キリスト者の良心とは? [2]

2. 信仰と良心の相互関係

キリスト教の信仰生活とは信じることである。信じるとは他でもない、イエス・キリストを信じることだ。イエス・キリストを信じることは、その戒めを守ることをもって成され、そしてその戒めとは愛である。愛の要素の中で信仰とは、何であれ全てを信ずべきこと。信仰はただ全てを信じることである(コリント第一13:7)。従ってキリスト教は、全てを信じる信仰から始まらなければならない。ところが今のキリスト教は信仰生活に代えて、不信と疑心生活をしてきた。信仰生活ではなく疑心生活をしたと言う確かな証拠が、異端論と、自己主張し合う論争である。

しかし真の信仰とは言及したとおり、油注ぎを通して教え導いて下さった神の法を、そのまま信じることである。油注ぎとは、聖霊によって義、罪、さばきについて、思い起こさせ、教えることである。それは、心に神の法を刻んで下さることであり、その心は、心霊、良心から湧き上がってくる声である。それで心に植えつけられた御言葉を、素直に受け入れなさいと記されているのだ (ヤコブ1:21)。良心は神の声であり、また御言葉 (ヨハネ14:24)であると言った。では神の御言葉とはどういうものであり、今またどのようにして成されているのか。

神の御言葉とは?

まず福音とは、ギリシャ語)ユアンゲリオン:良き知らせ、幸いな知らせと言う意味であり、イエス・キリストの贖罪使役と契約を指している。福音の核心は神の国である。言及したとおり、神の国を表すギリシャ語バシレイアは、地域的意味ではなく統治権を意味する言葉だ。そのため神の御言葉によって治められ統治される聖徒の心霊、家庭、教会・・・等どこもみな天国、神の国と言える。堕落前のアダムはこのように神の御言葉によって統治され、エデンの園で暮らした。

善悪の実の出来事以後、アダムは、神に依って知ることのできた善と悪を自分自身が分別し、その結果、神の統治に従順せず、全てをアダム自ら解決しようとした。そして終局はエデンから追放されてしまったのである。神は、堕落前のアダムをもう一度回復させる遠大な計画を立てられた。その計画の核心は、再び堕落前のように回復させ、神の統治を受けるエデンの園の生活が目的であられた。

神の思いは、全ての人類が堕落前のアダムのように、神の統治を受けて生きる天国、即ち、神の国に全関心を持っておられる。神政国家、つまり天国、神の国の福音の中では、神の御言葉によって全ての万物が創造され、消滅もする。完成、失敗、幸福、不幸にもなり、成就される。このように全人類の興亡盛衰は、神の御言葉によってのみ生き、それだけが永遠である。それで早く神の懐に再び帰って来なさいと言うのに、逆に人間は、神の計画とはかけ離れた横道へと逸れた。それが祈福信仰である。

  <福音の総論>

旧約から、神についての福音の核心は、イザヤ40:6-8節までの“神のことばは永遠に立つ”と言うことだ。それは、旧約から使徒たちにまで至った。使徒たちもやはり主の御言葉だけが永遠であると、ペテロは言明した。そして今日の教会と聖徒もやはり、永遠に伝える福音は、“「人はみな草のようで、その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし主の言葉は、とこしえに変わることはない」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。” (Ⅰペテロ1:24-25)と、使徒パウロは、ポント、ガラテヤ、ビテニア、カパドキヤ、アジア教会に書簡を通し伝えている。従ってキリストの福音の核心はまさに、“主の御言葉だけが永遠である”と圧縮できる。即ち、キリストの福音は“人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる” (マタイ4:4)とあるように、神の口から出る御言葉だけが永遠であり、ただこれだけが人類が生きる道である。これを神が統治する天国、神の国と言う。即ち、この世と今後到来する未来の世まで、神が統治する世界だけが永遠であることを伝播したのである。これが天国、神の国だ。

福音の核心である天国を、実際的にどのように築くのかと言うところで、キリストが登場する。キリストは、聖霊を通して築かれると宣べている。それでは、神の統治を受ける為には、まず神の御心と御言葉を理解しなければならない。それが神との交わりだ。こうした次元で、マタイの福音書7章に記されているように、神の御心通り行なわなければ神とは関係がないゆえ、滅び捨てられるのだ。

