十 字 架

(救われた後の自分の十字架)


   今日のキリスト教の問題点は、多くのキリスト者たちが聖霊に満たされた後、それを維持できずに消滅させてしまうことだ。聖霊消滅は、イエス・キリストを再び十字架につけることで、それに伴うのは、ただ恐れながらさばきを待つよりほかはないと言われた (ヘブル 6:4‐6、10:26)。従ってキリスト教は、聖霊に満たされることが問題ではなく、聖霊に満たされた後、それをどのように維持し管理するかがより重要な問題である。聖霊を持続的に維持するには、イエス・キリストが担って行かれた十字架の道をそのまま模範とし、キリスト者は皆自分の十字架を負って行かなければいけない。自分の十字架は、聖霊の満たしを維持する唯一の方法であるからだ。では、キリスト者たちが負って行くべき自分の十字架とは何であるかを考察してみよう。

● 十字架は死の刑具。それは罪に対する死を象徴する。

 十字架は死の刑具である。これは、罪人が当然その罪の代価を支払うべく死を象徴する。十字架は二つに分けられるが、一つは、イエス・キリストが担われた十字架である。それは、人類の犠牲の羊としての十字架と模範の十字架であり、二つ目は、イエス・キリストが各々に担うよう言われた自分の十字架がある。一つ目のイエス・キリストが担われた十字架は、アダムの堕落以後、罪や悪という肉によって断ち切られた、神との和解のための代贖の十字架である。

 神は、人を神のかたちに造られた。神のかたちとは愛である (ヨハネ第一 4:8)。神のかたちに創造されたアダムは、エデンの園で神と一つの霊で、神と睦まじく共に喜び、共に生きていた。ところが、アダムが善悪の知識の木から取って食べ、肉に堕落してしまったのである。肉への堕落とは、神のかたちである愛から、肉の要素 (不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興 (ガラテヤ 5:19‐21)に転落したと言うことである。このように、アダムの堕落をもたらした善悪の知識の木とは、善と悪の判断を意味する。善と悪の判断は、ただ神お一人だけが全知全能であるゆえ判断できる固有の権限であるのに、アダムが蛇の誘惑を受け、神のように自らの知恵で善と悪を判断、定罪し、その結果、肉に堕落したのである (ガラテヤ 5:19~21)。肉は、神と共に喜び、共に住むことのできない決定的な理由である(創6:3)

“わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ”(創 6:3)

 このように、善悪の実の事件によってエデンの園から追放された人間は、神との関係が断たれたまま、神なく自ら独自的に人間が住む世を作り、文明を謳歌し発展させてきた。それで、神とこの世は互いが敵対関係となるのである (ヤコブ 4:4)。その結果、人間に与えられた代価は、死の権勢に捕えられて、心配、懸念、不幸、失敗、艱難、災難・・・の中で生きて行くのである。このように、初めのアダムは善悪の実の事件によって堕落してしまったため、神は再び生かす一人の人としてのアダムが必要であった (コリント第一 15:45)。その方がまさに、イエス・キリストであられる (ヨハネ 17:2)。イエス・キリストはこの地に、回復して来られたアダムであり、この方の誕生で、世の滅亡を防ぎ人類を救おうとされたのである。

 即ち、人類の犠牲の羊として、人類の全ての罪を負い、毛を刈られる羊のように何も語らず、鞭と嘲笑といばらの冠をかぶり、十字架の刑具に釘打たれて死なれた後、復活されたのである。こうした十字架の出来事を通して、神は、イエス・キリストの霊である聖霊を媒介体としてのみ、神と和解できる救いの道を開いておかれたのである。従って、聖書で語る真の救いとは、イエス・キリストを通して、堕落前のアダムの状態に再び回復されることである。

 そのためには、①肉を捨て、神のかたちである愛に帰らなければならない ②アダム堕落の原因となる善悪の知識の実を二度と取って食べてはならない。つまり、人間の計略と知恵を捨て、神の霊であり、イエス・キリストの霊であられる聖霊の導きだけに従うことだ。このように二つの条件を備える時、救いが成されるのである。

