イエスが下さった‘新しい戒め’とは?[2]


6. 21世紀からのキリスト教の異端対処方法

 1) 異端問題は論争せず愛で克服すべきだ

    キリスト教は今、論争によって没落している。その論争の原因は驕慢から出てくる。驕慢は、知っていると言う知識から出てくるのである。そしてその論争の中心には常に教理が座を占めている。相手を攻撃し自分を守る目的で生まれた教理による論争は、すでにキリスト教初期から始まっていた。この戦争の勝敗は、誰がどれだけ普遍性を持って論理で説明し説得するかに従って、受け入れるのか、それとも異端へと排斥され捨てられるのかと言うことだ。またそれを横で常に助けるのが権力であった。権力によっても勝敗が大きく異なった。

    最近のハーバード大学の調査によると、キリスト教の中に2万5千余りの教派があると言う。つまり一つの内容を解釈するにおいて2万5千余りの見解が作用していると言うことで、まさしくこれが異端論の始発となる見解のもつれだ。そして彼らは互いに自分たちだけが正しく正統だと言う。では果たして誰が本物で誰が偽者なのか?

    カルヴァン主義とアルメニアン主義、アウグスティヌスとヒラリウス等は、互いに反対の立場の見解を持っていた。キリスト教信仰をするには否応なしに選択の余地なく、アウグスティヌス主義、もしくはカルヴァン主義、ヒラリウス主義、またはアルメニアン主義側に立たざるを得ない。そしてこれらは互いに異端だと言う。キリスト教信仰はこのように相手側から見る時は、異端から始まっている。なぜキリスト教信仰がこのように、互いに異なる見解から出発しなければならないのか。それはキリスト教がこれまで、神の戒めである愛を捨て、人の戒めを立てる事に力を注いだことによる。

    神学者たちは自分の信仰見解を、各自それぞれ自らの必要と目的に従った型に注ぎ込み、望む姿にかたちを作る。これが偶像であり、美しく包まれた教理の真の実体である。神学者のほとんどは充分に両方を研究し学んだことと思う。自分自身が属している教理と、相手の教理の虚と実を知ってはいるが沈黙しているのだろう。足りないこのしもべも、カルヴァン主義側からでも、ウェスリアン側からでもいくらでも彼らを弁証することも、また反対側で検証や反論することもできる。だがこうした教理的論争は、空しい言葉遊びの魔術行為に過ぎない事を、神学者自身がもっとよく知っていることだろう。

    教理が、こちらの主張と、またそちら側の主張する見解が異なり、反駁に対する反駁で論争が起こると言うのは、教理が不完全であると言うはっきりとした証拠である。このように人間の理性の弱点は、完全とは成り得ないことだ。理性は無限のようであるが、至極制限されている。その制限の克服が発展であり、この発展が尽きぬ知識追求へとつながっている。それは、それぞれが自分たちだけの世界の中に閉じ込められているからだ。それで尽きぬ論争だけが起こるのだ。一方霊は回転する影もない。聖霊の証は、即ち、疑問や意義のない確実な信仰である。従って、人間の理性によって形成された教理の数多くの論争を克服する完全な鍵は、霊である。霊的へと進むため絶対禁ずるべき注意事項は、①互いに論争してはならない。金銭を愛することが、あらゆる悪の根となる(Ⅰテモテ 6:10)のと同じように、論争は常に我々にねたみ、争い、そしり、悪意等によって心を腐敗させる原因となる (Ⅰテモテ 6:4)。そして結局は沈没と滅亡に陥らせることが目的だ。②全ての上に愛を着け、愛でもう一度結べ  (コロサイ 3:14) と、聖書は解決策を提示している。

    今日のキリスト教が、没落によって異邦宗教の一つのように転落した理由の中で、重要な部分を占めているその原因が、異端問題に対する間違った対処方法だ。異端問題は、触れれば触れるほど悪化するばかりか、かえって教会の問題をこの世に引っ張り出し、この世の人々にキリスト教自体を否定的な色眼鏡で見るようにし、伝道の門を閉じる結果をもたらした。また教会内部でも疑心病にかかり、信仰の純粋性を砕き踏みつけて、信徒たちを霊的へと蘇生できないようにしてしまった。

    このように異端問題は扱いが難しいゆえ、神は先に聖書で、あなたがたは、世の光、塩  (愛の行ない) としてのあなたがたのするべきことを一生懸命やり、諸々起こること、即ち復讐すること、判断、定罪…等はわたしがすると、はっきりと御言葉で記されている (ローマ 12:19)。このように異端処理は人間の所管ではなく、神の権限であるゆえ、もし我々自らが手をつけるなら、これはむしろ天の法に触れることだ。そのままにしておいても、神が植えたものでないものは全て抜かれるのである。

“わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます”  (マタイ 15:13)

    復讐することを神に委ねず、教理の論戦と、教理の争いである武力と力で解決すべきだと言う思想は、神の力 (主権) を無視し人間の力に依存して解決しようとする愚かな行為である。これは徹底した人本主義であり、これこそがもっと大きな異端思想である。人本主義はこの世が使う方法だ。この世と友になることは、神の敵になろうと自ら自願する行為である。

● キリスト者とは?

    キリスト者として生まれた瞬間から、キリスト者は誰も信仰と愛以外の如何なる武器をも使ってはならない。これは強力な法として規定されている。キリスト者たちの武器は、ただ聖霊の力によって備えた愛だ。これ以外の他の武器を使うことは全て反則であり、違法である。鎧でも、剣でも、兜でもない、信仰と愛の胸当てで武装しなさいと言うのは他でもない、私の中で起こるねたみ、嫉妬、憎しみ…等、肉の事との戦いで、忍耐、寛容、許し等の武器を使い、内的には愛を守り、外的には相手に対し愛の実を結ぶという法の通り戦う (Ⅱテモテ 2:5)、善なる戦いを戦い抜けと言うことである。この世は感情に支配され、自分のしたいままに感情に従って爆発し、踊らされ、人の感情を傷つける。時には、どんなに感情が傷ついても自分の体面の為に抑えもするが、その口の中には毒があり、機会さえあればとげを刺すように復讐する。

