獣の数字6.6.6と偶像崇拝 [3]


3 祈福の偶像へと流れたキリスト教

 我々はよく1960-70年代に信仰のために苦労した聖徒たちが、今は生活が安定し安楽な生活をするのを見る。彼らは、今の安楽な生活は、あの時の苦労の当然なご褒美だと考える。そして自分たちの信仰の武勇伝を自慢げに証し、その楽しみで教会を守り、優越意識を持っている。勿論これが全て間違いだとは決して言わない。だが、彼らの信仰の証しが、今日の韓国教会、また世界のキリスト教を偶像崇拝の病にし、神の御怒りを買うようになった要因である。

 生きる方式において、キリスト者と世の人の概念は、互いが反対の構造方式を持ちながらも、生きると言う一つの目的で対面し、互いが一団となって生きて行くしかない社会的な動物である。その方式において、まずこの世の人は、私が生き残るには人を倒さなければならないが、キリスト者は、私が生きるためには犠牲となり、つらいの一言も言わずに死ぬのである。この世の人は、人のものを奪って生きるが、キリスト者は、彼らが求めるならそのままあげなければならない。このように互いが異なった生の方式がある。

 この世は、厳密に問えば、我々は主人ではなく寄留者で、この世の主人はこの世の人々彼らである。我々は本郷を求めて行く寄留者に過ぎないのに、そんな寄留者がまともな精神を持っているなら、他人の土地、外地で、土地ひとつ貰って居候しながら所帯を構え、子供たちに財産まで残し  (詩 17:14)、肩で踊りながら生きる理由がどこにあるのか。この世で安楽に美味しい物を食べてよい暮らしをすることは、神からの祝福であることに間違いはないが、本当に忠誠たる者であれば、成長した信仰をするためにその祝福を返納し、再び霊的なものに取り替えるべきであろう。

 成長した信仰とは、富貴、物質、名誉・・・等が、なくて享受できないのではなく、得る権利がありながらも自ら放棄し返納することだ。それは彼らが愚かでそうするのではなく、賢明で知恵があるため自ら選択するのである。(使徒パウロが明言した言葉とソロモンが悟った悟りの中で敢えてひと言いう)  この世の富貴、名誉・・・等は、キリストに仕え信仰するにおいて、かまれれば死ぬ毒蛇の毒と同様、百害無益である。その毒にかまれれば、常に神よりは自分を頼るように誘惑し、また目は、神よりこの世に向かうよう斜視にし、ちょっと油断すれば、私の足はいつの間にかこの世の方 (人本)  に向かっている。いつも神だけを思い同行したいなら、この毒を遠ざけ、使徒パウロがコリント教会に神の力が留まる方法を明言したように、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難を喜ぶべきである  (Ⅱコリント 12:10)。これが、我々を神のそばに導いてくれる完全なる保護幕であり、神に向かうようにする原動力となるからである。

 誰がこうした生き方を望むだろうか。しかしこの方法が、聖徒たちがこの世の中で神のそばに行くことのできる最も良い、速い列車に乗る事である。この状況になると、私の目や私の口、私の全てのものが、自ずと神を探し求めている凄絶な自分の姿に出会うようになる。主のしもべは、自分の弱さを本当に喜ぶべきで、苦痛、迫害、孤独を愛さなければならない。こうした状況は怖く、嫌で、その荷は手に余るほどだが、少しだけ忍耐すれば、キリスト教本質の世界である天国の門が私の前に開き、万物が新しく見え、美しい歓喜の世界の中にいる、天国の主人公としての自分を再び見るようになる。まさに聖書が紹介する世界、即ち、天国、神の国である。

 祈福信仰は甘美で尤もらしいが、こうした天国への進入ができないよう足首をつかんでいるもので、祈福信仰の正体は偶像崇拝である。祈福信仰はまるで、砂漠を通る寄留者にとって、腐って汚染された水であふれたオアシスのようなものだ。初めに来た人たちが、今到着した人たちに、「ここがこの世の最後だ。あなたたちが望んだ所だから、これ以上どこかに行く考えを起こさずにここで住もう」と言って誘惑し、それ以上行けないよう足を全部切断してしまう行為と同じだ。このように、キリスト教信仰の実体を見ることができないようにして、現実的な祝福に安住させてしまうため、これを偶像崇拝と言うのである。

 祈福信仰の根幹を、旧約から抜粋しよう。神は幼い信仰者に、人間的な現世の祝福と御怒りを通し、直接目で見て感じることで、愛する者たちに神の存在 (力なる全知全能性) を認めることができるよう教育される。旧約時代のイスラエルの民たちには、常にこうした方法で教育されたが、彼らに使った現世的な物質祝福は、神を知らせ真理に導くための信仰教育用教材として使われたのである。簡単に説明すれば、ユダヤ教の幼い信仰に、ご褒美、罰を通じて、正しい間違いを教えたのだが、頭が明晰でなかったイスラエルは、バプテスマのヨハネまで終始御怒りばかりをたくさん受け、神の存在ははっきりと認識し刻印されていたが、恐ろしい神として認識されただけで、完全なる愛を学べなかった。

