乳飲み子と幼子の口から出る神の声を聞きなさい [1]

(主よ!預言の成就を、恐れを抱いて見つめています)


(2019. 10)

 現在、地球上の所々で、10代の少年少女が環境や自由について声を上げ、叫んでいる。また、少し前の事だが、アメリカで、自分の兄を殺した犯人を裁判所で許した10代の黒人の少年を通して、神は、愛の教えを人類に伝えておられる。こうして10代たちが、各分野で活動し声を上げているのは、神の御言葉の成就である。特に、環境問題の深刻さに無感覚な大人たちに代わり、子供たちの口を借りて警告しておられるのである(詩篇 8:2)

環境災害は、神の御怒りの日を現しておられる。神は自然を通して、その御心を、創られた万物にはっきりと見せ、悟るようにすることで、審判の時、誰も弁明したり言い訳できないようにされる(ローマ 1:20)。しかし人間は、その原因や結果を科学的に糾明することで、自然災害が、ただ自然現象にすぎないとして看過してしまう。人類が今日のような災難を迎えたのは、ノアの時代のように、神を離れ、罪悪が増大しているからである(創 6:5)

災いは、罪悪を追いかけて行く(箴言 13:21)。恰も、避雷針が雷を呼び寄せるように、人間たちの罪と悪は常に災いを呼び寄せるのである(ヨブ 22:10)。人類に起こる災いは5段階で成され、各、段階ごとに7倍ずつ加重される懲罰であるが、(レビ記  26:14-33)これ以上神の御言葉を聞かないと言う時は、人が住むことのできない廃墟、荒廃へと向かう。これは最後の懲罰5段階目で起こることである。なぜ最後の懲罰なのか。環境災害は荒廃へと向かう早道であるからだ。

“わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。”(レビ記 26:31-33)

人類は、現在の状況がどんな状況なのか、恐れを抱いて見つめなければいけない。環境災害をはじめとする全ての災いは、科学をはじめ人間の知恵と能力で防げるもではなく、人類が悪を捨て、神に帰る時止まるのである。神はこのように、時代ごとに自然を通してその御心を見せ悟るようにされる。キリスト教は常に霊的に目覚め、その時々ごとに神の御心を世に証ししてあげ、人類の艱難と災いを防いであげるべき責任があるのだが、その役割を果たせなかった。

神の御心について、見ても見えず、聞いても聞こえないことを盲目だと言った。キリスト者たちが時代を分別できず盲目となったのは、神からすでに審判を受けているのである。その原因のほとんどは、自身の貪欲な心に仕える偶像崇拝に起因する(コロサイ 3:5)。旧約時代の偶像崇拝がバアルのような何かの形に仕えることを偶像崇拝と言うなら、新約に至っては、自分の貪欲を成し遂げるため、主の戒めである愛と命令を捨てることを言う。こうした偶像崇拝は神の御怒りを引き起こし、その罪悪の罪質に従い刑罰がついて来るのである。これまでキリスト教は、恵みの中での救いのみに重点を置き証しただけで、神の刑罰については看過してきた。それで今日のような放縦と堕落によって、災いの時代を迎えるようになったのである。

1. 旧約の偶像崇拝が現代ではどのように成されるのか?

キリスト者たちが完全に主に仕え、教会としての使命を全うするには、聖書で語られる、ニコライ派、バラム、コラ、イゼベル、エドム 等の教訓に注意する必要がある。

< ‘ニコライ派’ とは、神の御言葉である ‘善’ 即ち、聖霊によってさとし教えられる導きを排除し、人間の知恵と知識で立てられた全てのことを意味する。そして、バラムはニコライ派の論理で自分の貪欲を合理化する偽預言者を言う。>

‘ニコライ派’ とは ‘民衆に勝つ者’ と言う意味で、特徴が、哲学の美しい理論と論理、科学的根拠と華麗な説得力で現れるため、あらゆる人々から常識的に正しいと認められる。こうして民衆に勝つことがニコライ派だ。一方、神の御言葉である‘善’は、人間の知恵や知識では理解できない非常識的なことを求め命じられる。たとえば、おとめマリアにイエスキリストの受胎の事実を知らせ(ルカ 1:30-31)、また、らい病にかかった将軍ナアマンにヨルダン川で七度身を洗えば治ると言われたように(列王  5:10)、人間の常識では誰もが信じがたい非常識を信じるのである。宣教のことばの愚かさを信じる信仰を ‘義’ とされ、信じる者を救われるのである(Ⅰコリント 1:21)。即ち、百人隊長の信仰のように、無条件的に信じる信仰の上に、神の力と役事、成就をもって救いを成し遂げられるのである。

