イエスが下さった‘新しい戒め’とは? [1]

    キリスト教は愛の宗教だ。その理由は‘神は愛’であるからだ。愛への回復はつまり神のかたちを成すことである。それ故、どの宗教より愛を前提とし、愛によって強調され、愛だけを実行しなければならない宗教だ。完全な愛の到達は、キリスト教窮極の到達である。従ってキリスト教の出発点は愛から出発し、また、キリスト教の観点は愛の観点で理解し解釈する時にはじめて、キリスト教の本質と目的に正確に到達できるのである。

    それは恰も ‘宇宙船に乗って月に行くには、宇宙船のあらゆる焦点が、月の方向と角度に正確に設定されていなければならない’ のと同じだ。このように、キリスト教は全ての焦点と方向が愛に合わされていなければならない。キリスト教は、愛を戒めとした唯一無二の宗教であるゆえ、愛が土台になっていない信仰は、如何なる聖霊の強い役事、力、恩恵だとしても、決して聖霊を長い間管理、維持、支えることはできない。ただ聖霊が風のように、さっと通り過ぎて行くか、またはすぐに腐敗して自分の中から消滅  (追い出す) させてしまうか、他の霊によって支配されてしまうのである。

    韓国キリスト教は、聖霊をきちんと管理できずに、すぐに消滅させてしまった骨身にしみる過去の教訓を持っている。ほとんどは一個人が三ヶ月から、どんなに心霊を良く管理して聖霊の強い役事をするしもべだとしても、長くて3年を維持するのはたいへんだ。その理由は、愛の基礎が不実であったからだ。自分たちは確固たる信仰をもって聖霊をきちんと維持、管理しているとは言うが、いつからか、少しずつ、少しずつ、わからないうちに消滅して行くのである。

    時間が流れ、いつでも祈りさえすれば、また聖霊の力を回復できると自信を持っている。そして倒れたついでに少し休んで行こうと言う油断と余裕を持っている。もはやこうした聖徒、またはしもべたち誰一人として、聖霊を再び回復したしもべを一度も見たことがない。このように韓国教会は聖霊を少しずつ消滅させてしまった。聖霊を消滅させた主な原因は、戒めである愛から離脱し罪に留まったため、こうした決定的な結果を迎えたのである。このように愛が重要であるのに、教理だけに重点を置いたキリスト教は、これまで信仰の核心となる愛をあまりにも看過してしまった。

    聖霊 (聖霊充満) の中にあれば、全てが信仰の世界の中にある。コリント第一13章の愛が完成され、人間の内面に奥深く隠され覆われていた、あるものとの一致を感じる。両手のこぶしをぎゅっと握れば愛の力がほとばしり、イエス・キリストを思えば時空間を越え、二千年前のことなのに、2~3日前に十字架の出来事があったかのように確かで生々しい。ああ!こんなふうに生きるのはやめよう。主のために私も苦難に同参しよう。侮辱されても、本当に感謝します。ありがとうございます。すると、かえって相手は自分をからかっているのだと思い更に侮辱するが、本当に真にありがたくて言ったのにと、ニコッと一度笑って終わる。私を必要とする所へはどこへでも走って行き、見返りなく犠牲、奉仕できる覚悟と準備がいつもできており、もはやマタイの福音書5章33節以後の御言葉は、義務感ではなく自然な要求の発露から行なうようになる。

    イエス・キリストに対する強力な信仰の源泉は、‘イエス・キリストだけが私の救い主であり神だ’ と言う教理が、論理によって立証されたからではなく、それらとは全く関係なく、ある信仰が私を強烈に強力に掌握し、この山に向かい海に入れと言えば入れられる信仰が、水の上を歩けと言っても歩ける信仰が、私の内から確信と自信感をもって役事されるのである。ところが、こうした信仰の力が、学んだ神学の知識によって形成されたものでは決してない。神学の知識はかえって信仰においては無用な物になってしまうと言うことだ。このように教理に忠実であれば聖霊が去り、聖霊に忠実であれば教理を離れざるを得ないと言う、乖離の中で苦痛を経験した数多くの聖霊のしもべたちが、教理に無関心であったり、教理を離れ、自分たちだけのある原則をもって信仰する理由がまさにここにある。

    教理でキリスト教を説明しようとすれば、ごく一部分は可能であるが、全体を説明するのは不可能である。また教理に立脚した偏狭した世界観と宇宙観をもっては、真理を事実どおりに見ることは全くできない。中世以前のキリスト教初期には、キリスト論が主な論争の争点であったが、宗教改革以後今日までは、救済論が主な論争と弁論の争点となった。旧教 (カトリック) の、行為によって救われると言うのに対抗して出たのが、信仰によって救われると言うスローガンを掲げて出たものだ。神学はそれなりに自分たちの見解を主張し、そして聖書解釈を、神の贖いを前提とした救済論に全ての焦点を合わせて解釈してきた。