 このように幼い信仰の、旧約のイスラエルの民たちに使われた信仰訓練方法を、霊的信仰へと成長した新約時代のキリスト教に適用しようとするのは、キリスト教に対する誤解である。だが今も、未熟児の水準の祈福信仰を仰ぎ扇動している。今は露骨に、我々に祝福を下さる神としてだけ登場させようとし、キリスト教信仰において物質的祝福は、その人の信仰の尺度だと言う等式を持つまでに至った。祈福信仰をこうして扇動することは、聖徒と神の関係を正しく持てないようにし、神に対する真の知識到達を妨害することである。イエス・キリストが語られた「幸福の使信」の慨念が、現世祝福の概念であったのかを詳しく調べてみることを願う。自分たちの信仰が霊的だと言いながら、律法信仰で使われる現世祝福をむさぼるなら、その人はキリスト教信仰を誤解しているのである。

 ● キリスト教の祝福は霊的な恵み、聖霊を心霊に注いで下さることだ

 人間が、私は幸せだ、不幸だと感じるのは全て心霊、即ち心の中で起こるものだ。つまり心の作用によるものである。異邦宗教もはりこれを強調している。それなのに最高の宗教であるキリスト教が祈福信仰を求めるとは、今、何をやっているのだろうか。イエス様が語られた祝福、つまりキリスト教の祝福は、各自が置かれている状況と立場の中で、心の平安と安らぎの祝福をもって、我々の心霊で覚え感じるようにして下さる恵み、その祝福を語られたのだ。求めなさい、たたきなさい、探しなさい、そうすれば聖霊をあなたがたに与えて下さらないことがあろうか (ルカ11:9-13)と、霊的祝福である聖霊を我々の心に注いで下さると言及している。このように、キリストが語られ、使徒たちが語った祝福の概念は、現世的物質祝福ではなく、霊的祝福なる聖霊を受けることを言うのである。律法的信仰者たちは、これくらいで何の祝福なのだと根拠もなく反発するが、しかし聖書は全て (新約)、霊的祝福に焦点が合わされている。

 この世の人々は、なぜそんなにロマンスを好むのか。第三者の立場で見れば、ロマンスで金が出て来るのか、名誉が出て来るのかと言うが、愛に陥った若い青年たちは「死んでもいい。名誉、財産、それだけでなく親まで捨ててもいい。命をかけて死ぬまで愛する」と言う。何かにすっぽり覆いかぶさっているゆえ、愛は涙の種だと言う名言まで作られた。このように、ロマンスの熱病にかかり中毒となった理由は何であろうか。それは、人の世の美しいこと、悲しいことがロマンスの中にすべてあり、それは幸福と替えられないある世界のためだ。人間のロマンスをもそんなにも好み願うのに、ましてや聖霊充満の世界がどれほどであって天国だと言ったのか。イエス様が紹介されたその天国とは、人間の如何なる言語も比較できない、それ以上の如何なる修飾語も必要としない、人間の生において人間の喜楽の極致であることを知るべきだろう。

 聖徒が現世において受ける最高の祝福は、聖霊充満である。これは、天国、天の御国が直接私の心霊で築かれることだ。神と常に共に生活する地上の楽園が人間の心霊で起こるのである。そうした世界を味わえば、いつも真実の中で何事にも満足し満たされる。また何がそんなにも誇らしく満足なのか、全ての万物がほのかに高尚で美しく、また全てが尊く、感激と歓喜の涙で感謝する。ひとりの方だけを賛美する、そうした喜びの涙の毎日である。どうしたらその方を喜ばしてあげられるか研究し、探し、そうできない事が本当に苦しく嫌である。それは隣人への愛へと連結する。物事の中でも、動く行動の中でも、はっきりと神と会い、見て、聞いて、このように共に生きることだ。見るほど玄妙で美しい世界である。この世の財産や名誉は私とは何の関係もない。財産や名誉はこの世のものであるゆえ、この世では威厳や力が現われることもあるが、天国の中では、道端に生えた雑草ほどの価値もない。これを知らずに聖霊のしもべだと決してみだりに言ってはならない。

