真理とは何か

    キリスト教はこれまで、真理が何であるかについて多くの言及をしてきたが、これは全て神学的な視覚でのアプローチであったに過ぎない。しかし今まで我々が等閑視してきた哲学と異邦宗教では、キリスト教に対してどのように考え、どんな観点で見ているのかを知るべき必要がある。キリスト教はまた、哲学と異邦宗教の存在に対し排他的な感情で顔をそむけるのではなく、これを確実に比較分析する時期だと思われる。

 我々が理解するキリスト教信仰の論理通りであるなら、仏教国家や儒教国家等、その他異邦宗教を信じる国家はみなのろいを受けて失せるべきとなろう。それにもかかわらず、世界至る所に分布し存在する異邦宗教等を、何をもって説明するのか?仏教、儒教、ユダヤ教等、それらは律法であるが、彼らの教理の中にも確かな真理がある。仏教の慈悲、儒教の仁は用語が違うだけで、キリスト教の愛の中に含まれる一つの部分である。

 たとえば、キリスト教と異邦宗教との違いは、倉庫 (キリスト教) と壺 (他宗教) のようなものだ。倉庫の中に壺を保管するのであって、壺の中に倉庫を保管することはできない。また衣服のように、人の体型とは関係なくほぼ誰でも大体は着られる韓国服 (キリスト教)と、自分の体型でなければ着ることのできない洋服(他宗教)のような違いだと言えよう。このようにあらゆる宗教を包容し先導してゆく、大宗教としてのキリスト教が、自ら最高の宗教だと自任しながら、いざその行為は極めて消極的、独善的であり、誰も受容できない排他的、閉鎖的な信仰に固執しているのが現実ではないのか?

 キリスト教はこれまでの井の中の蛙のような我執と偏見、独善から脱し、最高の真理を知る者らしく、もう少し幅広く見渡す目と悟りをもって、正しく真理を提示するべき時だ。今から続くメッセージを通して、キリスト教が主張する真理とは何であり、他宗教の主張とキリスト教教理の矛盾点は何であり、どこが虚構であるのかを正確に把握してみよう。

 まず、西洋哲学と東洋哲学で主張している真理の実態を比較分析しよう。

 哲学で言う真理とは、虚偽の反対概念として‘対応説的理論’(Correspondence)と‘整合説的理論’(Coherence)等をあげることができる。これはすべて実用主義的真理観をもっている。

1 西洋哲学の特徴

     西洋哲学の特徴は、その時代ごとに真理の性質が異なって照明されていることだ。古代では事物の本質と秩序、即ち、普遍妥当な原理を真理と言い、中世では、教会が制定した規範と教理等を真理と言った。近世では、人間の理性と経験を土台とした哲学と理念を真理と言い、現代に至っては、実用主義的真理に立脚し、実用性の面で生活に有益を与え、理想的社会を形成するのに助けとなる原理・原則のようなものを真理だと言う。

 これは時代と環境の変化に伴いある程度の真理の性質を帯びることはできても、これが永遠なる真理とは成り得aない事を示している。西洋哲学で扱う真理の範囲は、形而上学的・観念論よりは主観的・実在論及び実用性だけを扱っており、現代に至ってはプラグマチズム(Pragmatism,実用主義)が台頭しているが、真理の根本には近づくことはできなかった。結局哲学では真理の根本に近づけなかったため、時代ごと、社会ごとに、今日の真理が明日の虚構となり、また再び新しい真理が出現するのが特徴である。

2 東洋哲学の特徴

仏教
    仏教は釈迦の‘四諦’‘八正道’を基本にし、誰でも修行によって‘涅槃’に入ることができるという仏の教えを伝え実践する宗教だ。‘涅槃’とは貪欲、瞋恚、愚痴の3毒が完全に消え去った状態、即ち、生、死の世界を超越した境地を意味し、その‘涅槃’がまさに修道者の最終目標である。

 仏教での世界 (宇宙観) に対する観点は、知恵を土台とする慈悲の精神を強調する。

    ‘慈悲’(Maitr-Karuna)とは、衆生の苦しみを無くしてあげ楽を施すことだ。

    ‘’は愛の心で衆生に楽を与えることを言うのだが‘サンスクリット マイトリー’(Maitri)は友という意味の‘サンスクリット ミトラ’(Mitra)から由来した言葉で、真実の友情を意味する。

    ‘’は、あわれみの心で衆生の苦しみを無くしてあげることで‘サンスクリット カルナ’(Karuna)は、共感、同情、憐憫、共に悲しむ、などを意味する。雨は人間だけでなく、生ける全ての生命体と無生命体に至るまで広範囲であり、全ての万物に無差別的に慈悲を施すことを教えている。

