キリスト教の福音は、人類の滅亡を防ぐ唯一無二なる人類救いの道である。そしてキリスト者とは、この世で救いの道を案内する道しるべのような存在だ。そうしたキリスト教が、救いの道ではなく他の道へと案内する道しるべを手にしている。キリスト教は二千年の間、キリスト教の義務と責任を履行できずに今日まで至り、キリスト教の本質すらも失いさ迷っている。現代起こる多くの災害やテロ、飢餓、戦争…等、一連の出来事は果たして何を意味し、またその責任は誰が負わなければならないのか。こうした全ての出来事の責任は、キリスト教の完全なる責任であり、その原因は聖職者たちの霊的無知によるものである。

キリスト教は聖霊の導きを受けていく霊的宗教である。聖霊の導きとは、親が直接子どもに教え指導するように、神の霊でありイエス・キリストの霊であられる聖霊が、直接教会と聖徒たちに神の御心を思い起こさせ、教え、教訓されることを言う。(Ⅰコリント2:13、ヨハネ6:45)  聖霊に導かれたものが神の御言葉であり、聖霊に導かれた御言葉だけを信じ仕え歩む者を‘キリスト者’と言う。

キリスト者たちの使命は、聖霊に導かれた神の御言葉、即ち父の御心を信仰で受け成就していき、その成就を通し、この世に、父の御言葉は生きていることと、永遠であることを証しすることである。従って聖書は、父の御心通り行なわない者たちを不法だと断言している。

“「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者が入るのです。……不法をなす者ども。わたしから離れて行け。”(マタイ7:21-23)

今まで如何なる能力、奇蹟、異蹟、権能、預言を行ない、多くの教会復興と、集会を通して数多くの伝道をしたとしても、父の御心通りでなければ不法となるのだ。従って聖職者たちは神の御心を分別する霊的能力が卓越していなければならない。だが、霊的無知によって神の御心である聖霊の導きを受けられない結果、この世の知恵、知識、自身の経験、人間の学、等に依存するようになり、結局は神を無能な神に作り上げて栄光を遮ったのである。甚だしくは、この世は、神はいない、死んだとまで言うようになった。

聖職者たちが神との交わりである聖霊の導きを受けられない不法の結果は、現在地球の所々で、多くの自然災害やテロ、戦争・・・等として現われている。それは不法に対する神の審判である。神の審判によって滅亡した代表的事例の一つがソドムとゴモラだ。

ソドムとゴモラは一体どんな罪を犯したと言って、あんなに突然滅びたのだろうか。聖書には、高慢で食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。と記されている(エゼキエル16:49-50)。またソドムとゴモラの淫らな行為とは、肉的淫乱なる肉体の性的快楽の追求と共に、霊的淫乱である、神を排除して離れ、完全に人間の知恵と知識、つまりこの世だけを友として生きて来たために滅ぼされたのである。神はその滅亡の教訓を、古代から今日まで後孫たちに詳記させ警戒の見本とされたのである。では、現代はどうであろうか。

今日ほとんどの現代人たちの崇拝、信仰する宗教はお金と科学である。

神よりもお金と科学が現在と未来の確かな保証だと思い、全てお金を稼ぐことだけに結びつける技能教育に重点を置き、人間性教育を放棄した結果、良心も精神も破壊されたまま、ただ楽しもうと言う、肉の欲求だけが存在するエンジョイ文化時代に突入してもう長い。

  ● 人間の良心は幸福を感じる感覚器官だ。

人間の良心は幸福を感知する感覚器官である。良心の破壊は完全なる真の幸福の喪失と破壊をもたらす。従って、各個人の良心の失踪は幸福の失踪と同じだ。良心の最小限の垣根は倫理、道徳であり、倫理、道徳性の破壊は、人間内面の良心の完全なる破壊である。本当の幸福を感知する感覚機能が鈍くなった結果、瞬間的で刹那的な肉体の感覚だけに幸福を求めようとし、こうした肉体の無節制な欲求は、娯楽文化という楽しむ文化だけを生み出す。それでこの世は更に娯楽やスポーツ、セックス、酒、麻薬…等に陥る。これを終末と言うのである。