 天国は12の宝石で表現され、その宝石の一つずつ象徴性を持っている  (黙 21:19-20)。この世界は聖霊を受けた者にしかわからない奥義である。人間の概念や言語では霊的世界は決して表現することも説明することもできない世界だ。それでイエス様は、全て比喩でもって宝石によってこの世界を証しされたのである。むしろ苦難を喜び、現世的な福を捨てなさいと教えられたにもかかわらず、キリスト教はその教えを歪曲した結果、キリスト教を異邦宗教化させてしまった。全ての教会はみな福を受ける為に教会に出席する。神様はまだ十分に利用価値がある。私に福を下さる力があると思うから教会に出席する。待っても自分たちが願う希望が成就しなければ、彼らは神はいないと決めつけてしまい、信仰を捨て容赦なく去ってしまう。この境地を作り上げた理由と原因は、聖霊の運動と共に、キリスト教は福を受ける宗教だと言う祈福信仰が座を占めるようになったためだ。それは、神に福を祈って福を得たいと言う、人間の内面の奥底にあった本能だ。この本能によって数多くの偶像崇拝につながっているのである。キリスト教内での祈福信仰は、神を、ほんとに悲しく悲惨にしていると言うことを、どうか本当に知るべきである。

 たとえば、ある能力のある男性が、ある女性と結婚しようとする。男性はこの女性を真心から愛しているが、女性は男性をちっとも愛していない。単に結婚の目的はその男性のお金であり、女性の頭の中は常にどんな口実を探してでもお金をねだることしかない。ある日この男性が交通事故で意識を失い救急室に運ばれた。電話を受けて走って来たこの婚約者の女性は、意識を失った男性の肩をつかんで揺さぶり、「前に約束したこと必ず守れるんでしょ?何で運悪く今怪我するの。交通事故に遭うにしても私との約束が済んでからなら良かったものの。」こんな話はあまりにも誇張で現実性のない話だとも言えるが、霊の目を開け、耳を傾けて神の絶叫を聞いてみよ。また、神の目からは血の涙が流れているのを感じてみよ。今、我々が行なっている信仰は、全てこのように神を悲惨にさせているにもかかわらず、聖徒たちはすべて自分の福と安寧だけにしがみついている。

 神は、わたしがいつあなたたちにそんな約束をしたのか、霊的祝福を話したのであって、現世的な福を話したのか、また現世的な福は、ユダヤ教のとても幼い弟たちに学ばせる為に与えようと準備したお菓子だったのに、すっかり大きくなって成長した者たちが、親のことは手伝わず、小さい弟たちのように、毎日お菓子お菓子と口癖のように言っていると、神は、低脳児、背倫児を持った父母の心情の如く、心は真っ青な血の痣となっている。現代での物質の祝福は、西欧の多くの国で、宣教の必要に応じて伝道の為に下さったものなのに、その物質の祝福が間違って活用され、キリスト教を世俗化させてしまった。その物質の福は安楽をもたらし、その安楽は怠惰をはらむ要因となり、怠惰は簡単に神に仕えようとして人本主義を量産した。

 人本主義は、神本主義  (聖霊の御心に従う導き)  に代えてキリスト教の没落をもたらした。今後、必ず東南アジアの多くの国で、韓国で起こった聖霊の役事が再び起こるだろう。その時、韓国キリスト教の失敗の原因となった祈福信仰を教訓とし、彼らを導き指導しなければならない。韓国キリスト教は、量的には1200万の聖徒を自慢する。しかし果たして何人用いられる者がいるだろうか。すべて壊れだめになってしまった。特別に神は、バアルにひざまずかない残した7千名の義人を準備したと言われた。この世代にも、どこかに彼らはいるだろう。このメッセージを見て心が熱いなら、まさにその本人である。その人たちは聞いて立ち上がり、この福音を伝えよ。見て聞くことのできること自体が恩寵である。聞いても伝えない者は自分の為だけのものであって、十字架の道に背く背信行為と同じである。

 今キリスト教は、主に従って使命を果たすのか、それとも豊かさに従ってこの世の安楽に陥ってあえぐのか、二つに一つを各自が選択しなければならない。二股信仰と言うのはキリスト教信仰にはない。ともすると極端に駆け上るようだが、神は、我々の信仰が冷たいのか熱いのかを望まれる。人間はこうした信仰の求めには常に中立を好み、便利な方に安住しようとする属性があるため、神は信仰の関係においてだけははっきりしたことを求められる。こうした決定は、命をかけなければできない決断である。神はこの答えを聞くために、命を捨てなさいと初めから語っておられる。