<福音の各論>

神との交わりのためには、神と和解しなければならない…など、アダムに回復するためには諸々の順序と手順が必要である。こうした手順等の具体的なことが各論に該当するキリストの福音だ。神の御言葉である、神の御心や命令、教え・・・等を理解するために、聖霊が我々を助けて下さるのである。聖霊は我々の心霊に神の御言葉を伝達する。それで聖書は、“話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです” (マタイ10:20)“真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです” (ヨハネ16:13)と記している。このように聖霊は、神の御言葉を我々に代言して伝達する伝達者である。

福音の総論の完成は、こうしてキリストを通じ、聖霊によって我々の心霊に神の法を記すことをもって語られる。このように、神の御言葉は生きていて、常に存在する御言葉として、義、罪、さばきを思い起させ、教え、我々の心霊に記し、我々を真理の中に導いて下さると言うのだ。こうして導かれた御言葉だけで生きる人をキリスト者と言う。故に、イエス様は、“人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる”と言われた。

現キリスト教は聖書だけを神の御言葉だと言う。だが、愛は聖書を完成するのである。神の御言葉とは、もちろん新旧約聖書の御言葉も真理であり御言葉であるが、その御言葉はまさに神であられる(ヨハネ1:1)。そして神は愛である(Ⅰヨハネ4:16)。聖書のすべての御言葉は、このように愛によって完成されるため、完全なる愛の行ないは(Ⅰコリント13章)もはや聖書を完成しているのである。愛が完成されることで、神を、顔と顔を合わせるように完全に知ることになる(Ⅰコリント13:12)。聖書を完成させる完全な愛の行ないを成すには、聖霊の役事と力が絶対的に必要である。従って聖書の主人公はキリストであり、キリストの霊である聖霊についての証しである(ヨハネ5:39)。その聖霊によって、堕落前のアダムから、再び、新しい命である神のかたちへと回復することのできる指針書であるため、聖書は、愛 (神のかたち)の目的地に行く為の案内書なのである。

つまり、新しく買ってきたエアコンがあるとする。エアコンを使用するには、エアコンを作動させる案内書となる説明書が必要だ。このように、案内書の役割をするのが聖書だ。この案内書の中に実際の涼しい風が作動するのではなく、涼しい風は本体であるエアコンから出てくるのだ。即ち、聖霊の中で全ての信仰が成し遂げられるのである。案内書を熟知すれば、その後には案内書は必要ない。この案内書を熟知したと言うのは、つまり愛を完成したと言うことだ。では、その案内書が全く必要ないのだろうか?そうではない。それは作動の仕方を知らない全ての人のために常に必要だ。これが聖書の位置であり役割である (‘新しい戒め’編 参照)。それで聖書は全て、キリストによる聖霊を通じてのみ、救い、いのち、永遠の命を得る方法の案内書である。ここで命を得ると言うのは、堕落したアダムから再び回復して、アダムの命を得ることである。その御言葉を得るというのは、永遠のいのちを得ることである。神の御言葉だけがいつまでも永遠であるゆえ、イエス・キリストを知ることを、永遠の命を得ると言うのである(ヨハネ17:3)。キリストは啓示を通して知ることができる(ルカ10:22)。啓示の伝達者は聖霊であるゆえ、聖霊を通して知ることができる(Ⅰコリント2:11)。また、聖霊の賜物を通して知ることができるため、永遠のいのちと言うのである(ローマ6:23)。

神の御言葉はこのように、聖霊によって証しされたもの (二人の証人)、即ち、聖霊が義について、罪について、さばきについて、教え思い起こさせる、こうして証しされた教えを油注ぎ、または二人の証人と言う。この証を神の御言葉と言い、この方法で得るこの御言葉だけが永遠である。そしてアダムへと完全に回復され、完全な神のかたちを成すことによって、神と共に生き、共に楽しむのである。