 慈悲の心を起こす段階に従い、‘衆生縁慈悲’‘縁慈悲’‘縁慈悲’の三縁慈悲に区分され、慈悲の精神をもう少し具体的に拡大させたものが‘無量’‘無量’‘無量’‘無量’等四種類の無量な心を起こす四無量心として表現する。量は無量な衆生を代償として無量な福を持って来るという意味がある。

儒教、道教
   儒教と道教は、自然の本質に近づこうとする、内的な形而上学的問題を扱っている。‘道’の概念は真理と言う意味であり、‘正しい道’又は‘天の道’を呈することを基本概念とする。儒家の学説によると‘道’は、道徳的に人間の行為の正しい道を呈し、従って行動の局限となる。しかし儒家と対立的な道家では‘道’を人間の領域を超越した形而上学的意味を根本的概念として説明している。

① 儒教
    儒教の経書によれば、人間の生の道を‘仁’として表現している。‘仁’は人間の主体性であり、人間固有の本質であり、特性だと表現している。

    ‘仁’は抽象的な概念ではなく、具体的な実生活を通して表われ、‘仁’の概念の中には、正、勇、忠、誠、礼、功、信、孝等の八つの徳が含まれている。

 これを守る時に本当の人間らしさだと言い、‘仁’の中でこそ理想的社会、国家が実現される理致であると考えている。

② 道教

    道家思想の特徴は、実用主義的な儒教とは異なり、現実世界に対し神秘主義的、形而上学的な理論にある。老荘思想の核心は‘無為、自然’にあり、それが‘道’という概念に集約される。道家の古典である‘道徳経’はこのように始まる。‘言葉で表現することのできる‘道’は本来の道ではない。故に本来の道は確かな言葉で表現できないが、言葉を通し暗示された直感、又は霊感によって理解することができる。だが万物の変化をもたらす自然の循環過程で、私たちは道の一側面を認知することができる。道の可視的現象を観察することをもって、万物の根源である究極的な実体の存在を、直観によって知ることができる。この悟りの過程は、本来の道を理解する道を開いてくれる’と道を説明している。

 今まで哲学、仏教、儒教、道教の視覚で真理について言及してきた。

 では、真の真理とは何か?

3 真理とは

   宇宙を内在しながら宇宙を治め、宇宙の形式と意味が神中心の概念で始まる。真理とは‘真’であり、人間の生、老、病、死、及び自然と宇宙を創造し内在しながら宇宙を治める、実在的な原理と理致を言う。真理の本質は愛だ。

    神は天地創造をする時、愛という概念で創造された。その愛は神である。愛は即ち神の本質でありその実態である (Ⅰヨハネ4:7-8)。人間は誰であれ、そして何であれ、その宇宙の秩序である‘愛’本然の秩序に順応しなければならない。愛の中にいる時だけが宇宙本然の秩序に従うことである。これを、いのち、永遠のいのちと言う。どんな宗教であれ (キリスト教、儒教、仏教、道教等) 宇宙の本質は愛であるため、愛の中に入らなければ、その実体(真理)に触れることはできない。従って全ての宗教の倫理観、及び道徳観は愛に集約され、ひとつのメカニズムが愛によって形成されている。

4 宗教とは

     広い意味で、実在者を探しその方との一致を計ろうとする手段だ。即ち、宇宙実体の本質 (愛) への到達を追求することを言う。これは宇宙本質の接近である。その本質と要素を‘善’と言う。そしてこれを追求するための方法論が‘教理’だと言えよう。

    こうした観点で見る時、儒教、仏教、道教等の他宗教は、彼らなりの理性による思弁的、又は主観的な経験を通し、真理の相当な水準まで近づいていることがわかる。しかし他宗教は、それを主管する実在者 (創造主) を見ることはできなかった。これはまるで、深い山の中で一軒の家をチラッと見ただけで、肝腎なそこに住んでいる実在者に全く会うことができないのと同じだ。手探りで神を見いだした  (使17:27)とあるように、彼らは宇宙の本質 (真理)が‘愛’だと言うことを発見し、その本質を基礎にそれなりの倫理、道徳観へと発展させ、それを教理として定着させた。仏教での慈悲、儒教での、道教での無為、自然等が結局これに属する。

 こうした観点で見る時、西洋哲学は真理とは言えない。故に使徒パウロは‘あのむなしい、だましごとの哲学によって誰のとりこにもならぬよう注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって・・・’と言ったのだ (コロサイ2:8)

 これは真理を追求するクリスチャンたちに、真理の本質にも近づけない哲学に対して一顧の価値もないことを言っているのだ。上記のように、儒、仏、道、等あらゆる宗教の本質は愛を骨格として形成されている。

