聖霊なき罪の赦しはない [2]

1 聖霊なき罪の赦しはない

聖書は、大体が、聖霊を受けてない人(異邦人)を前提に書かれたのではなく、聖霊を受けた人を前提に記されている。聖書の解釈を間違うと、聖霊を受けてない人たちまで罪の赦し(救い)に至るかのような解釈をしかねない。

1) 光の中を歩めばキリストとの交わりがある
  一般的に、罪が赦されたと主張する主な聖句は、次のような場合があげられる。

 “御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます”  (Ⅰヨハネ1:7)


 この節だけを見れば間違いなく‘イエスの血の適用によって全ての罪がきよめられる’と言える。しかし前後の文脈を詳しく見れば、光の中を歩んだ時(イエス・キリストと聖徒自身との交わり)を前提に、全ての罪からきよめられると言われている。我々はこれから聖書を見る時、句節だけで解釈するのではなく、句節と文脈の前後に何が求められているのか、何を前提にしているのかをしっかり知るべきである。

 “私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは、神の豊かな恵みによるのです”  (エペソ1:7)

我々はこの御言葉について多くはこう解釈している。‘イエス・キリストは恵み豊かで、十字架で私たちの為の供えの羊として死なれ、その功労によって私たちは何の代価もなく罪が赦されたため、その恵み対する恩返しに賛美をすればよい’と解釈している。

だが、その少し後の13~14節には、‘約束の聖霊をもって証印を押された’と記されている。聖徒の贖いは、約束の聖霊で印を押された者だけが成されるのだ。言い替えれば、聖霊無くして贖い (罪の赦し) はないと言う意味だ。“私たちは御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによるのです” (エペソ1:7) の御言葉に対する説明として、贖いは聖霊の印によって成し遂げられるとまとめている。

 “私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった…”  (エペソ1:5-6)

上の節のように‘子にしよう’と言う、子になる条件として、その愛する方、即ちイエス様が愛される者だと言っており、イエス様が愛される者とは、戒めを守る者だと記されている (ヨハネ14:21)。戒めを守る時にイエス様の愛を受け、イエス様の愛を受けてはじめて、イエス様は現われる (聖霊の役事、応答等)と語られた。

2) 御子のうち、キリストのうち

“その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります”(ヨハネ14:20)

“この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち 罪の赦しを得ています”(コロサイ1:14)

“私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです”(エペソ1:7)

“もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです”(Ⅰヨハネ2:24)

上記の内容のように、御子のうち、キリストのうちにのみ罪の赦しが成されることがわかる。つまり聖霊の中でのみ、贖い、即ち罪の赦しが得られるのだ。“主の名を呼ぶものは、みな救われる”(使2:21)と言う意味を誤解しているが、聖霊によらなければ誰もイエスを主とは言うことはできない (Ⅰコリント12:3)。即ち聖霊があってはじめて主の名を呼ぶ信仰が生じ、罪の赦し (救い) を得られるのである。

3) イエスの血

“御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです”  (エペソ1:7)

“キリストの血によって義と認められた…”  (ローマ5:9)

上記の節で見るように、イエスの血によって罪の赦しを得るのである。

イエスの血は聖霊を意味する。

“あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。

あかしするものが3つあります。御霊と水と血です。

この3つが1つとなるのです。”  (Ⅰヨハネ5:6-8)

あかしをする方は聖霊であり、聖霊は、聖霊と水と血の3つであり、この3つは1つであると言う意味から、血は聖霊となり、水も聖霊となる。従って御子の血によって罪の赦しを得ると言うのは、聖霊によって罪の赦しを得るのと同じ意味だ。(‘イエスの血は聖霊だ’参照)

