乳飲み子と幼子の口から出る神の声を聞きなさい [2]

(主よ!預言の成就を、恐れを抱いて見つめています)


(2019. 10)

キリスト教は啓示の宗教だ。神の御心と計画は、人間の認識からは隠されているため、神が教会に自ら啓示をもって神の御心を現して下さらなければ、人間の知識では永遠に知ることはできない。神の御心の  ‘善’  を知らせて下さるのが聖霊の導きだ。聖霊の導きとは、アダムの堕落以後神との交わりが途絶えてしまったため、途絶えた  ‘善’  について、再び女の子孫であるイエス・キリストを通し、聖霊によって私たちを  ‘善’  で導いて下さるのである。そうして、教会の監督者、先生、指導者として私たちを導いて下さる。

人間の堕落は、アダムが、神が決して食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実を、人間の思いのままに食べた時から人類の悲劇が始まった。善悪の知識の木は、人の目に、食べるに良く、目に慕わしく、賢くなるにいかにも好ましかったから食べたのだ。その結果、目が開け、神のように善悪を知るようになる(創 3:5-6)と言う蛇のそそのかしのままに、今も全ての人類は、神の御心の善を離れ、自分の思いのままに善と悪を分別している。つまり、自分の思いのままにさばき、定罪し、自分の知恵を用いている。その結果は永遠なるアザミといばらであり(創 3:18)、滅亡のみを育て、風を追うような空しさだけに達して終わると言う御言葉の成就である(伝 2:11)

神は、人間たちを哀れに思い、3500年前モーセを通して律法を下さった。律法は、肉をもって生きる全ての人類の興亡盛衰の法則である。肉とは、獣の本能的な欲求で生きている全ての人間たちを言う。そして律法に従って、祝福とのろいが公義をもって決定される。

“肉の行ないは明白であって、次のようなものです。

不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。”  (ガラテヤ 5:19-21)

こうした肉の本能のまま、節制せずに行うことが  “罪”  である。この罪を縛り付け、制裁し無力にするのが律法である。従って、罪と悪から抜け出すには、律法に準じ、それ以外の全ての思いや行動を節制しなければならない。しかし、肉の本能のままに生きる人間が律法を守ることは難しい。真理について理解しわかったと言っても、自分の情欲、貪欲のために真理を拒否し、自分の目的のみを達成しようとする。その結果いつの時も、人間の力の論理によって解決してきた。

このような力の論理は、解決したように見えても、歴史が証明しているように、依然と神の契約した律法の預言通りに流れているだけだ。つまり、力を使うほど、それも残忍で無慈悲なほど、報いの法則により、自分のかしらに残忍と無慈悲を積み上げ、その苦しみを受けるのである。その罪が満ちあふれれば、子孫3-4代までその苦痛は降りて行くのである。人間はこのように律法によって、各々の行為に従って、そのまま直接自分が直面する生の束縛から誰も抜け出すことはできない。

このように、闇と死の陰に座る者に救いの光を照らし、平安の道へ導いて下さる方が、二千年前おとめマリアから誕生されたイエス・キリストである。イエス・キリストの霊であられる聖霊を通して、今は、神の御心の‘善’を知ることのできる聖霊の法の時代が開かれたのである。聖霊の法、即ち、神が直接さとし教える御言葉  ‘善’  は、完全な愛( Ⅰコリント13章)を成してこそ可能となる法である。

完全な愛を成すには、自分の足りなさを幸福の使信(山上の垂訓)に基づいて、叫び求め、探すとき、イエス・キリストの霊であられる聖霊が助けて下さることで、その愛に到達できるのである。その時  “今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります(Ⅰコリント 13:12)” という御言葉が成就するのである。

このように、主が私たちの心霊に現れて、“わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつけてくださる”  のである(へブル10:16)。これが ‘善’ である。従って、愛の中に留まっていなければ誰も主を見ることはできない。つまり、主の御心を知ることはできない。それで ‘わたしの戒めを守る者にわたし自身を現す’(ヨハネ 14:21)と言われたのである。今キリスト者は、イエス・キリストの霊であられる聖霊を通して私たちを導いて下さる ‘善’ に従って生きる信仰により、信じる者には誰でも、救い、いのち、永遠の命にまで至る完全な道が回復され、開かれたのである。