5 ‘愛’の定義は

    コリント人への手紙第一13章を通して知ることができる。

    ①愛は寛容であり ②愛は親切です ③人をねたまず ④愛は自慢せず ⑤高慢にならず ⑥礼儀に反することをせず ⑦自分の利益を求めず ⑧怒らず ⑨人のした悪を思わず ⑩不正を喜ばず ⑪真理を喜ぶ ⑫すべてをがまんし ⑬すべてを信じ ⑭すべてを期待し ⑮すべてを耐え忍びます (Ⅰコリント13:4-7)、と言われたこの御言葉が、愛の定義である。このような15種の愛が神の完全な属性である。つまり宇宙の属性と本質なのである。

    あらゆる宗教と哲学が、宇宙の本質と属性を知ろうと努力してきた。

    しかしこれを追求する方法として、聖霊ではなく人間の理性をもって、仏教では慈悲を、儒教ではを探し出し、慈悲と仁の土台の上に自分たちの宗教を形成した。‘愛’は調和と創造の本質である。愛がなければ宇宙的な秩序に合することはできない。愛の秩序の上でのみ“顔と顔を合わせて見ることになり…その時には私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります”  (Ⅰコリント13:12)と言われた。その時はじめて‘真’が何であるかはっきりと明かされ、宇宙の調和と秩序に加担できるのだ。この愛の根源は神であり、愛は即ち神の完全な属性である。故に“神は愛です”  (Ⅰヨハネ4:16) “愛は神から出ているのです”  (Ⅰヨハネ4:7)と言われたのだ。

十戒とは

    宇宙の本質、自然万物の本質と構成要素が (コロサイ1:16-17) 愛であるのに、これまで我々が愛を義務や命令とだけ考えていたのは大変な誤解である。十戒は信仰者としての道徳観、即ち自然、宇宙との帰合であり、神のかたちに似る最小限の段階である。十戒を守るのは信仰者として自然との一致において当然な行為であり、信仰の最小限の基本単位である。これは都心の真ん中で何百億もするビルディングを買う時、億単位は基本単位であるのと同じだ。戒めを守ると言うのは聖徒としての命令や義務ではなく、宇宙の本質に対する復帰 (神の属性に対する復帰) である。故にイエス・キリストは戒めである愛を、あれほどに強調されたのである (マタイ22:37-40)。異邦宗教の仏家の‘慈悲’、儒家の‘仁’とは、倫理道徳観を通し自然との一致を計ろうとするものであり、どんな宗教であっても全てその本質は愛に置かれている。

キリスト教と他宗教での愛の相違点は何か?

    儒教圏のキリスト教は、倫理道徳面でキリスト教の愛との相当な混沌がある。儒教や仏教でも‘仁’と‘慈悲’が座を占めているため、どこからどこまでがキリスト教的なのかに対する多くの疑問と混乱が引き起こり、これがはっきりと区分されていない。

 これを正確に区分する方法は、聖霊があるのか無いのか、又は、聖霊によって行なったのか、律法によって行なったのかにより、キリスト教的なのか、それとも非キリスト教的なのかの真為の可否が分かれる。例えば、国のために自分の身も心も全て捧げ尽くす人を愛国志士と言う。世間ではこのような人たちを義人だと言うが、キリスト教では、神のために、信仰によって心と思いと精神と命を全て捧げて仕える人を義人と言う。

    “わたしの義人は信仰によって生きる”  (へブル10:28)とあるように、この世の義人が、自分と自分が属している国家や社会のためであるなら、天の義人は、自分とは関係なく、ただ神のために信仰によって生き、見えて掴めるもの、常識的なものではなく、聖霊が啓示された信仰を自分の中で発展させ、理解できようとできなかろうと、常識的であれ、非常識的であれ、御言葉どおり従順し成就することを義人と言うのである。キリスト教が念頭に置くべきことは、キリスト教は社会秩序のために、儒教ほど体系化された生活実践倫理綱領や道徳観を持っていないことだ。

 しかしどんなに良い制度、規範、思想、道徳律、教理等を持っていると言っても、聖霊のない人間の理性によって作られた人本主義は、一時代の社会を維持させる真理としての性格は呈しても、永遠な生命力を持つことはできない。それは人間の貪欲と欲心によって、いつかは没落すると言うことを過去の歴史が証明している。

キリスト教の律法を守る全ての努力は、結局、聖霊に会うための努力である。

 人間がどんなに良い思想、制度、規範、法、教理等があると言っても、窮極の聖霊に会えなければ何の意味もない。新婦の美しい装いは結局新郎に会うためなのに、新郎に会えなければ何の意味もないように、信仰をしながら聖霊に会えなければ、キリスト教の律法的な行ないは何の意味もない。これは人間たちだけに美しく見える形式的なものに過ぎない。聖霊がなければ異邦宗教と何の変わりもない。我々は教会に通いながら、聖霊が全くなくキリスト教の真の価値もわからないまま、律法的な行ないだけで信仰に満足する多くの信徒を見かける。これはキリスト教を誤解している。