 救いのしるしは聖霊の実であるから、自分自身で証明できる (ガラテヤ 5:22~23)。それは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が自分の心霊にいっぱいに満たされ、私を苦しめた肉の欲が全て消え去ってなくなった状態となることだ。こうした状態が救い、即ち、アダムのかたちへと回復された事であり、これを聖霊充満と言う。それで使徒パウロは、‘聖霊に満たされなさい’(エペソ 5:18)と、聖霊の導きを受けなさいと言う二つだけを要約して宣言している。

 一つ目の聖霊の満たしは、神のかたちへの回複である。二つ目の聖霊の導きは、二度と善悪の知識の実を取って食べないことで悪に陥る蛇の誘惑を受けず、ひたすら、善、即ち、神の御心を行なうことによって、神の国エデンの園で神と共に永遠に交わって生きることである。これが聖書で語る、イエスを信じ救われる真の意味であり、神はここに全ての関心を注いでおられる。

 キリスト者たちが、救われて聖霊に満たされても、自分の肉の欲を支配できなければ、聖霊の満たしは維持できず、常にサタンの誘惑と試練を受ける。サタンはキリスト者たちの聖霊充満を奪うため、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という三欲と、肉の要素 (ガラテヤ 5:19‐21)をもって、ほえる獅子のように猛烈に、また、蛇のように巧みに、聖徒たちの生活の中で様々な姿をもって誘惑と試練を与える。

 こうしたサタンの誘惑と試練を受ける聖徒たちは、良心では神の法を、肉では人間の欲をかなえようとする霊と肉の熾烈な霊的戦いが心霊の中で起こる。この戦いで征服されれば、その征服者の奴隷に転落する (ペテロ第二 2:19)。つまり、戒めと御言葉を守ろうとする霊が勝利すれば、聖霊の満たしを維持するキリスト者であ り、肉が勝利すれば、聖霊の満たしを維持できずに、くちびるだけでイエス・キリストを信じる、世の人間として生きて行くのである。こうした霊的戦いで常に勝利するには、イエス・キリストの‘模範’通りに自分の十字架を負う、十字架の道が、瞬間、瞬間、公式のように生活の中で適用されて行くことだ。自分の十字架は、聖霊充満を維持する唯一の方法だからだ。

● 自分の十字架を負う方法は、自分を否認することだ。

 自分の十字架を負うと言うのは、自己否定によって成る。自己否定とは、第一:神のかたちである愛を維持するため主の戒めを守り、主の戒めを守るには、世の総体的構成要素である三欲と、肉の要素を否認することだ。第二:善悪の実を取って食べないために、聖霊の導きである‘善’つまり、神の御言葉だけをひたすら信仰によって守り、自分のあらゆる知恵、知識、経験等を否認することである。

 もう少し具体的に説明すれば、第一:神のかたちを維持する方法は、ただ、主が命令された愛の戒めを守ることだけだ。だが愛の戒めを守り行なうにおいて、キリスト者たちは自身の中で、常に肉の要素による欲求充足の挑戦を受ける。肉の要素は、状況が困難で、自分に有益でなければ不平と不満をもち、機会さえあれば自身の欲をかなえようとする。また一方、良心では、如何にしてでも愛を成し遂げようとする、霊と肉の葛藤の中で、自分を支配している肉の欲を否認し、愛だけを行なうのである。だがそれは、この世では徹底的な愚か者となる。世の人たちは、人間的あらゆる知識、行為、手段、方法を動員するのに比べ、我々は、彼らのようにそうした方法を全て使うこともできるが、それを全て否認し、ただ主の戒めである愛だけを行なうのである。それはまるで、手足を後ろに縛られ、目を開けて、相手から飛んでくる拳、蹴りを全て受けるようなものだ。

 戒めを守るには、常にこうした状況に置かれる。そうしてみると、あまりにも一方的なため悔しくて、世の全てに息が詰まり、どこかに固く閉ざされて閉じ込められているようだ。そして自分があまりにもばかみたいで、心の中では尽きない怒りと憤りを破裂させ、彼らのような方法を使えと喚きたてる誘惑・・・こうした状況の連続の人生だ。しかし我々は、このように限りなく湧き上がる肉の要素を、死ぬまで否認しなければならない。主を愛すると言うのは、主の戒めを、理由を問わず完全に守ることでしか証明されない故、自分の良心で死ぬまでその戒めを守り通すのである。そして最後の十字架の花は、私を損害、誹謗、侮辱する者を、そのたましいが神に出会えるようにと祝福することをもって、終止符を打つのである。そのようにして神のかたちを我々の心霊で壊さないことだ。その模範をすでに我らの主イエス・キリストが見せて下さったため、我々も、その‘模範’をそのまま守ればいいのである。

 第二:アダム堕落の原因となった善悪の知識の実を取って食べないためには、ひたすら神の御言葉である聖霊の導き、即ち‘善’だけを信じて行なうことである。その為には、自分のあらゆる考え、知恵、知識、経験等を否認しなければならない。つまり、自分の思いのままに決して判断 (さばき)、定罪しないことである。

 神の善は、ただ神の霊にしかわからない (コリント第一 2:11)。従って、神の御言葉である‘善’を守ろうとすれば、この世から数多くの非難と誹謗、誤解が降り注ぎ、結局は排斥される。それは、預言、教え・・・等の、先知識を証すからである。先知識とは、あらかじめ先立つことだ。そして常識ではない。神の御言葉は、このように常に超越した先知識を証すため、排斥されてしまうのである。また信仰の方法においても、今日の現代人は、まず、‘なぜ?’と言う疑問の解消を必要とする。このような基礎的な知識、理論、説得、論理、妥当性、または、能力・・・等を要求するが、神は、神の御言葉であるから、百人隊長の信仰のように、ただ信じなさいと言うのだ。ここでキリスト者たちは、自分の知恵と知識、常識・・・等を全て否認し、ただ神の御言葉を無条件的に信じるための産みの苦しみを払うのである。

 それは、この世から見れば到底理解できず、まるでノアのように、蔑まれ、ないがしろにされ、愚か者、狂った者と言われようとも、キリスト者たちは、ひたすら我が主イエス・キリストを完全に信じる信仰をもって、今、私がする事に対する不確実性や非常識、非合理性、無知・・・等を否認し、乗り越え、訳を問わずに聖霊によって導いて下さる御言葉を守り、その命令通り行なわなければならない。そして結果は、裏切りと背き、愚か、まぬけ、白痴であり、全て奪われ、倒れ、破壊され、最後は嘲弄されるまで、そして自分さえも、これは間違っているのではないかと言う疑念との限りない戦い、その苦痛のいばらの冠等、イエス・キリストが受けた数多くの苦しみをそのまま受けるのである。けれども、我が主イエス・キリストが最後に、‘エリ、エリ、ラマ、サバクタニ’まで行かれたように、我々もそこまで黙々と行かなければならない。こうした、キリスト者たちの十字架上の絶叫が、新約の幸福の使信と一致した心霊である。幸福の使信は、十字架の結実である復活、即ち、救いという、アダムへと回復される過程での核心的要素である。キリスト者はみなここまで到達してこそ、上から下ってくる聖霊の力をまとうのである。

即ち  

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。  
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで
悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
(マタイ 5:1‐12)  

 このように幸福の使信は、ひたすらイエス・キリストの法を守る者だけが爆発する救いの叫びである。その叫びは恰も、産婦の、最後の産みの苦しみによる絶叫のように、霊に生まれる、救いの喜びのための、最後の瞬間の叫びだ。それは、イエス・キリストが十字架上で‘エリ、エリ、ラマ、サバクタニ’と絶叫され、‘完了した’と言われて息を引き取られた後、復活されたように、我々も自分の十字架を負い、幸福の使信に立脚し、一途に愛の戒めと聖霊の導きだけを守ろうとする、命を尽くした真と、真実な絶叫の末、十字架の結実である復活、つまり救いが成し遂げられる。こうした状態を聖霊充満と言う。十字架の最後はこのように、命の復活である聖霊充満として再び生まれるのである。