    しかし聖書の求めるところは、キリスト者たちは常に何であれ、この世に対し、間抜けなくらい馬鹿みたいにただ応じなさいと言われるのだ。むしろ忍耐し、寛容と許しと愛の網で、漁師が魚をつるように彼らを愛の網で覆い包みなさいと言うのである。忍耐することで、時が来ればカチカチに凍った彼らも、その愛の温もりに溶け出し、愛に転移されるのである。こうした生き方をする人をキリスト者と言う。我々はこのように生きるため召された人々だ。簡単に表現すれば、この世に向かい腹癒せの対象になってくれと求めているのだ。この世の誰から足で蹴られても、真の心で笑みを送り祝福してあげる馬鹿みたいな人になれと言うのだ。足で蹴りむやみに殴った人々を、キリストの捕虜にするための神の計画であられる。それによって結局は、彼らがひざまずいて主を求めるようにするためである。残る全ての審判と報いは神の主権にある。神はこうした主権行使を通して、この世に神の力と能力を彼らに現わすことによって、彼らは神の存在を知るようになるのである。このようにキリスト者たちは、愛の網を張って待てば、当然に絡む人たちを釣る、人を釣る漁師たちである。これが、21世紀から聖書が要求する福音の方法である。

    どの時代にも異端はあった。異端とは夏の雑草のように、一時生い茂って霜にあたれば消え去るような、そんな存在だ。もし真理なら永遠な生命力があるが、非真理は一時流行し、すぐに消え去る蜉蝣や霧のようなものだ。このように神の主権により自ずと無くなるものを、異端は無くすべきだと、どのようにしてもかまわないと言う、間違った恐ろしい思考が今日のキリスト者に澎湃し刻印されている。この時代の異端は、神の戒めである愛を優先せず、教理を優先しようとする今日の神学や教理である。キリスト教は、ない異端を量産し出す異端生産工場へと転落してしまった。神学者、牧師、神学生、伝道師・・・等、全てのキリスト者たちが知るべきことは、聖書の要求の窮極は、イエス・キリストを通した愛の完成である。愛の行ないは聖書全体を完成し、神の全ての御言葉を完成することである。そして、愛は真理の完成である。

 2) キリスト教は包括的な宗教に生まれ変わるべきだ

    キリスト教は、内輪もめの異端論争から抜け出し、一段階成熟した信仰の成長が必要である。それは異邦宗教たちとの対話だ。今までキリスト教は異邦宗教との対話にはとても冷笑的で、閉鎖的な関係にあった。カトリックは教皇のペテロ継承権を理由に、プロテスタントは使徒行伝の御言葉を根拠にして、異邦宗教を包容することができなかったからだ。

“この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです”(使徒 4:12)

 上記の御言葉をもとにプロテスタントは、独善と閉鎖的信仰に一貫してきたが、これは聖書解釈の誤解から始まったことだ。キリスト教が包括的な宗教として生まれ変わるには、蟄居主義的で閉鎖的、独善的な姿勢を捨てるべきだ。今は、むしろあべこべに異邦宗教がキリスト教を包容している実情だ。天地創造をされた唯一の神であるイエス・キリストを、万民の前に宣布するにおいて、何のために門をしっかりと閉めて、異邦宗教との対話を拒否しているのか。何か知識や知恵や力が足りないと言うのか。今キリスト教は聖書が要求する伝道のためには、門をいっぱいに開け放つべきだ。教理によってではなく、ただ愛による広い視野で広く見渡すべきである。その為には、キリストの新しい戒めである愛の開かれた心と、愛によっての開かれた知識が必要な時だ。この開かれた知識と心のためには、初めと終わりが愛の基礎に完全に立っていなければ、かえって悪影響をもたらし、もっと深刻な結果だけを招くため、教会は早く愛で武装すべきだ。この世に存在する宗教はみな愛を目指している。愛を目指さない宗教は真の宗教だとは言えない。

    愛に帰ることは、堕落前のアダムへの回復、即ち神のかたちへの回復である。あらゆる宗教は、神のかたちに対する回帰本能による欲求の自発的出発から始まった。しかしキリスト教は自発的出発からではなく、神が直接ご自身を啓示することで始まり、啓示で終わる宗教だ。その到達において、人間が罪によって到底到達することのできない弱さを知っておられ、聖霊によって助けて下さる宗教であり、また、キリスト教のみが愛を完成することのできる宗教だ。従ってあらゆる宗教を包括できる最高の宗教であり、あらゆる宗教の中で唯一、愛の近道を提示している宗教である。

    この世には多くの宗教がある。キリスト教、仏教、儒教、ヒンドゥー教、回教・・・等、如何にあれ彼らにも真理はある。真理があるからそれなりに何千年持ち堪えて来たのだ。キリスト教が純度100%の黄金だとすれば、仏教、儒教・・・等は30%、または50%くらいの真理を持っている。彼らも我々キリスト教式の言葉ではないが、愛を持ってそれなりに救いを試図し到達しようとしているからだ。(‘真理とは何か’ 編  参照)

    真理は愛である。この世の万物の真理である愛だけが、永遠なる生命力を維持することができる。その真理はほかではなくキリストである。キリストは愛によって私たちに現われる。従ってイエス・キリストだけが磐石となり、真の真理なのである。たとえば、百貨店に同じ価格の商品がたくさんある。その商品たちは美しく包装され互いに売られていくのを待っている。その中でも長い間顧客たちが求め、多く売れたというのは、商品の優秀性が認められたと言うことだ。伝道とはこのように、自然に自らキリスト教を選択するようにすることである。こうしてキリスト者たちが愛にのみ歩むなら、ごく自然にこの世に対する伝道となる。これが地上の教会と聖徒たちの目的の一つである。

 3)キリスト教は教理を捨て聖書に帰るべきだ

    聖書に帰れと言うのは、教理を投げ捨て、聖書だけを黙想、相考し、聖書の中で聖霊の役事によって、信仰の量りに応じ、各自が悟るよう委ねることだ。聖書は完璧に作られた世界地図と同じで、聖書はそれ以上の人間の親切を求めても必要ともしていない。

    聖書はすでに非常に長い昔から、あるべき所に正確にあり、集まるべき所に正確に共に集まっており、あってはならない所には一つもなく、高さ、長さ、広さ、全て神が見られるに良く、矛盾しながらもふさわしく、前と後ろが正確に合わさり、一つも余りも不足もなく整理されている。主の御教えは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かでわきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきは真であり、ことごとく正しい。それらは金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。またそれによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば報いは大きい (詩 19:7-11)。

    聖書の中では、神  (創造主) を敬畏する信仰で聖書を見るなら、こうした力が誰にも自然に注がれ、生き返らせる役事が起こるのだ。このように聖書は完全で (詩 18:30)、良く整えられた精巧なシステムであるが、自然の中にいた野生の昆虫や動物たちが、人工的な状態ではいくらも生きられないのと同じように、聖書は人間が少しでも触れればすぐに作動が中止されるシステムになっていて、多くの間違った問題が発生するのである。聖書は聖書それ自体として見なければならない。たとえば、父が、城を何の不足もなく完璧に建てて置いた。それを聖書だとするなら、教理は、父がきちんと建てた城の煉瓦を抜き取って、再び自分たちだけの城を建てるのと同じだ。