2 聖霊充満が完全な罪の赦しに至る

聖霊を受けた聖徒は、聖霊のバプテスマを受けた時の、歓喜の喜びと救いの確信を覚える。聖霊を受けた時にはっきりと救いの確信を持つのである。パリサイ人的な信仰 (律法主義) では、こうした確信を感じることはできない。単なる自分の信念と教理に基づいて、聖書的理論や論理を理性で理解させることで、罪の赦し (救い) に対する信仰と確信を持とうとするが、聖霊を受けた者のように、罪が赦された確信を、心霊に深く絶対的信仰として持つことはできない。(敷衍説明は‘信仰’編で言及する)

バプテスマのヨハネが主に‘はきものを脱がせてあげる値打ちもない’と告白したように、これは水のバプテスマ  (バプテスマのヨハネ) と、聖霊のバプテスマ (イエス・キリスト) の違いである。律法的信仰は理論による信念に過ぎない。聖霊のバプテスマを受けた時に、聖霊 (信仰) によって罪が消滅するのである。聖徒の心が聖霊で満たされていなければ、満たされてない分だけ罪の本性が聖徒の心を支配する。そのため、キリスト者の主権である愛に歩めず、肉 (ガラテヤ5:19) の支配を受けるのである。これは我が国が日帝36年の間、政府はあっても主権は日本に奪われ主権を行使できない殖民国家に転落したのと同じだ。

キリスト者は聖霊に満たされた時、神 (創造主) の栄光のために働くことができる。

それで聖書では‘キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません’(ローマ8:9)と言われた。これは、聖霊に満たされた時に、愛が罪性に打ち勝ち支配するからである。聖霊のないパリサイ人的な信仰では、肉(罪性)の制度と法がそのまま維持され世習化するだけで、人格的な変化を求めても、肉は肉として残っている。

聖霊に満たされてはじめて完全な変化が起こり、肉の罪性を支配する。その時はじめて神の国、真理を優先する良心へと正しく立てられ、新しい被造物として生まれるのである (Ⅱコリント5:17)。この時聖霊が、私の心に天の法である真理を教えて下さり、思い起こさせ、叱責し、神の御心 (真理)を聖徒の心に悟るようにされる(へブル8:10)。聖霊がある時はじめて聖徒自身の罪が消滅するのである (へブル8:12)。これは、8,15開放によって、日本に奪われた主権が我が国に再び移譲されたように、聖徒の聖霊充満は、肉の権勢 (ガラテヤ5:19) から、霊の主権である愛によって歩む力と能力、つまり信仰する力と能力を与えられるのである。

我々が一般的に考えるような、ほどほどに信じても罪は赦されると言うような誤解から脱するべきだ。聖霊なき罪の赦しはない。聖霊がなく律法だけで神にちゃんと仕えたパリサイ人たちの本質は、天の民ではなくサタンであった (黙2:9)。聖霊なく、また聖霊の導きなく、肉と心の望むままにする信仰は、本質上は御怒りの子である(エペソ2:3)。それでキリストは“聖霊を受けなさい” (ヨハネ20:22)と言われた。“御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです” (ローマ8:11) 即ち、聖霊によって罪が赦され、死ぬべき体を生かして下さると聖書は語っている。

3 罪の赦しの真の目的 

“また、両者を1つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです”  (エペソ2:16)

“私たちは、このキリストによって、両者ともに1つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです”  (エペソ2:18)

“キリストも一度罪のために死なれました。…私たちを神のみもとに導くためでした”  (Ⅰペテロ3:18)

“その十字架の血によって平和をつくり…ご自分と和解させてくださったのです”  (コロサイ1:20)

“今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを 聖く、傷なく、非難されるところのない者として立たせてくださるためでした”   (コロサイ1:22)

“私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています”  (ローマ5:1)

“もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら…”  (ローマ5:10)  等々

上の節のように、罪の赦しの目的は、神と人間の間の和解にある。罪によって肉に (ガラテヤ5:19-21) 転落した人間を、アダム以前に復帰(神との交わりと和解の方法)できる唯一の方法は (ローマ5:17-19)、力でも能力でもなく、ただ聖霊の力と仲保によってできるのである (ゼカリア4:6)。つまり聖霊の力を借りずにはできない。