信仰と良心は一致しなければならない

聖霊の教えは神の御言葉であるゆえ、キリスト教の良心は、こうした神の御言葉を信じる信仰で形成されなければならない。即ち、聖霊を通して私たちの心の心霊、つまり良心に語られるその御言葉を信じる信仰によって、良心と信仰は、この時完全に一つとなっていなければならない。

つまり、文字的信仰は、新旧約の御言葉を証として信じる信仰であるから、良心の全ての基準を聖書の御言葉を基準にして立てる。だが霊的信仰は、聖書の完全な基礎の上に、更に聖霊だけに従う信仰を言う。即ち、イエス・キリストを信じると言うのは、聖霊の導きに従って導かれた全ての教え、命令、御言葉…等を信じることだ。それは、旧約から約束された預言である、「その日の後には、わたしの律法(御言葉)を彼らの思いの中に入れ、彼らの心(良心)に書き付ける」という預言の通り、聖霊によって思い起こさせ教える通りに信じることを言う。この時、良心と信仰は一致しなければならない。律法信仰がするように、自分の口に合う聖書の御言葉の節だけをただ何でも信じるのではなく、とても科学的で確実で実証的な証があるのだが、その証しされたものを信じなさいと言うことだ。これが、キリスト教が信じるべき信仰の対象である。その証は言及したとおり、二人の証人の証である。聖霊、水、血の証であり、この三つは一つとなり同時に起こるのである。(‘二人の証人’参照)

このように、二人の証人の証である聖霊の導き、即ち心霊に記され導かれた神の御言葉だけを、ひたすら良心の基準にする時、良心は信仰と完全に一致するのである。これが使徒時代の使徒たちの信仰であった。使徒たちの良心は、ただ聖霊が教えたことだけを信じる信仰による良心であった。

使徒たちはひたすら聖霊の教えたことに従い(Ⅰコリント2:4,コロサイ1:29)、それだけを信じ、その信じる信仰に泣き、笑い、死ぬも生きるもした。その聖霊によって導かれた御言葉との一致のため、心と思いと知性と命を捧げて守り行なうことで信仰を守り抜いた。この中ではすでに信仰と良心は一致している。これが使徒たちの信仰精神であり、信仰であり、キリスト信仰の本質である。使徒たちの信仰の見本は、聖霊の導かれた教えだけを信じる信仰と、良心を、ひとまとめにした信仰だと定義できよう。

信仰と良心が一致しなければならないのは、それは建物の基礎工事と同様で、基礎のないビルディングは直ぐ崩壊してしまうように、大胆な信仰を得るには常に良心の示しと示唆を受けなければならない。良心の示唆を受けない信仰の単独行動は、サタンの挑みに持ち堪えられず崩壊してしまう。このように信仰一つのようであるが、その下には大きな良心の土台があってはじめて信仰が現われるのである。良心の助けのない信仰は直ちに生命力を失ってしまう。

信仰は良心と一致しなければならない。その良心はみなコリント第一13章の愛に一致しなければ、聖霊を維持、管理できない。従って愛と一致した良心の中でのみ本当の信仰が成長するのである。愛の土台の保護の中に管理されない信仰は、いくらもしないうちに腐敗してしまうため、信仰を守るには、愛の戒めを守らなければ管理、維持できない。愛ではなく腐敗した心霊の中での信仰は、三日坊主でその運命は尽きる。どんなに自分が信じてみようと心に決め決意しても、自分の意思とは関係なく、その信仰はいつの間にか霧のように消えてしまうため、到底信仰が形成されないのである。

たとえば、農産物を収穫して長く保管するには、その農産物に合う湿度、温度、環境…等を作り出す保管倉庫が必要なように、信仰も愛と希望の保管倉庫に保存されなければならない。また愛のためにも、やはり信仰と希望が伴わなければならない。従って信仰、希望、愛は互いに分離することのできないもので、御父、御子、御霊が三位一体の神であるように、信仰、希望、愛は常に共にある三徳一体である。完全な愛とは、信仰と希望が共に三徳一体となっている時を言う。信仰、希望、愛が別々と言うのはない。それで聖書は完全な信仰のために愛を完成しなさいと宣布しているのだ。一般信徒と使徒たちの異なる点がここにあった。しかし、現代キリスト教は信仰と良心を別々に分けて考えている。ここに大きな失策がある。これでは霊的信仰はできない。

