獣の数字6.6.6と偶像崇拝 [2]


2 偶像崇拝

 ● 偶像崇拝とは何か?

偶像崇拝は、肉的偶像崇拝と霊的偶像崇拝に分けられる。肉的偶像崇拝が、一定の形状物や異邦神に仕えることであれば、霊的偶像崇拝とは、信仰によって生きなければならないキリスト者たちが信仰を捨て、簡単なこの世的方法で生きることを言う。また人生全般を通し (物質的なことであれ、精神的なことであれ) 神よりそれらをもっと愛することだと定義できよう。

信仰にあって神を信じないと言うのは、この世に従って生きることを言う。それはつまり悪霊 (サタン) に仕えると言うことだ。また、神の戒めなる愛を行なっていないか、または、行なえないと言うのは、悪霊のしもべとして悪霊の支配下にいると言うことで、それは悪霊に仕える偶像崇拝をしていると言う簡単な論理である。信仰とは、時には峻厳で冷徹な極端的選択によって、するのかしないのかと言う、瞬間ごとの決断が要求される。信仰の優柔不断は中立路線信仰を生む。中立信仰はつまり偶像崇拝を意味するもので、こうした次元で見れば、現代キリスト教は徹底した偶像崇拝をしているのである。肉的偶像崇拝として旧約の代表的な金の子牛の出来事を照明してみよう。

1) 金の子牛の偶像は今日の教理を意味する

“アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」それで民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼はそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。”(出エ32:2-4)

まず、金の子牛を偶像とした事件を見てみると、モーセが山から下りて来るのが遅かった為、エジプトから自分たちを導いてくれた人がどうなったのか音沙汰がなくなるや、イスラエルの民たちはアロンに‘私たちに先立って行く神を造ってください’と要求した。アロンは民たちに、妻と子供たちの金の耳輪をはずして持って来るように言い、その金の耳輪で子牛の形を作ったのだ。モーセがイスラエルの民たちをエジプトから導き出す過程で起こった、金の子牛偶像事件だ (出エ32:1-8)。この出来事を霊的に見られるようになれば、その民たちは他でもない、神の命じた愛の戒めを捨て、神学によって信仰する現キリスト者たちであることがわかるようになる。

 金の子牛の聖書的象徴:‘早くも彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために’と言う意味だ。イスラエルの民たちがアロンを通じて金の子牛を作り、淫らに仕えるや、神はモーセに‘彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を作り…’と叱責された。このように金の子牛の聖書的象徴は、金の子牛を作った目的の、‘早くも彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために’と言う意味で、神の戒めを捨て、自身の利益の為に行なう信仰を象徴し意味している (出エ32:8)

鋳像の定義は‘偽りを教える者’である。

“彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が何の役に立とう”  (ハバクク2:18)

イスラエルの民が、アロンによって鋳造した金の子牛の偶像を拝んだのは、自分たちのために、神とは関係なく偽りの師を造り、偽りの教えに従ったと言う意味だ。

 金の耳輪の聖書的象徴:‘聞く者の耳に知恵ある叱責’を意味する。聖書は、知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾り(箴言25:12)だと言った。金の耳輪を耳につけていると言うのは、神のいのちの御言葉をきちんと聞いていると言うことだ。ところが金の耳輪をはずしてしまい (出エ32:2)、その金の耳輪で他の形なる金の子牛を作ったと言うのは、神の御言葉を聞かず、自分たちの有益な方に解釈して仕えると言う意味である。つまり、理性が霊にとって代わり、自分たち自ら計画し想像したことを本物のように信仰を持って応対するのである。聖徒が、神の声である聖霊の導きを待たずに、自分の思いのままに漠然と、自分に有益な方に信仰することを言う。

