主よ!艱難の日々を少なくしてください

(2021.9月)

現在、全世界は、テロ、洪水、山火事、猛暑、地震等、各種の環境災害や伝染病、そして陰謀論、フェイクニュース、イデオロギーの衝突などによるひどい恐怖と分裂の時代を生きている。これはすでに聖書で預言された通り、我々人類にそのまま一つ一つ起きているのである。聖書の最後の預言には、地上の三分の一が焼かれると記されている。(黙示録8:7)この預言の御言葉通りこの時代に起こる前に、キリスト者たちは、その日を少なくして下さるよう、主に懇願し叫び求めるべき時である。聖書には“もし、その日数が少なくされなかったら、一人として救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために。その日数は少なくされます。”(マタイ24:22)と記されている。

聖書の全ての預言は、神の御言葉に従順した義人には、救いと祝福を、そして御言葉に不従順した悪人の罪に対しては、艱難とのろいの災害をもって審判するとある。各国の指導者たちは自国の国家体制で国民に幸せな暮らしを提供できると考えているだろうが、人間の幸福は、ただ、神の御言葉に従順するのか、従順しないのかにかかっている。それは自身の行いに従って公正な審判が伴うからである。

審判の基準は、キリストの戒めである愛だ。(Ⅰヨハネ4:16-17)愛は、全ての万物の根本であり根源である。愛の中に留まる時、祝福、希望、信仰、健康、幸福、平和、成就、富貴、喜びなどを得ることができ、また、愛を離れ罪と悪を行う時は、不満、患難、不安、恐怖、疑心、滅亡、無駄骨、虚無、不幸、羞恥、恥辱、蔑視、卑しみ、虐待、貧困、呪い等を受けるのである。聖書では、自身が何を植えようと、それをそのままを刈り取るという報いの法則について語られている。(黙20:13、マタイ16:27、黙2:23,Ⅱコリント5:10)全ての人類は、国、民族、宗教等に関わらず、誰であれ、隣人を自分自身のように愛することができなかったことに対して、本人が行った通りに、無益な言葉のひとつに至るまで、それに伴う審判を受けるのである。

東西を問わず、一時、大帝国を築きながら今は消えて無くなった国、命脈だけを維持している国々を見よ。また、キリスト教国家であったローマ、ポルトガル、スペイン、イギリス… それらは一時世界を制覇しながら、今はなぜ過去の栄光を大事にしまい込んだまま、だんだんと衰落の道へと進むのか。この国々は、コロンブスの新大陸発見以降、植民地による数多くの原住民への人権蹂躙や搾取、虐殺があった。文献によると、146回の大虐殺と、1億4千3百万人の原住民が虐殺されたという。また、黒人の奴隷問題はどうだろうか。それらの国々ではいまだに植民地による、原住民と黒人の奴隷問題、そして、彼らの恨みと憎悪、うめき、呪いの血が解決されていない。

さらにまた、大部分の南アメリカの国々が繁栄できず、事が不通に終わる事件などを目にする。資源が豊富で一時は繁栄していたアルゼンチンは、相次ぐ事件で、世界富国への希望は折られ不通になる理由が何であるのか。また、ミャンマーの事態を見ると、ロヒンギャ族に対する圧迫が、結局今のミャンマーの事態を作り出したのである。このように多くの国々の歴史的教訓とは、罪のない血を流したり互いに許すことをしない怨望や憎悪は、双方共に滅びるということ、また現在起こっている全ての事態は、過去に行なった事がそのまま報いとして、その国家、国民、自身たちの前に、呪いや災害として現れることを見せているのである。

あらゆる人間のゆがみの初まりと最後は全て、このように愛を守らないことから始まる。だからこの世は、良心的に善良に生きよと言うのだ。それがまさに“あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ”と神が命じられたことである。

愛をなぜ守らなければならないのか

愛を守り行うべき絶対的な理由は、神との交わりを成すための唯一無二の手段であり方法であるからだ。つまり、キリスト者たちにとって愛の用途は、神と一つとなり、その御心である“善”を知り、その“善”と、信仰によって一つになるためである。愛を離れれば神との交わりは断ち切れ“善”を知ることができない。そのためキリスト者たちにとって、愛は選択ではなく必須条件なのである。それでイエスキリストも、父の御心通りに行わない者は不法を行う者である。わたしから離れて行けと言われた。(マタイ7:21-23)神の御心である“善”を無視した人間的な愛は、どんなに分配、施しなどの良い行為に見えても、うるさいシンバルと同じであると警告している。(Ⅰコリント13:1)

