我々はほとんど、聖書で語る信仰の水準に至っていないのに、漠然とイエスを信じ、程々に悔い改めれば罪の赦しと救いを得られるだろう…と誤解している。しかし教会のこうした教えによる信徒たちの信仰の水準では、罪の赦しは勿論のこと、救いに至ることも難しく、かえって聖書に対する偏見を招くだけだ。罪の赦しと報いの問題は、全てのクリスチャンの信仰を左右する重要な課題であるため、これをそう簡単に見過ごしてはいけない、

教理は人間が作った戒めである。それで神(創造主)はこれを“彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである” (マタイ15:9)と叱責された。このように教理はかえって聖書に対する矛盾と混乱を引き起こすため、全ての教会は速く聖書中心に帰るべきだ。カルヴィンが主張した予定論の5大教理の中の5番目に該当する、聖徒の堅忍論(Perseverance of The Saints)を見ると‘一度生まれ変わった人は永遠に救いを喪失しない’と言っている。

この教理は今日でも多数の論争につながり、今や一部のカルヴィン主義者たちも顔を背けている。それにもかかわらずキリスト教の一部の教派では、罪の赦しについて‘一度信じて救いに至れば、永遠に救いは喪失しない’と無理な主張をしている。つまり‘私たちはもう罪については、神にも人にも償うべきものは何も残っていません、なぜなら私たちに祝福を下さったイエス様が、十字架の死によって完全に私たちの罪の代価を代わりに支払って下さったからです’と言う、罪の赦しの間違った聖書解釈によって、聖徒たちをして罪に対し油断させ、怠惰の中を漂流させ滅びる手助けをしている。

これはまるで、農夫が春に種を蒔き、苗を植えただけで、農作が全て終わったから、あとは刈入れをするだけで良いと言う虚言と同じだ。刈入れをするには、田植えの後にも持続的に草取りや肥料と農薬を与え、一生懸命手入れをしてこそ、秋に豊かな収穫を得られるのが当然なすじみちだが、‘一度信じて救いに至ればその救いは永遠に喪失しない’と言う無理な論理は誤った教理である。聖書を偏見に照明し、多くの聖徒を滅びに導く重大な過ちだ。

信仰とは、農夫のたとえのように、持続的に聖霊の導きを維持しながら、神と共に生きる中で成長して行くものである。ところが、一度の罪の赦しで、まるで全て成し遂げ完成したかのように真理を歪曲している。このような、報いを除外した罪の赦しに対する教理が、今までキリスト教を甚だしく腐敗させた最も大きな要因の一つとなっている。

キリスト教はこれまで、罪の赦しと報いの関係について、相反する異見と論議で混沌としてきた。ここで聖書が語る正しい意味の罪の赦しと報いの関係を言及してみよう。

1 罪の赦しと報いの関係(一段階の罪の赦し)

“御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです”  (エペソ1:7)

“この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています”   (コロサイ1:14)

“主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです”  (Ⅰヨハネ2:12)

“私たちのすべての罪を赦し…”  (コロサイ2:13) 等々

こうした御言葉を根拠に、悔い改めだけで罪の赦しを得るゆえ、罪については神にも人にも償うべきものは何も残っていないと伝えている。

我々はここで一旦、罪の赦しがなぜ必要であり、どのように適用されるのか知る必要がある。人間はアダム以降、罪によって神との交わりが断絶した。その後人間は堕落し、堕落した姿は、結局肉へと転落したため、神は“わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。これは人が肉にすぎないからだ” (創6:3) と宣言された。

人間が肉へと転落したと言うのは、肉の行ないの“不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興” (ガラテヤ5:19-21) の罪を指す。これによって人間は神との交わりが断絶した。

このように、肉にあって神との関係が切れた人間を、罪から救い、再び神との関係を回復させるために、預言者たちの預言どおりイエス・キリストを送って下さった。イエス様が和解のいけにえとして十字架上でたった一度の死によって流された血の代価、つまりイエスの血 (聖霊) によって罪が赦され、旧約の捧げ物の規定を全て応ずることで、はじめて神と人間との関係が和解するようになった。

“御子の死によって、神と和解されたのなら…”  (ローマ5:10)

“御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました”  (コロサイ1:22)

“また、両者を一つのからだとして、十字架によって、神と和解させるためなのです”  (エペソ2:16)