これはサウル王が捨てられた契機と一致する。サウル王は、神の人サムエルを待てずに、自分自ら、民を恐れていけにえを捧げた (Ⅰサムエル13:8-9)。サウルとは、希望と言う意味である。人間の欲と欲求は、神の御心である神の恵み (聖霊) を嘆願することもせず (Ⅰサム13:12)、応答 (啓示、聖霊の導き) が降りて来るまで忍耐を持って待たず、自分の希望に従って、自分なりに解釈して信仰することを言う。こうした恵みと応答を通し神の御心を待たず、もうろうと行動した結果、サウル王は神から捨てられるようになった。これは新約では“私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか”と言ったとしても、主の御心通り行なわなければ、主は“わたしはあなたがたを全然知らない” (マタイ7:22-23)と言われた理由と同じである。即ち、主の御心通り行なわず、人間の思いと知識で、ああだ、こうだ、こうであろう、ああであろうと、心の想像で考えを作ることを、職人が巧みに偶像に色づけし美しく作るのと同じように、形を作ったと言うことだ。このように作った形に従って行動に移す時、偶像崇拝と言うのである。

神の御心を知ることができるのは霊なのだが、霊を喪失した人間たちは、神の御心を知ることができないばかりか、従順することもできない。従って理性の欲求どおり従うしかない。理性だけで、こうであろう、ああであろうと自分たちの見解を形状化させ、偶像を作り上げ、それに仕えているのだ。つまり、新約では偶像崇拝とは他でもない、人の戒め、つまり教理に仕えることを言う。神の御言葉の総論は、戒めの愛なのであるが、この愛を捨てて人間の戒め (教理) を優先し仕えることである。もっと明確に言うなら、聖霊の導きによらない全ての信仰を言う。イスラエルの民は金の子牛に対し、我々をエジプトの地から連れ上った神だと言って仕えたのである。聖霊の導きによらず、人間の理性による想像と論理で作り出した神学の知識をもって、我々も救われて天国に行ける、と教えているのも全く同じ偶像崇拝である。

ここに登場する登場人物たちは、肉的な目で見る時には、とても少ない微々たる各個人であるが、霊的に見る時は、一人の人間の心霊の内部で作用している要素等である。一つの心霊はもはや一つの国家であると宣べている (Ⅰペテロ2:9)。神の国は、私たちの心霊で起こる出来事で、受けた者以外にはわからない主観的な出来事だ。その心霊の中の国家には、王や臣下、民たち等、細部に分かれていて、人間は自分もわからないうちに、自然とこうした複合作用によって人生を生きている。

王は、判断、定罪、審判、命令の座であって、聖霊なるイエス・キリストを象徴する。臣下は王のこうした仕事を、知識の情報として助ける位置の役割で、理性を象徴する。民は、大体は感情や感覚による本能を意図する役割をし、欲的な本能を象徴する。たとえば、今私が道で財布を拾った。財布を開けて見ると、小切手と現金等、全部合わせて200万ウォンほど入っている。この時我々の心霊は、微妙で複雑な各自の活動状況を見る。一番初めに発見した民たちは、あ!金だ、誰が落としたんだ?私の金だから使おうと、まず興奮する。しかし、この時王は、良心の座から、早く落とし主を見つけて返さなくては、と命令する。臣下は直ちに情報活動を通し知識を、王に、または民たちに伝える。民たちは、今私の状況がどんなに大変か、これは神が私に下さった金だと言って、無条件自分に有益な側に解釈し要求する。

臣下は理性をもって、信仰の訓練状況に応じて、王の側に立ち、または民の側に立って伝える。欲に捕えられた理性は民の要求に一緒に同調し、そうだ、何を言っているんだと言って、王を足でひと蹴りして民と行動を共にするが、王の側に立った理性は、だめだ!おまえも一度考えてみろ、この金を落とした人の心の痛みを。またこの金を使った後、お前の良心をどうやって収拾するのか。それにこの金がどうして神が下さったと意地を張っているのか。神が金を下さる時には正当な方法で下さるのだ。無理に嘘をつくなと咎め続け、叱責し、王なる良心の側に立って、民たちの要求と騒動の事態を鎮めて王を補佐する。このように落とし主を探すまで民たちは、揺さぶるように金を使おうと請求するが、いざ落とし主を探し返した後には、騒ぎ葛藤した騒々しい民たちはどこに去って行ったのか、静かになり、私の心霊の中心におられる王なる神は、平安と安らぎをもって、本当によくやった、わたしのしもべよ!と私たちを慰めて下さる。