しかしニコライ派は、蛇のそそのかしのように、食べるに良く、目に慕わしく、形は美しく華麗であるが、神が排除されたため、神の力と役事と成就は全くなく、葉が生い茂るだけで実を結ばない。それによって偽物であることがわかる。即ち、人間の教えによって神を空しく拝んでいるに過ぎない(マタイ 15:8-9)。ニコライ派を煽動するのがバラムだ。それでニコライ派とバラムを同義語で扱っている(黙 2:14-15)。バラムは偽預言者の代名詞で、神の御言葉をそのまま伝えず、自分の有益と目的とする意図に従がって、御言葉を取り除いたり、付け加えたりして変質させる、主のしもべたちの姿勢に対する警鐘である。

バラムが偽預言者の代名詞となった原因は、二つの心を抱いたためだ。つまり、神を信じる心と、自分の有益のための貪欲を同時に持っていたのである。それは、神の預言者として、心と思いと知性といのちを尽くして神を愛することをせず、自分の代償をより愛したと言うことだ(ペテロⅡ,2:14-16、黙 2:14、ユダ  1:11)。バラムは、こうした自分の貪欲を、ニコライ派の論理と説得をもって正当化し、自分の良心を立てたのである。そのようにして真理の通りに行わず、神の御言葉を付け加えたり、取り除いたりして歪曲、変質させ、目的を成し遂げようとする間違った道に歩む信仰に対する教訓である。

バラムは、口のきけないロバを通した神の強い役事で使役は行ったが(民 22:21-33)、結局、自身の中に抱いた代償に対する貪欲のため、イスラエルをミデヤンと姦淫させた容疑でモーセ(律法)によって王たちと共に殺された(民 31:8)。これは、聖霊の強い働きによって神に用いられたとしても、二人の主人に仕えることはできないため、不義なしもべとして用いられて捨てられる、空しい信仰として終わりを遂げると言う教訓である。

<コラ族とは、神の権威と秩序の破棄に対する懲戒と、霊的には、聖霊への逆らい、誹謗、冒涜に対する警戒の教訓である。>

神は、唯一、モーセだけにイスラエル民族の指導者として命じられた。モーセの一方的な行動に、コラ族と民衆たちが、“イスラエルの民はみな神に選ばれた者たちであり、神は我らの中におられるのに、どうしてあなただけが分を超え上に立つのか”(民 16:3)と言って敵対した。この挑戦は神の権威に対する挑戦であり、また、無秩序と混乱を加重するだけである。そのため、そこに同参した全てのものを、火と地震によって滅ぼすことで、秩序をまっすぐに立て、民衆を恐れさせた(民 16章)

神は、モーセに反旗を翻し “あなただけが預言者なのか” と言って敵対するコラ族の行動に、なぜ御怒りを下されたのか。それを知るには、まず、モーセがクシュ人の女をめとった出来事を通して見てみよう。モーセがクシュ人の女をめとったことは、厳然として律法に反する犯罪行為であるため、ミリヤムとアロンがモーセを批判した(民 12:1)。この時、神が降臨され、三人の前でモーセについて直接論じられた。あなたがたの中に預言者がいれば幻や夢をもって語るが、モーセに対しては口と口とで明らかに語り、また、主の姿を見ていると言われ、モーセを非難することに恐れがないと、預言者アロンとミリヤムを咎められた(民 12:5-8)。コラ族はレビ族であるため預言者である(民 16:1)

預言者の地位で神と直接顔を合わせ、イスラエル民族の指導者として油を注いで立てられたモーセに敵対するのは、神の権威への挑戦であり、また、秩序の破壊であるため、滅ぼしてしまうことで民たちの秩序をまっすぐに立てられたのである。コラ族の教訓は、この時代にも、教会の中での秩序のみならず、霊的には、神の御心である ‘善’、つまり、聖霊によって導かれた教訓や御言葉に対し、人間的にむやみに判断、定罪することで、これは、聖霊への逆らい、誹謗、冒涜に該当する罪である。そのため、モーセに敵対したコラ族だけでなく、そこに同参した全てのものまで地震によって滅ぼされた。このように、聖霊への逆らい、誹謗、冒涜に対しては、罪の赦しがないことの教訓である(マタイ 12:32)