神の御言葉である“善”は、人間の知恵では信じることはできない。また、我々が見ることができないため、如何なる根拠も理論も持ち合わせていない。(Ⅰコリント1:21)それで、伝える御言葉は愚かに見え、見とれるような姿もなく、輝きもなく(イザヤ53:2)常識的ではないけれど、神の御言葉だからそのまま百人隊長のように、ナアマン将軍のように、無条件に信じればいいのである。その御言葉はやがて現実として起こる実体であるからだ。従って聖書は信仰について、“望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである”と定義している。(へブル11:1)

こうした神の御言葉を信じるには、心霊が肥沃土でなければならず、そのためには、主の戒めである愛の中に留まらなければならない。愛に達しなければ信じることはできない。信じるとは言ってもその信仰は、洪水が起これば疑心や不信へとまた戻って行くだけだ。完全な愛(コリント13章)の中に留まる時はじめて主は現れ、顔と顔を合わせるように神の御心である“善”を知るようになる。この“善”が、永遠に揺れ動くことのない岩となり、合法となるのである。その時、祝福、順調、繁栄、平和、安息等に繋がって行くのである。

反面、愛から逸脱しては神の御心である“善”がわからないために、人間の考えや知恵で成し遂げようとするが、それは人本主義に過ぎず、これを不法と言う。神の戒めである愛を離れれば誰であれ、自身の目的とする欲が相対的に大きく作用する。心では主の法を求めるが、肉身は、肉の法の罪に仕える願望が強いため貪欲へと流れる。そしてその罪が熟すると死に至るのである。(ヤコブ1:15)従って聖書的異端とは、キリスト者が愛の戒めから逸脱することを言う。つまり、愛を行えなければ、それは不義を行うことであるから、異端的行動なのである。(テサロニケ第二2:12)

キリスト者が異端を警戒すべき理由は、愛という神の御言葉から逸脱させるからである。従って、キリスト者たちは自ら常に瞬間ごとに、自身の霊を分別しなければならない。律法信仰では、愛を逸脱することが偽キリスト的行為であり、霊的信仰では、愛と聖霊の導かれる教えから逸脱することが異端の道である。愛と聖霊の教えがない行為は全て偶像崇拝であり、これは、“彼らが、わたしを拝んでも無駄なことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから”という御言葉を成就する空しい敬拝である。(マタイ15:9)

人間はこれまで、こうして“善”を離れ、人間の知恵と能力による人本主義の世の中、つまり、神の御心通りに行わない不法の人生を生きて来た。(マタイ7:22)そのため、神の御怒りによる艱難と災害の時代が到来したのである。(ローマ1:18)艱難と災害は、現在多くの異端の猛威と陰謀論、また、イデオロギーによる共産主義と民主主義の衝突、そして、各種の自然災害等をもって、あらゆる人類の暮らしの中で起きている。では、これについて言及してみよう。

陰謀論

主は、人が創造秩序の法である愛を離れ、自分の欲のままに行なった結果、彼らを、良くない思いに引き渡された。(ローマ1:28)即ち、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれた。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が裁かれるためである。(テサロニケ第二2:9-12、黙22:11)このように、虚偽を信じさせる陰謀論は、すでに二千年前のイエスキリストの預言の御言葉通り、現在、戦争や、戦争のうわさが世界中を席巻しているのである。(マタイ24:6)

全ての国、また団体、教会が集団催眠にかかり、主の戒めは言うまでもなく、人間の最後の砦である常識や道徳、倫理の破壊という想像できなかったようなことが、あまりにも当然のごとく我々の周辺で起こっている。それは、良心に焼き印を押されたために起こる現象である。なぜ良心に焼き印を押されたのか。それは罪と悪を放置した結果、良心が鈍くなり、結局は破壊され、罪と悪に対して無感覚となったのである。それはまるで、掃除をしない隅の方にカビや細菌が繁殖するように、自分の心を毎日毎日、反省と省察、そして悔い改めて清くしなかった結果である。