    すでに使徒パウロがテモテに宛てた手紙で、聖書に対する定義と重要性を紹介している。“聖書は・・・それは神の人が、全てのよい働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです” (Ⅱテモテ 3:15-17)。聖書はそれ以上の如何なる装飾も必要とせず、自ら自存することを願っている。詩篇の記者もまた聖書の完全完璧さを証している。主の御言葉は混じりけのない言葉。土の炉で7回も試されて純化された銀  (詩 12:6) だと言い、それ以上付随的な如何なるものも必要ないことを伝えている。このように聖書一冊の中には、私たちが信仰するのに適した条件のシステム全てが備えられている。

● 教理も聖書的だと言う主張に対して

    教理主義者たちは教理も聖書だと、非常に固く刻印されている。だが教理は人の戒めの教理に過ぎず、聖書ではない。たとえば、米は米だ。ところが米一種類で数十種類のもちを作ることができる。蒸し餅、切り餅、白餅、あんこ餅、よもぎ餅・・・等、必要と目的に応じて数十種、数百種類の用途に使われるものを、自分たちの使い道でたった何種類かを作って、米に対する定義だと言ってはならない。

    彼らは教理と言う型を作り、教理も聖書の中で我々が体系的に作ったものであるゆえ聖書的だと主張し、悪くないと言うが、これほど愚かで無知な言葉はない。これは聖書の中に内在している力を全くわかっていないのだ。

    聖書はそれ自体だけでも万物の知識を集大成した万能の教科書であり、完璧な信仰教材であって、幼稚部、小学生から大学院生まで、一冊の聖書だけでも十分に使える。これは各自信仰の量りに応じて  (ローマ 12:3)、今日はこの御言葉が心に届き、そして明日はまた他の御言葉が心に届くことで悟っていくのだ。

    このように神の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す(へブル4:12)、生きて私たちの心霊を拍動させる原動力となるのである。

    聖書は、必要に応じ適材適所に、身分の差、世代の差、信仰暦の差、信仰の分量の差を越え役事する神秘そのものだ。一方教理は、一日にぴったり二回だけ合う故障した時計と同じだ。これは教理の最大の短所である画一性によるものだ。画一性とは、小さな運動場に閉じ込めて置いて、これが信仰の全てだと宣言し、そしてそれを全ての信仰の標準だと言うのと同じである。これは宗教改革者たちの信仰見解と水準によって作った囲いの中に閉じ込めているに過ぎない。

    たとえばカルヴァンの追従者たちは、カルヴァンの信仰水準までしか成長することができない。またその外に出ることもできない。信仰とは益々成長していくものだ  (Ⅱペテロ 3:16)。山の麓にいる時は、前にある山が頂上だと思って一生懸命登るが、登って見れば微々たる登山に過ぎず、その前にはもっと大きな山が置かれていて、また再びその山を一生懸命登って行くようなものだ。

    キリスト教信仰とは無限なものである。従って使徒パウロは、人間には口に出すことのできない言葉   (Ⅱコリント 12:4) だと、コリント人への手紙第二に、キリスト教信仰の神秘性を言及している。このように人間には口に出すことのできない言葉を、どうやって神学で説明できるのだろうか?

    聖書は教理によって悟れるものではない。ただ悟れるまで静かに黙想しなさいと、使徒ペテロは手紙を通し教えている。その御言葉を全く悟れなかったとしても、日が明け、明けの明星があなたがたの心に上るまで待つよう注意しており、むやみに解いてはならないと戒めている。

“また私たちは、さらに確かな預言の御言葉を持っています。夜明けとなって明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです”  (Ⅱペテロ 1:19)

 聖書の中には、神の全知性なる知識が盛り込まれている。その知識がじっと不動のままなら死んだ知識となるが、活動すれば蘇る知識となる。その活動を助けるのが聖霊だ。即ち聖書が持っている知識の奥義が、聖霊によって現われるのである。カルヴァンもやはりこう語っている。‘聖霊は聖書の著者だ。聖霊は、聖書に刻印されたご自身のイメージが認識されることを願っている。聖書でご自身を示されるとおり永遠に存続することだろう’ このように聖書と聖霊を大変重要な相互関係にあると言い、聖霊と聖書を一つにまとめて考えていた。

    また聖書の権威に対しては、‘ある偉大な数学者や論理学者が、聖書は神の御言葉であると確証するから聖書が神の御言葉になるのではない’ と言い、聖書の権威は外部から来るのではないと説明した。彼のこうした信仰見解に対しては全く否定したくはない。だが、聖書の重要性を充分に強調しているが、いざ本人は、聖書をむやみに分けて整え、教理を作り出すという矛盾と傲慢を行なったのである。

    旧約で、マナが象徴するのは、誰もが神の御言葉であると言う。だがマナをどのように管理しろと言ったのかは、出エジプト記16:13-36節に詳しく記されている。マナは、毎日その時ごとに日用の糧を取り入れなければならない。朝まで置けば虫が湧き臭くなる。このように、聖書を読み黙想を通し毎日毎日、その時その時ごとに、自分に必要な霊的糧を供給すべきものを、教理は約480年の間、聖書と同じ位置に立って尊敬を受けた事で、もはや朽ちるだけ朽ち、腐るだけ腐り果てた。一日置いただけでも腐るマナを480年もの間置いたのだから、これはもはや糧ではなく、毎日毎日生理的に流れ出る処理困難な排泄物としてこの世全体に積もり、常に疎ましい匂いだけを漂わす存在だ。

    従って聖書の最後に、この聖書を保存するために、たとえ誰であっても書かれたもの意外に付け加えたり取り除いたりしてはならないと警告しているのである。聖書に自分の見解を入れ、形状化してはならないことを警告したのだ。聖書だけが聖書であり、アルファとオメガである。

● 神学を哲学だと言う理由

    神学を哲学だと言う理由は、信仰の到達方法の違いによるものだ。神学は、哲学が使用する論理と言う方法を使う。一方、聖書の要求は、ただ聖霊の力の役事と導きによって信仰に到達する。使徒パウロのダマスコでの変化が、神学の功労であったのか、それとも聖霊の役事であったのかの質問には、誰もが聖霊の役事であったと認めるだろう。使徒パウロのダマスコでの変化は、使徒パウロ一個人だけに限られたことではなく、キリスト者なら誰でも皆、こうした聖霊の力による変化の過程を持たなければならない必須過程だ。