神と人間の間に罪が立ち塞がって、神との交わりができなかったが、旧約の時にはイスラエルの民の捧げ物を主管する祭司長、あるいは預言者のような特定の人だけが神と交われるようになった。そして、イエス様が罪の問題を処理されたことで、マルコの屋上の間での出来事以後、イスラエルだけでなく異邦人を含む誰でも聖霊を通して神と交われるようになったのである  (エペソ2:18)。

アダム以後、肉へと堕落した人間が(罪は我々を霊から肉へと転落させる)(創6:3))、神と交わる (和解) には義の衣を着なければならない。汚れた服では出て行けないように、罪の問題がきちんと処理されていなければならない。罪の赦しの目的は、神と人間の間の和解にある。罪の赦しの用途は、キリストの中で神との和解(交わり)にだけ適用される。

罪の赦しの範囲を、人間と人間のあいだで発生した罪の償いや報いの問題にまで適用してはならない。人間と人間のあいだで発生した罪、また神に犯した罪の問題は、被害を受けた当事者 (被害者) に対して、必ず罪の償い(報い)をしなければならない。こうした秩序と法則を真理と言う。これは、旧約時代の捧げ物の規定である罪過のためのいけにえの中に、絶対的に償わなければならない意味が内包されている。

4 罪過のためのいけにえ

罪過のためのいけにえは、5種類の捧げ物の中のひとつである(全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、任職と和解のいけにえ)。これは、供え物を、罪過のための償いとして捧げるいけにえであった。旧約の捧げ物のうち、罪過のためのいけにえが意味するのは賠償 (報い) である。これは気づかずに犯した事であれ、故意性のあった犯罪であれ、それに伴う賠償と報いをしなければならないと言う「植え、刈り取る」法則と、行ったとおりに審かれる創造主の公義を、罪過のためのいけにえに内包されたことがわかる。

1) 罪過のためのいけにえの凡例

  証言しなければのろわれるという声を聞きながら、彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負う。(レビ5:1)

●  人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、全て汚れた者に触れるなら…罪に定められる。(レビ5:2)

●  人の汚れに触れる場合、触れた人は汚れる。その人の汚れがどのようなものであっても、そしてそれに彼が気づかなくても、彼がそれを知った時には、罪に定められる。(レビ5:3)

●  人が口で軽々しく、悪いことまた良いことをしようと誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、それに気づかなくても、彼がそれを知った時には、これらの1つについて罪に定められる…犯した罪のために、罪過のいけにえとして…主のもとに連れてきて、罪のためのいけにえとした。(レビ5:4-6)

●  主がするなと命じたすべてのうち一つでも行なったとき。(レビ5:17)

  男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女であっても、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていないなら、彼らは罰せられる。(レビ19:20-22)

  主のものとして身を聖別する請願をしたが成就できなかったことに対する償いとして。 (民6:12)

  主の聖なるものに対して罪を犯したときは、それに五分の一を加える。(レビ5:14-16)

  人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいは落し物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど…の行為に対して、元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に返さなければならない。(レビ6:2-5)  等々

罪過のためのいけにえは、上の句節でわかるように、ある当事者がある種の損失を被った場合に要求される。どんな場合であれ、罪を犯した人は当然自分の罪を告白し、その失わせた財産の元の物を全部返し、それに五分の一の補償をし、また祭司のところに行ってその罪過のための供え物をしなければならない。弁償を受ける者がいなければ、その弁償された物は祭司の物となった(民5:5-10)。

罪過のためのいけにえは、捧げ物としてではなく債務として捧げられた。罪過のためのいけにえは、捧げ物の規定の中でも少し特種な罪に関して捧げられ、償いに対し非常に明確に提示している捧げ物の規定である。上記した罪過のためのいけにえの凡例の中で、1/5の補償をしろとあるが、1/5は何を意味するかを見てみよう。