上の比喩は少し誇張された面もあるが、一般的に我々の中で起こる心理作用である。金の子牛事件での主人公モーセの象徴は、十戒に基づいた律法的な良心である。良心は、その人を治理、教育、判断、決定、決行させる決定権を持つ王だ。王である良心の決定を聞かずに、欲に捕われた理性の臣下アロンと民たちが野合し、自分たちの有益の為に、欲のまま行なっている出来事を象徴的に描写したものだ。

現代、キリスト者として、神以外の形状物に対して偶像崇拝する者は誰もいないだろう。しかし霊的にはこのようにキリスト者みな偶像崇拝をしている。十戒に全て背いていながらも、文字的解釈をもってはこうした事実を全く知ることも認識もできない。それはまるで、小さい子供に親が風邪に気をつけなさいと言ったら、子供は、風邪が昨日の夜ご飯をもらいに来た物乞いのような姿だと思い、そのような人だけをよければいいと思い、一日中そういう人だけをよけながら、一日中思う存分遊んで帰ってきた。夕方子供は自分の努力と関係なく風邪をひいて苦しい思いをする。幾日かたって風邪が治り、親から風邪は目に見えないとても小さなウイルスによるものだと言う説明を聞いて、今度は親に顕微鏡を買ってくれとせがむ。それをおでこにつけて歩き回り、ウイルスをことごとく探し出して殺そうと言うのだ。

今のキリスト教は、こうした愚かで無謀な信仰をしている。この子供は少し大きくなれば自分の突拍子もない行動に笑い恥ずかしがることだろう。ところが二千年を育ったキリスト教の行態は一体何なのか。その二千年の為に、更に、モーセから1500年間、家庭教師の律法によって基礎的教育を受けたにもかかわらず、霊的には全く盲人だ。真理の真偽さえも分別、把握できないでいる。その原因は、偶像崇拝による心の腐敗にある。彼らはいつも学んでいるが真理には到達できないと、聖書はすでに言明している(Ⅱテモテ3:7)。それで二千年が過ぎた今日でも文字だけに留まっているのだ。このように人間は、キリスト教の本質なる愛という戒めを離れ、もっぱら自分だけの為に、自分の有益や便利なままに想像し考えて信仰をしてきたのである。

2) 肉の欲求に従って動くことが偶像崇拝だ

言及したとおり、霊的偶像崇拝は、神の民たちが人生の全般を通し、神よりも他のものをもっと愛することを言う。キリスト者自身が偶像崇拝をしているのか、その可否を自らが検証できる標準となる鏡と物差しは、イエス様が語られた二つの戒め、第一、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。第二、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ (マタイ22:37-40)である。私が果たして信仰を正しくしているのかは、神との関係が垂直関係になっていて、誰であれ、私が隣人を私自身のように尊く感じ、愛しているのかと言う、二つの戒めの物差しと鏡に照らし合わせてみればわかる。二つの戒めに常に自分を試験し、探し、計り、照らし合わせることで、信仰の美しさを保存、管理していくのである。

第一の戒めはきちんと守っているが、第二の戒めで、隣人を愛する心がなく、また許してあげる心がないなら、これは第一の戒めも守れていないと言うことだ。また第二の戒めはきちんと守っているが、第一の戒めを守れていないようであれば、これもやはり第二の戒めも守れていないのだ。第一の戒めと第二の戒めが別々と言うのはあり得ない。これは根本から間違っていると言う赤信号である。二つの戒めは愛で互いが連結されており、相互間の絶妙な関係が成立する。

これは恰も、空中で綱渡りをする人の妙技のように、綱と、中心を取るために使う鉄棒との関係だ。適切に鉄棒で自分の体の中心をつかんで前に進んで行くのと同じで、二つの戒めのうち一つでも守れていないと言うのは、二つの戒めを全て守れていないと言うことだ。この戒めを守れないのには必ずある理由があるが、その理由を見れば全て偶像崇拝から始まっている。旧約の偶像崇拝が異邦神を拝むことであるなら、新約の偶像崇拝は、聖徒が心霊に聖霊を迎えられないようにする要因や原因となっている、普遍的には罪と悪であり、不法、不義とも言う。知らずに犯す罪と悪は、信仰の程度によって差はあるが、知って犯す罪と悪は、キリスト者たちには許されてない。