    その聖霊の力の中には、使徒パウロが持っていた1500年間の頑固で強力なモーセの律法の知識を、一瞬に打ち壊し砕く役事も共に成されるのである。このように聖霊を体験した使徒パウロは、ただ聖霊の力だけを主張し宣言していた。これが、聖書の信仰に到達させる方法であり、また聖書が要求し提示する信仰の定義だ。このように聖霊の力によるものでないものを全て哲学と言う。聖書の求めるパウロ思想が聖霊によるものならば、神学はほとんどが新約聖書の中から、再度、人間によって人間の方法で説明が成されている。

    神学は認識論からが間違っている。つまりこの世で使用する哲学の方法の、論理的、科学的方法で接近しようとすることが問題だ。たとえば哲学は、虹や雲を人間の論理を使って重さや大きさの概念だけで認識し理解しようとする。アクィナスの認識論やアウグスティヌスの認識論はここから問題がある。 (アウグスティヌス自身は論理使用は仕方のない状況だと言及しているが)  神学の誤解はまるで、初めのボタンからかけ間違えば全部違ったのと同じだ。教父たちによる初めのボタンと、最後のボタンであるその実を通して、その間違いを見るのであって、中間にあるボタンは当然その間違いを理解できない仕組みだ。神学を否定したくはない。かといって肯定したくもない。ただ全てのものを全部覆っておきたい。 (これは完全にもつれてしまった糸巻きのように、使うことも捨てることもできない手をつけられない状態になってしまった)

    神学は霊の世界を、理性 (魂) である知識によって到達しようとするところに問題がある。もし哲学に霊、魂、肉に対する真の定義があったなら、今日の神学は非常に目覚しい発展をしたであろう。しかし哲学は今でも真の霊、魂、肉に対する定義を下せていない。その影響を受けている神学もやはり、それについて定義を下すことが不可能であった。その影響は受けてないと取り澄ます神学は、潜んで哲学式そのままを真似ていた為、今でもキリスト教は真の聖書的キリスト教を大変に誤解している。

    人間の構造は霊、魂、肉の三分化、または霊肉の二分化で成り立つ全人体である。人間の理性は魂、または肉と言う ( ‘信仰3’ 編 参照 )。キリスト教は肉の宗教ではなく、人間の内面深くにある霊に変化を与え、霊に影響を与える霊的宗教である。それでイエス・キリストは、肉は無益であり霊はいのちであると言われたのである。(ヨハネ 6:63) 人間の本質である霊、魂、肉の中で、人間の霊に達することができるのは聖霊だけである。従って霊に、ある変化と影響を与えるには霊的でなければならない。人間の霊には、聖霊だけが関わり合うことのできる機能と権限を持っている。

    この世にはたくさんの宗教があるが、この霊を管掌し、管理し、影響を与えることのできる宗教はキリスト教以外にはない。他の全ての宗教は全部、人間の理性である魂に伝達されるだけだ。霊の到達ではなく魂の到達である。つまり理性の宗教は全て、華麗でよく整えられた精巧な教理を持っていることが特徴だ。従って彼らは、人間たちが見て、美しく華麗な理性の発達した教理をもって行動指針とするのである。

    しかしその教理は人間の霊には関係もなく、何の影響力を与えることもできない。理性  (魂)  の世界は知識の世界であるため、美しく華麗な教理を持っていても実を結ぶことができない。信仰暦を積めば積むほど二重性だけが発達するのは、霊に変化をもたらすことができないからだ。知識は霊には関係なく、理性  (魂) である頭に積まれるだけだ。知識が多いほど、その頭に入っている知識によって高慢心だけが更に増えるだけである。従って使徒パウロはコリント教会に、知識は人を高ぶらせるだけだと教えているのである (Ⅰコリント 8:1)

    一方、霊の人なら当然、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和,自制の属性を持つようになっている (ガラテヤ 5:22)

    キリスト教は、教理が発達すればするほど死んだ宗教となる。これはちょうど、動物が機能を使わなければ退化するように、教理を使えば使うほど聖霊の役事は消滅してしまうのである。教理は、聖霊のない異邦宗教の哲学宗教が必要とするのであって、キリスト教は愛の戒め一つだけでも十分に歩むことのできる宗教だ。もし教理が必要だったなら、使徒パウロや使徒たちがすでにその時代に形成しておいたことだろう。しかし使徒パウロは、聖霊の導き意外には何も立てもしなかったし、提示もしなかった。ただ聖霊に満たされなさい  (エペソ 5:18)。そうすれば真理の御霊があなたがたを全ての真理に導き入れます (ヨハネ 16:13)と言った。従って、キリスト教は聖霊が教理であり、そして聖霊は教理が持つ全ての機能を備えている。これが異邦宗教とは異なるのである。

● カルヴァンをマホメットと同じ予言者として登場させる素地は排除できない

    イスラム教の創始者マホメットは、自分たちがイシマエルの子孫だと言う。その先祖イシマエルは、父のアブラハムから嗣業を得られず、大いなる国民となると言う以外は祝福を受けられず追いやられた  (創 21:10,21)。その預言通りに、今日アラブを中心にしてイスラムと言う宗教を形成している。(許されれば宗教論で言及することにする)

    今日のキリスト教の立場から見る時、イスラム教の創始者マホメットを認めない理由は何なのか?彼らの行動が適当でないからか?それとも過激だとか女性差別をする宗教であるためか?それともコーランやアラーを賛美するのが適当でないからか?その理由はそういうことではなく、マホメットは聖書の預言に記されていない人物だから信じないのだ。聖書に記された人物でないと言うことは、人間自身が自ら選択して立てた偶像であり、哲学であるからだ。それ故、聖書をもってそれらしく装った美名と名分を見て従ってはならない。聖書に記されていないと言うのは、聖書の外にあるのである。これをこの世の宗教、または、異邦宗教と言う。

    神は必ずことを施行する前に、予め預言者たちの口を借りて聖書に預言をし、その通り施行される方である (アモス3:7)。こうした預言がなく行なうのは、神が決められたことではないと言うことだ。よって聖書は、書に書かれている預言の教えを離れず、きちんと守りなさいと言い、書に書かれていなければ気をつけなさいと戒めているのである。

    教理も ‘預言された預言者はバプテスマのヨハネで終わった’ と主張しているのではないのか!ところが聖書には ‘その日の後’ からは、しもべやはしために注ぐ聖霊の時代を約束している。従って聖書に記されている人物は、バプテスマのヨハネを最後にもう出て来る人物はなく、ただ聖霊だけを初めと終わりまで永遠なる主人公であると明言している。それ故、キリスト者は、聖霊以外の如何なるものも認めてはならない。このように聖書的立場で見る時、マホメットもカルヴァンも同一である。