<エサウの子孫エドムとは、自分の小欲を満たすため、主の戒めを守らずたやすく売ってしまう者を象徴する。彼らの人生は、イサクの預言通りに成就する恐ろしい教訓だ。私たちキリスト者たちにとっては、聖徒たちの正しい行い、つまり、新しい麻布の衣を着ていない者は追い出されると言うことを深く心に刻み、警戒すべき教訓である。>

エサウはエドムの祖先である。エドムの象徴は、エサウの信仰をする者、つまり、嗣業を疎かにし、赤いレンズ豆の煮物一杯で長子の権利を売ってしまう信仰者に対する警鐘と教訓の御言葉だ(創 25:31-34)。これは即ち、神の嗣業である管理者の使命を軽く考え、売ってしまい、自分の安逸と祝福だけを願う、祈福信仰に対する警鐘である。エサウの長子権は、父イサクに引き続き直通して、アブラハムの嗣業を受け継ぐ継承者であった。神が直接アブラハムに下さったあらゆる祝福と権利をそのまま継承する者なのである。

神がアブラハムを選びあらゆる祝福を下さった理由は、義を重んじ、善なることをし、敬虔に生きるようにするためだ。こうした模範を通し、アブラハムのように生きる者にも祝福を与えるため、祝福の根源として立てられたのである(創 18:19)。従って、嗣業を売ってしまったと言うのは、嗣業の目的である、義と善を守らず捨てたと言うことだ。つまり神の戒めである愛と命令を守らないことが嗣業を売ることであり、長子権を売ってしまうことだ。エサウが、腹がすいてヤコブに長子権を売ってしまったように、キリスト者たちが、自分の目的とすることを得るために、主の戒めである愛を守らないことが、長子権を売る行為である。

長子の権利を奪われたエサウに対して、その父イサクは、エサウが今後どんな人生を生きて行くのかについて語った。彼の住む所では、地は肥えず、天からの露もなく、剣によって生きると預言した(創 27:39-40)。その預言の通り、エサウの子孫であるエドム種族たちは、信仰に安着できずに浮き、キリスト者であるがキリスト者らしくないこの世的な信仰をする、神の祝福とは関係のない信仰であるから、神を信じるより、この世の福を優先した権力と金の剣を信じて生きる信仰へと転落する。即ち、神の戒めより、人間の戒めを大切にする信仰を言う。

このようにキリスト教は、神の ‘善’ を悟ることができず、人間の知恵と知識によってニコライ派を作り出した。キリスト者でありながら二つの心を抱き、バラムの道へと進んだのである。また、神が下さった管理者の使命を、レンズ豆の煮物一杯で売ってしまったように、主の戒めを、自分の目的のために簡単に投げ捨て、この世について行った。そしてモーセに敵対したコラ族のように、驕慢によって聖霊のわざに逆らい、教会の秩序を破壊し分裂させ、現在のようなキリスト教を量産した。その被害は、余すことなく災害という艱難となり、世の光ではなく闇だけを増した。それでユダの手紙には、“忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。”(ユダ 1:11)と記されている。神を離れ、人間の貪欲に仕える偶像崇拝は、神の御怒りを引き起こし、罪悪の程度に従い刑罰が後について来る。

2. 偶像崇拝には刑罰が必ずついて来る。

聖書には、あなたがたが主を捨てて、外国の神に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くすと語られている(ヨシュア 24:20)。神は焼き尽くす火である(申命記 4:24)。罪と悪に対しては、必ず罰し消滅させる理由は、恰も、ガン患者を生かすには、ガンを完全に除去しなければならないように、神のかたちとして造られた人類を生かすには、その罪と悪を完全に除去しなければならないからだ。それが、血はその血によって消すという法である。神が創造された創造物に対して、神のかたちであるいのちへと生かすために、最後まで責任を尽くしておられるのである。従って、血を流した罪は、その血を流させることによって、その罪と悪を焼き尽くして無くし、神のかたちを保つためである。

なぜ!血を流してはいけないのか?人の血(生命)を流すと呪われる理由とは、自分の体が障害を受ければ呻きと悲鳴を上げるように、被害を被った人は自動的にその苦しみによって、不平、不満、憎悪 等の呪いが心霊からほとばしるのである。その呪いがまさに、血を流させた者に降り注ぎ、そのかしらにそのまま、2倍、4倍、7倍、77倍 等の刑罰の倍率で、3日、40日、40年、50の喜寿(聖書上)が来るまで臨み、成し遂げられる。

