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    三位一体とは言及したように、御父、御子、聖霊の三位の位格が単一神性の内で一つであると言うキリスト教の教理だ。即ち、ただおひとりであられる神(創造主)の神性に関するものであり、神性の中で、三位の位格の相互関係と作用を区別しようとする探究だ。

三位一体の実体は神であり、神の神性の実体である。神はご自身を人間たちに現わしたいと願っておられるが、この神性は神の霊であるゆえ、聖霊以外の理性によってでは決して神を見出すことはできないと言われた(Ⅰコリント2:11)。聖書では、‘三位一体の実体は聖霊を通してのみ完全に知ることができ、聖霊の導きを受ける霊的聖徒たちには、教理による説明は必要ない’と、一目瞭然にはっきりと次のように明言している。

わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける”(へブル8:10)

“人々はもはや、「主を知れ」と言って、おのおの互いに教えない。それは彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ”(エレミヤ31:34,へブル8:11

このように三位一体の実体であられる神は、聖霊によって我々の心の碑に直接書いて下さると言う約束に従って、聖徒たちの心霊を通しその時々ごとに直接教え、思い起こさせ、導いて下さるため、三位一体の実体である神について、顔と顔を合わせるように、ただわかるようになるのであって、人間の教理によって理性でわかるものではない。聖霊を排除し、理性による神学的論証だけで三位一体を糾明することは、第一に、アウグスティヌスが三位一体論を通して導こうとした、三位一体の本当の意図と意味に顔を背けることであり、第二に、聖書の御言葉を否認し抹殺する行為である。

アウグスティヌスは、理性では霊(神)について説明することも理解させることもできないが、語らずにはいられない時代的状況のためだと、三位一体の執筆目的の中でこう言っている。‘完全に語ろうとしたのではなく、全く語らないままでいないためだ’と。彼の三位一体論で明らかにされた神の属性については、三位一体の本質と統一性、同一性以外、他に明らかにされたものは何もない。結果的に‘人間の理性では、霊について全く何事も知ることはできない’と言う結論に達するのである。

彼は三位一体論を書きながら‘人間の言語と理性では完全な三位一体を説明できない’と告白している。最後の15巻で、三位一体の痕跡である、精神の三位一体を説明し、それにより記憶、理解、愛が本来の三位一体のイメージを回復することで、神を完全に理解し愛することができると指摘している。その理解と愛によって隣人を愛し、キリスト者の敬虔に到達できると言った。これは即ち、真の三位一体の実体は理性では見いだすことはできず、精神を愛(霊)に昇華させた時にのみ完全な三位一体に出会えると説明したのである。

また、神学でこれほどに論争の的となっている三位一体の各位格の役割と作用について、聖書では、我々が礼拝のたびに祝祷で既に使っているように、キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりだと、三位の位格の役割を分類している。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたすべてとともにありますように” (Ⅱコリント13:13)

各位格の役割と作用はこれだけでも十分である。アウグスティヌスも‘罪の本質は高慢であり、その結果は善の喪失だ’と主張したように、如何なることがあっても聖書の御言葉を超えて高慢を行なってはならない。それ以上を凌ぎ、異なる解釈をしようとするのは人間の高慢行為だ。理性は、三位を一つに見たり、認識させる概念の能力はない。どこまでも三位は三位として考えるだけだ。いくら三位を一つとして考えると言っても、いつの間にか父、子、聖霊の三位として別々に作用し認識される。これが理性の限界だ。こうした理性の限界の中でアウグスティヌスは、三位の統一性(一体思想)によって理性の誤用を塞ごうとした。即ち、純粋理性によって、思弁だけで三位一体の定義を下したり、別々に分類しようとする理性の要求と理性の限界から出る、無知と詭弁を遮断しようとしたのである。