こうして焼き印を押された良心は、罪に慣れて大胆となり、“善”の御言葉は信じず、罪と悪の陰謀、企み、虚偽を信じる人生へと繋がって行く。従って、どんな説得や教訓をもっても立ち返ることなく、言い訳、弁明、言い掛かり、自己の合理化、非常識な主張で正当化しながら、自分が追求する欲求、欲望を達成するまで決して顧みず聞こうともしない。このような良心は、自分が聞きたいことだけ聞き、見たいものだけ見るという特徴がある。客観的で普遍的な常識からかけ離れているため、常識、道徳、倫理は消えて行き、社会や国家は極度の分裂と混乱に陥るのである。

ドイツのヒトラーの時を見ると、国民がナチズムの集団催眠にかかった時、何を行ったのか、その歴史的教訓がある。ドイツのための救い主だと叫んだヒトラーが、愛の戒めを離れ、人種差別と民族優越主義を煽動し得たものは何なのか。ドイツは全世界に大きな罪悪を犯した国でありながら、悔い改めを通して救いを受け、再び回復し維持されたが、しかし、もし悔い改めのない異邦国家であったら、彼らは現在の国民とこれから生まれてくる子孫たちに、借りだけをどっさりと背負わせるだけである。

では、陰謀論者たちは、なぜ真実を見聞きしながらも立ち返ることができないのか。それは、悪は悪同志、お互いに同じ属性同志が固まるからである。こうした悪のかたまりを頑固という。悪の固まりが強いほどその主張もやはり強く、いくら事実と真実を見せたとしても、自分たちの主張が正しいと思っているため変わることは不可能だ。それでイエスキリストは、“きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない”(へブル3:15)と警告されたのである。

(頑ななキリスト者たちを変える方法は鍛錬である)

頑なで焼き印を押された良心を悟らせる方法はたったひとつ。心の悪が全て壊れ、砕かれ、粉になるまで、限りなく失敗を重ねるという鍛錬である。こうした鍛錬を通し、純粋で真実な心霊へと回復するまで、罪と悪の沈殿物を排泄し、間違いを悟り、正しいことを分別する分別力を教えられるのである。イスラエルは、我の強さと主張の頑固さにより、今日まで三千年以上鍛錬されている悲劇の民族だ。(申命記30:15-20)エゼキエル書には、“わたしが主であることを知ろう”という句が、約47回にわたって記されている。これは、頑ななイスラエルの民たちに対する鞭で、壊れ、砕かれ、滅び、ばらばらに散らされ、恥を受けてようやく悟り、立ち返らせる方法を使われたのである。

人類は、イスラエルの民の鍛錬を空しくすることなく、恐れる心をもって教訓とすべきである。頑なで虚偽を信じる陰謀論者たちもやはり、その頑なさが全て砕けるまで、神は鍛錬をもって治められるであろう。また、陰謀を流布し罪を企んだたましいは、彼によってもたらされた全ての事件の責任を負わなければならないという、とてつもない悲劇がある。聖書では、なぜ保証してはならないと強調しているのかを詳記しよう。偽りを保証したが故、それによってもたらされた全ての事を、丸ごと責任を負わなければならないからだ。従って、無益な言葉の一言まで裁かれると言われたのである。(マタイ12:36)耳のある者は、聖霊の語られる警告の声をしっかりと聞くべきである。

愛を離れた人間の罪と悪に対する神の御怒りは、陰謀論者だけでなく、猛暑、洪水、山火事、地震、ききん等の各種の自然災害をもって審判される。洪水と山火事などで焼くのは、聖書で警告されているその順序通り、敬虔でないものに対しては水で掃き流し、そして罪悪に対しては、ソドムとゴモラを審判で灰の山にされたように、火で焼き尽くされるのである。(ペテロ第二2:5-6)

人類は、自然万物を通してこの時代に語られる神の声に耳を傾けなければいけない

聖書には、ダビデ王の時代の三年間のききんについて記されている。(Ⅱサムエル21章)ダビデ王がききんの原因について神の御心を伺った。神の答えは、ヨシュアの時代にギブオン人たちを殺さないと約束したのだが、サウル王が、その彼らの血をたくさん流したからだと、ききんの理由について語られた。異邦人のギブオン人たちは、守ると言った約束をサウルが破り、ギブオン人たちを殺したことに対する恨みと憎悪に満ちていた。