♦ 2倍、4倍、7倍、77倍 等の刑罰の倍率とは何か 

2:今の現実は、自分が他人に行ったことがそのまま帰って来るのであるから、決して人を恨んではならない。>

2倍の刑罰は、人間すべてに該当する刑罰である。これは砂時計のように、自分が行った罪悪が自分にそのまま帰って来、立場を替えて受ける刑罰である。聖書には、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行いに応じて二倍にして戻しなさい(黙 18:6)とあり、また、さばいいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです(マタイ 7:1-2)。各々の行いに応じて報いるという御言葉は、これらはすべて2倍の刑罰を語られている(マタイ 16:27、ローマ 2:6、黙 2:23、エレミヤ 32:19、ヨブ 34:11)

今現在、人生の中で起こる全てのことは、過去に自分が行ったそのままを反映した、鏡の中に照らし出された人生なのである。神は、それを通し“悔い改める”ようにされた神の恩寵である。こうした2倍の刑罰は、人生の中で鏡のように、自分たちが行った行動一つ一つ、無益な言葉の一言まで、そのままが自分に帰ってする。従って、自分の人生の中で起こる不利益や悔しさ、恨み、不平等、奪われることなどの全てが、自分が奪い、不利益を与え、不平等に差別したために自分がそのまま受けるのである。このように立場を替えて生きるようにされ、如何にしてでも間違いを悟り、振り返るようにされる神の教育であり、愛である。

4:罪と悪の根源まで引き抜き、純金へと作る過程>

4倍の刑罰とは、罪の4倍の刑量の概念ではなく、自分が目的のために故意的に計画した悪心と悪行を、心霊の根源からすべて破壊し、焼き尽くし消滅させることを言う。聖書で4倍の倍率で報いの刑罰を受けた人物はダビデ王である。ダビデはバテ・シェバを犯した後、その夫ウリヤを故意的に戦場で殺す罪を犯した。これに預言者ナタンは、雌の子羊の比喩をもってダビデの過ちを忠告した。つまり、富んでいる人が自分の所に来た旅人をもてなすため、自分の羊を惜しみ、貧しい者が持っていたたった一頭の羊を奪ってもてなしたと言う比喩で、ダビデの罪を話すと、ダビデは、そんなことをした男は死刑だ。その雌の子羊を四倍にして償わなければならないと言い、王として命令を下した。

するとナタンが、あなたがその男です、と指摘すると、ダビデは、自分の犯した罪を悔い改めたことで、ウリヤとバテ・シェバの犯罪事件については 神から罪の赦しを受けたが、それに伴う報いとして、①剣は、いつまでもあなたの家から離れない。②わたしはあなたの家の中からわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。③あなたに生まれる子は必ず死ぬ(サムエルⅡ,12:10-14)と言う3種類の懲戒を受けることで、4倍の刑罰の報いを下された。

その結果、ダビデの報いはその通り成し遂げられ、バテ・シェバから生まれた子供の死から始まり、①アムノンが彼の妹タマルを姦淫した事件。②アブシャロムがアムノンを殺害した事件。③アブシャロムが白昼ダビデ王のそばめたちと寝た事件。④アブシャロムが父ダビデに反逆し死ぬ事件。⑤ダビデにかしずいたアビシャグを恋い慕う長男アド二ヤを、ソロモンが殺した事件 等(サムエル Ⅰ,13:14,16:22、列王 Ⅰ,2:25)ウリヤを殺した結果ダビデは、4人の息子が剣によって死んだ。そうしてダビデ王の中にある肉の欲望の種を根源からすべて破壊し、焼き尽くし、きれいに塗りつぶしたのである。ダビデ王がどのように悔い改めたのかは、詩篇51篇に記され、悔い改めの模範を見せている。

7:罪と悪を悟るまで罰を加重させ、如何にしてでも顧みるようにし罪と悪を分別させる、悟るまで繰り返しぐるぐると回り続ける全ての人生>

創世記には、“カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍。”と記されている(創 4:24)。 ‘ 7 ’とは、真の神の‘知恵’を意味する(箴言 9:1)。  ‘7倍’とは、過ちを徹底的に悟る知恵が来るまで、持続的に刑罰を受ける人生だ。これについてレビ記26章には、5段階の刑罰が記されているが、自分の罪を悟るまで、1段階ごとに罰が7倍に加重され進行する。従って、7倍の刑罰は、早く罪を悟り、悔い改めるのか重要な要である。