三位一体の実体であられる神は霊である。その霊は、霊の次元でのみ説明が可能なのである(Ⅰコリント2:10)。霊ではなく、理性によって三位一体を説明し糾明しようとするのは、まるで盲人に色の概念を教育しようとするようなものだ。そのためアウグスティヌスも自身の主張が完全ではないと告白したのだが、逆に神学は、三位一体を完全で全体であるかのように規定し、規範化させ教理として定立させたのだ。今日ではこれをもって異端判別の尺度の根拠に悪用されている。これは三位一体に対する大変な誤謬と矛盾であり、アウグスティヌスの三位一体論を正しく立てようと言う美名の下、逆にアウグスティヌスを冒涜し破壊する行為である。

1 聖書は、聖霊によってのみ三位一体を知ることができると言明している

キリスト教は霊の宗教であって、理性の宗教ではない。それで人間の理性は、神の霊と一つにならなければ完璧とは成り得ない(Ⅰコリント6:17)。神は霊であられるため、父の霊であり、子の霊である聖霊によってのみ、その方 (三位一体)を知ることができると定義している(Ⅰコリント2:12,Ⅱコリント3:18)神を知ることは三位一体を知ることである。聖書ではそれを、永遠のいのちを得たと言っている。永遠のいのちとは、神、即ちイエス・キリストを知ることである(ヨハネ17:3)。永遠のいのちを得る方法は、ただ聖霊を通して父を知らせようと定めた人 (啓示を受ける人) のほかは、父が誰であるか知る者はないと言明している(ルカ10:22)

聖霊の導きを受ける者は、神について知る知恵と知識を得るため、永遠のいのちを得たと言うのだ (ヨハネ12:50)。しかし教理では、永遠のいのちを、死後の世界で得るものだと解釈する非常に大きな誤謬を犯している。イエス・キリストがこう言われたように、聖霊の導きを受ける聖徒は子どもとなる(ローマ8:14)。子どもは既に父の御心を知り、父の御心通りに歩むため、聖霊の中で秘密と言うのはない。秘密が存在すると言うのは子どもの身分ではなく、まだしもべの身分であり、律法的信仰に属していると言うことだ。

つまり、聖霊に満たされた時はじめて‘この方が神だったんだ’と三位一体の実体をはっきりと信仰で感じ悟るのであって、聖霊がなく理性だけでは、どんなに神だと指摘してあげても悟ることも感じることもできない。従って新約では‘新しい御霊によって仕えなさい’と強調したのだ(ローマ7:6)。旧約の預言書では、聖霊ではなく理性で神を求める信仰者たちに対して‘聞きはするが決して悟らない。見てはいるが決してわからない’(イザヤ6:9)と既に言及している。

聖霊の導きを受ける聖徒は、キリストとは友であり(ヨハネ15:14)、父の御心通り行なう者は、主とは兄弟となる(マタイ12:50)。また、王である祭司、尊い者たちであり(Ⅰペテロ2:9)、神と言う称号を受けるのである(ヨハネ10:35)。このように尊い者たちの集団が教会である。教会は啓示である神の御言葉と万物の奥義を管掌し、管理する所であるため (エペソ3:9-10)、真理の柱となるのである(Ⅰテモテ3:15)。啓示とは、大体は聖徒が聖霊に満たされた後に起こる。聖霊が思い起こさせ、教え、教訓し、導かれる、御言葉の啓示がある時、我々はその御言葉を信仰によって受けなければいけない。聖霊の導きで啓示された御言葉をロゴス(Logos)と言う。

これは、創世の時から神が人間に約束された塩の契約である (‘イエスの血は聖霊だ’参照)。今もロゴスは契約により、信じ呼び求める者は誰でも神から啓示を受けることができる。それは、大体は聖霊の満たしと共に来る。従って聖徒たちの疑問に対して答えることは、塩の契約による神の義務なのだ。

キリスト教は‘愛’で全てが通用し、愛の中では全てが超越する。つまり、愛の中では如何なる規範、知識、法等も超越できる律法の到着点であり、最高の法である。愛が備わった心霊は常に聖霊との交わりが成されるが、人間は感情によってすぐに動揺し、罪に弱いため、二番目の非常口となる、求め、探し、呼び求める‘幸福の使信’(マタイ5:3-12)に立脚した信仰が、この世で聖霊を受ける唯一無二の方法だ。その非常口を通して神の御力を着 (Ⅱペテロ1:3)、愛に到達した時にはじめて神に会い、一つの霊となるのである。このように聖霊に満たされる日を聖書では‘その日’と表現している。

