キリスト教と東洋哲学の相違点

哲学の最高点はキリスト教の基礎段階]

1.キリスト教の現状

    キリスト教はまだ越えなければならない峠が多い。過去の歴史では常に世俗との戦いをしてきた。その戦いに打ち勝つ時にしか聖書的な正統のキリスト教を保つことができなかった。それ故我々はキリスト教を守る為どれほど多くの血を流したことか?

    初代からキリスト教は西洋哲学との戦いを、1次(ヘレニズムとの戦い)と2次 (スコラ哲学との戦い) にわたり戦ってきたが、今我々の目の前には早速3次の戦い、つまり東洋哲学との戦いをしなければならない避けられない運命に処している。

    21世紀を迎え韓国のキリスト教は、アジア宣教というこの時代の重要な時代的使命を与えられており、それを責任として負わなければいけない。使徒パウロがアジア宣教をしようとした時、聖霊が遮り、ヨーロッパにパウロを送られ今日にまで至った(使16:6-10)。ヨーロッパで出発した福音が二千年の流れた今、これまでなぜ神 (創造主)がアジア宣教を遮られたのか、その理由を知るまで我々は二千年かかった。

    今日のキリスト教のように、聖霊の役事ではなく理性によって作った福音では、キリスト教の没落をもたらすだけでなく、めまぐるしく変わる現代文明の中で、光と塩の役割でないその反対の現象が頻繁に起こるだろう。もしもキリスト教がヨーロッパではなく、アジア宣教から始まっていたら、東洋思想との結合により、今日のキリスト教の姿ではなく、完全に異なった異邦宗教へと変質したであろう。今やキリスト教は文明と哲学の対峙の中でキリスト教の存廃の可否がかかっているくらい、東洋思想との戦いにしっかり備えなければならない差し迫った時点に来ている。

2 東洋哲学の種類と定義

    東洋の儒教、道教(老荘思想)、仏教や西洋哲学の根源は、生の本質を追求するところから始まった。私という存在は何なのか? なぜ存在するのか? どうすれば幸せで永遠な生を遂げられるのか? 宇宙の実体は何なのか?等、こうした追求から東・西洋の哲学と宗教が始まり今日に至っているが、彼らは未だに到着点に到達できずにいる。東・西洋の宗教と哲学はともに色合いが違うだけで、それらが意図し目的とする到着点は似ており、追及する方法も類似している。

    たとえば、エベレスト山登頂を目的とし、A・B・C・Dの4人がそれぞれ方向を、東・西・南・北に定め登るとき、登る方法においては、めいめいが地形に合わせ、岩壁登攀なのか、徒歩登攀なのかが決定され、その方法と進行する方向が違うだけで、登攀の目的地である頂上の地点ではみな出会うのと同じである。

♦ 儒教:孔子は‘道’を、当時の一般的な‘道’の観念とは別に、現実的で実際的な、生活の中の現実に合わせ実践道徳を完成させ、あらゆる道徳は‘仁’として一貫することを最高理念と目的としている。

♦ 道教:老・荘思想の核心は‘無為・自然’にあり、それが‘道’という概念で集約される。ここで‘無為’とは、宇宙論的本然の性質そのままでの到達を目指している。即ち、不自然な行為を寸分もしないことを意味し、‘無為・自然’の具体的意味は‘事実の土台から離れるな。事実事体は‘道’と‘気’であり、変化だ’と言う、自然の運行の理致を客観的に把握するのではなく、その自然の中に同化し入って行くことで存在を把握しようとした。

♦ 西洋哲学:人間を含んだ宇宙の理致を研究する学問という意味だ。自然現象の観察を自然法理解に強調点を置いたのが‘自然科学’となり、そうした現象の背後にある実体把握に重点を置いたのが‘精神科学’であり‘哲学’へと発展した。哲学は、あらゆる具体的事実とその間にある相互関係、理解関係を発見してその事物の実体を正確に把握し、人間の生活の向上と発展に寄与することを目的としている。だが現代哲学では、東洋の儒教、道教、仏教のように、実践と修養を通して最高の理念に達するのではなく、ただ知識と限りない実験主義から得られると主張している。

♦ 仏教:釈迦の‘四諦’‘八正道’を基本に、誰でも修行によって涅槃に入ることができるという仏の教えを伝え実践する宗教だ。‘涅槃’は修道者の最終目標である。

    四諦:苦諦、集諦、滅諦、道諦

    滅諦:愚痴と渇愛が滅した状態を真理であり涅槃と言う。

    涅槃:貪欲、瞋恚 (しんに)、愚痴の3毒が完全に消え去った状態、即ち、生、死の世界を超越した境地を意味する。

    渇愛:人間が何かを、絶え間なく何かを欲求すること。

    愚痴:物事の正しい道理を知らないこと、等に要約している。

3 東洋哲学とキリスト教の相違点

    困難で苦しい修行を通しても成就することの難しい‘涅槃’という境地は、キリスト教では悔い改めの段階にすぎない。仏教では貪欲、瞋恚、愚痴の3毒を越えなければならないように、キリスト教はまず悔い改めが成されなければならない。悔い改めが整理されなければ聖霊が臨まないため、聖霊を受けるには肉の思いを除去せねばならない。

“生まれながらの人間は (肉に属する者)、神の御霊に属することを受け入れません” (Ⅰコリント2:14)

    ‘肉とは’不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興を肉の行ないと言う(ガラテヤ5:19-21)。悔い改めをした聖徒は、信仰なる聖霊が聖徒の心に臨まれて、もう一度聖霊のバプテスマを通し、罪の問題が聖霊によって整理されるのである。キリスト教の最終目的は、聖霊充満だ。