第一の戒めが意図するところは、被造物は無条件100%、神を敬畏することに基準が設定されていなければならない。これが人間の本分である (伝12:13)。神を畏れると言うのは、悪を憎むことである (箴言8:13)。つまり神を愛すると言うことは、悪を憎み、戒めなる愛を守り、愛に仕えることだ。神に対する敬畏は人間誰にでも適用される。私は神を知らなかったと言い訳ができないのは、教会は今まで数多くの伝道をして来た。仮に伝道を受けなかったにしても、神は人間誰にでも、神を知ろうとするなら十分にわかるよう造られた全ての万物を通じて、見せてくださり、わかるようにされた。

現代の人間たちは、科学によって立証されたものだけを信じようとする。まるで動物たちが本能だけによって活動するのと同じように、自分たちの五感だけに依存し、神が創造した万物を少しずつ見つけて味わい、これを見つけ出したことをすごいと考えている。しかし、科学によって見つけ出し立証したことは、すでに昔から神秘として覆われていたその神秘が、信仰に応じて少しずつ明らかにされたに過ぎない。それを造り創造された方は神であられる。人間の科学ではない。今日、科学の実体が明らかになって行くことで、神の知恵の玄妙さと、全能性のその神秘がより増して行くのである。

たとえば、お祖父さんが日常生活に必要な品物を作って倉庫に保管していた。孫の時にその倉庫を発見し、品物の用途の準備の良さを見て驚く。そのとき、その倉庫を発見した人を讃えるだろうか。それともその品物を作り準備したお祖父さんに感謝し讃えるだろうか。我々はここで、信仰と科学を混沌させてはならない。科学が発達するにつれて神秘が剥がれて行くが、それによって神の全知全能に驚くべきで、それを創造した方が誰なのかを考えてみるべきなのに、むしろそれを発見した科学者たちに栄光を捧げている。このように神の栄光を、逆に人間や禽獣に捧げ (ローマ1:23)、心に神を知ろうとしたがらないので、神は人間たちの喪失した心のままに引き渡されたのである。その結果、その代価は不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、代言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者と言うような事を行なうのである (ローマ1:29)。これは神を畏れない結果による代価だ。キリスト者が生活の中でこうした症状が一つでも発見されたら、直ちに自分の行為を逆追跡してみれば、全て神を畏れなかったことに到達することがわかる。つまり、第一、第二の戒めにきちんと完全に準じられなかったと言うことだ。神を畏れないようにするのは肉の属性のためである。律法的信仰をもっては、二つの戒めを守るというのは不可能だ。

 肉の属性

人間は、アダムの堕落以後肉に代わるや、神の霊は再び人のうちに留まらないと訣別を宣言された。訣別の理由は他でもない、肉の属性のためである。

“肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、 遊興、そういった類のものです” (ガラテヤ5:19-21)

この属性は、神を畏れないようにし、また今日、聖徒たちが聖霊に満たされることのない原因として作用する。肉の属性は、常に我々の心霊の中で、機会さえあれば、いつどこででも肉の属性を行なおうとする欲求として作用する。麦をふるうように (ルカ22:31)、自分の思いが貫徹し欲求が充足するまで理性(魂)に伝達し、無条件に行なうことを請求し要求する。これを伝達し要求するのは肉であるが、実体は我々自身も意識できない間に、我々の肉を支配し掌握する、死の権勢なるこの世の霊である。それは人間の弱点である肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢を、満足させ充足させる為、肉の属性の要素として作用するようになる。死の権勢を持ったと言うのは、人間をいのちに導くのではなく、ひたすら滅亡させる死へと引っ張って行くと言うことだ。これは神の反対側へと引っ張って行くため、イエス様はこの世を偽りの父だと言われた。それゆえ聖書は、いつも目覚めていなさいと警告しているのである。

キリスト教用語の中で目覚めていると言う言葉ほど、ほんとにわかるような、わからないような言葉はない。只、信仰を一生懸命しなさいと言う、その次に付いている修飾語として使われるだけで、本当の意味は解釈、応用が難しい。簡単に説明すれば、戦争中に本部の状況室で敵の動きを一つ一つ正確に把握することで、それによって防護と攻撃を完了した状態にあると考えればよい。戦車は何台で、歩兵の兵力はどれほどで、兵の大砲は何ミリ砲、何門がどこに配置されているのか、また敵の指揮官は誰で、等々を把握し正確に知って対峙している状態を、目覚めていると言うのだ。このように信仰において目覚めていると言うのは、第一、第二の戒めを守れない時、どんな罪目で自分が罪の中に陥ったのかを正確に意識することと、肉の動態を常に管理し注意してよく調べることである。