ダビデは、ききんから脱するために、異邦人のギブオン人を訪ね、どのように贖罪をすれば恨みを解き、イスラエルに福を祈ってくれるのかを尋ねた。この時ギブオン人は、この問題は金や他の物で補償される問題ではなく、サウルの子孫の中から男子7人を自分たちに渡してくれと要求した。ダビデはサウルの子孫7人をギブオン人に渡し、彼らは7人を山の上でさらし者にして殺した。こうしてギブオン人の無実の血を流したその血の代価を支払った後、ようやくイスラエルのききんが解決したのである。このように、罪と悪を犯せば、恰も避雷針が稲妻を引き込むように、罪と悪を犯した国家、社会、団体、家庭、個人に照準が合わされ正確に降り注ぐ。こうして約束された預言通り各種の災害をもって審判されるのである。(ヨブ記22:10-11)

こうした自然災害を前にし、はるか昔の古代人までも神の怒りであると思い、自然環境の克服のために神の前に出てその御心を探した。そして神の御心に逆らわないようにしていた。しかし現代に至っては、神とは全く関係のない科学的解釈をもって、単なる自然現象とし“神はいない”とまで言っている。自然災害をただの自然現象に過ぎないと言うなら、聖書の預言と、預言者たちの叫びを通して自然災害を下された数多くの神の御怒りは、如何に解釈すべきなのか。神は、人間のよこしまな心を知り、こうした事柄をあらかじめモーセを通して歌として作り歌わせた。つまりモーセの歌は、民たちが悪行によって罪を犯せば、決してその民たちには顔を隠して現れないということを知らせるために、モーセを通して歌を作って歌わせたのである。(申命記31-32章)

従って、神が現れないからと、いないのだと言って罪を犯すのに大胆であってはならない。犯罪をした民衆に対しては顔を隠して現れない代わりに、戦争、ききん、悪い獣、伝染病等の4種類の災害をもって代用される。その災害を通じてはじめて神が生きておられることを知らせるのである。(エゼキエル14:21)従って、自然災害を見て“神はいない”という解釈は、神の御言葉を徹底的に否定し、その教訓を引き裂く行為にしかならない。モーセの歌には次のような御言葉が記されている。

わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。(申命記32:22)

飢えによる荒廃、災害による壊滅。激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地を這う蛇の毒とともに、彼らに送ろう。(申命記32:24)

神は、焼き尽くす火、ねたむ神である。(申命記4:24)言及したように、この聖書の最後の預言は、地の3分の1を火で焼くと記されている。(黙8:7)人類の罪と悪に対する神の怒りは、全世界で地震、火山の爆発、猛暑、山火事等の各種の自然災害をもって、聖書の預言がそのまま一つ一つ、点の一つまで行われている。それは毎年程度が激しくなっている。マスコミは各種の自然災害による人類の阿鼻叫喚、涙と苦痛をリアルタイムでしきりに注ぎ出しているが、キリスト教は、こうした自然災害を前に成すすべもなく目をつむっている。こうした使命感のないキリスト教とキリスト者に対して、イエスキリストは、ヨナのしるしのほかには、しるしはないと激怒しておられる。(マタイ16:4)この御言葉が、どれほど恐ろしい御言葉であるかを悟るべきである。

心が頑なで不従順したヨナは、今のこの状況で使命を果たさず傍観しているキリスト者たちを象徴している。神は、ヨナのように不従順したとしても、最後まで正して直し、使命を果たせるようにされる。つまりヨナが、大きな魚の腹の中で、凄絶なる生死の局面を迎えてはじめて頑なさと不従順が砕かれ、そして最後の祈りで助けを叫んだように、そのようにされるというのである。これがヨナのしるしである。キリスト教はどうか目を開け、立ち上がり、地の3分の1を焼かれるという神の御言葉が、現在どれ程どのように行われているのかを見て、ヨナが魚の腹の中で、絶叫の中で祈ったように、真実で切実な心で人類の罪と悪を代わって悔い改め、神の前に、その日を少なくして下さるよう懇願しなければならない。

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(マタイ24:22)

こうしたキリスト者たちの切実な祈りによって、預言されたあらゆる呪いの災害と、地球の3分の1が焼かれる前に、神の恩寵によって環境災害が止むようにしなくてはならない。また人類は、早く罪と悪から立ち返り愛に帰るべきである。そうしなければ神の御怒りは終わることなく、各々が行なった通りに照準が合わされ、全ての人類を審判されることだろう。

人類がこんな境地に至るまで、キリスト教は各役割を果たせなかったことで、この世は神の法を離れ人本が発達した。所得の不均衡を是正するために、所得再分配と言う名目を掲げながら、結局は、一人のためだけの欺きによって、また別の権力搾取を目的とした共産思想が胎動するようになった。そうして民主主義と共産主義のイデオロギーの衝突は、数多くの戦争と恐怖、混乱へと人類を追い込んだ。その熾烈な争いは現在も進行中である。今では、世界の至る所で自由民主主義が危機にまで追い立てられている。

自由民主主義守護の重要性

人類は古代から、愛に近接した法を中心に、普遍的常識である倫理と道徳を規範に形成されなければ、地球上で存立することはできなかった。愛から遠ざかるほど、その国家の暮らしは徐々に疲弊して行き、患難、苦痛へと向かい結局は滅びる。それは人類の歴史が今日まで証明してきた。歴史を通して見ると、国家の統治方法において残忍な国家、憐れみと慈悲のない国家、独裁国家は、人権弾圧による呻きと呪いと恨みにより、その国家の生命力は決して永遠に堅く立つことはできない。

独裁とは、キリスト教的用語では偶像崇拝である。つまり神の法である愛を捨て、人間の貪欲のための手段として、独裁という彼らの統治方法を制度として作り出したのである。従って偶像崇拝であり、偶像崇拝国家ということだ。独裁は、人権弾圧と、それによる怨恨と呪いの血のためにキリスト教信仰は決してできない。人権が重要な理由は、どの国家であれ、人権弾圧による恨み、不平、怨恨、憎悪等があるとその国家は即時呪われ、不通で塞がり繁栄することができず破滅する。そしてその国家と指導者の生命力が縮まるのである。今の独裁国家の存立は、こうした悪の結果を見せるための悪の標準に過ぎない。如何なる知恵、手段、方法、計略、権力にもがいても、結果は滅亡という的に向かう矢のようだ。従って、正義、平等、自由、人権尊重を備えた自由民主主義こそが、その国家の存立と繁栄を成すことができるのである。そしてまた、全きキリスト教信仰が成せることである。

自由民主主義を健全に維持し支えるのは正義である。この世の正義は、この世の法の公正な遵守を根幹とするが、キリスト者の正義は、この世の法は勿論のこと、それに更に主の戒めである愛が根幹となる。暮らしの中でいつでも誰に対しても良心は、“隣人を自分自身のように愛すること”を遵守し、人類の隅々まで塩のように味を出すことである。その役割がなければ、愛は罪と悪によって踏みにじられ、世俗化し、この世と同化してしまう。この世は、金持ちは益々金持ちになり、貧しい者は益々貧しくなっていく。どの社会でも度を超す富の偏重は不平不満によって病み、そこに各種のイデオロギーや共産主義が浸透する原因を提供することになる。民主主義が健全に維持されるよう、キリスト教は、教会とキリスト者一人一人の奉仕と施しを通じ、分かち合いをもって富の偏重を調節してあげなければならない。

右の手がすることを左の手がわからないように、名もなく光もなく行うキリスト者一人一人の施しは、社会にポカポカとした暖かい美談を生む。その美談は、とても小さなものでも、難しい中にあっても、その社会の不平不満を純化し、浄化する力が現れるのである。そうして、水が無くてしおれ行く草花に水をやるように、人々を暖かく希望に満たしてあげられる力が現れる。このようにキリスト者が社会の隅々にあって、社会が不平不満と利己主義で腐敗しないように、愛で防腐剤の役割を果たすことで、民主主義は健全に維持されて行くのである。

キリスト教はこのように、自由民主主義を基盤に、正義と自由、平等、人権という絶対的な枠の中でのみ、光と塩の役割をすることができ、国家繁栄を成すことができるのである。神はその見本として、愛の戒めを守るキリスト教国家の中から覇権国家を立てられる。覇権国家の使命は、世界の自由民主主義を守り、人類のどの国であっても公義が実現されるよう守ってあげることである。そうして人類が平和に暮らすことができるよう、世界の警察国家としての働きをやり遂げる国家でなければならない。従って覇権国家には、アブラハムに下さった祝福、即ち“あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしはのろう。”という祝福の基としての福をくださるのである。(創世記12:3)それが、この時代に管理者の使命を果たすべくアメリカなのである。

この世の常識で考える時、あまりにも不公平で理解し難いかもしれないが、キリスト教は祝福の基であり、アブラハムの祝福を引き継いで来ているのである。これが、気がふさがると言うのなら、アメリカのように神から約束と認定を受けるべきであろう。共産国家が覇権国家になるには、アメリカのようにキリスト教国家になることだ。そして、アメリカの信仰の先輩たち、清教徒たちのように純然さと敬虔、忠誠と熱心さをもって、多くの迫害による涙と信仰と施しが積まれに積まれ天に達しなければならない。罪を犯してはいないが、まるで罪を犯した者のように追われ、いびられ、蹴られ、踏み付けられ、その中で神からの応答と祝福を受ける過程がなければならない。だから共産国家が覇権国家には成り得ないのである。

こうした過程を経て、神から認定されたアメリカが、警察国家としての使命をすっかり忘れ去ったまま、一方主義、また人種優越主義等を主張し行うことは、覇権国家としての使命はやらないと宣言するのと同じだ。アメリカは過去4年間、国際的には名誉が失墜し、見下され、つつかれ、いびられ、嘲弄と嘲笑が付きまとった理由、そして自然環境の反乱、これらは神の戒めである愛を捨て、人間的な方法で繁栄と名誉を得ようとしたからである。アメリカはこれに対し徹底的に悔い改め、そして神との約束を再び回復、維持しなければならない。

審判と艱難の時期に、主は、義人たちが世界平和のために昼夜悔い改め、助けを求める叫びの声を聞かれ、約束に従いもう一度アメリカに管理者の使命を回復された。即ち、アメリカの崩れた自由民主主義を再び回復し、世界の警察国家としての働きを果たせるようにされる。従ってこの時代に、祝福の基であるアメリカを祝福し共に従う国家や個人には祝福を下さり、呪い、不従順する国家や個人には呪いを下されるのである。神の御心に従い、今こそ世界はアメリカを中心にかたまり、あちこちで倒れている自由民主主義を守護し、守り通して行かなければならない。これを通して、聖書で語られている祝福と呪いの全ての預言が、画の一つに至るまでそのまま全て成就する。そうして神は、生きて人間の国を治めておられることを現され、知らせるのである。(ダニエル4:25)

こうして、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。(ダニエル4:25)

以上のように、陰謀論、自然災害、自由民主主義の危機等は、全ての人類が、神の創造秩序であり法則である愛から離脱したために起こることである。ここで今立ち返らなければ、大災害へと進んで行くしかない。立ち返らない頑なな人類に対しては、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。(マタイ16:4)ヨナが魚の腹の中で、凄絶な生死の最後の局面で助けを叫んだように、人類は、大災害の艱難の中で、その時になってはじめて頑なさと不従順が砕かれ、凄絶なる叫びで神に助けを叫ぶであろう。

人間に艱難とのろい、災害と滅びのある理由はほかでもない、神の御言葉に逆らい、至尊者の御心をさげすんだためである。そのため人類全てが、闇と死の陰に座し、悩みと鉄のかせに縛られているのである。(詩篇107:10)こうした艱難から抜け出す唯一無二の方法が、悔い改めである。それで神は、苦難の日にわたしを呼び求めよと言われたのである。(詩編50:15)

災害から救いの非常口-悔い改め

人類は今こそ、真実な悔い改めによって、もう一度救いの門へと進んで行かなければいけない。神は、罪と悪を行う民には顔を隠して現れないが、悔い改めて主の戒めの愛を守る者には、主が約束された通り再び現れて下さる。(ヨハネ14:21)人類は、もうこれ以上神の法に逆らうことをせず、早く悔い改めて罪と悪から脱し“あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ”という、隣人愛へと帰らなければいけない。また、自分の人生でどんな状況であったとしても、悔しく思わずに、それは、自分が行ったことの報いを受けたのだと、無条件の愛と許しをもって縫い合わせ、結び目を結んでけりをつけること。それが今すべての人類が目指すべき人生である。

特にキリスト者たちは、神の全知全能を、人間の知恵や知識による論理と理由で説明しようとするニコライ派と同じ人本主義、そして自身の体験による信仰経験や、祈りの答えや成就があるため他のものを認めようとしない“自分だけの神”という驕慢、また物質の祝福のみを貪る祈福信仰(ご利益信仰)、キリスト教優越主義等の偶像崇拝から脱し、“愛しなさい、互いに愛し合いなさい”と言われたイエスキリストの戒めに帰らなければいけない。このように愛の中に留まれば、主と一つになり、顔と顔を合わせて見るように、聖霊との交わりによって神の聖なる御心である“善”を自ずと知り、感じ、悟れるのである。(Ⅰコリント13:12)その人生は、義、喜楽、平安の中で、感謝と喜びによって和平と和睦をもたらす犠牲の羊、即ち、十字架を背負う人生に当然到達するのである。

キリスト者たちは、主の十字架をどのようにして背負うのか。その方法は、キリスト者たちの倫理綱領であるマタイの福音書5章を、そのまま自身の生活の中で守り抜くことである。それが自分の十字架を背負う人生である。即ち、恩讐を愛し、右の頬を打たれたら左の頬を差し出し、国家、社会の問題があれば自分の問題のように祈り、解決できるように後ろでその方法を探し出してあげる。このように、自身の前に広がり置かれる立場、環境の全てを、愛によってじっと我慢し、忍耐し、縫い合わせて、結び目を結んで終わらせること。それが、十字架を負い、主に従って行く人生である。こうした十字架の人生は、人間の理性や努力、能力、力では成すことはできない。そのため、いと高き所から降りてくる神の力を着なさいと命じられたのだ。(ルカ24:49)こうした時にキリスト者たちは、管理者としての働きを果たすことができるのである。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

そのような訳で、今日のような陰謀論やフェイクニュースによる混乱、テロ、各種の自然災害、伝染病、自由民主主義の危機、これによる心配、懸念、不安、恐怖等の艱難と災害が人々を打ち、揺さぶる時、これを管理し執り成して防ぐのがキリスト者であり、キリスト教の役割なのである。

耳のある者は、聖霊の語られる声を聞きなさい。

 

愛の主よ! 今、人類に吹きすさぶ大艱難を前に、恐れ多さに、涙、また涙しかありません。彼らは、なぜこのように艱難が臨むのかを知らずにいます。我々キリスト教の2,000年をお許しください。人類が、今の艱難と災害を機会に罪と悪を捨て、主の懐に帰れるようにしてください。このように従順しようとする人には救いの道を開いて下さい。人を憐れんでくださる父よ、我々キリスト者たちが間違っていました。許してください。

人間の計略、策略、虚偽、力、能力をもっては、永遠に虚無と虚像と滅亡以外には何も得るものが無いことを知りました。それを生かすのは、ただ、主の戒めである愛を守る者、彼に主は現れ、主の御心を知らせて下さいます。その御心とは、アダムが失ってしまった“善”でありました。我々キリスト者たちは、この“善”を永遠に信じ、従い、従順するだけです。主は、“善”を知らないキリスト教は無益なだけで、主とは関係なく、空しく拝んでいるだけだと語られました。今こそキリスト教はもう一度立ち上がり、審判のこの時代を大きな教訓とし、“善”から離れることがないようにして下さい。

主よ! モーセの約束と契約、そして、主の戒めは一つであります。それは人類の歴史の上に、祝福と呪いとしてそのまま成就し流れて来ており、変更できる者は永遠に誰もいません。ここにある三千年前のダビデの息子、ソロモンの聖殿奉献の祈りを、この時代にも覚えて下さい。審判を迎え、主の民であれ、異邦人であれ、誰であれ、主の宮で叫び求める祈りを聞いて下さい。そうして、この艱難から守って下さり、この艱難の日々を少なくしてください。私たちが間違っていました。どうかお許しください。この艱難の日、誰であれ、イエスキリストの信仰の中で真実な悔い改めをし、呼び求める者に救いを施して下さい。イエス様のみ名によって切にお祈り申し上げます。アーメン

草はしおれ花は散る、しかし、主のことばは永遠に変わることはない。

ハレルヤ。ハレルヤ。世々限りなく主に栄光あれ。

(2021.9月)