終末には、誰でもわかるようにはっきりした症状がこの世に現われる。

第一の症状は:①人々は自分を愛し ②金を愛し ③大言壮語し ④不遜⑤神をけがし ⑥両親に逆らい ⑦感謝せず ⑧汚れ ⑨情けを知らず ⑩和解せず ⑪そしり ⑫節制がなく ⑬粗暴 ⑭善を好まず ⑮裏切り ⑯向こう見ず ⑰慢心 ⑱神よりも快楽を愛し ⑲見えるところは敬虔であってもその実を否定する者になる(Ⅱテモテ3:1-5)。こうした不法がはびこるので多くの人たちの愛は冷たくなり(マタイ24:12)、荒らす憎むべき者が聖なる所に立ち、非正常的な風潮や社会現象が雨上がりの筍のように出てきて、義人たちが苦しむ時である(マタイ24:15)

第二の症状は:民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われる(ルカ24:12)。こうした症状が現われる時が、終末であることがわかるしるしである。人類はこのように終末が時代的に世代世代ごとにあった。終末とはこの世の終わりを言う。イエス様は、この世の終わりを収穫の時だと言われ、収穫の時は、毒麦である不法を行なう者を取り集めて、火の燃える炉に投げ込むと言われた。終末は即ち、不法を焼き尽くす時である(マタイ13:40-42)。従って終末は、災いを通して不法を焼き尽くすことである。人類の歴史は全て神の審判である災いの歴史として装われてきた。

1.災いはなぜ起こるのか?

災いは不法の罪の結果であり、神の鞭である。神の法である真理を守って行きなさいと言う警告である。

災いとは:ヘブル語)ネカ,マカ、マケパ。ギリシャ語)マスティック、文字通り‘鞭、鞭打ち’と言う意味だ。災いは、癖の悪い子供を直そうとする親の鞭と同じで、不法を行なう人類に、神の懐に帰って来なさいと言う神の愛の涙と、哀願のメッセージである。神の懐とは、神の創造秩序である愛であり、愛を法、真理、善と言う。万物の創造主、神は、人を神のかたちに創造された (創1:27)。神のかたちとは愛である (Ⅰヨハネ4:16)

愛は(寛容、親切、人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ)(Ⅰコリント13:4-7)真理であり善の完成である。従って人間創造の目的と秩序に符合して生きる生は、愛の中で考え行動し、どんなことがあっても愛を決して離れずに生きる生である。このように人間は創造秩序である愛に帰る時はじめて、全ての人間が熱望、追求する理想世界、完全なる幸福が与えられるのである。その時はじめて、神と交わり共に生きるのである。

一方、創造秩序から外れた無秩序を不義、不法、罪、悪と言う。悪は、のろい、死、不幸、艱難、病魔、災い、苦痛、絶望、挫折、戦争・・・等、愛の反対から起こる世界である。聖書ではこれを肉(不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興)(ガラテヤ5:19-21)と言う。人間は善悪の実の事件によって神のかたちである愛、つまり善から逸れて悪を選択した。その結果、神は善であられるゆえ悪とは共にすることができなかったのである。悪とは、神のかたちである愛から逸れて肉に変わったと言うことだ。愛は肉と同化することはできない。それで神は人間と共にできない理由をはっきりと宣布されたのだ。

 “わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉に過ぎないからだ”(創6:3)

善悪の実の事件によってエデンの園から追放された人間は、このように神との関係が断たれたまま、神なく自ら独自的に人間が生きる世の中を作り、文明を謳歌し発展させてきた。それで神とこの世は互いが怨讐の関係となった(ヤコブ4:4)。その結果人間たちに与えられる代価は、死の権勢に捕えられて心配、懸念、不幸、失敗、艱難、災難・・・の中で生きて行くのである。このように神の創造秩序なる愛から外れた人の子たちの肉的人生は、終わりのない艱難や災難を自ら呼び起こす原因となる。

 “生きている人間はなぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。”  (哀歌3:39)

 2. 災いの種類

愛から外れた全ての結果に対しては審判がついてくる。審判を逃れる道は創造秩序である愛の中で生きて行くことだ。言及した通り、肉的な生を悪と言う。悪はその罪過に従って確かな公義の審判がなされるが、これは人間の人生の中で苦痛、挫折、絶望、艱難、災難・・・等として罪の代価を支払う。