    しかしこれはまるで、‘雪岳山(韓国北部にある山)は変わることなくそびえ立ち、春、夏、秋、冬の四季に従って多様な新しい衣を着ているのに、イエス救いと言う、秋の紅葉の雪岳山だけが雪岳山の全てである’ かのように証しするのと同じだ。‘イエスを信じ救われる’ と言うのは言うまでもない確実な真理だ。しかしキリスト教の本分である愛をすっかり後回しにして、宗教改革以後、約450年間、キリスト教が救済論だけにしがみつき片寄った結果、数多くの教派に分離し、自分の正しさを主張し合っている。このように教理は、互いが一方的な自分たちの定規だけで救いを定立させたものである。誰が彼らを立法者、審判者として立てたのか?キリスト教は ‘イエスを信じ救われる’ から一段階進み、成熟した信仰の成長が必要である。さて ‘キリスト教はどんな宗教なのか’ 再び照明してみよう。

1. 律法と教理の位置

    人間は貪欲によって正道  (真理)  から逸れた。邪悪で、計略を企て、また目的から逸れるために理由と言い訳を立てる。そうした罪や言い訳を立てられないように、法で確実に成文化したのが律法である  (ローマ 2:14-15)。律法の目的は罪の本性を悟らせることにある  (ローマ 3:20)。律法単独で救いの力があるのではなく、救いの必要性を切実に感じさせることにあるのである

    律法の戒めを通し、自身の足りなさを一層強く感じ、罪を罪として感じ悟り (ローマ 3:20,7:7)、自分には善の片隅も無いことを感じる水準までを言う。また罪の挑戦を受けた時、自分が罪に対する防御と攻撃に無能で、無力であることを感じるまでが律法の役割だ。霊的信仰において律法の位置は良心の声として作用する。律法と預言者は、私の良心の中で ‘人にしてほしいと思うことを、あなたも人にしてあげなさい’ と常に叫んでいるが、しかし私の肉の思いは貪欲により、なにか損するみたいで、あるいは憎らしくけしからん思いで全くそうしたくはない。そうであるほど私の内なる人は、愛することを要求し続ける。このように良心の声と肉の間で、律法は、罪を罪と認識するだけで、それを解決する力は全くない。その時我々の心霊は、罪にこのまま負けてはいられないと言うある切実さを感じるが、それが神の力 (恵み) をまとう為の求めなのである。これが律法の最高の窮極であり律法の位置だ。従って律法は主が来られるまで、即ち聖霊が来られるまで、私の良心の中で養育係としての役割なのである  (ガラテヤ 3:24)

● 律法信仰が幼い信仰だと言う理由

    律法信仰とは恰も、‘軍人が戦闘で実弾や弾薬が全てなくなり、戦闘能力が全くなく、ただ塹壕の中で惨憺たる思いで、望遠鏡だけで向こうにいる敵の動きを把握し観望している状況’ と同じだ。律法は、私の良心に罪を罪として感じていることを認識し、わかっていると言う知識程度であって、罪を防御できる力と能力がないため、人の前では偽善や二重性を持つようになる。こうした理由で、律法学者やパリサイ人に対してイエス・キリストは、“彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない守りなさい。けれども、彼らの行ないはまねてはいけません”   (マタイ 23:3) と教えられ、白く塗った墓、人目につかぬ墓等の偽善と形式主義を叱責し咎めているのである。

    二千年前のパリサイ人であれ、今の教理主義者たちであれ全く同じだ。教理主義者たちの信仰もやはり罪を罪と認識し、またイエスさえ信じれば救われると知識的にのみ理解している水準だ。信仰をどのようにしなければならないかと言う知識はあるが、信仰をするための実質的な力、即ち罪を防御し攻撃する霊的戦闘能力 (信仰の善なる戦い) をやりのける力がないのだ。このように知識はあるが行なう力がないため、信仰の実がないのである。現代の神学が備えている教理の水準はここまでだ。では聖書が語る罪が何であり、罪に打ち勝つ方法は何なのか。

● 罪とは?

    聖書は罪の定義を ‘神  (イエス・キリスト) を信じないこと’ だと定義を下している。

“罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです”  (ヨハネ 16:9)

    即ち、神  (創造主) に対する信仰がないことが罪なのである。信仰1, 2, 3, 4編で言及したように、教理が主張し教える信仰は、聖書が求める信仰の水準に近づくことすらできなかった。

    聖書が求める信仰の水準は、へブル人の手紙11章全体に表わされている。

    “信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。” と、信仰について定義し、また、昔の人々がどのように信仰に歩んだか、その証を羅列している。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、遊女ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たち、彼らは信仰によって国々に打ち勝ち、義を行ない、約束を受け、ししの口を塞ぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ・・・等、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられた。彼らは、世が堪えられないほどの多くの艱難と苦痛と苦労の中で、ただ信仰一つで生きた。そうでありながらもこの人々は、見られなかったが見たように、信仰の証は受けたが、約束のものは手に入れることはなかったと記されている  (へブル 11:1-40)

    へブル書で、ここに出てくる預言者たちはみな、これほどの神を信じる信仰の水準をもって救いを受けた。聖書は今も現代のキリスト者たちに、昔の預言者たちと同じ水準の信仰を当然求めている。

    このように、救いは、聖書が求めるこうした水準の信仰に到達した時、その信仰をもって救われるのだ。だが、現代キリスト教は、教会に出席さえすれば救われたかのようにやたらに糊塗している。そのような信仰は悪霊どもも持っている。悪霊どもも神を信じて身震いしていると言っている  (ヤコブ 2:19)。そうした現代神学の特徴である常識的な知識水準の信仰で救われたと言ってはならない。

    へブル書11章に登場する預言者たちの信仰の水準を要約すれば、到底望み得ない中で信じる信仰であった  (ローマ 4:18)。聖書では、イエス・キリストがペテロに水の上を歩けと言った。水の上を歩く、それが信仰だ。信仰さえあるなら我々にはできないことはない (マルコ 9:23)

    だが、水の上を歩けるという信仰を育て形成するにおいて、神学がどんな役割をし、信仰とは何の関係があるのか?この信仰は、ただ善なる信仰の戦いの中でのみ可能なのである。こうした信仰は、教理だけに依存した現代キリスト者たちにはほとんど不可能な要求だ。それで信仰のない者たちの弱い信仰を助けるため、助け主聖霊が登場するのである。

2. 恵み

    旧約の律法の時までは、行為的信仰を要求した。だが律法的信仰は、罪を悟る知識を持つ程度で、救いに至るには力不足であった。それで再び新しい法が登場した。それは行為ではなく、ただ神の力による信仰と、信仰全般に必要な全ての力と知識を供給してあげることで救いが可能となる、と言う意味で ‘恵みによって救われる’ と言うのだ。それはすでに旧約から約束されたことである。それは ‘神の霊であり、キリストの霊であられる助け主聖霊’ なのである。

    恵みの実在者とは聖霊を意味する (へブル 10:29)。イエス・キリストは恵み (救い) を与えるため犠牲の羊となられた。それによって約束の聖霊を御父から受け、私たちに注いで下さるのだ (使徒 2:33)。今キリスト教が、その約束の恵みに到達するには、イエスを信じ救われると言う救いの放心から脱し、聖霊に満たされるための新しい試みが必要であるが、その為には自身のあらゆる所有を手放すことである。

    たとえば‘ソウルの明洞の中心地に500億ウォンのビルディングがある。自分の全財産を合わせても1~2億程度の庶民たちが、このビルディングを所有するのは不可能だ。しかし持っている全財産を全て出し、残りを誰かが代納してくれるなら自分の所有とすることができる。このように、残りの不足な部分を、神が全て代納して下さるのが恵みである。自分の能力に比べ、到底不可能な安値で買ったゆえ、ただで受けたと言うのだ。残りの不足部分は額とは関係なく代納してくれるが、無条件に誰にでも該当する無差別的な恩恵を受けるには、自分の全ての所有を全部売ってはじめて買うことができるのである。それでマタイの福音書に天国の宝物の比喩として記されている。

“天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。・・・持ち物を全部売り払ってその畑を買います。”  (マタイ 13:44)

“天の御国は、良い真珠を探している商人のようなものです。・・・持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。”  (マタイ 13:45-46)

    ‘恵みを受ける’ と言うのは ‘聖霊を受ける’ と言うことだ。聖書を詳しく見ると、苦難、苦痛、死、狭い道、らくだの針の穴、迫害、艱難、鍛練、試練、恐れ、震え・・・等、教理が提示する救いであるなら、じっとしていても救われるのであるなら、聖書にはなぜこのようなひどく苦痛な用語が出てくるのか。またこうした用語の用途は何なのか?こうした用語は、恵みを受けるに必要な道具となる用語である。

    聖徒は、この驚くような道具をもって、恵みを求めるのに死力を尽くさなければならない。それで天国  (聖霊)  に行くためには、艱難を経なければならないと言ったのである  (使徒 14::22)。使徒パウロは “私にとって毎日が死の連続です”  (コリントⅠ  15:31)と言った。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われます (マルコ 13:13) と語っている。

    このように恵みに至るには、狭く狭窄な道へと出て行くゆえ、見つける者がない狭い道だが、しかしその道には、命の道がある。故に、この道を行くためには産みの苦しみが伴うのである(創 3:16、テモテⅠ 2:15)。

3. 律法(教理)と恵みの関係

    キリスト教信仰の1次目的地は、愛の到達だ。それは恰も ‘山を征服するため、ベースキャンプがあり、次の1次点でまた集まり、2次目的地である頂上に向かう’ のと同じだ。このように、律法の最終目的地である1次地点に到達すれば完成するかと思ったら、また何かしなければならない未完成として残っている。信仰の行為である信じることと愛に対しては、常にどうしようもない足りなさを感じる。本当に自分がしがない存在で、役に立たない無価値な存在に思える。そうかと言って徹底した絶望感や無力感に陥るのではなく、幾らかの希望と信仰がある。だから聖書が求める謙遜が、義務感からではなく、常に何事にも本当に心の中で深く足りなさを感じるため、謙遜が一緒に同行するのである。

    誰の説教を聞いても、本を見ても、「ほんとに上手だ。みんな私より比較にならないくらい賢く知恵があり、優れている」と言う思い。私はバカみたいだ。一体信仰についてたくさん見て聞いて学んだのに、常に何もわからないようで、これは誰と比較しても足りなく、自身が限りなく小さくなり、徹底した希望のある絶望感と、自信感のある無力感と無能さの中に陥る。その時から、小さな微物に過ぎなかった蟻やクモ…等の昆虫が、同じ目の高さで理解でき、一緒に生き、理解し、今更ながらに命の尊さが感じられるのである。

    それまでは蟻を見れば何も考えずに、‘こんなのが何で部屋にまで入ってくるのか’ と言って、親指で無情につぶして殺してしまったことに、今更のように命の尊さを強く感じる。そうかと言って小心になるのではなく、罪に対しては重さを全く感じなかったことに、強い罪責感で苦しむ。考えずむやみに人を判断定罪したことに気をつけるようになり、人の目のとげよりは、自分の目の梁を悟るようになる。人の過ち一つを見れば、自分の間違いの数十種類が連結して見えてきて、罪が罪としてはっきりと鮮明に感じられるのである。

    ここまでが、律法が要求する到達点であると同時に、また2次目的地である霊的信仰  (恵み即ち聖霊)  のために出発する始発点である。ここからが、山上の垂訓  (幸福の使信)  に一致して切実に求め探している自分を、自ら悟るようになる。それまでは意味なく ‘山上の垂訓か’ と理解し見過ごしていた節が、今更ながら、私自信が探していたものであり、私の心霊に一致するのを感じ、新しい角度で理解されるのを見る。

    私はいつも乾いていて、信仰があまりにも足りないことを感じ、心霊が貧しく、誰かの助けがなくてはならないと感じる。罪に対して哀痛し、あまりにも愚かで、人に対して驕慢な思いや、敵対したり、逆らったり、無視する思いは到底考えも及ばない。自分の無知をはっきりと感じるゆえ、人のことを常に心して聞き、大切に感じてみると、自然と穏やかになる。

    常に、どのように信仰をしたらよいだろうか、どうしたら神に栄光を捧げられるだろうか、私が行けば微力ながら助けになるだろうか、信仰に対する葛藤を感じ、義に飢え乾いている。全てに対して、痛ましくかわいそうで、哀れみを感じながらも、また一方では、感情と利害関係に偏って、全くかわいそうに感じない二重性に更に苦しむ。

    充分にかわいそうに思うべきなのに、感情ではむしろいい気味だと喜ぶ自分の姿を見てギョッとする。信仰者ゆえ、むちゃくちゃに足りなさを感じる自分の二重性に死ぬほど苦しく、自分の嫌な姿から、愛と哀れみを持とうとする義務的な心から脱出しようともがく姿など、律法をもっては、自分の全てに常に足りなさと葛藤を感じる。

    ここまでが律法の到着点であり、律法の要求する最終目的地だ。この地点では驕慢になり得ない。人が自分より優れて見えるため驕慢が入る余地が全くない。それでも律法の遂行者であるパリサイ人たちは、信仰が完成したかのように信仰に満足し、かえって自慢し驕慢であった。

    それで律法の最終ランナーであったバプテスマのヨハネは、パリサイ人たちに、律法にきちんと達してさえいたなら (律法信仰をきちんとしていたなら)、はっきりと自分の不足を感じるべきなのに、パリサイ人たちは逆に独善と自慢と満足に達しているのを見て、悔い改めよと促していたのである。

4. 新しい戒め

    旧約の律法と預言者たちの叫びは他でもない、“自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい” である  (マタイ 7:12)。こうした旧約の全ての律法と、預言者たちの叫びの核心を要約して、イエス・キリストは、①心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、②あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという、二つの戒めに要約したのである(マタイ 22:36-40)。

    イスラエルが、バプテスマのヨハネまで1500余年間、この教育を受けるために数多くの逆境と苦難を受けて来た。これを説明するために、ユダヤ教の複雑な手順や、あらゆる律法の行為が求められた。ユダヤ教の全ての律法の手順を、イエス・キリストの愛の戒めを守ることで、キリスト教はすでに1500年間のユダヤ教を一度で完成して超えて来たのである。再び、キリスト教は、イエス様が宣布された新しい戒めである愛を守る時はじめて、キリスト教としての全ての条件が備わるのである (ヨハネ 13:34)。その愛の手本をイエス・キリストは自ら我々に見せてくださった。

    第一の綱領に準じ、神を、心と思いと知力を尽くして愛するゆえに、死ぬまで神に対する従順をもって服従された。二番目の綱領に準じ、隣人を自分自身のように愛するゆえに、十字架を担って下さったのだ  (へブル 5:7-9)。隣人に対する完全なる犠牲が、まさしく人類に対する救いの道を築いたのである。イエス・キリストが十字架を担うことで、こうした愛の模範を自ら我々に見せて下さったとおり、今日のキリスト者もまた、十字架を担ってあげることで、キリスト者の見本とならなければならない。キリスト教はこのように愛で始まり、愛で終わる宗教である。愛の中では、全ての律法の要求と新約の要求が完成されている。

    つまり、律法の内容の多くの儀式、例祭、手順等の要求が、総合されて一つに圧縮し整理されて現われたのが、‘愛’ ということだ。使徒たちもまた、愛以外には何の重荷も負わせず、如何なる要求もなかった。

● キリスト教はなぜ愛を要求するのか?

    愛が美しいから、また私の品位を引き立たせ飾るため、それとも教会を美しく装うためなのか? では愛が何のために必要なのか。それに対する理由と定義が必要なようだ。‘愛は真理’ だと前で言及した。愛は、元来の創造時の堕落する以前へと帰ることである。それで愛が必要なのだ。キリスト教はひたすら本郷に行くために、イエス・キリストが我々に、愛しなさいと言う戒め一つを持って生まれた宗教だ。従って愛は命令ではなく、自発的に行うべき当然なる人間の本分なのである。従って愛へ進んで行くためには聖霊が必要であるため、聖霊が唯一のキリスト教の教理となるのである。

    神は愛であり、神は霊であられる。故に、愛は霊であり霊的である。人間がアダムの堕落後、我々が失った多くの部分の中の一つが、神のかたち、即ち、愛を失ったことである。創世記6章で、アダムの堕落後神は、永久には人のうちにとどまらないと言明された。その理由は、人間が肉にすぎないからだと言われた。善悪の実を取って食べて人間は肉となってしまったため、神のかたちが失われた。即ち、愛から肉へと堕落したのである。肉の属性と定義はガラテヤ5:19に記されている。

“肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです”  (ガラテヤ 5:19-21)

    人間の内面は肉の汚れで満ちている。もう一度変わるには、神の属性である愛によって変わらなければならない。ところが人間の内は罪が強いため、愛を行なうには弱く、愛に至れる力がない。よって神のかたちである愛によって変わるには、助け主聖霊しかないのである。

    教理は律法 (知識) の役割程度であって、愛の行ないを助ける実質的なことには全く助けにならない。神の属性である愛だけが霊的であるゆえ、人間の心霊に伝達され影響を及ぼすことができる。愛は、コリント第一13章に立脚した規格品であってはじめて、精品となる完全な愛と言う。従ってイエス・キリストは我々に愛の戒めだけを下さったのである。そして使徒たちもやはり全てただ聖霊に満たされることと、愛だけを強調している。

    このようにキリスト教の信仰は、イエス・キリストを信じる信仰を持って、自分が置かれている状況と環境で無条件に出発して、愛と言う目的地に到達することである。愛は全万物の知恵、知識、現在、未来、過去、またあらゆる宗教を完成する。従って愛は最高の法となる (ヤコブ 2:8)。この最高の法である愛は、コリント第一に詳しく表現されている。それは真理として遜色なく、神の属性なる全知と全能性を、確実に完全に立証している

  神のかたちであるキリストのかたちが、私たちの前に聖霊として現われた  (ヨハネ 1:14,18)。“ここに、神の愛が私たちに示されたのです”(Ⅰヨハネ 4:9)その聖霊はまさしく愛である (Ⅰヨハネ 4:16)。即ち、寛容、親切、ねたまない、自慢しない、高慢にならない、礼儀に反さない、自分の利益を求めない、怒らない、悪を思わない、不正を喜ばない、真理を喜ぶ、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ   (Ⅰコリント 13:4-7)。聖霊はこのように、我々に愛として現われる。信じ、求め、探し、呼び求める者に、聖霊によって我々の心に注がれ  (ローマ 5:5)、炎の舌のように来られて、我々の心霊を愛で取り囲まれるのだ  (Ⅱコリント 5:14)。これを恵みと言う。こうした恵みで救われるのである。その愛について聖書では、“私たちを、キリストの愛から引き離すのは誰か”  (ローマ 8:35) とたずねた後、如何なる権威も、如何なる人も、どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません  (ローマ 8:39) と記されている。このように、キリストの中にある聖霊によって築かれた愛は、全てを完成し、また完成されていることを確証している。

● 悔い改めの重要性

    我々に新しい戒めである愛を下さったのは、愛だけが、アダムの堕落後失った神のかたちを着る事のできる唯一の方法であり、道であるからだ。霊であられる神は、霊で、即ち霊的に仕えてはじめて神と聖徒の相互のサイクルが合うのである。このサイクルを合わせる完全な基準点が愛だ。悔い改めとは広い意味で、神の属性なる愛の周波数に、我々が悔い改めを通して合わせることだと言える。この世にある雑神を崇拝する霊媒者たちも、死者の霊と交わるために多くの時間と貢物を供え、何時間も彼らの方法で呪文をしきりに唱える。これは死者の霊とサイクルを合わせる作業だ。

    一方、神を信じる者たちは、愛でなくては決して神との交わりができない。それ故、キリスト者たちが神とサイクルを合わせる作業が悔い改めだ。悔い改めとは単刀直入に言えば、私の内にある汚れた霊を追い出す作業である。これは、心と思いと知力と性品を尽くして、神を探し求めて行く帰郷の道だ。即ち愛へと突入し、愛なる神の周波数に合わせる作業である。神の国である愛へと激しく攻め入れと言われたが  (マタイ 11:12)、これは、悔い改めを通してのみ行くことができる。(悔い改めは信仰を含む)悔い改めを通してこの世と区別され、聖められていくからである。

    神学者、牧師、伝道師、一般信徒、誰であっても、悔い改めるにおいて、教理に立脚して教理を握りしめて悔い改めるだろうか。そうではない。悔い改めは、自分のぼろぼろの服を脱ぎ捨てることである。真っ裸にすっかり脱ぎ捨てて、愛と言う物差し一つだけを握り、その物差しに自分を計り照らし、ふさわしくないものを脱ぎ、洗い、拭いながら祈ることであって、教理とは何の関係も係わりもないことだ。このように悔い改めは、神の御国に入れる唯一無二の方法であり、愛と和合するための身悶えである。愛でない全てのもの、つまり自分が着ている古着は全て投げ捨て、ただ愛に立脚した服を新しく仕立て、身支度することである。愛は、悔い改めの完全で完璧で正確な物差しであり公式だ。このようにイエス・キリストと、新しい戒めである愛で周波数が合ってはじめて、我々は主と共にすることができ、また交わることができるのである。

“わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。・・・わたし自身を彼に現わします”  (ヨハネ 14:21)

    愛以外は、如何なるものも神と周波数を合わす事ができない。それ故、愛がキリスト教の総体的な信仰基準の完全で完璧な物差しとなるのである。愛は、キリスト者であるなら、人生の全般にわたって選択の余地なく選ぶべきものであり、守り行なうべき良心である。また、この良心は、キリスト者にとっては命と同じもので、この良心を守ることをもって神に仕えるのである。

“兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって神の前に生活してきました”  (使徒 23:1)

    一方霊媒者たちは愛が必要ない。彼らはそんなものがなくとも無条件合えば、遊女のようにいつでも雑神と交わる。韓国教会の聖霊の役事が、このために容易く消滅してしまったのだ。従って愛の囲いの外へ越えることと、愛の外にいることを、この世と言い、これを霊的には惑わしの霊と言う。御言葉の外へ越えてはならないと言うのは、つまり愛の外に越えてはならないと言う意味である (Ⅰコリント 4:6)。こうした次元で、キリスト教の本質である愛を投げ捨て、教理論争、異端論争等へとあおる者たちを、惑わす者、反キリストと言う。従って愛から外れた行為よりも大きな異端はない。キリスト教とは、愛の完成に到達すればよい宗教である。

● 聖霊充満

    悔い改めを通し、新しい戒めである、コリント第一13章の愛を完全に心霊に備えた時、これを ‘聖霊の満たし’ と言う。聖書では、キリスト者たちのしるしである聖霊充満な者は、“たとい毒を飲んでも決して害を受けない” と記されている (マルコ 16:18)。これは包括的内容を携えているが、その中で、この世でどんな蔑み辱めを受けても、心で悪行をもって返さないことである。たとえば誰かにたくさんの心の傷を受け、無念な仕打ちを受け、人権を侵害され、また、人から言われのない苦痛な状況や立場に置かれ、死ぬような死の毒を飲んでも (心が傷つくだけ傷ついて辛く苦しむことを、死と表現する)、聖霊が充満ならば倒れることはない。むしろそうであるほど、心霊の中では愛がより強く取り囲み  (Ⅱコリント 5:14)、平安と喜びがあり、許しと寛容・・・等が私の心を掌握する。異端邪説が押し寄せ、世俗に追い立てられたとしても、また、どのような状況や環境の中に置かれたとしても、そうしたことから、少しも如何なる傷も害も受けることなく守られるのである。これがどんな毒を飲んでも害を受けないと言う意味だ。こうして聖霊に満たされている心霊を、神の国、天国と言うのである。

    聖霊を受けたら、もの凄い何か神秘で騒乱な世界が開かれるのではなく、簡単で平凡でありながら、実は決して平凡な事柄ではなく、人間の力と努力ではできない事柄が、人間の内面でごく平凡に現われるのである。それは、私の心の中で、実に実に‘全て私のせいだ’として転ずる心として現われる。

    愛の完全さ (Ⅰコリ 13章)と、聖霊充満との境界は、区分できない共に共有している領域である。この時神が、あなたがたがわたしのうちに、わたしがあなたがたのうちに聖所を立てておられ、顔と顔を合わせて見る様に神を見、知るのである。愛が完成されれば、その時は預言も、異言も、知識も廃される。それまで神学的に教理によって部分的に知っていた全てのこと、話すこと、悟ること、考えることが幼な子のようであっても、完全な愛を通し聖霊が来られれば、幼な子のようなことは捨て、ぼんやりと知っていたことがはっきりとわかるようになるのである。

    これが、御子の中と御父の中におることである (ヨハネ 14:20)。このように愛が完成されれば、自ずとわかり悟るようになるゆえ、誰かが教える必要も教えられる必要もなく、各自が直接聖霊の交わりを通し神の教えを受けるのである (Ⅰヨハネ 2:27、エレミヤ 31:34)。これは旧約全体に預言された約束であり、「その日の後」からは、神の教えを直接受けると言うことである。つまり聖霊によって直接的な教えを受けることを預言していたのだ  (へブル 10:16)。これがキリスト教信仰の真髄であり、核心である。そして天国福音の完全な解釈であり、真の意味である。

    この時を ‘油注ぎ’ と言う。こうした油注ぎを通し教会は完全に運営されて行くのである。聖霊の教えと導き (啓示) によって、教会はキリストのかしらとなり、教会によってこの世、また教会に、支配と権威とに対して神の豊かな知恵を示そうとされるのだ  (エペソ 3:10)。即ちこのように、聖霊の啓示で神の知恵と知識をこの世に供給することで、教会はこの世の牽引車の役割をするのである。今日のような世のこうした混乱や混線は、教会の役割である責任や義務を果たせなかったためである。

5. 霊の分別

    霊の分別は、キリスト者誰もがみな受けたがる恩賜だ。一層霊に混濁し混乱した時代に、霊を追求するキリスト者たちにとっては、追いやってはならない重要な信仰の絶対的な部分を占めている。ヨハネの手紙第一を通し、霊の分別について聖書的に考察してみよう。

<Ⅰヨハネ4:4~8まで 追論を通した ‘真理の霊’ と ‘惑わしの霊’ の考察>

真理の霊

理由

惑わしの霊

私たちの言葉を聞く

誰の言葉を聞くのか

私たちの言葉を聞かない

神から出た者だから

神の言葉を聞く

どこに属しているのか

この世の者だから

私たちの言葉を聞かない

愛のある者は

神から生まれ

神を知っている

ではどうしたら神に

属するのか?

神を愛さない者は

神をわからない

愛の戒めを守ることだ

神を愛するとは

神の命令を守ること

(Ⅰヨハ  5:3)

では神を愛さないと

言うのは何なのか?

愛の戒めを守らないこと

“神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、

  真理はその人のうちにありません” (Ⅰヨハネ  2 : 4)

“その命令とは、愛である”  (Ⅰコリント 13 章)

    上の図表で説明したように ‘真理の霊’ と ‘惑わしの霊’ の分別は、愛を守り愛の中にいるのか、愛を守らず愛の外にいるのかの可否で分別される。霊には数多くの種類がある。サタン、悪霊、死人の霊をこの世の霊と言う。この世の霊は、愛の外で活動し自分たちの領域としている。一方聖霊は、愛が準備された心霊の中にのみおられ、その中で共に食べ飲み交わることができるのである (黙 3:20)。従って ‘愛の内’ にいれば ‘真理の霊’ に属し、‘愛の外’ にいるのは全て ‘惑わしの霊’ に属するのである。

    人間は誰でも征服者の奴隷になる (Ⅱペテロ 2:19)。我々の意思とは関係なくどちらか一方に、否が応でも属さざるを得ない。つまり愛の中にいないなら誰も皆、この世の霊に属する。信仰には中間の中立と言うのはない。従ってイエス様は、神のうちにおるためには、わたしの戒めである愛を守りなさいと言われたのである (ヨハネ 14:21)。つまり私たちが、イエス様が下さった新しい戒めである愛を守り行なう時のみ、神のうちにおるのであり、また、キリスト者たちが神を愛すると言う定義となるのである。

    キリスト教はひと言で表現すれば、神の霊である聖霊との交わりを成す宗教だ  (Ⅱコリント 13:13)。キリスト教とは、旧約から ‘その日の後’ と預言している、その日の後から始まる宗教である。教理や律法を持ってする宗教ではなく、預言通り神の霊である聖霊一つだけをもって歩むべき宗教だ。こうしてすでに完成された宗教であるゆえ、何かを人間の知識でさらに満たそうとしてはならない。

    たとえば、建築者が建物を建てる時、多くの建築資材を必要とするが、建物が完成すればその建築資材はもう必要がない。このように、アブラハムの時代からモーセにわたり約1500年間のバプテスマのヨハネまで、建築者が建物を建ててきた。そしてイエス様が完全に完成しておかれた  (マタイ 5:17)。それが旧約に約束され、預言に提示された、待望の ‘その日の後 ’   (エレミヤ 31:33) からの信仰方法である。今や完成された建物を所有するために必要なのは、建築資材ではなく門の鍵だ。息子は、この門の鍵を建築者の父から受け取って引き継げばいいのだ。その鍵を引き継ぐためには、ただ一つ ‘愛’ と言う戒めが必要なのである。この愛が必要な理由は、雑木が生い茂る山のてっぺんにヘリコプターを着陸させるにはヘリポートが必要なように、聖霊を私たちの心霊に迎えるには、愛の基礎が作られていなければならない。故にキリスト教は如何なることも要求せず、ひたすら愛の戒め一つだけを要求するのである。

    明るい真昼には街頭の明かりが無用であるように、愛の中では全てが完成されているため、教理、知識、知恵・・・等、全てが廃され無視される。また、愛の中ではすでに信仰が完成されている。従って別の道に行かず、まっすぐ愛に行くことが、全ての宗教の完成であり、完璧で最高の近道である。それが、新しい戒めを守りなさいと言う命令である。愛以外の教理に依存しようとする信仰は、もはや聖霊がないと言う自らの確証だ。これはイエス・キリストが語られた ‘誰も真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしない’ という比喩のように (マタイ 9:16)、キリスト教はすでに愛の新しい服を着たのに、何か昔の、律法の教理の古着が必要だろうか。愛の戒めを維持、管理するには、求め、探し、たたき、呼び求める、山上の垂訓 (幸福の使信) に立脚しなければならない。