信仰は、生涯戦時状態と同じで、常に熾烈な戦いの連続だ。その戦いのほとんどは外的戦いよりは、内的な私の心霊の中での不信、罪悪、不義等の肉の欲と戦う戦いであり、こうした戦いで勝利してこそ信仰が形成される。こうした戦いを聖書では、善なる戦いと言い、霊的な信仰であるほど上手に処理する。敵(悪霊)を知らなければ、敵に利用されて常に敗北し、その結果、その敵の奴隷となるのである。バビロンに引かれて行ったイスラエル民族の象徴は、霊的にはこうした意味が内包されている。

このように、キリスト者が信仰生活で少しでも油断すれば倒れてしまうのは、肉の属性の為である。その油断が直ちに死につながる。それで使徒パウロは、しっかり立ったと思ったら倒れないように気を付けなさいと教訓している。特に信仰歴が深まるほど新鮮味が失われ、自分も知らずに純粋さと真実さを忘れて行き、色あせている信仰者たちをよく見る。これは、油断により信仰が悪霊によって武装解除された人たちである。こうした信仰を、目覚めていず、眠っていると言うのだ。こうした類の人たちが、初めての愛を持ってまさに信仰しようとする初心者たちを、自分たちと同じ姿にしてしまい、熱心な人たちを見ればねたみ、専売特許のように言う言葉が、‘私も昔はあなたよりもっとやった。何事ももっと一生懸命やったけど、別にたいしたことなかったよ’と言い、よりいっそう悪霊の子たちを作り出すのである。

この原因は、肉に転落したために当然霊(神)の声を発することはできない。蛙は蛙の鳴き声を出すのであって、美しいうぐいすの声を出すことはできない。牛蛙でも、ほんとの牛の鳴き声を出すことはできないのと同じだ。しかし信仰者の口で、神を賛美する甘い汁と、神をけなす苦い汁を同時に出す。誰であれ自分より先立つのを見ればがまんできず、初めての愛を持って始める初心者たちをきちんきちんと倒し、自分の下に置きかしずく様にする。もし眼中から出れば容赦なく誹謗の砲門を開いて罵倒し、その罵倒を受けた初心者はつまずいて、教会を変えるか教会に行かなくなる。もしくは自分をつまずかせた人とライバル関係の人を探し、自分のふさぐ胸のうちを涙で訴え同情を得る。その保護者は、自分のライバルに関することゆえ、同情の心が開き無条件その人の話を聞き、初心者の心を傷つけた人と分離し、ねたみ、嫉妬し・・・等、あらゆる肉の属性と連絡し、さらには上の人を自分の側につけ、結局は教会に党を築いて分離をもたらす終局を迎える。神に仕え礼拝し、霊を追求する聖所ではなく、売買し、鳩を売り、両替をする強盗のすみかに転落させるのである。

理性による律法信仰は、当然こうした結果を迎えざるを得ない。それはすでにキリスト教史でなくともこの世の歴史を通しても全て立証されている事実だ。人間が作ったものは全て、どんなに良い制度、規範、環境を備えていると言っても、時間の差があるだけで、結局は一つところに駆け上がる。人間のやることどこでも、特に肉的教会より霊的な教会であるほどもっと悪臭がし、腐り、汚れた理由が、上記した肉の属性、つまりサタンの働きがよりいっそう猛烈に働き、打ち倒そうとする作用のためである。サタンは上記した属性の武器を持って、この世を滅亡させ殺すことに目的を置いている。

肉の所欲は、その父の目的を達成するため聖徒たちを屈服させる道具として使い、屈服した聖徒を直ちに自分の道具として使用する。それで人間は誰でも、征服されればその征服者の奴隷となるしかない被造物なのだ (Ⅱペテロ2:19)。その悪霊は、世の人々と聖徒たちの心の中を活動の根拠地としている。その父をサタン、または悪霊と言う (ヨハネ8:44、黙12:9)。その本質的正体は、真理がその中になく、肉の所欲という武器を持って真理に対抗している。真理を見ればカインのように無差別的に殺し、滅亡させ、自分がまるで創造主のような権勢を振るい、偽りを言って、自分の王国を建設するところにある。これが現在、我々が生きているこの世という所であり、それが今この世を支配している。従ってこの悪霊に完全に支配されたこの世は、当然聖霊を受けることができない (ヨハネ14:17)