悪人に神の審判は憤怒、震怒として起こる。その怒りは人間の生に艱難、災難、戦争・・・等としてその罪の分だけ各々に求められる。これが審判だ。神の審判は個人的には霊、肉の審判として、国家的には戦争を通しても成されており、天災地変の地震や津波、洪水、火災、疫病・・・等、数知れない種類として人間たちに審判は成されている。

● 個人的な審判

個人の罪の値に従って適切に成される。その種類は全て語れないほど多様だ。現代人たちにとって、恐れや恐怖、心に満足感のない苦しみは霊的な鞭であり、肉体の各種疾病は肉的な鞭である。現代人は誰もが多かれ少なかれ恐れの中に陥っている。それはすでに刑罰を受けていると言うことだ。恐れは自身の罪の値に対する刑罰である(Ⅰヨハネ4:18)。このように霊では艱難や困苦がついてくる。

この問題が解決すると、少しすればまた他の問題が起こる。常に悩みと心配、懸念、恐れ、絶望、失敗、挫折、寂しさ、未来に対する不確実と恐怖、幸せであってもこの幸せが壊れはしないかと心配し、幸せを維持しようとする尽きない努力がたましいを疲れさせる。家庭に帰って来ても妻や子どもが、または夫や子どもが、自分の苦労と努力の代価ほど認めてくれず、常に見えないある幕のような線が引かれていて、この世に私一人置かれているようにさびしい。こうして家庭で傷つき、外でも傷つき・・・、こうした心配を与える環境が時に従って自分の周辺に起こる。

また、周りの友達、親族、兄弟、親、会社の同僚、隣の人にまでも自分の心を開くことができず、信じられず、対話が途切れる。対話をしても常に見せかけと形式であり、真実は誰とも通じない。そんな心で生きる世知辛さから出てくる苦しみが自分を取り巻き、垣をめぐらしている。困苦は、この世で一番愛する人とも断ち切れざるを得ない状況が起こる。直ちに私が信じる者から、または私が頼っていたことなどから断ち切れるか、恵沢を得られない。私が、物がなく生活でいつも困るかのように、不足なく成功しているにもかかわらず決して満たされることのない心。また隣人と信じ頼る全てのものからの断絶から来る虚無、うわさ、心寂しさ、孤独、さびしさ・・・などが生じる心が、困苦である。

自分は常に隣人、家族、友達や会社の同僚たちから尊敬され、認められ、愛されようとする欲求と希望が切実であるが、全ての万物は私を退け、極端な場合は自殺で生を締めくくってしまう。自殺、うつ病、精神疾患、恐怖症、睡眠障害・・・等、心の病気は全て霊的な病である。これは神の鞭であり、霊の困苦と艱難というものだ。全て罪と悪を犯した結果、神が制定された法、即ち真理から離脱したゆえ生じるのである。肉的には、肉体的苦痛である疾病・・・等として審判を受ける。

● 国家的な審判

聖書には戦いを主管される神、ねたみの神…等、愛とは対照的で似つかない神の属性が現われている。戦いは神に属している(Ⅰサムエル17:47)。戦争を通して起こる多くの悲惨さ、絶叫、凄絶さ、阿鼻叫喚、胸をえぐる苦痛・・・等、どうして愛の神がそんなことができるのかと、信仰者たちも一度は誰もが疑念を抱く。国家間の戦争は、その傷が癒えるまでは少なくとも一世代50~100年の期間が必要である。これより大きな悲劇はないだろう。これは国家的災いである。神の鞭によって国家全体が共に、同じ日同じ時に罪の値を支払うのである。

一国家の興亡盛衰は全てその国家の罪の値に従って左右する。神はイスラエル民族をサンプルとして立て、人の子たちにイエス・キリストを信じ救われるまで、罪悪によって報いがどのように成されるかを、二千年のイスラエルの歴史を通してはっきりと見せて下さっている。彼らは、頑なによってイエス・キリストを否認し十字架につけ、救いの道を拒否した結果、その罪の値として二千年を全世界に散らされ流浪彷徨し、最後にヒトラーによる600万人の大虐殺を通し、その血を流してはじめて罪の値をすべて支払うことができたのであった。そして奇跡的に再び国が回復されたが、彼らは真理を知らずにまた再び罪悪によって自分たちを破壊している。