罪の赦しの前提は、神と人間の間で成立する。それによって人間と神の関係が和解 (交わり) するのである。即ち、罪の赦しの結果、聖霊の仲保によって神と交われるのである。これを一段階の罪の赦しと言う。

一段階の罪の赦しは、人間の罪が消滅することにより神との交わりが可能となる事を言う。その次に神と人間との交わりが成される。この時はじめて聖霊が下るのである。このように聖霊が下ってはじめて、聖徒は信仰全般に必要な力 (愛、喜び、平安、各種の恩賜、啓示、知恵、許しと罪に勝つ力) を上から受けるのである (使2:38)

これは通信販売と同じで、必要な品物を購入しようとすれば、まず通話をして品物を注文しなければ配達されない。このように、罪が赦されて神との交わり(和解)が成立すれば、次は信仰に必要な力を求め、信仰生活に活用するのである。

使徒パウロの“私は、ほんとうにみじめな人間です” (ローマ7:24)と言う告白は、人間は罪によって倒れる弱いみじめな者だと言うことを強調したのである。その罪に勝つには、イエスの血である聖霊の力を上に着なさいと言うのが、パウロの信仰の核心である。このように聖霊は、罪に対して弱く倒れてしまう人間を、聖霊の力で、十分な信仰、愛、知恵、力、善、啓示等で、神の戒めを守れるよう、力をもって助けて下さるのである。

聖霊なき罪の赦しはない

これまで罪の赦しについて聖書を誤解したのは、聖書は、聖霊を受けた者を前提に記されているからだ。これを念頭に置いて正しい解釈をしなければいけない。

たとえば、かぜ薬の説明書には薬効について効能が書かれているが、説明書を見るだけでは効き目は現れない。患者がその薬を飲んだ時にその薬の効能が現れる。そのように、信仰、罪の赦し、悔い改め、救い等も、聖霊を受けた者、または聖霊が求める水準に達した聖徒がその恵沢を見るのである。

しかし聖書が求める水準に至らずにこうした恵沢を見ようと言うのは、説明書を見ただけで効能を得ようとするのと同じだ。これは、女性が一人では子どもを産む事ができないように、聖霊なくしては罪の赦しは得られないのである。

2 罪が赦された後も報いはある

(創造主) と人間との関係は、悔い改めをもって聖霊によって罪が赦され、霊的には神との交わりが成されるが、‘神と人間との関係で発生した罪’と‘人間と人間との関係で発生した罪’は、その罪に対する代価、つまり報いを別に受けなければならないと聖書は言っている。

“生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか”(哀歌3:38-39)

“肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました”(Ⅰペテロ4:1)

たとえば、子どもが道でボール遊びをしていて、Aという人の家のガラスを割ったとしよう。子どもの親はAに申し訳ないという謝罪の言葉と共に、割ったガラスの代金を弁償することで和解が成立する。このように、罪の赦しの問題も、霊的には悔い改めれば罪は赦され、神との交わりは成されるが、神と人間との関係、人間と人間との関係で、生じた罪の代価、つまり報いは必ず受けるようになっている(Ⅰペテロ4:1)

 報いとは

今までキリスト教は、イエス・キリストの十字架の功労によって赦される罪の範囲がどこまでで、赦されない罪は何かについて多くの疑問があった。しかし新約聖書だけではこうした疑問を満足させる回答が得られず、これまで牧会者たちは各教派の教理と自身の主観的見解で、無条件に罪は赦されると解釈してきた。だが問題は、聖徒たちが牧会者の説教を通して得た真理では、実際の生活と一致しない多くの矛盾があると言うことだ。特に、信仰によって罪が赦されたなら、罪の価として来る災難や苦痛は来てはならないのに、実際的には生活の全般にわたって起こる多くの病気、災難、失敗や挫折、苦痛が絶えないのはなぜか?では真理が間違ったのか!