2) 五分の一の意味とは

十分の一が主のもの、主の聖なる物という意味を持つように (レビ27:30)、五分の一の意味は1/5を支払う人の全ての物が、1/5を受ける人の権利、所有となると言う意味をもつ。創世記47章18~26を通し、1/5の意味するところを見てみよう。

“やがてその年も終わり、次の年、人々はまたヨセフのところに来て言った。「私たちはあなたさまに何も隠しません。私たちの銀も尽き、家畜の群れもあなたさまの物になったので、私たちの体と農地のほかには、あなたさまの前に何も残っていません。私たちはどうして農地と一緒にあなたさまの前で死んでよいでしょう。食物と引き替えに私たちと私たちの農地を買い取ってください。私たちは農地と一緒にパロの奴隷となりましょう。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生きて、死なないでしょう。そして土地も荒れないでしょう。」それでヨセフはエジプトの全農地を、パロのために買い取った。ききんがエジプト人にきびしかったので、彼らがみな、その畑地を売ったからである。こうしてその土地はパロのものとなった。

 彼は民を、エジプトの領土の端から端まで町々に移動させた。ただ祭司たちの土地は買い取らなかった。祭司たちにはパロからの給与があって、彼らはパロが与える給与によって生活していたので、その土地を売らなかったからである。

 ヨセフは民に言った。「私は、今、あなたがたとあなたがたの土地を買い取って、パロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたへの種がある。これを地に蒔かなければならない。収穫の時になったら、その五分の一はパロに収め、またあなたがたの食糧のため、またあなたがたの家族の者のため、またあなたがたの幼い子どもたちの食糧としなければならない。」すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。

 ヨセフはエジプトの土地について、五分の一はパロのものとしなければならないとの一つのおきてを定めた。これは今日に及んでいる。ただ祭司の土地だけはパロのものとならなかった。’

上記の御言葉に見るように、1/5が象徴する意味は、ききんによって全ての土地と共にパロの所有、奴隷となり、その証票として、土地の所得の1/5をパロに上納することによって主従関係が成立するという約束の象徴だ。1/5とは、1/5を支払う人の全ての物が、1/5を受ける人の権利、所有となることだ。1/5を通してわかるように、犯罪は、必ず被害者の所有となることを言う。罪過のためのいけにえの1/5の意味は、犯罪による代価は、犯罪者 (加害者) が、犯した罪に値する分を、被害者に最後の一つまで全部償うまで従属されると言うことだ。罪に対する償い (報い) は必ずしなければならないことを、罪過のためのいけにえを通して語っているのである。

ある人はこう論駁するだろう。

‘そのためにイエス様は、私たちの罪のために贖いの羊として来られ、私たちの全ての罪の代価を支払って下さったため、私たちは十字架の功労によって、神にも人にも罪の値に対しては支払わなくても良いと…’

しかし聖書では“血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです” (へブル9:22) と言っている。このように、神の公義と聖さは、人間に罪の代価を求められる。その代価をイエス・キリストが十字架上で贖罪のかたちとして支払われた。キリストを人類のための代贖の供え物とすることで、神はご自身の義を表わされ、同時にイエスのうちにある贖いによって、私たちは神との和解が成されたのである。

報いの問題は、本人自らが解決せねばならない。しかし聖霊に満たされた時、罪過のためのいけにえの補償の恵沢を見ることができる。即ち、聖徒が罪の代価としての報いを受ける時、聖霊は全面的に困難を助けて (救い) 下さるのである。(‘罪の赦しと報い’参照)

犯罪者は懲罰を受けることで自分の犯した罪の代価を解決できるが、被害者は依然と苦痛、死、損害等が残る。その被害に対する十分な満足を与えられず、権利を回復できないまま、そのまま残ってしまう。犯罪に対する十分な償いが成されてはじめて、被害者の満足が回復されるのだ。こうした罪過のためのいけにえを通して、神の公義がはっきり表われるのである。