今、世界で一番危険千万な国がイスラエルだ。彼らは、アラブの怨恨と殺気に満ちた怨声ののろいが、真っ黒に墨のように広がっている。その怨恨を解かずに一つでも残るなら、イスラエルの未来に決して平和、繁栄はあり得ない。聖書には、許しと寛容がないなら、許しと寛容は得られないと記されている。このように、全てのことは真理の通り成される。すなわち神は異邦人にとっても神である。キリスト者たちはこの点を知るべきであろう。自分たちだけの神だと言う独善から抜け出すべきだ。神は、キリスト者であれ、非キリスト者であれ、誰であれ公義によってその怨恨を解き解決して下さる方であられる(ミカ7:9)。

また今後インドネシアを注目して見よ。彼らはなぜあれほど自然災害・・・等の険しい様を見なければならないのか。それは東ティモールの怨恨と呪いが染み込んだからだ。インドネシアは彼らの怨恨と呪いがなくなるまで、東ティモールの霊的奴隷状態に置かれているだろう。

借りる者は貸す者のしもべとなる(箴言22:7)。しもべはその主権を剥奪されて、どんなに努力をし、力を注いでも、その借りを全部返すまで決して債権者の手から逃れることはできない。従って罪を犯さず、人の怨恨、怨声、呪いを受けてはならないと言うことだ。剣は剣によって滅びる。それだけでなく、人はその口にするあらゆる無駄なことばについてさばきを受けるのである(マタイ12:36)

このようにこの世は何であれ、植えた通りに刈り取る報いの法則がある。これは宇宙万物が運行される法則であると共に真理である。この法則を造られた方が創造主なる神である。全ての万物と人類は否が応でもこの法の影響下に入れられており、この法から放たれる者は誰もいない。

ところでキリスト教国家として多くの悪行を犯した強大国が、今まで滅びることなく健在した理由は何であるか。それは福音伝道にある。聖書は幾多の罪を覆う方法二つを記しているが、それが愛と(Ⅰペテロ4:8)、伝道である(ヤコブ5:20)。

“罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだ”  (ヤコブ5:20)

“愛は多くの罪をおおうからです”(Ⅰペテロ4:8)

強大国であるキリスト教国家は、これまで宣教師たちの福音伝播によってその国家の罪悪を塞いだのだ。大部分の先進強大国は、福音のために情熱を出して全世界福音化なる伝道の先頭に立った。人類を堕落前のアダムへと向きを変える、キリストの福音伝道ほど大きな祝福はない。

もし福音伝道でなかったら、すでにその国家たちは罪悪によって滅びても足りない国である。これまで滅びず先進国としての位置を維持していたのは、福音を伝えたその代価の祝福によって支えられて来たのである。しかし、もはや先進国が宣教師たちの福音伝道で得たその国家の赦しの効力は光を失い、罪の赦しの力は現われないであろう。貯蓄した祝福の量は全て消費された。今からは厳格、厳密に、神が制定された法によって公義の審判が成されるであろう。

● 自然を通した審判

天災地変として地震、津波、洪水、干ばつ、火山爆発、異常気候・・・等、自然を通した災害として現われる。神は自然万物を通して父の御心を知らせる (詩19:1-4、ローマ1:20)。従って自然の現象や天災地変・・・等は、人間が聞くことのできるたくさんの方法の中で、唯一なる神の声であり警告である。それで聖書は、この世には意味のない言葉など一つもない (Ⅰコリント14:10)と記しているのである。ところが現代人たちは、こうした災害に対し科学的な方法によって、自然現象ないしは人間の不注意による人災として考え、神の警告と御言葉を無用、無意味にしている。こうした科学的物差しだけで適用させるなら、聖書に出てくるモーセの紅海を分ける役事、火の柱、雲の柱も今日に至っては、それはもはや奇蹟ではなく、いつでも起こる自然現象に過ぎない。

だが天地を創造された神は生きておられる。神は、父の創造物なる全ての自然万物を通してしぜんと神の御心を現される。その方にはいつでも奇蹟、異蹟、能力、権能、権勢が同伴し、人間の生死災福を主管する人間の運命の絶対者であり決定者であられる。聖書では、律法を守る時は福を、律法を守らない時にはのろいと災い、つまり伝染病、盲目・・・干ばつ・・・等の災いを下すと語られた(申命記28章)。

このように聖書は、すでに神が人間たちに、御言葉を守らない時は、自然現象を通してのろいと災い・・・等を下すと約束された約束の本であり法(真理)である。聖書に記されたその約束は一点一画も加えることも引くこともなく、今日までもそのまま全て進行し履行されている。神だけが絶対的権勢者であることを今この瞬間にも伝えておられる。