キリスト者の真の悔い改めは、罪を赦される。キリスト者たちが、主を迎え入れる瞬間、あ!私はこれまで罪の中で生きて来たんだと、罪を悟り,痛悔し、涙ながらの告白をした瞬間、すでに過去の罪は赦されるのである。これは、自分の心霊に罪を悟り、死のガンのかたまりを、自らえぐり出すことである。しかし、真の悔い改めでなければ、ガンのかたまりはそのまま残っている。こうして、罪を悟り、悔い改めれば罪を赦されるのであるが、罪を悟れなければ悟るまで、長い時間を通して罰を受けるのである。一度塗ったペイントが消えるまでには長い時間を要するように、罪が消滅するまでの時間、7倍率で報いて行くのである。その時まで、人生の中で不通の苦しみと、艱難、災いの呪いが、暮らしの中に溶け出す運命の中で生きる人生となるのである。

77:キリスト者の許しと寛容、7度を70倍するまで許す人生>

レメクを殺した者は罰が77倍とは。レメクの意味は ‘力あるもの’ を言う。力あるものは聖霊である。その聖霊に逆らい、誹謗、冒涜するキリスト者たちに対する刑罰である。イエス・キリストは、誰であれ聖霊が語られることに逆らい、誹謗、冒涜する者は、罪の赦しがないと直接語られた(マタイ 12:31-32、ルカ 12:10)。その理由は、聖霊への逆らい、誹謗、冒涜は、神の‘善’に対して、アダムの堕落以後、2度目の堕落であり、イエス・キリストの十字架を折り、否定する行為であるため、どんな悔い改めをしても赦されず、77倍を受けるのである。それで、ヘブル人への手紙には次のように記されている。

“神のすばらしいみことばと、のちにやがて来る世の力を味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。”(へブル 6:5-6)

“もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。”(へブル 10:26:27)

この世は、罪を悟るまでほとんどが、7倍に該当する刑罰の倍率が適用されるが、77倍は、キリスト者とキリスト者との関係での倍率だ。その理由は、聖霊の役事は誰を通して起こるかわからないため、聖霊への逆らい、誹謗、冒とく罪にかからないためには、キリスト者同士では許し憐れみ、それ以外の、さばき、定罪 等の罪悪はタブーである。それで主は、兄弟を許しなさいと命じられたのである(コロサイ 3:13、マタイ 5:23-24、マルコ 11:25)。また、手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。目がつまずかせるなら、それをえぐりだして捨てなさい。両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは良いと言われた(マタイ 18:8-9、マルコ  9:43-47)

さらに、イエス・キリストを信じる小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです、とまで言われた(マタイ 18:6、マルコ 9:42、ルカ 17:2)。従ってこの罪は、無条件的に、7度を70倍するまででも許しと寛容をもって生きることで、その血を消し去らなければならない(マタイ 18:22)。これは天の御国の比喩で、1万タラントを許された者が、自分に百デナリの借りのある者を許さないなら、自分の許しも無効になったように、キリスト者は、主の戒めである愛の中で無条件的に、許しと寛容の人生を生きなければならいことを教えている(マタイ 18:23-35)。神の法はこのように明確に、罪と悪による偶像崇拝に対する刑罰と倍率を記しており、一寸の誤差もなくそのまま執行される。

3. 偶像崇拝の結果

人類が、ニコライ派、バラム、エドム、コラのような信仰の偶像を崇拝した結果、歴史的に悲惨な結果をもたらした。ソロモンが晩年に偶像崇拝をした結果、彼の死後、ユダとイスラエルに国が分裂した。(列王Ⅰ, 11章, 13章, 12:20)同様にカトリックは、東方正教会、ローマカトリックと東西に分裂し(1054年)、約500年後、また、プロテスタントが分裂した。これによる多くの異端の猛威と、また、新大陸発見と、それに伴う植民地の悲劇、魔女狩りのような悲痛の連続で、キリスト教は持続的な分離によって散らばった。魔女狩りは、霊的に目覚め‘善’ひとつだけでも知っていたなら解決できる霊分別の問題を、人本で分別する過程で発生した霊的無知によるキリスト教の恥辱である。

また、聖霊の導きを、非常識だと無視し排斥し、人間の知恵、知識の常識を追った結果、宗教的には、他宗教排斥、選民思想、異端論、終末論、物質の祝福等を通し、現在の福音主義へと実を結んだ。精神的には、傍若無人、独善、排他、優越主義として現れ、社会的には、政治、哲学、時代と野合、共産主義と野合、他民族抹殺、征服欲として現れ、神の御言葉に真っ向から敵対する破倫を犯している。こうした状況に対し神は、特に、聖霊を経験し、聖霊を知っていると言う福音主義に対し、より一層激しく怒っておられる。今キリスト教は徹底した悔い改めが必要である。