罪の赦しの範囲と適用に対する誤解と偏見によって、聖徒たちが信仰生活をして行く中、現実によく起こる出来事の中に相当多くの矛盾を発見するようになる。

たとえば、AはBから損害を被ったとする。AはBから多くの損害を受けたにもかかわらず、Bからは、自分は神に悔い改めたから臆することはないと堂々としている。これはまさに聖書で“コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています” (マルコ7:11) と同じ、まったくあきれた話だ。

キリストのうちで神に対しては堂々と臆することはないが、人間同士では更に解決しなければならない。それで、損害を与えた分の賠償 (報い) をしなければならないのだ (マタイ16:19)。神は誰かの怨声があれば祈りを聞かれないため、聖書にも“もし兄弟に恨まれていることを思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まず、あなたの兄弟と仲直りしなさい。それから来て、その供え物を捧げなさい” (マタイ5:23-24)と言っているのである。

教会と聖徒はここで多くの誤解と混沌が起こっている。そして償いの問題を疎かにする傾向にある。特に現代教会の聖徒たちはこの部分で、神との関係においても、祈りと交わりが怨声と恨みによって塞がれている。

イエスの血で全ての罪は全部支払ったと言うが、罪過のためのいけにえが、捧げ物の中でも少し異なった種類の性質を持つ理由は、悔い改めと償いがきちんと成されるべきことを我々に教えているからである。ところが、ささげ物に対する無知により、報いを除き悔い改めだけが万能だと言う聖書解釈をしている。

聖書解釈のうち霊的解釈とは、内容の中の本質、真意を言う。つまり文字の中に秘められている真実、あるいは象徴の中に内包されているまた別の真意を見つけることを言う。これは聖霊だけができる聖霊固有のわざである。疑問の文字の中に秘められている真意、また霊的本質を見つける時、真の意味を悟ることができる。聖霊の助けのない人為的な霊的解釈は大きな危険を生むため、聖書を私的に解釈してはならないと言ったのである。文字的解釈だけでは表面的な信仰の仕方しかわからないため、真理の本質を見つけることはできない。従って幼い信仰に留まってしまうのである。

捧げ物の規定もまた旧約では“世々守るべき永遠のおきてとなる” (レビ17:7等)と言いながら、新約では神の御言葉を完全に廃解してしまうのか?この意味は、捧げ物の形式と外形は変わっても、本質は変わらないと言う事だ。旧約の捧げ物の規定などがそれである。

捧げ物の本質は、キリストのうちで、慈しみ (愛)、従順、信仰等を説明しようとしたものである。聖霊に満たされた時にのみ、この愛、従順、信仰に忠実にでき、満足することができる。ところが、慈しみ、従順、信仰を捨て去った捧げ物は、捧げ物の本質上何の意味もない。そして、その本質を見つけることを霊的と言う。

イエス様も霊に導かれた故に全知された。その内容の本質を知ることによって、捧げ物の規定、断食、例祭等の本質に忠実であることで神を満足させることができたが、パリサイ人たちは外形 (形式) への忠実だった為その本質を見ることができず、かえってイエス様に叱責され、神に敵対するサタンの集まりへと転落した。

今後、主が許されるままに、捧げ物の規定について一つ一つその言わんとする意味が何であるかを明らかにし、聖書の事実を糾明しようと思う。真理は、何を植えようとその通り刈り取るという法則がある。キリスト者たちは悔い改めを通して罪が赦され、神との和解 (交わり )は成立するが、人間と人間のあいだのあらゆる罪は、その罪に応じた報いが必ずあることを念頭において信仰生活に臨むべきである。キリスト教は、罪の赦しと報いを混沌させてはならない。もし報いに対して軽く見過ごしてしまえば、キリスト教没落の重大な原因の一つとなるであろう。

このメッセージを通して、聖書研究と信仰の多くの発展とともに、満ち満ちた身丈まで伸びるよう、主の御名によって祝願するものである。

ハレルヤ!  ただ主に世々限りなく栄光がありますよう  アーメン

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