今、地球の所々でよく起こる災害は、不法を行なう人間たちに向かう神の審判である。災いは、人間の知恵、知識、力、努力をもっては決して塞ぐことはできない。それを防いだ頃、また再び新しい災いが訪れ、再び解決する頃にまた別の災いによって苦痛を持ってこられるだろう。人類は罪が解決しない限り、こうした果てしない悪循環の中で生きて行くことだろう。では人類が災いを避ける方法は何であろうか。

3.災いとキリスト教の福音

● 災いは、キリスト教の福音を受け入れて愛に帰る時のみ避けることができる。

今、人類が災いと艱難を避けて生きる道は、ただイエス・キリストの福音を受け入れて、創造秩序なる愛に帰ることしかない。それだけが人類に今後切迫する多くの艱難、苦痛の災いを避ける唯一無二の道である。イエス・キリストだけに救いがあると言うキリスト教の福音は、ある意味では大変独善と傲慢のように聞こえる。しかしその理由は、万物を創造された創造主なる神が制定された法、即ち命令である為、人間は否が応でも選択の余地なくその法に従わなければならない。その法に従わないのは不義である。それは創造主に対する背きであり反乱である。

従って聖書は、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている(ローマ1:18)と記されている。このように神の怒りは、不義な者、つまり創造秩序である愛の反対側にいる全ての者に対して起こる。従って福音を聞いて創造秩序なる愛に帰らなければ、神の怒りである災いを受けるのである。

異邦人たちはあんまりだと言うか、また一点の恥ずかしさもないと言う。しかし彼らが義だと言う基準は、ほとんど彼らの宗教、または社会的規範である倫理、道徳性に立脚した基準だけに準じて義だと言うもので、神とは無関係である。また、あんまりだと言うことのできない理由も、誰でも一度くらいはキリストの福音に触れているからである。

キリストの福音は誰が伝道したとしても、神の避難所に避けなさいと言う救いのラッパの声であった。つまり誰であっても、状況がどうであれ、子どもであれ、異邦人でも、信じようと信じなかろうと、愛に入りなさいという神の救いのラッパの声が、伝道を通した福音と言うものだ。こうした福音伝道は二千年が過ぎた今までも世界の隅々までほとんど伝えられてきたが、異邦人たちはイエス・キリストの福音を受け入れない。それは人間の頑なさと我の強さと、光よりもやみを愛したからだ (ヨハネ3:19)と聖書は記している。

人間の心霊には誰にでも各自に照らす光がある。それは真の愛に対する恋しさである。まるで春の日の陽炎のように、何かに対する漠然とした恋しさに捕えられているが、実体が遥かではっきりしない。それが成長と共に全て異性間の愛へと帰着するが、それでも満たされず解決できない漠然とした恋しさを抱き、その正体もわからないまま胸にしまって死んでいく。その正体は神のかたちに創られた人間の真の本質、愛であり、恋しさは人間の血の中に内在する神への慕わしさである。

このように、神は誰であれ全ての人間の内面に愛の略図を描いて、探して来ることを願われた。それ故、誰も言い訳することはできない。これが全ての人に照らすまことの光であるが (ヨハネ1:9)、世はこの方を知らなかったと記されている。人類が救われる道は愛へと帰ることだけだ。神は、人類が全て神の懐なる愛へと帰って来るまで、ねたまれ、怒られ、災いは続くことだろう。

従ってキリスト教の伝える福音は、他でもない創造秩序なる愛へと帰ることである。だが人間自らの力では誰も創造時の完全な愛へと帰ることができない為、イエス・キリストが救い主として登場するのである。人間の力でも能力でもできないことを、愛へと帰ることを願い呼び求め、探す者誰にでも、イエス・キリストの霊である聖霊の力で全面的に助け支援して、愛に到達させて下さるのである。それでイエスを信じ救われなさいと言うのだ。イエス・キリストの他には救いはないのである。

イエスを信じ救われたキリスト者たちは、愛の完成に到達しなければならない。愛は15個の要素で成されている (Ⅰコリント13:4-7)。それが信仰、希望、愛によって完全に一致する時を愛の完成と言う。愛が完成されれば聖霊充満に直ちに連結される。聖霊充満な心霊、それはすでに天国、神の国、エデンの園が築かれたことだ。これを救われたと言うのである。キリスト者はこうした聖霊充満を常に維持しなければならない。もし15個の愛の要素のうち一つでも未完成であるか抜けていたなら聖霊充満に至ることはできない。それはつまり完全なる救いではない。

従って神の審判は、イエスを信じる息子娘たちでも異邦人たちでも、同じように峻厳に公義に成されるのである。審判の基準は差別なく、ただ完全な愛に到達したのか、しないのかである。愛に到達したなら当然肉体はこの世で息をして生きていながらも、良心なる心霊は、神の国である聖霊の中で義と喜びと平安の天国、即ち人間全てが追求する幸福の極致の中にいるのである。愛に到達できなければ肉の生である罪の中で、まるでトンボがクモの巣に引っかかってもがくように、罪の網に掛かってあえぎ、死の権勢なる艱難や苦痛の生を生きて行くのである。

死の権勢なる災いや艱難から抜け出す唯一無二の道は、ただ愛へと帰ることである。従って、イエスを信じ救われなさいと言う福音宣布は尋常なことばではなく、人類が必ず聞かなければならない命の声である。福音を伝える者たちは今、はっきりとした福音のラッパを吹かなければならない。それは、イエスの力なる聖霊の不思議な力を着て助けを受け、完全な愛に到達し、天国で生きなさいと言うことである。

● キリスト教の天国は人間が追求する幸福の極致を言う。

天国、即ち神の国なるエデンの園は、人間の幸福の極致であり、愛が完成した世界である。その世界は神が苦楽を共にし、神が統治される世界であって、あそこにある、ここにあると言うものではなく、あなたがたのただ中にあると言われた(ルカ17:21)。飲み食いする世界ではなく、聖霊の中で義と平安と喜びの世界が心霊で築かれる世界である(ローマ14:17)。人間はこの時、完全で完璧な幸福の極致に至るもので、それを神の国、天国、エデンの園、インマヌエル、新しい天と新しい地、新しいエルサレム・・・等と言う。

従って、天国は死後の世界で成される世界ではなく、現在私の人生の中で築かれるものだ。それは、心霊の中でイエス・キリストの霊である聖霊の力によって成される世界である。現在のむごい現実の中にあっても環境とは関係なく、天国は心霊の中で築かれるものである。キリスト教はもうこれ以上天国を人が死んだ後の死後の世界に転嫁せず、現在の人生に徹底して適用させ、生きておられる、生きた者の神であることを証しなさいと言うことだ。

もし天国が、死後の世界である死んでから行く所であるなら、聖書の中のエデンの園は仮想世界だと言うのか?それはエデンの園が実際に現実の中に存在しなかったと言うことと同じだ。エデンの園は実存した所だった。現在の生の中にエデンはあるのだ。これからの福音はこのように、死んでからの天国ではなく、生きて心霊の中で築かれる天国の実体である愛を伝えなければならない。ただ愛の中にいる時のみ、艱難や災いを避けることのできる唯一無二の道であることを証してあげなければならない。従って牧会者たちは、これ以上福音を歪曲してはならない。事実を見る霊的な目が開かれ、人類を、災いから抜け出せるよう声を張り上げてあげるべきだ。

● キリスト教福音の歪曲は聖職者たちの霊的無知から始まった。

キリスト教の福音が二千年間歪曲されて伝えられてきた原因は、事実を事実のまま見ることのできない聖職者たちの霊的無知にあった。

繰り返すと

① 瞬間ごとに下る御言葉(聖霊に導かれた霊感、御言葉・・・)等に、即刻的に従順できず、自分の意思、経験、知識に依存した聖職者たちの無知

② 自己の省察を怠ることで良心が鈍くなり、両神 (聖霊,悪霊) の役事をするしかなかった無知

③ 聖霊の導きなる、教えられた御言葉と啓示に、人間の学やこの世の知恵を加え、完全な導きを受けられない無知

④ 烏合の衆の如く、自分の使役が何であるかわからず、やたらに福音を伝えさえすれば最高だと錯覚した無知によって福音が歪曲され、今日のようなキリスト教を量産した。

キリスト教は聖霊の導きから始まって終わる信仰である。それは全て良心に従って神に仕えることである。もし良心が鈍くなれば両神役事(聖霊、悪霊)が起こり、完全なる聖霊の導きを受けて行くことはできない。従って自己省察を通した悔い改めが信仰の根幹を築くもので、悔い改めが不実な信仰は利己主義を量産する。利己主義とは、肉の総体的集合の完全なる核心骨格であり、神の反対側に立っていると言うはっきりした証拠である。

愛は全てのものと統一性を持っている。愛は和合と和睦と塞がりなく断絶のない交わりであり、互いの疎通と団結と一致である。だが利己主義は自分の欲のため和合や統一ができず分離する。従って利己主義は教派主義、教理主義、教権主義、権威主義、物量主義、祈福信仰・・・等、現代キリスト教の形態として現われる。彼らは聖霊を叫ぶが、聖霊は愛の中だけで符合して役事される。従って利己主義から始まった現代キリスト教は、聖霊の導きではなく、自分の意思、信仰経験、この世の知識、人間の学・・・等を引き込み延命してきたもので、これは全て肉的信仰の無益を生むだけである。

また聖霊の導きを通した天の知恵、知識、力によって築かれるべきキリスト教が、全て人間の手段、方法を代わりに使っている。それは神に対する完全なる背信、背教行為である。その理由は神との和睦ではなく、また再び神との断絶をもたらすからである。従って、どんなに人間の目に美しく賢く見えても、神の方法と御心でなければ、神とは全く関係のない信仰行為であり、不法となるのである(マタイ7:23)。更に、神を欺く聖霊への背き、聖霊冒涜、聖霊をそしる結果を招くのである。

それで聖書は、この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを拝んでも無駄なことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。(マタイ15:8-9)と記しているのだ。このように霊的無知はキリスト教の実質的な害悪である。それは二千年を欺いてきた実体であり、霊的しもべたちを盲目にする自分の中にいる怨讐である。霊的しもべでありながら霊的盲目になったと言うのは、ひたすら愛を追求しなかったと言うことだ。

参照

愛:寛容、親切、人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜ぶ、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐えしのぶ  (Ⅰコリント13-4-7)

肉:肉の行ないは明白であって次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです)(ガラテヤ5:19-21)

確かな神の戒めである、第一、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。第二、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、と言う愛の二つの戒めを守り、成さなかったと言うことである。その結果、神と全ての万物を事実の通り見ることのできる霊に対して盲目となったのだ。

霊的と言うのは、神について、見て、聞いて、感じ、知ることを言う。神は今も万物を運行され、父の計画と御心を、まずしもべたちを通して教え、もう一度万物を通して神の御心を確認させるのだ。このように、父のことに対して知ることを霊的と言う。霊的になるには神学の教理ではなく、しもべたちの心霊が愛の完成である聖霊に満たされなければならない。

従って聖職者は、理由を問わず無条件的にその心霊に愛が完成されてはじめて、霊的目が開かれて、神の御心と一致することができる。ところが愛を離れて他の方法や手段によって神に近づこうと試みた為、神と一致することができなかったのだ。その結果キリスト教は完全に他宗教化してしまった。

霊的目が開く唯一無二の方法は、愛に帰ることである。その方法は状況や環境、立場に対して理由を問わず、聖霊の助けによって完全な愛(コリント第一13章)を無条件成し遂げなければならない。ところがキリスト教牧会者たちは、この方法を捨て、人間的な他の方法を使ったことで霊的盲目となったのである。

霊的盲目は、神のしもべたちにとって最大の呪いである。イエス・キリストのさばきは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となることである。それ故、神のさばきはすでに成されていたのである(ヨハネ9:39)。盲目となるのは神の子どもたちとしもべたちにとって、神が下す呪いの中の呪いである。それは軍人から階級章を剥奪するように、全ての職分を剥奪するのと同じだ。従って聖職者たちは、徹底した悔い改めを通し完全な愛の中にいる時にのみ、霊的無知から抜け出すことができる。その時はじめて聖職者としての本然の任務を果たすことができるのである。

●  聖職者たちの任務

聖職者たちの任務は、

①常に新しい聖霊の導きを通して、信じる羊たちと、信仰のないこの世に対して、神の御心を証しする番人の役割を果たすことだ。この世は分別なく悶着を起こす子供たちのようなもので、彼らに罪悪に近づかないよう警告し、罪、悪が何であるかを教え、説得し、時を得ようと得なかろうと、聞こうと聞かなかろうと、誠実に教育していくことが番人の役割である。

