神はなぜ日本にキリスト教殉教者

20~30万人の血を

流さなければならなかったのか?


(日本に対する神のメッセージ)

( 2006. 9 )

    今、この瞬間まで、日本殉教者たちの殉教は到底涙なしにはいられない、深い感動の余韻が全てのキリスト者たちの心中を響かせる。そんな心痛い歴史を深くしまい覆われたまま今日にまで至っている。神はなぜ日本にキリスト教殉教者20~30万人の血を流さなければならなかったのか?今、父なる神のそうするしかなかった差し迫った立場を伝えなければならない時だ。

    1597年2月5日。日本のキリスト者と宣教師たちは、長崎の西坂の丘で十字架にかかり、殉教の中こんな言葉を残した。

    “私は何等の罪も犯さなかった。ただ我等の主イエスキリストの教えを伝えたと言う理由で死ぬのです。私はこうした理由で死ぬことを喜んでいます。私たちの主が私に下さった大きな大きな恵みです”

    日本はこうした26聖人の流した聖なる血に始まり、約250年間のキリスト教弾圧の中で、ローマ、カタコーム (地下墓地) の殉教者よりも多い、20~30万人とも言われる殉教の聖なる高貴な血を流した。そしてまた切なくも1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されたが、長崎は早くにキリスト教が根をおろした所である。特に浦上地域は教会と聖徒たちが最も多く住む集落であったが、彼らが戦争の犠牲の供え物として再び聖なる血を流さざるを得なかったのである。

    250余年間の殉教にも足らず、信仰を守る為に苦難と迫害を辛くも耐えて持ち堪えてきたキリスト者たちの集落が、また再び戦争の犠牲の供え物にならなければならなかった日本のキリスト教。本当に神が生きておられるなら、神を信じるキリスト者たちが、なぜこれほどに凄絶でむごい死に方をしたのか、そのわけは何なのか?こうした疑念が日本のキリスト教が成長することのできない最大阻害要因であった。今こうした疑念を解決せずして日本キリスト教の復興、発展は期待できない。果たして殉教者たちの流した血はどんな意味があるのだろうか。

    今日、日本は偶像の国家でありながらも経済大国として成長したのは、殉教者たちの流した血の結果であった。日本は八百万の神に仕える世界に類のない偶像崇拝の国でありながらも、経済大国の面貌を備えることに対し、多くのキリスト者たちの疑念を掻き立ててきた。地球上で偶像に仕えながらも祝福を受けた国はない。彼らは偶像に祝福を祈願し、その偶像たちの守りと祝福の中で自分たちの努力によって繁栄を成し遂げたと考えるかもしれないが、今日まで経済大国として生き残ることができたのは殉教者の輩出であった。

    キリスト教信仰において殉教をすることができるのは、とてつもない神の恩寵であると同時に祝福である。殉教の裏には多くの奥義が込められている。その奥義の一つが、醜い罪悪を洗い出す代贖の血である。旧約の律法儀式では、全て血を流して罪の赦しを受けた。つまり、自分の罪を洗うために獣をとってその血を撒く事で、自分の罪を代贖したのである。それが新約では、イエス・キリストが十字架で血を流して死なれることで、人類の罪を代贖された。それによって人類に新しい救いの道が開かれたのである。このように血を流すことは、罪悪を洗い出すという奥義がある。

    人間たちが国家を形成し、一国家が統治されていく各過程には多くの罪、悪が進行される。国民の怨声、恨み、略奪、強暴な人権蹂躪、暴悪、殺人…等、墨のように真っ黒に罪悪によって覆われて、それ以上国家存立が不可能になる国の罪悪は、何によって清く洗うことができるのか。

    聖書には罪をおおう方法が二つ記されているが、それは即ち、愛と伝道だ。

“愛は多くの罪をおおうからです” (Ⅰペテロ 4:8)

“罪人を迷いの道から引き戻す者は、・・・多くの罪をおおうのだ”  (ヤコブ 5:20)

特に愛は多くの罪をおおうのだと記されている。愛の中でも、友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はないとイエス様は言明された。(ヨハネ 15:13)

    殉教者たちは全てイエス・キリストのために、自分の命を捨てることで偉大な愛を成したのである。その愛はつまり、その国家の多くの罪悪をおおうことで、キリスト教国家の基礎を固めるものである。殉教の血をたくさん流したと言うのは、その分その国家の未来にキリスト教国家を立てると言う神の約束と同じである。

    イエス・キリストを信じるキリスト教国家なら、キリスト者が、永遠なる血として流されたイエス・キリストを直接信じることによって、その国家を清く守っていくことができるが、キリスト教の不毛地なる異邦国家では、イエス・キリストを信じる信仰がない為、直接自国民の殉教で流す血がその国の全ての罪を代わりに贖罪し、その国を清くするのである。従ってキリスト教国家を立てる前の基礎石が殉教の流す血から始まって、キリスト教国家が立てられていくのである。殉教は異邦国家においてキリストと連結するための、犠牲の橋頭堡の役割だ。即ち殉教の血によってその国家の罪科を支払っていくのだ。それによって聖なるキリストの土台を確保して固める作業である。殉教者はその国の罪悪の量によって比例する。つまりその国の罪悪をおおい解決できる量の愛が必要なのである。

    日本はローマのカタコームの殉教者より多い、20~30万とも言われる殉教者たちが血を流した国である。これは日本が罪をそれだけ多く犯したためにその量を満たすものであった。もし日本キリスト者たちの殉教の血がなかったなら、その罪の価は報いの法則によって、艱難、戦争、災害・・・等によってとてつもない血を流したことだろう。そして今日、経済大国ではなく、とても見るに忍びない値打ちのない他の国に殖民統治される国へと転落していたか、あるいは、ソドムとゴモラのように滅亡していたことだろう。神はその滅亡をどうにかして防ごうとされたのであった。それで日本の多くの殉教の血が必要であったのである。

    このように殉教は、一つの麦が地に落ちて死ぬことによって、その国家の罪悪を洗い出し、福音の不毛地にキリストの養分を作るのと同じである。それで聖書は、イエス・キリストの福音のために命を捨てる者は友であり、友のために命を捨てるという、これより大きな愛はないと言われたのである (ヨハネ15:13)。このように殉教はイエス・キリストの死に共に参与することだ。即ちイエス・キリストのために命を捨てることで偉大な愛を成して、その国家の罪悪をおおう行為なのである。

    こうした殉教を通してその国の全ての権限は、教会とキリスト者たちに完全に移譲される。その理油は血の代価を支払った為である。また殉教の血はそのままその後孫なるキリスト者たちの手に、その国家の興亡盛衰を左右するあらゆる権限として握られるのだ。従って日本のキリスト者たちは肩を伸ばして、堂々と日本の主人として、その主人の役割をするべき時である。

    即ち、日本福音化の始まりは、21世紀から神の計画であられるゆえ、今のキリスト者たちは心を一つにし、意思を一つにして、キリストに向かう信仰と情熱を祈りと伝道に注ぐべき時である。日本の運命は今、国民の1%にも満たないキリスト者たちの肩の上に担われている。ただ神に祈るしもべたちの祈りにかかっている。

    日本は、過去の殉教者たちが、殉教の血で国家の多くの罪悪をおおうことで今日の経済大国を成したように、今のキリスト者たちは殉教者たちの血が空しくならないよう、今から国家の平和の為に、政治を司る人たちの為に祈り、またまず始めに、日本が過去の歴史を通して犯した罪に対し、代わりに悔い改めることをもって、過去の植民地と関係した周辺国家の怨声と恨みを速く防がなければならない。

    一国家の興亡盛衰、生死災福は、人間の知恵と手段なる力と論理ではなく、ただ神のしもべなるキリスト者たちによって決定される。従ってキリスト教は、なぜキリスト者たちがこの世に対して愛の行ないを履行するべきかを知らなければならない。その愛は即ち、この世の限りなく注がれる罪悪を浄化するゆえ、日本のキリスト者たちは、名もなく光もなく、国のために祈る事と伝道こそが、祖国に対する真の愛国者であると同時に、神に栄光を帰す方法である。これが今日、日本のキリスト者たち全ての使命であると同時に義務なのである。

今、日本が、多くの殉教者たちの血を空しくしないよう、真心から祝願するものである。

草はしおれ、花は散る。しかし主の言葉はとこしえに変わることはない。

ハレルヤ! 世々限りなく主に栄光あれ  アーメン

( 2006. 9 )

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