‘善’ の御言葉は、この世のものでないため、神秘、非常識、非論理のとりとめのないものである。それで人間の目には笑いの種に過ぎない。それで  “家を建てる者たちの捨てた石。それが、礎の石になった。”  と言われたのである(詩 118:21)。‘善’  の御言葉は、ただ愛の中に留まっている良い心霊でなければ信じることはできない。もし良い心霊を作れなければ、御言葉に対する信仰は消え去り、信じたくても常識の中に閉じ込められ、とても信じられず、主日礼拝(日曜日)の説教は  ‘睡眠薬’  だ。悔い改めのないキリスト者たちにとって説教は、強力な睡眠薬である。説教を聞いた時には信じられたが、教会の外に出るや否やいくらも経たず、道端に蒔かれた種のように、信仰は枯れて死んでしまう。

このように、見ても見えず、聞いても聞こえない盲人でありながらもキリスト信仰をするには、人間の常識へと転換せざるを得なかった。これがニコライ派である。牧者たちは気を引き締めなければ、バラムの道へと入って行く。ニコライ派は、哲学、文学等、できる限りあらゆるものを全てつなぎ合わせ、理論、論理、説得力で神を証し仕えた。これがかえって空しい敬拝となった。聖霊がない故、神の御言葉と教会の秩序を破壊するコラ族、また管理人の使命をレンズ豆の煮物一杯で売ってしまったエドムの信仰へと転落するのである。それで聖書は、キリストの霊がなければキリスト者ではないと言われたのである(ローマ8:9)

こうしてキリスト教は二千年間、人間の戒めによって空しく拝んだため、イエス・キリストは ‘不法’ だと言われたのである(マタイ7:21-23)。キリスト教が不法とならないためには、今、律法信仰から聖霊の法へと成長しなければならない。現在の教会が、愛を叫びながら聖霊の法がわからないなら、それは、愛を成し遂げられなかったと言うことで、いまだに律法信仰に留まっていると言うことだ。それは即ち、ニコライ、バラム、コラ、エサウのエドム信仰に留まっていると言うことだ。これは、真の悔い改めを通して帰って来るまで、刑罰によって神の審判を受ける。その刑罰は、罪悪の罪質に従い、2倍、4倍、7倍、77倍と、律法の公義の法の審判を受けるのである。

このように、罪には審判が伴う。法の進行においても律法は、モーセの永遠なる規例、律令の法であり、その法によって公平に進行される。一方聖霊の法は、恵みと恩寵の法により、憐れみと慈悲の審判が成される。恩寵とは恰も、祖父が孫に対して、尽きぬ寛容と許し、憐れみ、慈悲、愛を持つのと同じだと言えよう。

聖徒の正しい行いである主の戒めを守らない者、つまり、新しい麻布の衣を着ていない者は救いを維持できないように、キリスト者たちが恵みの法に留まるには、二つのことをしっかりと心に刻むべきである。一つ目は、私が許されるには、許してあげなければならない。この法を守らなければ、律法の公義の審判を受けるのである。従って必ず愛の中に留まっていなければならない。

“もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。”(マタイ 6:14-15)

二つ目、聖霊が導かれる御言葉を、私たちは無条件に信じなければいけない。つまり、聖霊への逆らい、誹謗、冒涜罪は、赦しがないことをしっかりと心に刻んでおくべきだ(マタイ 12:31-32)。今までキリスト教は、救いのみに重点を置いて伝えただけで、罪と悪に対しては、必ず懲戒と鞭の刑罰が伴うと言うことを、疎かにし伝えて来なかった。

誰であれ、イエス・キリストを信じればすべての罪が帳消しにされ ‘義人’ として生まれ変わる。しかし。1万タラントを許されながら、自分に百デナリの負債のある者を許さない者、兄弟を心から許さない者、新しい麻布の衣を着ていない者、聖霊への逆らい、誹謗、冒涜する罪は、最後の一笏まで全て返済するまでは、罪の赦しはないことを覚えておくべきである(マルコ 3:29、マタイ 12:31-32、ルカ 12:10)。それで、ヘブル人への手紙には次のように記されている。

“一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。”  (へブル 6:4-6)

“もしわたしたちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。”  (へブル 10:26-27)

これと共にキリスト教は、キリスト者たちが心から真実の悔い改めをするまでは、恩寵からその名前が抜け、排除されるということを、救いと共に必ず伝えなければいけない。

(2019. 10)

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乳飲み子と幼子の口から出る神の声を聞きなさい (1)