実際生活は、罪を犯したことによる神からの懲罰なのに、これを無視したまま、自分で鍛練中だと無理矢理に合理化する。こうして聖徒たちは多くの疑念の中で、信仰と生活が別々、御言葉と現実が一致しないという混沌の中で矛盾した信仰生活をする。一部の教会で主張するとおり、一度信じて救われた者(罪の赦し)は、永遠にその救いを喪失しないならば…その教派では罪を犯すなと言う説教はいらなくなる。こうしてキリストの教えと二律背反的な結果をもたらす彼らの教理の矛盾について、聖書的に正しい見解が何であるか調べてみよう。

    報いとは、ある行ないに対する償い、または報復についての聖書的概念を言う。

新約聖書では、ギリシャ語)‘ミスドオ’を使用しているが、第一の意味は‘一定の値を支払う’であり、従属的意味は‘補償する’である。‘キリスト教失敗の原因2’でも述べたように、聖書では、善、悪両方の行為と全ての罪に、さばきと報いが前提となっている(エゼキエル7:3,8,27,Ⅱコリント5:10,オバデヤ1:15)。これに応じた償いが必ず成されると語られている。

“人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります”  (ガラテヤ6:7)

と、あるように、罪は赦されても、自分が行なった罪の値に対しては、どのような形態であれ報いは必ずついてくるという事実を知るべきだ。神の属性の中には、愛と共に、報いの神であると聖書は記している。

“主は報復の神で、必ず報復されるからだ”  (エレミヤ51:56)

“神は、人の行ないをその身に報い、人にそれぞれ自分の道を見つけるようにされる”  (ヨブ34:11)

“おのおのその行ないに応じて報いをします”  (マタイ16:27)

“不正を行う者は、自分が行なった不正の報いを受けます”  (コロサイ3:25) 等々

 報いに対する償い方法

聖書に1万タラントの借りのあるしもべが、王に全額を免除されながら、自分に百デナリの借りのあるしもべ仲間には、その借りを免除してやらず、獄に投げ入れた。その成り行きを聞いた王は怒り、そのしもべを再び捕え、1万タラントを全部返すまで獄吏に引き渡したと言う比喩がある (マタイ18:23-35)。このように、自分の罪は赦されることを願いながら、人の罪を許さないなら、結局自分の罪も神から許されないと言うことを知るべきだ。

ザアカイが、だまし取った物に対して4倍にして返すという決心の中で救いを得たように (ルカ19:8)、悔い改めは、自分が犯した罪に対して4倍にして返すという心の誓いだ。“我らに罪を犯した者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ” (マタイ6:12)とあるように、私がまず悔い改めを通して赦しを得、また私が犯したのと同じ罪を人が私に犯したら、それを許してあげることによって私の罪が赦されると言う、償いまたは報いの法則がある。これが真理だ。

神からは罪を赦されても、その罪に応じた報いは必ず受けるという事実、つまり罪の赦しと報いは別個の問題だと言うことを‘バテ・シェバを犯したダビデ’と‘イスラエルの民と12偵察隊’の二つの例を通し聖書はきちんと説明している。

バテ・シェバを犯したダビデの例  (Ⅱサムエル12:1-15)

ダビデがウリヤの妻バテ・シェバを犯した後、神は預言者ナタンを送り、ダビデの罪を指摘すると、その場でダビデは自分の犯した罪を悟り、神の前に罪を告白した(詩51)。 しかし問題は、神から罪は赦されたが、その罪に対する報いの問題(罪の値)がそのまま残っていることだ。

“私は主に対して罪を犯した。主もまたあなたの罪を見過ごして下さった…

あなたに生まれる子は必ず死ぬ…”  (Ⅱサムエル12:13-14)

ダビデはバテ・シェバを犯した罪を悔い改め、神から罪は赦されたが、報いの次元で罪の値として3つの報復を受けたのである。

①今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。

②あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。

③あなたに生まれる子は必ず死ぬ。

スラエルの民と12偵察隊の例民14:19-33)

イスラエルの民がカナン征服に先駆け、12名の偵察隊をカナンに送り偵察した後、偵察隊の中でヨシュアとカレブ以外の残りの10名が、その地を制服することは難しいと報告すると、イスラエルの民は出エジプトを通して主の数多くの異蹟や奇蹟を見てきたにもかかわらず、神を信じず、モーセとアロンにつぶやくや、神はイスラエルの民を滅ぼすと言われた。するとモーセが民の罪を赦して下さるよう懇請し、その結果イスラエルの民は罪の赦しは得たが、報いの問題はそのまま残った。

 “あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦して下さったように…許して下さい。…わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかし、…この荒野で40年の間羊を飼う者となり…あなたの背信の罪を負わなければならない”  (民14:19-33)