 キリスト教は‘十字架の血’  (‘イエスの血は聖霊だ’参照)、つまり聖霊を適用しなければだめである。聖霊のない律法主義者たちの信仰は、キリスト教を真似た単なる模倣宗教である。

6 聖霊の導きとは何か

    正しい聖霊の導きとは何かと言うことが、キリスト教最大の課題であり疑問だ。それなりに多くの牧会者たちが、敷延説明と共に説教を通し多くの言及をしたことだろう。しかし未だにこの部分は多くの疑問と問題点を生み出している。これはこの時代に教会が解くべき非常に大きな課題だ。我々はよく聖霊の導きを受けると言えば、これは特定の人たちだけが受けるものだと考えやすいが、これは聖霊の導きに対する大変な偏見と誤解だ。

 聖霊の導きについて簡単に言えば、我々が生活の中である状況が発生すると、環境と立場によって我々の感情で判断と定罪、そして肉の行ない (ガラテヤ5:19-21)がまず働く。しかしまた一方では、我々の心に愛さなければいけないと言う欲求と意志が強く働くが、こうした15種の愛 (Ⅰコリント13:4-7) を行わなければいけないと言う心が、つまり聖霊である。その愛の欲求と意思に従って動くことが聖霊の導きである。

 たとえばAとBがライバル関係にあるとしよう。AはBを見るたびに、全てが競争的に見え、Bが成功するのは無条件イヤだ。Aはそうしながらも心の一方では、私がこんなふうに嫌ったらいけないのに、と言う心が湧き上がる。このように‘嫌ったらいけないのに’と言う心が聖霊なのだ。こうして憎しみを退け15種の愛する心で最後まで守るのが聖霊であり、これを行ないに移すことが聖霊の導きである (聖霊の一次的導き)

 それで‘終わりの日に私たちの心に書く’  (へブル8:10,Ⅱコリント3:2-3)と言う聖書の御言葉は、つまりこのような欲求と意思を言われたのだ。これは神の完全な属性である愛に従って求めることで、即ちキリストに従う生き方ある。これは私の中に愛があると言うことだ。それで罪が入ってきた時には、愛さなければいけないと言う欲求が更に強くなるのである。

 教会と信徒たちが正しい信仰をしようとするなら、如何なる立場や環境、対象の中でも常に愛の中に留まるべきで、その外に出てはならない。この愛の戒めを守ることがあらゆる宗教を超越し完成させることである。これを1次的聖霊の導きと言う。

    全ての宗教が追求する宇宙の本質は愛であり、これが宇宙実在の根本要素だ。これはキリスト教の愛 (コリント13章) という概念の中でのみ完全となり、この愛だけが宇宙と自然の本質と一つとなれる原理である。だから宇宙の本質と同化しなければ人間は滅びるのである。こうした愛 (宇宙の本質) への復帰は、人間の力では到達できない。ただイエス・キリストなる聖霊だけが、完成の段階に到達させることができるのである。

 異邦宗教が、たとえ律法的な行為面ではすぐれているとしても、実際的な本質が欠けているため完全な宗教と成り得ない。①キリスト教だけが愛の実体 (Ⅰコリント13:4-7)を正確に完全に知っていることと ②罪の赦しと聖霊があるため、完全な宗教と成り得るのである。

 他宗教人たちが手探りで真理を探してくる一方、キリスト教は、啓示の宗教であるため、神がご自身の属性をはっきりと我々に、聖霊によって知らせて下さるのである (Ⅰコリント2:10-12)。つまり第一に、コリント第一13章の愛の本質が確実に明かされたこと、第二に、イエスの血 (聖霊) のために最高の宗教と言えるのだ。

 如何なる環境と立場にあっても、聖徒はコリント第一13章の(寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ  Ⅰコリント13:4-7このような愛の中で常に心と行動が一致し、またそのようになろうと心を尽くして悔い改め、哀痛することだけが真のキリスト者の姿勢である。


    このメッセージを通し、キリスト教を中心に、キリスト教牧会者たちとあらゆる宗教を超越し真の真理を求める方たちへ、各自の偏狭した信仰観から脱し、包容力があり積極的な姿勢で真の真理が何であるかを悟れるよう願っています。このメッセージをひたすら真の真理を求める方たちに伝えるものです。

    ハレルヤ!  ただ主に世々限りなく栄光がありますよう  アーメン