● 純粋の概念
   ‘純粋’は、東洋哲学で言う‘無為状態’だと言える。そこには人間の偏見がなく何も決められたものがない、それ自体の空の状態を言う。子供の純粋のような何も知らないという次元とは異なり、外部の影響を受けず、偏見と利己のない状態で、何であれ信じる状態を言う。たとえば幼い子に何かを教えてあげると、疑いの余地なくそのまま信じ従う状態を言い、“つける名は、みな、それが、その名となった”(創2:19)と言う御言葉のように、こうした純粋の中で信仰が育つのである。純粋は内面でただとうとうと流れるのだ (ヤコブ1:21)。“神の霊は水の上を動いていた” (創1:2)

    しかし、純粋は外部勢力の影響によって‘不純’ともなる。欲に満ちていれば得られないため (ヤコブ4:3)、我々の枠と欲を取り除けばある程度純粋に到達することができる。道家や仏家でもこうした純粋の概念を語っているが、彼らの主張はひとつの理想論となり、一般化するにはあまりにも難しい。道家の無為、仏家の涅槃、哲学の自然等、彼らが主張する最高到達点である最高境地の段階は、我々キリスト教の悔い改めの段階である。

    神 (創造主)が語られる‘悔い改め’の次元は、イエス様がエルサレムの宮で売買する者、両替人、鳩を売る者などを追い出したように (マタイ21:12)、十戒と、肉の行な い(ガラテヤ5:19)の御言葉を基準に悔い改め、我々の心霊からそうした肉の思いなどを追い出すことである。聖徒は常に律法に照らして悔い改め、欲心、疑心、利己等を基準に悔い改めるが、枠 (偏見)も恐ろしい敵となることを知るべきだ。

    悔い改めとは、まず十戒に立脚して自分を空にし、自分を捨てて殺し、神と一致線上に置くことを言う。これを純粋状態と言い、これは儒教、仏教、道教が追求する最高の境地である。純粋状態にしなければ聖霊の役事が起こらないため、聖霊を受けるには悔い改めの関門を通過せねばならない。悔い改めの基準を純粋に置いて悔い改める時に完全となっていく。道教の‘無為’、仏教の‘涅槃’状態である純粋な心、これが即ち、キリスト教で悔い改めが成された心を意味する。この状態になってはじめて聖霊が降臨する。聖霊充満はまさに、キリスト教信仰の最高の段階である。即ちキリスト教は、聖霊との交わりを最高の目的としている。

    儒教、仏教、道教、哲学等は、彼らが設定した最高の地点に達すると言っても、彼らが目的とした実体を見出せず、その次を提示できないためにさ迷う。彼らは道を提示しても抽象的で、個々の主観的な立場にあるため、それぞれがそれなりの最高の境地で出た見解と妙味を提示するに過ぎない。しかしキリスト教は、聖霊という案内者が一つ一つ説明して下さり、確かな道へと導いて下さって無事に目的地に到着するのである。

4 キリスト教の優越性

    前記した例のA,B,C,D(儒教、仏教、道教、哲学)は、目的地に到着する前に途中で道が絶たれ到底進む事ができないのを、キリスト教は、ヘリコプターに乗って目的地の頂上に到着するようなものだ。この道は、人間の精神(理性と知恵)では見つけることができない。ただ聖霊によってのみ見つけられる。

    例えば、歩いてアメリカに行くという人(儒教、仏教、道教、哲学)と、飛行機(聖霊)に乗ってアメリカに行くと言う人との違いである。歩いてアメリカに行くと言う人は、行ったとしても東海の海岸までしか行くことができない。アメリカに行くなら飛行機に乗らなければ行かれないように、これが‘イエス(聖霊)を信じ救われよ’という意味であり、聖霊が飛行機の役割をしてくれると言う意味なのだ。飛行機に乗ってこそアメリカに到着するように、聖霊の力と導きを受けてはじめて救いに至るのである。キリスト教は基礎段階を超越し直接悔い改めの段階に入っていく。

    これは神の恩寵だが、この基礎段階を経て来なかったために、悔い改めをどこに基づいてし、どうしたらいいのかその方法がわからず、無条件‘悔い改め’と言葉だけを乱発しているのがキリスト教の問題点だ。

    儒教、仏教、道教、哲学が、人間自ら神を手探りで探すものだとすれば、キリスト教はそれとは異なり、直接創造主なる神が、キリストの奥義の実体を啓示によって教えて下さる‘啓示の宗教’である(マタイ11:27,エペソ1:17)。故に聖霊のないキリスト教は基礎がないだけに、彼らにも及ばない。

    それは恰も、キリスト教が、技術があって直接技術高等学校に入ったとするなら、彼らは小学校から順々に上がってきたのと同じだ。基礎段階を経て来なかったキリスト教はその空白の分、聖霊がないなら彼らの奥深い理論や論理、思想的教理に眩惑されるか接木されてしまう。儒教、仏教、道教、哲学等は、理性から始まり土台から上がって来るため、彼らの奥深いものは認めるべきだ。西洋で始まったキリスト教が簡単に崩れてしまったのは、この基礎がなかったからだ。聖霊もなく、そうかと言って、儒教、仏教、道教、哲学のような基礎段階を経てもいないキリスト教が、中国に入り、東洋哲学と接木されたらどうなるのか。また、インドのヒンドゥー教との接木は考えただけでも暗たんとする。実質的に今のインドのキリスト教に注目してみる必要がある。

    今後キリスト教は、聖霊なく如何にして21世紀を押し分けて行くのか。その解決策は、自分の思いを捨て、ただ聖霊を信じ従うことである。キリスト教は、ひたすら聖霊に満たされていく聖霊の宗教であることを肝に銘ずるべきだ。このようにただ聖霊の導きだけが、あらゆる宗教を超越した最高の段階であり、全ての宗教の究極である。

ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン