キリスト者が信仰生活で適用すべきこと
(神の最後の約束、涙の契約―敷衍メッセージ2) 2018. 11.
今日、この時代を生きるキリスト者たちが、信仰生活をする上で生活に適用すべきことは、次の通りである。
1. キリスト者たちの人生の計算方法と、この世と異邦人たちの人生の計算方法
キリスト者たちは、生活の中で多くの問題につき当たる。そうした問題の解決は、全て、神との関係から解決する必要がある。キリスト者たちは、人と人との間で問題が発生した場合、当事者と直接その問題を解決した後、問題の大小を問わず、その問題を、再び神の前にひざまずき、自分の立場、環境、感情を離れ、隣人の有益をまず考え考慮したのか、主の戒め通りその問題を解決したのかを、悔い改めを通して申し上げることだ。一方この世は、神の法を知らないため、どんな方法であれ、感情、環境、立場、そして自分の有益な方に当事者とその問題を解決すれば終わりである。従ってキリスト者たちは、全ての事物を見つめ考えることが、霊的でなければならない。それで、肉は無益、また死であり、霊はいのち、永遠の命であると主は語られた。
2. 人類は地位の上下を問わず、誰もが天の法を知る必要がある。
従って、次の事実をしっかり覚えておくべきである。
♦‘自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい’ と言う御言葉を忘れてはいけない。つまり、偽りと偽善を捨て、人の有益をまず考えることだ。
♦ この世で一番怖いのは、宗教、人種、国境を越え、貧困の国や、力なく貧しくぼろをまとう人たち、孤児、寡婦たちだ。彼らの心の底から溢れ出す不平、不満、恨み、憎しみ、呪い等は、そのまま、その呪いを受ける人の人生に注がれるようになっている。ソドムとゴモラはこのために滅亡したのである。だが、わけもない呪い、憎しみは、もっと大きい罪悪である。神は、公義によって審判されるからだ。全ての祝福とのろいの物指しは、誰であろうと、無実の罪の無念をはらすことから始まる。罪が満ちれば注がれるのだが、それは患難をもって返済していくのである。この時、キリスト者たちの非常口が、悔い改めである。悔い改めの実を結ぶ、真の心からの悔い改めには、いつでも憐れみを施し救って下さるのである。過ぎ越しの日に鴨居に血を塗ったように、患難は素通りして行くのである。
3. 人生の目的は、幸福を得るための暮らしが優先ではない。
人類が真の幸福を得るには、まず、堕落前のアダムに回復することだ。即ち、神のかたちへの回復である。これが、アダム堕落後の神の計画であり、今までその計画を進行されている。神のかたちとは愛である。つまり、コリント第一13章の愛が、完全に完成された心霊であり、良心である。これを築くには、助け主聖霊であられるイエス・キリストが、私たちを助けて下さる以外に他の方法はない。これを知っているキリスト者たちが、聖霊運動の福音主義者たちだ。福音主義者たちが警戒すべきことは、主の恵みを受けた後、堕落した者たちに対する警告である。それは、ヘブル人への手紙に記されている。
“一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。”(へブル 6:4-6)
“もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。(へブル 10:26-27)
聖霊の導きを受ける人たちは、教会の、未熟で弱い信徒たちを助けるべく ‘御使い’ たちだ。つまり、神が使う ‘霊’ たちである(へブル 1:14)。肉身は人々と一緒に交わって暮らし、喜怒哀楽の感情を持って生きているが、霊は、聖霊の導きを受ける人たちであることを心に刻んでほしい。彼らは、世界のどこにでも存在している。このように恩賜とみ言葉を体験し信仰していた霊的な人が、その地位を離れ、世と友になることに対し、ユダ書で再度警告されている(ユダ 1:6-7)。キリスト者たちが、必ずや心に刻むべき部分である。
(2018. 11)
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