 “その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります”  (ヨハネ14:20)

キリスト教信仰の対象は、常に求め探す者に与えられる応答、即ち、ロゴスである。この対象を信じて歩むことがキリスト教的真の信仰だ。それで使徒パウロは、啓示の御霊を受けて(エペソ1:17)、心の目を明らかにし、三位一体の神を知ることを切に求め、啓示を受けることのできる恵みをひたすら待ち望みなさいと言ったのだ (Ⅰペテロ1:13)。この啓示は、各個人の信仰の水準に応じて個別的に格差をもって役事される。特別な預言者的な使命、教会の使命等を除いては、大体は受けた者だけがわかり適用されると言う主管的な性格を帯びている。このロゴスを啓示、または戒めとも言い、聖霊の導きと要約して呼んでいる。聖書は、聖霊の満たしと啓示を受ける時、三位一体の実体を知ることができ、会えるのだと言った。

2 神学(教理)が三位一体に出会えない理由

聖霊のない律法的信仰者たちが彼らの力で信仰を営むためには、新しい方法を模索せねばならなかった。その結果、人間の理性で形成したものが教理である。教理とは、特別啓示なる聖書の意味を、人間の理性で研究分類し、総合的に体系化して統一性を持たせるよう作成したもので、理性による解釈で神の属性(三位一体)を探し出そうとする、血のにじむ努力であった。

しかし、こうした努力にもかかわらず、その結果は常に疑問と論争につながるだけだ。仮に聖霊の強い役事が起こっても、理性による信仰は、論理による理解と納得が充足せずしては、信仰で受け止めようとする事は決してない為、真の三位一体の実体であられる神に出会うことができない。

創世記のバベルの塔の出来事 (創11:1-9)が物語るように、教会は神によらず人間の理性だけで歩み、互いが散らされないようにと教理で堅く立てたバベルの塔は、結局、言語の混乱によってばらばらに散ったように、互いの教理の主張によって一つとなることはない。神が介入されずに人間の理性によって計画し設計したことは全て、一つの目的から始まっても、結局は混乱と矛盾と相互の主張で終結するという教訓である。バベルの塔は、人間が聖霊なく純粋理性の努力と思考で成すことの象徴として説明されている。聖霊なく理性だけを使うことを、人間の数字6,6,6と言うのである。

教理による律法信仰と、聖霊による霊的信仰は、信仰の根本から次元が異なるため、互いが並行することはない。それは人間とサルの相違と同じで、サルがどんなにたくさんの芸と知恵で人間のまねをしても、人間になることはできないように‘肉は肉で、霊は霊であり生命だ’と明言している。故に律法では決して霊的信仰はできない。今、教理  (神学)は、サルの喩えのように、キリスト教の真似をもうやめるべきだ。真のキリスト者とは、聖霊に満たされて聖霊の導きを受けてこそ、キリスト者と言えるのだ。

律法の厳しい教えの中で教育を受け、律法に忠誠を尽くした使徒パウロは、ダマスコで聖霊によって変えられてから(使9:3)、はじめて自身を‘罪人のかしら’と告白している(Ⅰテモテ1:15)。我々はここで深く考えてみるべきだ。聖霊を受ける前の律法による信仰をする時には、サウロ(パウロ)  のように、聖霊をためらいなく破壊する‘かしら’であった。結論的には、イエス・キリスト、つまり聖霊に対しては、妨害者、迫害する者、暴行者の立場にいたと解釈すべきだ。パウロは聖霊によって変えられた後はじめて、真の三位一体(創造主)を知ることができたのだ。こうした現象は今も、律法の教理に基づく現代キリスト教の中で起こり続けている現象である。