    キリスト教、回教、ユダヤ教は、唯一神を信じる宗教でありながら、聖霊のない人間たちは、神が造られた本来のもの  (聖霊) をさし置き、何かが不足で人の戒めと言う自分たちの物を作り出す。イスラム教なる回教は、モーセ五書を持つ宗教でありながら、マホメットが20年間啓示で受けたものを集めたコーランを、ユダヤ教は、旧約の39巻を持って、アモライム  (解釈者たち)  の律法解釈を集大成したタルムードを信仰の行動指針として歩む宗教だ。そしてキリスト教は、新・旧約66巻を持つ宗教でありながら、新約27巻を中心にして、カルヴァンによる教理を持って歩む宗教だ。ならば異邦宗教と何が違うのか、深く考えてみるべきであろう。

    教会を運営するにおいて、初心者教育等の教えは是非とも必要なことだ。だが聖書は教えについては、お互いがお互い同士聖霊の役事によって教え、戒めなさいと言った  (コロサイ 3:16)。しかし、勧めの線を越えて、幾人かの見解や主張を決して教理化してはならず、誰であっても聖霊以外は決して上座に座ってもならない (ルカ 4:8)。もし教理が必要であったなら、二千年前すでに使徒たちによって全て作っておいたであろう。しかしそれはかえって信仰のつまずきとなるため、塵のように全て捨てたと明言しているのだ。ただ聖霊の満たしと聖霊の導き以外に主張し明言したものは何もない。

    教理の当為性を主張することは、徹底した聖書の教えへの背信行為であり、十字架の真意に対する背信行為である。教界の覇権を握り、その後、自身の神学的教理を絶対教理化し、それからは、ウェスリーやカルヴァン当事者の意思とは関係なく、その追従者たちが、自分たちの権力維持のための偶像化ゲームが当然後を従う。こうした常套手段は、数多くの人間史と宗教史を通して見てきた。

● 極端保守主義とは?

    覇権の平静した後、保守主義という、大体が自分たちの権力体制維持のための目的、手段として悪用されてきた。激烈保守は、権力を掌握し、更に核心へ入って行くためのあがきで、それは極端保守の形態として現われる。極端保守は、表は美しい美名を持って現われるが、その内は、権力あるいは利益におぼれ、享有し、権力目的の貪欲で満ちている。どの宗教、又は思想であれ、極端主義に陥らないよう注意し、避けるべき理由がこうしたことからだ。どの集団や団体であれ極烈主義者は必ずいる。キリスト教もやはりカルヴァンの極端主義がいる。それは、表は神に対する熱い愛と使命という美名のもと、内ではカルヴァンを通して権力維持を謀ろうとする卑劣なへつらい行為だ。それが本当に神に対する熱い愛だったなら、彼は間違いなくそこから出てきて、愛という正道を歩くであろう。

    もし、カルヴァンの多くの追従者たちが、今のまま進み続けるなら、自分たちの目的のために美しい美名の仮面をかぶり、いずれはカルヴァンをマホメットと同じ予言者として登場させる素地は排除できない。聖書に預言されてもいないカルヴァンが、そんなに重要だと主張するなら、それは十本の角の中の一つではないのか。なぜなら聖書では、聖霊以外のものが登場すれば、それは獣の十本の角しかないからだ (黙 17:12,13:1、ダニエル 7:7) 。それは、できることなら権勢を持ってあらゆるものを惑わすと言った。そしてこの世は彼らに全て従うと言った。こうした悲劇を避けるためには、ウェスレーであれカルヴァンであれ教理を捨てるべきだ。人間は誰もみな限りなく足りない存在だ。宗教改革者たちや教父たちも、我々と同じ性情を持つ者たちである。ただ普通の人より少し血が熱かっただけだ。

    旧約のイスラエルは、偶像崇拝のために滅んだのではなかったのか 。現代ではその偶像崇拝は、今の教理を象徴し意味している。教理は恐ろしいほど狡猾に本物のように羊の仮面を被り、我々のそばに一緒にい続けた。

    イエス様は、真理の道は狭い道で、その道は細くなっていて見つける者がないと言ったのに、教理はその狭い道を大路に作り上げた。気付いてみると、これまで聖徒たちは狼の乳を飲んで育ってきた結果、おとなしい羊ではなく狼のように養育されていた。羊の仮面を被った狼はどの時代でも常にいることだろう。

    これに勝てるのは、聖書に記されている通り、神の戒めである ‘愛’ の中だけに歩まなければならない。どんな状況であれ愛を離れれば死ぬのである。そのため常に求め、祈りなさいと教えているのだ。永遠なる全ての信仰行為の基準は、ただイエス・キリストの手本だけを標準にして行かなければならない。使徒たちはその手本の影であった。イエス・キリストの手本に従うには、聖書に帰るべきである。

● 聖書より教理を盲信することについて

    キリスト教は啓示の宗教だ。聖書の権威を後押ししたのは、啓示を通した預言の成就であった。ユダヤ教が3,500余年続いて来た原動力は、出エジプトの出来事を通した神の数多くの力と権能の証しを見たからだ。それを通し今までユダヤ教の伝統が支えられて来たのだ。キリスト教は、ユダヤ教のその力の証しと預言の御言葉の歴史性の上に、更に時代を通じ、神の預言の大小多くの成就を見てきた。

    このように、預言が時代を置いて一寸の誤差もなく成就していく、生きた歴史性を通して、人間は神が生きておられることを感じ、畏れたのである。、これを通し聖書の権威と品位が、時代が流れても少しも色あせることなく、常により鮮明になっていくのである。こうした聖書の預言は永遠から永遠まで成し遂げられて来た。そして今も成し遂げられ、今後も成し遂げられるであろう。

    だから聖書は聖書であり、少しも毀損することなく完全さをもって保存されなければならない確かな理由である。キリスト教はこのように、神が啓示を通しご自身を実現していく宗教であるゆえ、啓示の宗教だと言うのだ。従って聖書の預言と、それに従う成就がないのは全て偽物である。

    教理が聖書的であるなら、聖書が提示する二つの確証がなければならない。

    それは、1.教理を作った人物たちが聖書で預言された人物たちなのか、そうでないのか確認されるべきであり、2.その教理に立脚した信仰の実を通した確証だ。

1.キリスト教は啓示の宗教だと、誰もが信じ知っている常識で、神はご自身の御心を啓示である聖書を通じて全て記されていると言う。間違いない正しい主張だ。

    言及したとおり、今日のように改革信仰を主導するカルヴァンの教理が大きな比重を占め、教理が聖書のように重要なのなら、新・旧約聖書のどこにカルヴァンの出現が記されているのか。しかし、いくら見てもカルヴァンをはじめ宗教改革者、教父…等を送ると預言された御言葉は全くない。神が、聖書以外何かがまだ不足で、ある誰かを通して教理を作ると、どこに記されているのか?今日のような教理の狂信徒たちの主張は、もはや線を越えるのも相当越え過ぎて、教理を聖書と一緒に同じ位置に配列し、教理だけに仕え、聖書を教理の侍女として登場させている。