イスラエルの民はモーセの祈りによって、神から罪は赦されたが、その罪の値として2つの報いを受けたのである。

①ヨシュアとカレブ以外の、20歳以上の登録された全ての民は、カナンの地に決して入れず、死体となってこの荒野で倒れると言われた。

②40日で入れる道を40年間の苦痛な荒野生活へとつながった。

このように聖書で2つの例を見るとき、特に注目すべきことは、悔い改めをもって罪は赦されたが、その罪に対する報いはそのまま残っているため、完全な赦しではないことを端的に説明している。

3 完全な罪の赦しとは( 2段階の罪の赦し)

神は霊である。霊であられる神と交わるには、我々も霊に属さなければならない。霊に属するにはイエス・キリストの血 (聖霊) で生まれ変わらなければならない。即ち、聖霊に満たされることで神の性品である霊に達し、その時はじめて神と和解できる。しかしこの時、霊では神と和解し交われるが、私たちの肉はそれまでの罪の値に対する報いとして、患難と苦痛がついてくる。

こうした患難の中で、完全な罪の赦しの救いを得るのは、それは聖霊に満たされることで成就できる。聖霊に満たされれば、聖徒の心がその力によって義と平安と喜びの中にあり、報いを受ける間も、大変さや苦痛を全く感じることなく、患難の中でも聖霊の喜びをもって御旨を受け、むしろ感謝と賛美の中で楽に報いを支払って行ける。

“あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました”   (Ⅰテサロニケ1:6)

これを2段階の罪の赦しと言う。これは聖霊の力を受けて報いを支払っていくことである。しかし聖霊に満たされていない信徒は、自らの力でその罪の値を支払わなければならないため、罪に対する苦痛や苦しみをそのままの強度で本人が全て感じながら償っていくのである。

このように、聖霊と報いの苦痛は反比例する。

たとえば、手術を受けるのが報いだとすると、患者が手術の時、麻酔をして手術をするのか、麻酔をしないで手術をするかの違いだ。聖霊充満なら麻酔注射をするのと同じで、いつ手術をしたのかわからないうちに手術が終わる。聖霊の助けなく自ら罪の値を支払う時は、麻酔をせずに手術して、その苦痛をまともに感じる違いだと言える。このように完全な罪の赦し ( 2段階の罪の赦し) を得るには、聖霊に満たされていなければならない。

“聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります ”  (ヨハネ20:22-23)

“私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは、神の豊かな恵みによることです。”  (エペソ1:7)

しかし哀しいことに、多くの聖徒が聖霊の役割をはっきりわからず、2段階までの罪の赦しの恵沢を見られずにいる。

4 赦されない罪

聖書では、赦される罪と赦されない罪があるとはっきりと語っている。ヨハネの手紙第一5章16~17節を見ると‘死に至る罪’と‘死に至らない罪’を区別しており、前者のためには求める必要がないと、使徒ヨハネは語っている。これはつまり、罪の赦しを得難いと言う意味を内包している。

赦されない罪とは次のとおりだ。

①聖霊に逆らうことを言う者。(マタイ12:32)

②聖霊をけがす者。(マルコ3:29)

③聖霊を冒涜する者。(マタイ12:31)

④聖霊を侮る者。(へブル10:29)

⑤真理の知識を受けて後、罪を犯し続ける者。(へブル10:26)

⑥聖霊にあずかる者となって、堕落した者。(へブル6:4-6)

このように聖霊に逆らう事とけがす事、聖霊を冒涜、侮る者、真理の知識を受けた後罪を犯し続ける者、聖霊にあずかる者となって堕落した者…等の罪を犯した者たちは赦されないと聖書は規定しており、その刑罰は免れないと言っている。

これまでキリスト教が多くの混沌の中にあったのは、罪の赦しと報いの関係を誤解したために起こった。つまり悔い改めだけでどんな罪でも赦されると言う誤った教えと、報いの問題をあまりにも疎かにした結果、今日のような、キリスト教の混沌と腐敗を傍助する決定的要因となった。今キリスト教は、罪の赦しと報いの関係をはっきりと証し、教会と信徒たちの放縦と腐敗を防がねばならない。

ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン

[関連メッセージ]

聖霊なき罪の赦しはない [2]