それでイエス様は、わたしに従うなら自分を否認しなさいというひと言で、律法信仰から霊的信仰に、信仰の次元を異にする方法を教えておられたのだ。それによって使徒パウロは、聖霊の導きを除外したあらゆる知識による信仰をみな損と思い、ちりのように捨てたと言っているのである(ピリピ3:7-9)。

ところが、これほどにちりのように捨てたと言う、人間の理性による知恵、知識、学問、哲学等を大切にまた拾い、教理を作って使用するキリスト教の正体は、果たして何なのか?それはイエス様の血と、数多くの預言者、使徒たち、殉教者たちの血を空しくするものであり、更には、パウロをはじめとした使徒たちの教えと聖書に真っ向から逆行するものであり、聖書を紙切れにする結果である。

使徒パウロの思想は、聖霊の導き、即ち‘わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける’(へブル8:10)とあるように、聖霊が聖徒の心霊にその時々ごとに直接教える、導きと役事と御力 (Ⅰコリント2:5)に従って、信じ従順する信仰を基礎としている。

ある人は、教理も特別啓示である聖書を基礎としているから何の問題もないと反論するが、聖書は、聖書自体も私的解釈をしてはならないと言っている(Ⅱペテロ1:20)。それは、聖霊以外には如何なる方法であれ理性で解いてはならないと強調しているのだ。教理が聖書から出たのであって、教理から聖書が出たのではないにもかかわらず、まるで教理から聖書が出たかのように錯覚し誤解している人たちが多い。教権主義に対抗した宗教改革の精神の一つが、聖書に帰ろうと言うことであった。現代キリスト教こそもう一度聖書に帰るべき時である。教理が不法である証拠は、現代キリスト教は信仰の核心となる愛が冷め、教会は既に利己主義と冷笑主義が澎湃しているのがその例である。聖書で、愛が冷めたのは不法の結果だと言っている(マタイ24:12)。このように教理で信仰しようとする者たちに対し神は、次のように叱責されている。

“この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを拝んでもむだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから”  (マタイ15:8-9)

キリスト教の本質は、聖霊の導き(啓示)を受けて歩むべき愛の宗教であるにもかかわらず、これまで教理は、使徒時代を経て続使徒時代以降から聖霊の脈が断たれ、教父時代からあまりにも長い間、自ら神の宝座にすわり、多くの富貴と栄光を受けてきた。聖書では聖霊の導きを受ける者たちを‘子ども’だと言ったのだが、教理は、主人がぶどう園を農夫たちに貸し旅に出かけた間に、主人の息子まで殺し、財産を手に入れようとした悪い農夫のように (マタイ21:33-41)、今も教理主義者たちは、このような子どもたちを異端だと言う美名の下に抹殺し、主人に成り代わっているのである。

今、神は、このように聖霊ではなく理性で信仰する悪い農夫たちを滅ぼそうとされている。聖書では、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする(Ⅰコリント1:19)。この世の知恵は神の前では愚かである為、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える(Ⅰコリント3:19-20)。聖霊の導きでない人間の知恵で成されたものは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してない(マタイ24:2)」と宣布している。

耳のある者は聖霊が言われることを聞きなさい。

3 三位一体の完成は聖霊充満だ

信仰には、異邦宗教のように理性による律法宗教と、啓示の宗教がある。啓示の宗教は、その時々に主張する霊の導きに従って動くため、理性による律法宗教のように成文化された教理がない。シャーマニズム (巫俗信仰) は教理がなく、雑霊との交わりを通し、雑霊の教えによってその時々動くという、啓示の宗教と同じような性格を帯びている。

また、キリスト教も三位一体であられる、御父の霊であり御子の霊である聖霊が、聖徒たちにその時々ごとに“わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける(へブル8:10)と言われたように、キリスト教は聖霊が直接教え導かれることだけを、信仰によって従う啓示の宗教であることを誤解してはならない。このように啓示 (聖霊の導き) によってのみ三位一体に到達するのだ。律法にある時は三位一体は神秘であり秘密に包まれているが、聖霊の導きの中 (啓示)では、聖霊が全てのことを教え思い起こさせ、導かれるため、既に秘密はなく、小さい者から大きい者まで誰でも、顔と顔を合わせるように三位一体である神をはっきりと知ることができるのである。

聖霊は各個人の信仰水準に応じて役事に個別的な差があるため、聖霊の導きに従うにはまず、各自の信仰に対する相互の尊重と信頼が土台になければならない。相互の尊重と信頼を土台とせず教理のように画一化させれば、今日のような教理による判断と批判のため、聖霊の導きを受ける霊的信仰を営むと言うのは不可能だ。従って聖書は何よりも、他人をさばくことを大きな罪とし(ローマ2:1)、聖書の多くの箇所で、さばいてはならないことを戒めている。

キリスト教は、理性(教理)によって理解し成長する宗教ではなく、ただ聖霊の導きによる各個人の主管的啓示の中で成長し完成していく宗教だ。律法的信仰では信仰が停滞するだけだ。ただ聖霊による霊的信仰だけが信仰の成長をもたらすため、聖霊の交わりがないのは律法による異邦宗教に過ぎず、真のキリスト教ではない。

こうした観点で見る時、現代キリスト教はキリスト教の本質から相当離脱し、異端の次元を超えて異邦宗教の一つに転落している。聖霊が教え導き悟したもの以外の教理だけで三位一体を云々し主張するのは、自ら、私は聖霊がない者で、肉的信仰をする者であると公表することであり、自分の無知と恥をさらす行為であることを知るべきだ。キリスト者として恥ずかしく、汚辱であることを悟るべきである。

モーセが被り物で顔をおおったように、律法にある時は三位一体が神秘であり奥義であったが、イエス・キリストが十字架上で死なれた後、神殿の幕が裂かれたと同時に天の御国の奥義は無くなったのだ。その奥義は、奪い取っていく者たちのものとなったため、三位一体についてもうこれ以上、神秘だとか奥義にしてはならない。

教理主義者たちの主張どおり三位一体がそれほどに重要だったなら、神は既に使徒たちを通し、これに対する解釈を定立しておかれたであろう。教理がそれほど重要ならば、既に使徒パウロが教理の体系を定立しておいたことだろう。しかし、パウロ、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ等の使徒たちの一貫した主張は、キリスト教信仰をするには‘愛に達し、ただ聖霊に満たされなさい。そうすれば聖霊が教えて下さる’と言ったのだ。信仰は理性ではなく聖霊によって証しすることだと言明しているのである。

徹して親を慕う子どもが、親の胸に抱かれている時にはその恋しさがなくなるように、三位一体論争の終結は聖霊充満だけである。聖霊充満だけがキリスト教信仰の核心であり、信仰の解決策であり信仰の万能だ。三位一体の真の意味は、言葉で表現して主張することではなく、無言の中の信仰によって、聖霊により心霊の中で、三位一体の実体であられる神(父、子、聖霊)を感じ出会う事である。

‘信仰6’で‘信仰と希望’編を執筆する途中で、教界内で三位一体に対する論難が、あまりにもあっけに取られるほどまちまちに乱雑しているのを見て、三位一体について定立させなくてはならないと思い、三位一体の意味と神秘、奥義についてⅰ,2部に分けてまず執筆するに至った。真の三位一体を求める信仰者たちにとって、多くの助けとなることを願う思いである。

今日までの教理が真理について明らかにしたものが、あまりにも荒唐無稽なため、その結果は当然真理から外れ異なる道へと行かざるを得ない。筆者はこれからも続けて、聖書が語る真の真理について証ししていこうと思う。次のメッセージは、聖書が語る‘異端と反キリストの意味とは何か’について言及するとしよう。このメッセージを見る全ての聖徒たちに、聖霊が語ろうとされる御言葉を聞くことができるよう、耳を開いて下さり、目を開けて下さるよう祝願するものである。

ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光がありますよう  アーメン

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