たとえば、気立ての優しい妻の小言は、無精な夫にとって、一日中注がれる聞きたくない小言であっても、その妻の言葉は拒絶できない。このように、良心の呵責の声は、信仰を守るよう最後まで要求する。しかし、良心の助けを受けない現代教会の聖徒たちは、信仰と生活が別々でも良心にさほど呵責を感じない。知識による信仰は常に、自分がやろうと、やらなかろうと、それは選択事項だと考えるが、これほど危険千万な考えはない。これは、岩壁登攀において放置や怠惰が死と直結するように、信じる事の放棄は、信仰の死と連結しているからである。

信仰がなぜ‘義’となるのか?

この世の‘義’の概念は、正しい行為と言う意味であるが、キリスト者において‘義’とは、まさしく神を信じる‘信仰’である。このように、キリスト教の中での‘義’は、この世の概念とは全く違う。(神学の称義は言及しない) この世の‘義’の基準となる道徳や倫理は、人間が自然環境の中で集団を成し生活する時、その集団の共存の為に秩序や規範を定め、それを守ることから始まる。従って、この世的次元での‘義’は、人間同士が共存するにおいての秩序となる真の正しい行動に範囲を定められるが、キリスト教の‘義’とは、人間関係を超え、神と人間と万物にまで関係して影響を与え、共に寄り集まり、存在するだけでも互いが互いを助け、互いになくてはならない関係。その、神、人間、万物…等の存在の、共通した複合的秩序と規範。それを‘義’と言うのである。その義は、神の本質である愛であるため、愛はすでにこの世の義を全て包容している。愛は天地の初めの創造秩序であり、万物と順応し、和合し、応答することである。そして神、人間、万物が、損傷なく全て共に補完することのできる万物の秩序としての行為である。これをまた真理と言う。万物の秩序の原理であるその真理は、人間の知識をもってその万物の真を全て知るにはあまりにも膨大で、人間の理性では決して理解することも想像することもできない。その真理は、聖霊によってのみ神の全知性を明らかにし知ることができる(Ⅰコリント2:12)。従って、神が語られる全ての御言葉を信じることから始まるため、信仰を‘義’と言うのである。

たとえば、大学生がパソコンであらゆる知識を求めるのは、コンピューターの中には多様な知識が提供されているからだ。非常に膨大な知識を全て学生の頭に入力することは不可能だ。その学生はその時々の必要に応じて、コンピューターに提供されたその知識を信じることで知識が形成されていく。このように、キリスト者の‘義’は、その時々聖霊の導かれたことを信じることで義となるのである。

つまり、キリスト教の‘義’とは神の御心である。神はご自身の愛する者たちに、ご自身の御心を聖霊の導きである啓示を通して直接教えて下さっているため、聖霊の導きは神の御心であり、真理である(ヨハネ16:13)。その聖霊の導きの中には、全ての真理の要素が複合的に完成されている。それ故、ただ聖霊の導きを心で信じ守った時、完璧で完全な行為の完成に到達できるため、信仰が‘義’となるのである。一方、この世的な義は、神を排除し、人間同士が人間のために、完全な正しい行為だと思うもので構成されているが、その行為は真理に準ずれば不完全である。人間同士だけの法と慣習によるものであるため、単位が異なる。

たとえば、この世では100と言う数字を完成した時を義人だとするならば、キリスト教の信仰の中ではすでに、千、万、10万単位以上を成し、凌駕している。その信仰はすでに、この世の求める愛の基準を全て聖霊を通して成されているため、信仰を‘義’と言うのである。

今、キリスト教は、義人は信仰によって生きると言う、その御言葉一つを持ち、これまでイエスを信じ救われることをキリスト教信仰の窮極としてきたが、そこから脱皮し、もう少し成熟した信仰へと入って行くべきであろう。本当の信仰とは、良心との一致の中でのみ可能である。それは良心の中で語られる神の声、即ち聖霊の導かれた御言葉を信じて行なう時、それこそが本当の信仰であり、義となるのである。

( 2004. 2 )

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