4. キリスト者たちの真の悔い改めは、主の憐れみと慈悲と許しの恩寵を受ける唯一無二の道である。

悔い改めは、過去の過ちを自ら消すことである。悔い改めは、唇の悔い改めと共に、自分の過ちと同じ状況が現実の生活の中で起こる時、実際に許し憐れむことで、真の悔い改めに至るのである。この世は全て律法の支配の中にあるが、キリスト者たちは恵みの中にある。律法は、一度ペイントを塗れば色あせるまでそのままであるが、恵みの法の下にあるキリスト者は、塗ったペイントの上にもう一度塗ればよい。このように真の悔い改めによって過去の罪を消され、再び新しい救いに至るのである。律法は公義の法である。罪を犯したことに対しては容赦なく公義によって、律法に記録されている通りに刑罰を受けるのである。

その律法は、天地が滅びうせない限り、一点一画もすたれることなく全て成就される(マタイ 5:18、ルカ 16:17)。一方、キリスト者は誰でも恵みの法によって許しと、罪の赦しによって救いに至るのである。恵みの法の恵沢を受けるには、自身が恵みの中にいなければならない。つまり、主の戒めである愛を守り、主の戒めを成し遂げるには、悔い改めと許しがまず先行しなければならない。従って、許しを得るためには、許さなければならないのである。

主の祈りに ‘私たちの負い目を赦してください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました(マタイ 6:12)’という御言葉に見るように、キリスト者は、どんなことであれ許さなければ、決して自身も赦されないと言う事実を理解していなければいけない。赦さなければ罪は赦されることはない。それで聖書は、もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりませんと記されている(マタイ 6:14-15)

キリスト者は、このように許しと憐れみを通した真の悔い改めを通じて、罪の赦しの恵みを受けるのである。でなければ律法の奈落へと落ち、この世の人々と同じ律法による公義の審判を受ける。即ち、その罪質に従い2倍、4倍、7倍、77倍の倍率をもって刑罰がそのまま執行される。それは、人間誰であれ、国、人種、性別、宗教を問わず全てに適用される生、死、災、福の直接的な法であり、この法を通して人間は、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る御言葉で生きることを悟るようにされる。


主よ!この世があらゆる災害で苦しんでいるこの時に、自分だけが助かろうと全てを放り投げる管理人とならないようにして下さい。私たち管理人たちは、主のように、世の平和のため、和解の犠牲の羊となるようにして下さい。教会は今、本然の自分の位置に戻り、小さなことにも忠誠を尽くす管理人となるようにして下さい。主よ!今のキリスト者たちの行動は、主を否定する行動です。ペテロに、鶏が2度鳴くまで、あなたはわたしを3度否定すると言われたように、こうして夜明けの鶏が大きな声で鳴いているけれど、目覚めることを知りません。もうこれ以上否定しないようにして下さい。教会が目覚め立ち上がるようにして下さい。見張り人が朝を待つように、夜明けの暁を切に切に望んでいます。

荒廃は、最後人間がこれ以上行き所のない、最後の刑罰の場所です。左右の分別のできない人類は今、生きるためにここに向かって疾走しています。こうした艱難の中で、主の御手を仰ぎ見、苦しみの中で、主の恩寵の憐れみだけを望むしかありません。キリスト者たちは、主の祈りだけでもどうか悟り、みんな全て、恵みと恩寵の班列にあって主の聖なる恵みを受けられるよう、全ての心霊に‘許し’の恵みを注いでください。私たちを捨てないでください。教会は、サタンの深みを見えずにいます。今人類は、左右を分別できないでいる赤ん坊のようです。人類を助けて下さい。

ここに、草はしおれ、花は散る。しかし神のことばは永遠であり、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る一つ一つの言葉によって生きると言う、永遠なる福音を伝えます。御怒りの中にあっても、この御言葉を伝えられるよう許して下さったことを感謝します。この地球上に住む全ての人類とキリスト者たちに伝え、生きる救いの道を施して下さったことを永遠に感謝し、イエス・キリストのみ名によって切にお祈り申し上げます。アーメン

ハレルヤ。 ハレルヤ。 世々限りなく主に栄光あれ。

(2019. 10)

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