    その美しく華麗なアクィナスの神学を、スコラ哲学だと非難する。そうしながらもこの世は否応なくその影響を受けていた。このように哲学は、烏合の衆の如く誰もかれも偉そうに自分たちの見解を主張し、それを記録に残し後世に伝える。その哲学思想は、この世の風潮と思潮の流れに漂ってから、この世の生の原理として作用される。しかしそれは真でないゆえ、初めは良く見えても、終局に至っては生の原理に全く合わない矛盾と乖離に終わる。その結果キリスト者だけでなくこの世までも、真を求めて安着するまで、限りなくさ迷い続けるのである。その真なるものが、神の御言葉である真理だ。従って聖書に記された御言葉は、時代の潮流とは関係なく、我々が良かろうが悪かろうが、行なうのに便利であろうが不便であろうが、私に利益であろうが損しようが、死のうが生きようが関係なく、その御言葉通り従順しなければならない。それがしもべとしての本分であり、キリスト者たちの本分である。

    聖書以外に何かを作るというのは、形を作る行為だ。形とは、神の御言葉である真理以外の他のものを言う。つまり聖書以外の何かを作ることだ。教理は既に、神のほかにどんな形をも決して造ってはならないと言う十戒の第一の戒めに背いている。つまり神が造られた聖書以外のほかの形の教理を作って聖書を代用し、それに拝み、その教理に淫らに仕えることで、偶像に仕えているのである。既に使徒パウロはテサロニケ人への手紙第二に、教理について、「できることなら誰をも惑わし、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言する」と記している  (Ⅱテサロニケ 2:4)。宗教改革者たちもまた教主になることは望まないであろう。彼を追従する追従者たちは、彼らを教主にしてはならない。

    キリスト者は常に聖書を読み黙想し、記されたそのままを信じ従順することを人生の原則として生きていくのである。宗教改革時の改革者たちは、初めはみな聖書だけを訴えていたが、今になってその追従者たちがひそかに聖書を裏部屋に追いやって閉じ込め、教理で部屋全体を母屋のように装飾している。

    今までキリスト教を思うままにしてきたカルヴァンや宗教改革者、教父たちが、聖書に預言され出現した人物たちであるなら、彼らの教えに対しては当然従順し従うべきだ。我々が理解できようとできなかろうと、説得力があろうとなかろうと、正しかろうと誤りだろうと、適当であれ不適当であれ、常識であれ非常識であれ・・・無条件的に彼らの言葉を信じるべきだ。しかし聖書に預言されていない人物たちの騒ぎ立てる声が、たとえ説得力があり、美しく、見栄えが良く、適当で、正しいと言っても、それとは関係なく全て偽りの教えであるから、そうした教えには唾を飲み込んでもならず、聖書と愛の中で微動だにしてはならない。聖書はただ聖霊だけを預言した。聖霊だけが、救いのため教会と聖徒の各々に、世代を越えた永遠なる先生、指導者、監督、万民の引導者、司令官の配役を受ける主人公として登場すると宣言している。聖霊の教え以外は全て偽りであり偽物である。従ってどの時代でも神の真のしもべたちは、聖霊の教えだけを主張し、私は無益なしもべです!と、黙々と神に栄光のみを帰し、名もなく、光もなく静かに去って行ったのである。

2.教理信仰の結実は480年間今日まで検証されてきた。その検証に対する結果発表は誰もが認めるものであるゆえ、言及する必要がないと思われる。

    このように聖書で提示した二つの方法全てに違反していると言うのは、言うまでもなく神の造られたものではなく、人々が作った人の戒めであることを確証している。

    教理的信仰が、聖霊の導きを受ける信仰を迫害しからかうのは、既に旧約の創世記から記されている。

 “エジプトの女ハガルがアブラハムに生んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子と一緒に追い出してください。このはしための子は、私の子イサクと一緒に跡取りになるべきではありません」”  (創 21:9-10)

 使徒パウロは、上の節を再びガラテヤ教会に宛て、「肉によって生まれたものが、御霊によって生まれたものを迫害したように」と解釈している (ガラテヤ 4:29)。これは教理主義者たちが、聖霊に立脚した信仰者たちを嘲り迫害することを預言しているのである。これを通し、肉によって生まれた教理主義者たちは警覚心を持つべきであろう。聖書の新約一つだけをもって一方的に主張するのは愚かなことだ。必ず旧約の預言があり、新・旧約の対が合わなければ確実な信仰として受け入れることはできない。カルヴァン追従者たちが最後までカルヴァンの教理を主張すると言うなら、新・旧約の預言に、カルヴァン出現についての確実な根拠を提示すべきだ。キリスト教の成長と発展のためには早く、神が建てていない無許可の建物を、すぐに打ち壊すことが一番の急務である。

    聖書の窮極は、イエス・キリストを通した愛の完成だ。完全な愛の行ないは、聖書の完成であるとともに、神の全ての御言葉の完成であることを知るべきだろう。従ってキリスト教は、キリストの新しい戒めである愛だけが、初めであり終わりとなるのである。

4) キリスト教教育の大原則は聖霊だ。

    キリスト教の当面の問題は、キリスト教の存立のため教育という避けられない問題だ。教育という機能は、教えて悟るようにすることを目的とする。その教育を通し正しい価値観を持って生きて行くのである。教育が持つ機能の側面はこの世の教育と同様、キリスト教もまた例外ではなかった。キリスト教教育の当為性は、マタイ28:19-20 に出てくるイエス様の御言葉に基づき、今日まで神学によって引き継がれ発展してきた。教理教育の聖書的根拠は、Ⅱテモテ3:14 等に置いてきた。キリスト教教育が目指すところは、人間を成熟したキリスト者へと成熟させることであり、その為には聖徒を教理的に成熟させる必要があると主張している。つまり神の御言葉で武装された真理の人へとするには、聖書真理を通して、人間の内的生命を真理で定立していく必要があるが、それを可能とする機能が教理だと言い、教理の当為性を主張している。

    これはキリスト教に対する大変な誤解から始まった反キリスト教的思想であり、人文主義的立場で見た偏見した見解に過ぎない。キリスト教は唯一、聖書以外教理のない宗教であり、また教理があってはならない宗教だ。それは、神霊と真の新しい御霊 (聖霊) によってのみ仕えるためである (ローマ 7:6、ヨハネ 4:24)。つまり助け主聖霊に従い、助け主聖霊に仕える宗教であるからだ (ヨハネ 14:26)

    キリスト教教育の大原則は聖霊である。聖霊の働きの中には、教え、思い起こさせる、先生、指導者、監督、万民の引導者、司令官・・・等の属性と機能を持っている。永遠なる先生がいるのに何の教理が必要なのか。その時々の必要に応じて教えて下さる、これを ‘油注ぎ’ と言う (Ⅰヨハネ 2:27)。言及したとおり、注ぎの油が臨めば、誰からの教えを受ける必要がなく、その教えの通り歩めばいいのだ。即ち、「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける」(へブル 10:16) と言われたように、神 (聖霊) から直接、教育と教訓が成されるのである  (イザヤ 54:13、ヨハネ 6:45 )

“あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け・・・”  (イザヤ 54:13)

“言うべきことは、その時聖霊が教えてくださるからです”  (ルカ 12:12)

“聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます”  (ヨハネ 14:26)

    故にイエス・キリストの霊であられる聖霊だけが、過去と未来の永遠なるたったお一人の我々の先生であり、指導者、監督、万民の引導者と司令官  (イザヤ 55:4)・・・と言う、多くの名称を持っておられるのに、なぜその方の全ての権限を奪おうとするのか。永遠に私たちと共におられ、永遠までこの使役をされると言われたのに、何の権限で聖霊の固有業務を剥奪しようとするのか。教理教育は人間の美名に過ぎない。聖霊の満たしを全く受けたことのない者たちの無知と無識に過ぎない。

    聖霊というお方は、真理の霊、代言の霊である。「神の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」(へブル 4:12)、このように永遠に生きて私たちと共に働かれる方であることを、聖書ははっきりと明言している。キリスト教の教育は、こうした聖霊の力による生きた教育となるべきである。たとえば、6.25動乱の惨状をもって戦争を説明する時、理論だけで戦争の惨状を説明するなら、胸で感じない死んだ教育となる。教理がこれと同じだ。胸に伝えようとするなら、6.25の惨状の写真や壊れたタンク等を実際に見せ、胸に感じるよう、百の言葉より、一度、目で確認させる立体的教育が必要なように、キリスト教の生きた教育は、言葉では表現できない聖霊の力によってする教育である。

    イスラエル民族が現代に至るまで、大変な歴史的苦難の中で持ち堪え存続できたのは、明らかなる選民思想であった。そうした選民思想を可能にしたのが出エジプトの出来事だ。出エジプトの生きた数多くの証しが、イスラエル民族をして苦難と逆境に打ち勝たせる力の源泉であった。彼らに約束された神の約束は、律法として体系化され、それがシェマと言う宗教教育を通じてユダヤ教が継承されてきた。

    シェマは多様な方法がある。テフィリン (Tetillin) とメズーザ (Mezuzah) で宗教祭に参与する方法、朝ごとに捧げる礼拝でトーラーを暗誦する方法等、多様な方法がある。テフィリンは、出エジプト13:1-10,11-16、申命記6:4-9 等が書かれた皮の紐を手首に結び、もう一つはおでこに結んで、神経を集中させてその御言葉を熱心に考察する方法であり、またメズーザは、心を尽くし思いを尽くして神を愛する生き方を心に刻ませる御言葉が書かれた羊の皮や、金属でできた物を箱の中に入れたあと、門柱に付けることを言う (申 6:4-9,11:13-21)。このように多様な方法を通し、人生のあらゆる瞬間ごとに神を意識し、神のみを敬畏する生き方をするよう教育した。ユダヤ教はこうした教育を通し、今日まで存立し伝統を引き継いでいるのである。今21世紀のキリスト教教育もまた、教理による死んだ教育ではなく、聖書だけを黙想し、生活の中で、生きる聖霊の力による愛を実践する簡単な教育へと転換される必要がある。

7. 愛はあらゆる宗教と人間の知識の完成だ。

    コペルニクスが地動説を主張したその当時、キリスト教はプトレマイオスやアリストテレスの見解である天動説がほとんど宗教的教理の水準にあった。当時の天文学は神学の侍女であった。全ての宇宙は地球を中心に成り立っていると言う学説をもって、創造主なる神の権威を支えていた。ところがコペルニクスが現れ、地球は宇宙の中心ではなく、他の惑星と同じ一つの惑星に過ぎないと、とんでもないことを言っているのだ。これこそが異端の中の異端邪説として、神の創造を目茶苦茶にしていると、宗教改革者たちの大多数が彼を異端だと定罪した。

    重要なことは、彼らがそれを知っていても知らなくても、またきちんと提示してくれても提示してくれなくても、地球は依然と太陽を中心にまわっていた。月は地球を中心に回り、銀河系も問題を起こさずにきちんとおり、朝になれば日が昇り、夕になれば日が沈み、春になれば花が咲き、夏になれば樹木は真っ盛りに開いて、千年万年育つかのように振る舞っても、秋が来れば成長は止まり、実を結び、冬になれば冬篭りする。こうした姿で全宇宙は誕生、成長、衰退を繰り返す。神の御言葉どおり、一寸の誤差もなく成り立ち運行されているのである。神学者たち、また教父たちが自分たちの見解をあれこれ言い、神学的教理の定義を下しているが、我々が心配したからと言って、また知識を持ったと言って、自分のいのちを少しでも延ばす事ができようか? (マタイ 6:27)  天地は彼らと関係なく、真理の通りに運行されているのである。

    たとえば小さい子どもが、遊園地のジェットコースターがどうやって走るのか、その原理を細かく知る必要はない。ただ乗れば、その軌道に従い程よく動くことで我々を楽しませてくれる。このように全宇宙は、私の心配や私の願い、私の意思、私の気質とは関係なく、規則的に、我々に生命を与えて下さる真理の通りに運営されるのである。

    彼らが、聖書の通りそのまま行なってさえいるなら、相反する神学の見解や提示でも、結局は愛という一つの目的地に到達する。神学の路線と言うのは、只ある目的地へ自転車に乗って行くのか、バスに乗って行くのか、それとも汽車に乗って行くのか、又は飛行機に乗って行くのかという程度の違いに過ぎない。ところが神学は目的地に到着し見てみると、愛ではなく、その実はやはり、言い争い、論争、ねたみ、紛争、そしり、悪意と言う実を持って心を腐敗させるだけで、敬虔を自分たちの利益の材料にし、争って自分たちだけを主張している (Ⅰテモテ 6:3-5)