 聖霊充満は、キリストの霊が私と一つの霊となるため、イエス・キリストの信仰、愛、力が、そのまま我々の心霊に注がれて来るのである。当然、先に言及した、非常識、非合理、非現実、非論理・・・等が克服され、信じられるのである。そして完全に満ち溢れる確信、即ち、水の上を歩けるという信仰の確信として、水の上を歩かれたイエス様の力を供給されるのである。こうした信仰は、その信仰の通り、神の奇蹟、役事として成就し現れ、神の御言葉である‘善’が間違いないことを世に証しするのである。このように証しされた復活の栄光は、十字架の苦難よりはるかに大きく、その栄光を見るだけでも、全て慰められるのである。主の栄光とは、このように、主が直接我々を媒介体として世に現れることだ (ガラテヤ 2:20)。世はこうしたことを見て、神が生きておられることを感じ、畏れ、自ら神の懐に帰ってくるのである。

 キリスト信仰は以上のように、自分の十字架を負って生きることで完成される。自分の十字架は、救いの窮極であるアダムへと回復するための死である。それはまず、愛の戒めと、二つ目、聖霊の導きである御言葉を信じて守るために死に捨てられるまで、自分の知恵、知識、経験・・・等を否認する苦痛と苦難の中での死である。その過程で幸福の使信は、信仰を守るため叫び求める十字架上での絶叫である。その絶叫を経て、復活という聖霊充満として再び生まれるのだ。キリスト信仰は、こうした過程を経ることで聖霊の満たしが維持される。従って、救いは、一度信じて救いに至るのではなく、毎日毎日の生活の中で瞬間瞬間に起こる、自分の情と欲・・・知恵と知識を、その度ごと否認し十字架につける、凄絶な自分との戦いで勝利した時のみ、聖霊の満たしを維持し続けることができるため、イエス・キリストは、自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではない (マタイ 10:38)と言われたのである。

 キリスト者たちが、聖霊の満たしと聖霊の導きを必ず受けるべき理由は、それがまさにアダムへの回復であり、また、救いだからだ。これは、力によっても能力によっても回復できない。ただイエス・キリストの霊であられる聖霊によって神と一つの霊となるため、聖霊の導きである啓示を通して善と悪を区分して下さることで、神の御心を知ることができるのである。一方、聖霊充満でないのは、依然と、堕落し追放された状態で、死の権勢である肉の支配下に置かれており、また、救われてないと言うことだ。その結果は、神の御心のわからない霊的盲目であるから、主の裁きを受けるのである。

 主は、世をさばくために来たと言われた。主のさばきとは、見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となることである (ヨハネ 9:39)。つまり、神の御心の‘善’が見えないと求め、探し、叫ぶ、幼な子のような貧しい心霊に対しては見えるようにし、自ら見えると言う、知恵、才知ある者には父を隠され盲目にすることが、主が世を裁かれる永遠の方式である。父を知ることは、子が父を知らせようと、聖霊の導きによって啓示する者にしかわからない (マタイ 11:27)。父の御心である聖霊の導きによる御言葉を‘善’または‘光’と言う。この御言葉は永遠に変わらない神の契約である故、これを、キリスト者たちの使役である光と塩の中の、塩と言う。つまり‘塩の契約’である (民 18:19)。キリスト者たちは、この約束された御言葉をそのまま信じ守り行なうことによって、その御言葉が間違いなかったことを、世に証ししてあげる証人としての人生を生きるのである。こうしたキリスト者たちの共同体が教会だ。だが、今まで教会は、証しすべき光の‘善’の御言葉について盲目であったため、世に、神の完成した栄光を現してあげることができなかったのだ。

 神を現すためには、主が見せて下さった‘模範’そのまま、今、自分の十字架を負ってその道へと入って行くことである。従って今教会は、長い彷徨の放浪生活を終え、二千年前イエス・キリストがカルバリの十字架で立てられた、人類最大最高の犠牲と愛の模範をそのまま、その道をそのまま、一点一画の崩れなく行なうことで、折れた十字架を再びまっすぐに立てなければいけない。

  耳のある者は聖霊が教会に語られる声を聞きなさい。

  ハレルヤ! 世々限りなく主に栄光あれ

  草はしおれ、花は散る。しかし主の言葉は、とこしえに変わることがない。

  • 愛:寛容であり、親切です。人をねたまず、自慢せず、高慢にならない。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ。 (コリント第一 13:4~7)

  この全ての要素が完成された時が、本当の愛だ。

  • 肉の要素:不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊楽 (ガラテヤ 5:19-21)
  • 三  欲:サタンが支配している世の構成要素である、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢 (ヨハネ第一 2:16)