    言及したとおり、我々は征服者の奴隷となるのである。愛に勝利して神のしもべとなるのか、それとも欲に捕えられ悪霊の奴隷となるのか。これは、生活の中で起こる紙一重の差もない、瞬間的な心の決断から来る。それ故我々は、お互い同士、誰かが誰かを判断する (さばく) 立場ではないのだ。信仰は常に善なる戦いの連続である。それは神学によって成されるのではなく、悔い改めの中で成されていくのである。

    霊の分別はこのように、

① 新しい戒めである愛   (Ⅰコリント 13章)  に歩んでいるのか、そうでないのかで、とても容易く簡単に、真の霊なのか偽りの霊なのかが分別できる。

② 実によって分別する。

    その木を知ろうとすれば実でわかる、と言われたように、全ての行為の結果は、それに伴う実が現われる。聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である  (ガラテヤ 5:22)

③ 力と役事によって分別する。

    聖書ははっきりと、信仰さえあれば誰でも、力と各自に分け与えて下さる恩賜としるしが現われると、多くのところで言及している。ところが、何の力も現われないのに、自分たちの見解や信仰が正しいと主張することは、それは、聖書が間違っていると言う変事であり、神を偽り者とすることである。聖書は、異端と反キリスト、惑わしの霊、にせ預言者の分別を、以上のように糾明し、証している。

● 愛の戒め

    その当時ユダヤ人たちは、イエス・キリストの福音に対して、異端邪説程度にしか理解していなかった。彼らはなぜこの御言葉を受け入れられなかったのか?その理由は、彼らの心が鈍くなり頑なであるからだと聖書は記している  (使徒 28:27)。その頑なの原因は、神の戒めを廃し、人の言い伝えと、人の戒めを教訓として信仰したためであり、神の戒めである愛を行なうことより、教理にのみ片寄った結果だ。このように教理に従うことは、人の戒めを守ることであり、これは、神ではなく人間に仕え崇拝することである。神に仕えようと思うなら、その方法は、ひたすらイエス・キリストの戒めである愛を守ることをもって、神を愛することだ。これが、神に仕えることである  (Ⅰヨハネ 5:3)

    再度言及するが、神の戒めを捨てたと言うのは、①心と思いと知力と性品を尽くして神を愛し仕える心、②隣人を自分自身のように愛そうとする心によって備えられた心霊と行ないを最優先せず、また、守り行ないもしなかったと言うことだ。神の愛の戒めを守らないと言うのは、神を愛してもいないと言うことだ。これを、惑わしの霊と言う。それで形式を取っただけで愛を捨てたイスラエルの民に向かい、預言者イザヤは、“この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない” と旧約時代から預言していたのである (イザヤ 29:13)。この預言の御言葉は、この時代、誰に向けられた御怒りの御言葉であろうか?人の戒めとはまさしく教理的信仰を語っているのである。彼らはまさに、私が正統だ保守だと言っている。

    神の戒めである愛を捨て、人間の言い伝えの、人の戒めによって教えを受けた代価(結実)は、“知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される”  (イザヤ 29:14)と、はっきりと預言されている。使徒パウロは、イザヤが預言した人の戒めが何であるのかを、コリント教会に対し“わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする” (Ⅰコリント 1:19) と、イザヤ29:14節の御言葉をそのまま再び詳しく再解釈している。人の戒めによって教えられた知恵は、この世の知恵であると語っており、その知恵では神を知ることはできないと教えている  (Ⅰコリント 1:21)

    引き続き、コリント第一2章で、神を知る方法について、ただ聖霊の教えによってのみ神を知ることができると言明している。人の戒めで教えられた知恵をもっては、神が備えられた全てのものを、目で見ることも、耳で聞くことも、人の心に思い浮かぶこともないと預言している。人間の知恵と知識では、神が備えられた全てのものを、悟ることも見ることも感じることもできない。ただ聖霊の導きを受ける者だけが、神が備えられたあらゆるもの、即ち、天国、神の国、霊、霊的・・・等を知ることができるのである。

    これは、教理主義者たちが教理を捨てるまでは、決して聖霊を受けることができない絶対的理由であり、また、神のさばきである。さばきとは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となることだと定義している (ヨハネ 9:39)。教理に立脚した信仰が聖霊を受けられないのは、神のさばきなのだ。キリスト教は聖霊充満から始まる宗教なのに、聖霊なくしてどうやって信仰をすると言うのだろうか。ただ愛へと帰る時に可能なのである。

    上記の考察のように、霊の分別の基準が、人の戒めである (マルコ 7:7)  教理による物差しで成されてはならない。ただ神の戒めである愛の行ないの物差しだけが、キリスト教の正確な尺度とならなければならない。その時こそ、キリスト教は再び使徒時代の信仰へと復活するであろう。

 

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