人間の魂である理性は、こうした属性の中で育ち成長してきたため、どんなに美しく尤もなようであっても肉であり、死である。従って水と聖霊によってもう一度生まれ変わりなさいと言うのだ。生まれ変わらない理性(心霊)は汚染されているため決して神に仕えることはできない。律法信仰も例外ではない。信仰熱心に律法を守ることで敬虔ではあっても、結局は霊のない律法は、いつかは自分の場所なる肉へと帰って行く。このように、肉の欲求のままに動くことを偶像崇拝と言う。なぜなら、神の属性なる愛 (Ⅰコリント13章) の反対側のサタンに調整されて、サタンの意図を行なっているからであり、それがまさしくサタンに拝み礼拝することであるからだ。こうした肉の所欲を打ち勝つことのできる方法は何であろうか。

“神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのち (ヨハネ17:3) を持つためである” (ヨハネ3:16)とあるように、こうした罪悪によって滅びることがないように、イエス・キリストはこの地に来られたのだ。つまり、イエス様がこの地に来られた目的は、聖霊のない律法信仰をもっては、罪はわかるが、罪に打ち勝つ力がないため、神の力によってその罪、つまり悪の勢力である肉の所欲と戦って勝てるよう助けて下さることで、聖徒たちを罪から守る為である。

使徒パウロが、私は本当にみじめな人間です、と絶叫したように、霊と肉の間で、霊に従いたくとも到底霊に従って行なうことができず、肉に従っていく惰弱さを絶叫する。これに打ち勝つ方法は聖霊意外にはないため、イエス様は、助け主聖霊を受けて、その力を受けなさいと命令され昇天されたのだ (ルカ24:49)。その力だけが、この世を支配している悪の勢力、死の権勢に対抗して勝つことのできる、唯一無二の方法であるからだ。従って上記したように、キリスト者たちの罪や悪は受け入れて下さらない。その理由はすでに聖霊を知っているからである。聖書は、「聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうなら、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返ることはできない」 (へブル6:4-6)と言明している。そして、「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえはもはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」と言明している (へブル10:26-27)。また聖霊への逆らい、そしり、冒涜もやはり罪の赦しはない。このようにキリスト者たちの罪や悪を許されず、恐ろしく扱う理由は、少しだけ気を使えば十分に打ち勝ち、避けることができるからだ。

現キリスト教はまるで怠惰な青年のようだ。怠惰な青年を息子に持つ親がいて、息子がどうしてこんなに怠慢なのか、寝ても覚めてもいつも懸念していた。ある日、親が商売の為、遠くへ行って幾日か家を明けなければならない用事ができ、何日か食べても余るほどのおかずとご飯を、それぞれ冷蔵庫と電気釜に準備し、また、寝ている枕もとの上には、箸だけ持てば食べられるようにお膳にご飯を準備して、商売するため家を出た。そして幾日か後に家に帰って来て見ると、その息子は飢えて死んでいた。

少し大げさな喩えのようであるが、これがキリスト教の現実だ。食事は全部準備されているが、あまりにも怠惰で箸一つ取るのを嫌がって飢え死にする息子のように、キリスト者であるなら誰でもどんな事も神に求め、探し、たたきさえすれば、罪と悪に打ち勝つことのできる力と知恵を受けることができるのに、怠惰によって罪と悪に死んで行くのだ。それで聖書は、なまけ者を罪人だと言明しているのである (箴言26:15)

聖霊は、肉に転落した人間たちが神のかたちを遂げるのに、少しも不足することなく助けて下さる方であり、真理の中に導いて下さる完全で完璧な案内者であられる。人間は、聖霊の導きと力によってのみ、堕落前のアダムの時に帰る事のできる道が開かれる。これは人類誰でも皆、信じさえすれば公平に恵沢を見られることである。

 関連メッセージ 〕