    これはまるで、ある夏の日、近所の友達と川のほとりの草地に寝転がり、入道雲を見ながら、あの形が何なのかを、お互いが実際的に証明しようと主張しているようなものだ。その時、入道雲は何と言うだろうか。雲いわく ‘坊やたち!私は形がないよ。そのままお前たちが感じるまま気楽に考えなさい。私は、向こうの地方で日照りだと言うから、友達と群がって雨を降らせに行くところだ。喧嘩しないで、行って牛に草を食べさせ、お父さんに怒られないように早く行って宿題をやって、夕ご飯でも食べなさい’ と言い、雲は子どもたちが主張する言い争いに、全く気を使わないのと同じだ。教理はこのように、子どもたちが入道雲の形をもって、自分が提示するのが正しい、いや違うと争うような、全てが意味のないことだ。

    愛は、人の世のあらゆる知識の完成である。またあらゆる万物が追求する知識の皇帝であり、最終目的地の到達であり、あらゆる宗教の完成だ。全万物の王の王であり、その方は真理であり、道であり、いのちであり、永遠なるキリストである。その方は愛であられる。従ってただ一つの戒めである愛だけを求められる。その方は前にも、今も、後にも我々と共に永遠におられる聖霊であられ、それを ‘インマヌエル’ と言う。その方を信じ呼び求める者には誰でも、その方の愛を我々の心に注いで下さっているのである。従ってその恵みにより私たちは、アダムの堕落から神のかたちへと、再び回復され完成されていくのである。

    教会は今、キリスト教の使命である愛の完成のため、聖霊の必要性を誰もが知り、切に求めている。福音主義的教会からも聖霊は消滅してしまった。今、どこで、どんな方法で聖霊に満たされる方法を提示できるのかが、この時代、教会が解くべき課題だ。その方法は他でもない ‘わたしの戒めを守りなさい’ と語っておられる。つまり愛へと帰る方法のみが、聖霊を受ける唯一無二の方法である。今キリスト教は、教理ではなく愛だけが、キリスト教信仰の最高で最善の手段となるのである。

    イエス・キリストが、ヨハネの子シモンあなたはわたしを愛するかと3回も聞かれた理由は何なのか。これは、わたしを愛する者はわたしの戒めを守る者だと定義しているように  (ヨハネ 14:15-21、Ⅰヨハネ 2:5)、わたしの戒め、即ち、愛を守れと言うことだ。また、わたしの子羊を飼いなさい、わたしの羊を牧しなさい、わたしの羊を飼いなさいと言われたのは、新しい戒めである愛を守ってはじめて牧会をすることができると言うことで、愛以外の如何なるものも牧会の王道がないことを証明しているのである (ヨハネ 21:15-17)。このペテロ三言は永遠の牧会者たちの牧会信条となる。

    どんなに美しく、それらしく、真実で本当だと言っても、愛が排除されたものは、ただのやかましい鐘に過ぎない。つまり生命力がないのである。どんなに大きな力、知識があると言っても、愛がなければ何の値打ちもないと言われた。私が持っている物を全部貧しい人に分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立たないと言う。神学のあらゆる争点の解決は、コリント第一13章に帰ることだ。愛は、既に神学の教理と二千年間の数多くの教父や神学者、宗教改革者たちの知識を、いっぺんに打ち壊し完成するのである。愛の前に何の知識が必要であろうか (Ⅰコリント 13:8)。愛は、既に成長した身丈に達し、顔と顔を合わせて神を見ているのに、更に何が必要だと言うのか (Ⅰコリント13:12)。その愛への到達は、真理への到達である。このためにただ聖書だけを推薦しているのだ。愛の中に留まれば、私がこの世で経験することのできない、違った喜びと平安の世に自分が来ているのを、自ずと悟ることだろう。神学はもう論争を止め、信仰をもって愛だけを完全に成すよう努力すべきである。

    そうすれば、聖霊のバプテスマは五旬節の日とコルネリオの家庭に下った、たった2回の出来事のうちに消滅したと、単回説を主張するアブラハム・カイパー(A.kuyper)、アントニー・フークマ(A.A.Hoekema)、ドーン(J.DG.Dunn)、リーズ(Gareth.L.Reese)等、神学者たちの聖霊に対する見解が、真であるのか偽りであるのか、はっきりとわかるだろう。そして彼らの追従者たちのために祈らなければならないことを悟るようになる。

    また、伝道者の書でソロモンが、「多くの本を作ることには限りがない。多くのものに熱中すると体が疲れる」(伝12:12)と言った意味と、なぜ使徒パウロが、この世にある初等学問・・・等を塵のように捨て、あくたのように思っているかを (ピリピ 3:8)  明言している真意を悟るようになる。キリスト教を信仰することは複雑で難しいことではなく、愛という戒め一つだけを持って応用する、非常に簡単明瞭であることを、その後に悟ることだろう。そして生涯を、常に、何をしても、どこにいても、愛を守って歩むことが真のキリスト者であることと、教理は神の戒めなる愛を行なわず、愛を避けようとする者たちの謀であった事を悟るようになる。

    もう一度、1950-60年代の奥田舎の、白い雪が高く積もったクリスマスイブの日の教会の鐘の音のように、愛に帰るべきだ。その鐘の音はなぜか私たちの心を捕え興奮させた。教会に行かせない大人たちにわからないように、眠ってから起き、ズボン下だけをはいたまま、白く雪が積もった松林の中を、20余里の道へと走ったその興奮と喜び。そして暖かく迎えてくれた牧師先生の明るい笑顔は、教会の暖かさと慈しみと和やかさ、また言い尽くせない神聖さと、ある魅力を、幼心にも感じることができたのだった。今キリスト教は、この世という所で、彼らが認めようと認めなかろうと、関心を持とうと持たなかろうと、暗い小道を照らす街頭のように、ただ愛の行ないだけで黙々と光を放っていかなければならない。キリスト者なら、この世と言う虚偽で残酷な現実の世界を、常に真実な愛の行為を通し、誰にも心霊の奥深くに内在し誰もが求めている、童話の中の童心の世界を現実に作り、それは決して理想ではなく現実だという事を紹介し、導くべき役割を果たすべきである。

 おー!ハレルヤ

 このメッセージはあなたの愛であることがわかりました。

 感謝します。本当にありがとうございます。

    果たして、この時代の神のしもべたちはどこにいると言うのか?彼らが眠っているなら早く覚まして下さい。彼らがこの世の酒に酔っているなら目を開けるようにし、状況を見て、この世の緊迫さを悟るようにして下さい。この世を恐れてしっかり隠れているなら、彼らに愛だけに歩むことのできる力と勇気と大胆さを与えてください。そして反目と対立と派閥のだるい深い眠りから、このメッセージを見て目覚めるようにして下さい。

ハレルヤ!世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン

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