 キリスト教は祈福という偶像を捨て、キリスト教本来の姿である聖霊 (愛) へと帰らなければいけない。つまり聖霊の導きの中で、神の御心をわからないまま人間自身が自らのために神だと考え、想像で作った偶像を壊さなければならない。旧約の時には金の子牛を作って神の宝座に座らせ、神であるかのように淫らに仕えたように、今は人間たちが作った人間の戒めである神学と言う形を作って偶像崇拝をしている。偶像崇拝は、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」と言う第二の戒めに背く行為である。偶像の中には何の力も助けも息もない、空しく無謀な沙汰に過ぎず、純粋な信仰を破壊する行為でしかない。キリスト教が成長した霊的信仰へと跳躍するには、まず初めに、神のように徹底して盲信した神学と言う偶像打破が実現されなければならない。そしてキリスト教本来の姿の聖霊 (愛) へと帰るべきである。

 ● 霊的信仰のためには教会に帰るべきだ

 聖霊の導きは、教会を離れてしては大変危険である。聖霊の導きは、教会の中でのみ全て実を結び結実するため、もうさ迷わず皆教会に帰って、真のキリスト教の姿である聖霊による霊的信仰を準備するべきだろう。自身が本当に聖霊の導きを受けることを願うなら、教会が自分の気に入ろうとなかろうと是非を問うてはならない。霊的目を開いて霊的武装が出来るよう、まず牧者を祈りによって立てなければならない。そうしてこそ自分がその口から出る霊的御言葉によって生きるのである。それが聖霊のある教会であれ、ない教会であれ是非を問わず、たとえ霊的に廃墟になっていたとしても、再び教会を建築する為には、煉瓦一つ一つを自分の手でまず片付けることから始めなければならない。

 教会は自分の親のような所だ。その親が自分に役割を果たしても果たせなくても、私にとってはずっと親であるように、教会も同じである。従って教会をやたらに移ってはならない。教会は、恰も軍人たちが補職を任されて勤務地に配置されるのと同じで、そこの所で教会に仕えるべきである。それが国家に忠誠を尽くすことと同様、神に忠誠をつくし敬畏することである。(許されるままに教会論で言及する)

 特に職分を与えられた者は教会と苦楽を共にすべきだ。霊的へと進むには牧者の為に、自分が霊的に成長したい分、命がけのとりなしの祈りをしてあげることである。霊的成長を沢山したいなら沢山するべきだ。出来ることなら、命を尽くして祈れば、牧者はその祈りによって、祈りの量に応じて霊的に再び生きて活動するのである。従って霊的生活は絶対一人では不可能であり、教会と共にするものである。韓国の聖霊運動失敗の原因は、一人で霊的生活をすると言うのが発端となり、教会を離脱した祭壇主義がその原因であり、また教会牧者たちの霊的無知の為であった。今、教会は急な変化を要するのではなく、時間をもって少しずつ霊的信仰へと成長しなければならない。

 以上のように獣の数字6.6.6は、人間の理性で形成された全てのものを言う。アダムの堕落以後、神との交わりが断絶することによって、神を知ることのできる霊が排除された人間たちは、その時から魂つまり理性単独の生を生きるようになった。このように、理性単独で形成された全てのものを、獣の数字6.6.6と言う。従って理性による哲学の方式をキリスト教に導入した神学もやはり、獣の数字6.6.6である。

 キリスト教は愛という戒め一つを持って歩む宗教だ。ところが愛という戒めをどこかに投げ捨ててしまい、人間たちの戒めの教理が入って来て、これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ  (出エ 32:4) と言って、まるで教理が神であるかのように自ら形を作って仕えながら、淫らに偶像崇拝をしているのだ。今キリスト教が生きる方法は、偶像崇拝を脱ぎ捨て、唯一聖霊充満を通し聖霊の導きを受ける以外にはない。そのためにはまず神学者、牧会者たちが、獣の数字6.6.6による神学 (教理) と、祈福と言う偶像を捨て、聖霊の導きを受けて霊的信仰へと転換されなければならない。

 この時代を生きて行くしもべたちは、私がなぜそれほど神学を否認するのかを理解する必要があろう。これは、私個人の知識による決定や主眼から出たものではない。今も私を主管されるイエス・キリストが、どうかわたしの十字架の功を空しくせず正しく伝えてほしいと言う、懇切な慟哭の涙の御言葉があった故、それを私の使命とし、私の命を投げ捨てて伝えるのである。今キリスト教は聖書に記されている ‘その日の後’ と言う約束された預言に従って、‘その日の後’ から始まる信仰、即ち聖霊の導きを受ける信仰をする時のみが真のキリスト教であり、真のキリスト者と言えるのである。(‘キリスト教とはどんな宗教か’ 編 参照) 黙示録の14万4千と言う数字は象徴性を持っているが、この時代の全ての牧会者たちが早く霊的成長をして、14万4千の班列にみんな参席出来るよう切に願うものである。

    万物の創造主よ!ただあなただけが世々限りなく栄光を受けられるべき方です。

    万物よ!創造主なる神をほめたたえよ。ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!

    世々限りなく主に栄光あれ  アーメン

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