ‘二人の証人’編にて言及する)

    使徒パウロがダマスコで変えられたように、聖霊のバプテスマを通して、今からキリスト教は本軌道に進入するのである。本軌道とは、本格的にアダム堕落前の神のかたちに至るまでである。それは肉の全ての要素を完全に征服し、コリント第一13章の愛で充満な心霊に至る、聖霊充満である。聖霊充満の中には、信仰、希望、愛、聖霊の導き…等、数多くの聖霊の複合作用が現われる。これを力 (能力) と言う。聖霊充満な心霊を聖書では、天国、神の国、新しい天と新しい地、インマヌエルとなった心霊とも言う。

 ● 天国とは? 

(神学の天国に対する誤解)

    全てのキリスト者と神学者たちに聞こう。アダムが暮らしたエデンの園は、実在した所だったのか、それとも死後の世界に属した場所だったのか。アダムも実在人物なのか、それとも死後の世界、もしくは霊的人物だったのか?アダムは実在人物であったから、アダムがエデンの園で実在していたのと同様、聖徒もやはり生きて生存する間、エデンの園へ、更に堕落前のアダムのような命の復活を得よと言うのだ。昔、善悪の実の事件によって堕落した人間性を回復し、堕落前のアダムのように新しいいのちを得て、エデンの園に再び回復されて帰ることを、救い、いのち、永遠のいのちと言うのである。従って救い、いのち、永遠のいのちは、聖徒が死んでから得るのではなく、生きて得るものである。聖徒が生きて心霊に築く所であるゆえ、生きている者の神だと言うのだ。つまりアダムが実在したように、聖徒が生きて実在し、神の国、つまりアダムのように、エデンの園で完全に神の統治を受ける生を享受せよと言うのである。

    神の国を表すギリシャ語、バシレイアは、地域的意味よりは統治権を意味する単語だ。それ故、神の御言葉によって治められ統治される個人の心霊や家庭、教会…等、どこもみな天国、神の国なのだ。では、自分の中に天国、神の国が築かれるには、神の御言葉によって完全に統治されなければならないが、それは聖霊によって油注がれた神の御言葉だけを、無条件信じる信仰がなければならない。その時はじめて、キリスト者たちが創造時のアダムのように、統治を受けられるよう回復されるのである。

    つまり、むごい現実の中でも、私の心霊では聖霊によって完全な愛に回復された状態、即ち、聖霊充満の状態を言う。この世界は時空を超え、生と死を超越した世界だ。その世界は聖霊の中で義、平安、喜びによって成り立っている(ローマ 14:17)。こうした心霊の状態を聖書は、堕落前アダムが住んでいたエデンの園の雛型として天国、神の国と記している( ‘新しい天と新しい地の再解釈’ 編 参照 )

    従って天国は、死んでからの天国ではなく、生きての天国なのである。それは二人の証人の証、即ち、聖霊の導きである良心に書かれた法に従うことである。これは人間の生の中で、霊によって生きている者だけが行なうことができる。現実の中で求め、探し、たたく者の心霊の中で役事されるため、聖書は、生きている者の神だと言われたのだ (ルカ 20:38)。従ってイエス様は、神の国はここにある、あそこにあると言うのではなく、あなたがたの中にあり (ルカ 17:21)、もうあなたがたのところに来ていると宣べられた  (マタイ 12:28)。神の国が我々の中にどのようの臨まれるかについては、使徒パウロの書簡で、義と平和と聖霊による喜びだと言明している (ローマ 14:17)

    このように、キリスト教は水と聖霊によって生まれ変わる過程で、我々の心霊に役事される確実な神の証、即ち二人の証人の証による良心の宗教である。その良心の宝座から語られる神の声  (聖霊の導き) を信仰の対象として仕える宗教なのである。

    信仰の対象は、つまり神の御心である。信仰がどんなに熱心だとしても、神の御心通り行なわないなら不法を行なうことであり、サウロ王のように神に捨てられるゆえ、キリスト者たちは必ず聖霊の導きなる神の御心を悟り、その御心通り行なわなければならない。そして必ずしや、聖霊による証を受ける時のみ、その証に基づいて信仰の対象が設定されるため、キリストの霊がなければキリスト者ではないのである。( ‘信仰の本質と対象’ 編 参照 )

( 2004. 2 )

   〔 関連メッセージ 〕