②旧約の祭司長の任務のように、羊の群れとこの世の罪までも罪を詫びる、罪の赦しの役割を果たしてあげることだ。即ち、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:22-23)と言われたように、聖霊の力によって罪の赦しを通し、人間の汚れた醜い全ての罪を清掃してあげる、清掃人の役割を果たしてあげることだ。

ニネベがヨナの叫びにみな悔い改めて災いを逃れたように、聖職者たちは番人の役割をしなければいけない。名もなく光もなく、毎日毎日降り注ぐ人間の世の罪を、聖霊の力で、とりなしの祈りによる悔い改めをもって、その罪を代わりに焼却し処理することで、この世を浄化する、この世の徹底した供えの羊となることだ。だが今までは聖職者たちの霊的無知によってこうした役割をきちんと果たすことができなかった。その結果この世は罪悪にあふれ、災いを来たらした。その責任は全て聖職者たちにある。

従って、世界は今から艱難と災いを軽く考えてはならない。本当の悔い改めの運動がキリスト教から起こるべきであり、神の警告をまず始めに神のしもべたちが悟らなければいけない。これ以上この世に起こる災いを、自然現象、気象変化、地殻変動だからどうにもならないと無知蒙昧な考えをしてはならない。この世の災いは、ひたすら本当の悔い改めを通した神のしもべたちだけが塞ぐことができる。聖職者たちは自身たちの本分に帰り、人類の生きる道を模索してあげなければいけない。

● 神は、今日という現代を生きるすべての人類に、次のように語っておられる。

21世紀からは、過去二千年間の結果を締め括り、返済するべき時期、即ち終末である。返すものは返し、与えるものは与え、受けるものは受ける結実の時期である。その結実によって、神の御言葉である真理は確実に息づき、生きていて、公義をもって成されていることが証されなければならない。それを通し人間は、神の生きておられることと、恐れを知り、罪悪を止めることだろう。今後到来する災い、艱難を人類はどのように塞ぐだろうか?

今、各自、自分たちが信じた神たちに助けを求めなければならないだろう。自称メシアだと言う者たちは、傍観せずにこの世を救ってみよ。なぜじっと腕組みをして見ているだけなのか。全ての宗教は自分たちの神たちを呼び、救いを受けてみよ!人類は、今、こうした愚かさと頑なさから抜け出よ。救いはイエス・キリスト以外には絶対不可能であるからだ。誰でも悔い改めなければ、悲惨な負債の代価を支払った後になって、ただ主なる神おひとりだけが真の創造主であることを認め、真理から離れなくなるであろう。全ての人類は、植えたとおり刈り取る報いの法則によって、自分の行なったとおり、幸福と不幸の人生が決定される。そして悪を行なう者は必ず滅びることを知るようになり、その法を造られた方は、主なる神であられ、救い主はただイエス・キリストであることがわかるまで、全ての人生は、災いと苦痛、戦争、苦難…等として続くことだろう。

今の人類は、真理なる愛からあまりにも遠く離れ、罪が官営している。物質は豊かであっても、それに対する代価となる血が流される。それは、人類に様々の方法をもって、すぐに人生の中に現われる。つまり、苦痛、絶望、虚無、空虚、失敗、挫折、喪失感、苦しみや、心霊では恐怖、恐れ、不信。そして徹底した本能の生の中に捕えられ、幸せを奪われ、また、原因不明の疾病の猛威、戦争。奪うことによって奪われ、楽しめば重みがのしかかる。現代人の娯楽はしばし楽しむ幸福のおもちゃのようだ。これは結局、不満、苛立ち、苦痛、不快、侮辱感、恥ずかしさ等によって全て支払わなければならない。これは、善を離れ、罪に留まっているために起こる当然なことである。今人類は天の法に従ってさばきを受ける審判の時である。人類はこれ以上神の鞭を受けることなく、早く悔い改めて帰って来て、イエス・キリストを通して救いを受けよ。聖霊に満たされることで愛を完成し、神の懐に帰り、救いを受けよ。

草はしおれ、花は散る。しかし主のことばは、とこしえに変わることはない。

ハレルヤ! 世々限りなく主に栄光あれ  アーメン

 

( 2006. 9 )