礼拝とは何か
(霊とまことの礼拝)
キリスト教は、キリストの霊に導かれて行う信仰である。従って、キリスト者たちは、聖霊を受けて初めてキリスト者としての信仰行為が可能となるため、キリストの御霊を持たない人はキリストのものではないと言われたのである(ローマ 8:9)。教会はこのように、イエス・キリストを信じるキリスト者たちの共同体である。ここで最も重要なのが、礼拝だ。教会はこれまで礼拝についてそれぞれまちまちの解釈をしてきた。だが、イエス・キリストはサマリヤの女に、神は霊ですから、霊とまことによって礼拝しなければならないと、意味深長な御言葉を語られた(ヨハネ 4:23-24)。では、イエス・キリストが語られた霊とまことの礼拝とは何であり、どのようにするのであろうか。
1. 霊とまことの礼拝とは
旧約時代には、律法というモーセの法によって礼拝を捧げたが、新約からは律法と共に聖霊の法を最優先しなければ神が喜ばれる礼拝を捧げることはできない。聖霊の法とは、キリストの御霊が、神の霊の中にある神の御心を私たちに教え、思い起こさせ、さとすことによって知らせてくださる法である(ヨハネ 14:26)。キリスト教は、この法によってのみ礼拝を捧げることができ、この時、神は万物に現わられ栄光に至るのである。従って、霊とまことの礼拝とは、聖霊充満の中で、聖霊が導かれた神の御心と御言葉をそのまま信じ、それが成就するように仕えること、これが霊とまことの礼拝であると定義できよう。
● 霊とは聖霊充満である
神は霊であられ、その属性は愛である。霊とは、神の属性である愛(コリント第一 13章)を、私たちの心霊に注いでくださることによって、その恵みによって私たちの心霊に愛が完成された状態を言う。これが新約で求められている聖霊充満である。愛が完成されれば、わたしがあなたの中に、あなたがわたしの中に、神の霊とつなぎ合わされ一つとなり、こうして私が神の霊に属した状態を霊と言う。この時初めて、同じキリストのかたちと属性を持つゆえ、主と私は互いに顔と顔を合わせるように、主のみ心がおのずとわかるのである(へブル 8:11)。つまり、霊なるものは霊なるもので互いに見分け分別できるため、主の御心をわからないというのは、まだ愛が完成されていないということだ。
● まこととは真理、即ち、聖霊の導きだ
まこととは真理を意味する。真理とは、万物が運行され治められている全ての法を言う。この法を司られる方が神である。従って神は真理そのものであられる。その神が計画された御心、御言葉等が全て ‘善’ であり、真実、正義、真正となる。神の御心を知る方はイエス・キリストの霊であられる聖霊だけである。つまり聖霊は真理の御霊ゆえ(ヨハネ 14:17)、私たちを真理に導き入れてくださるのである(ヨハネ 16:13)。つまり、罪について、義について、さばきについて、思い起こし、教え、さとし、私たちを直接導いてくださることで(ヨハネ 16:8)、神の御心を知らせてくださるのである。これが聖霊の導きである。
神の御心を知るには、愛の完成(コリント 13章)を通して、神と一つの霊にならなければならない。この時が霊、即ち、聖霊充満である。このように神と一つの霊となった時、ここでまことの神との交わりができるのである。そして神との交わりを通して、あらゆる問題に対する神の善なる御心を探し出すのである。このように、聖霊充満と聖霊の導きは一つとして成し遂げられる。聖霊に導かれた神の御心は教会を通して世に明らかにされるため、教会は真理の柱(テモテ第一 3:15)であると言われたのである。
聖霊充満と聖霊の導きを通して救ってくださるという約束については、すでに旧約の預言者イザヤ、エレミヤ等、多くの預言者たちが記している。
“わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。”(エレミヤ 31:33、へブル 8:10)
“あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け…” (イザヤ 54:13)
“彼らはみな神によって教えられる” (ヨハネ 6:45)
“わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言をし、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」”(ヨエル 2:28、使徒 2:17)
聖霊の導きは今もこのように、私たちの心霊に聖霊によって神の法を直接啓示してくださり、導いてくださる。そしてそれは、教会によって世に明らかにされるのである。従って教会は人間の知恵、知識ではなく、真理の聖霊が監督者、先生、指導者として直接教会に命じられ、指示され、司られるゆえ、教会はこれ以上聖霊の導きについて弁解の余地はない。
霊とまこととはこのように、聖霊充満を通して聖霊に導かれた神の御心をそのまま信じ行うことを言う。従ってイエス・キリストは、父のみ心通りに行わない全てのものを不法であると宣告しているのである(マタイ 7:21-23)。教会は今、この御言葉を深く心に刻むべきである。
● 霊とまことの礼拝は、幼子のように純粋でなければ捧げられない
聖霊に導かれた神の御言葉に初めて接する時は、現実的に不可能で、非常識で、非論理的な御言葉である。「使徒の働き」で、ペテロに幻を見せ、コルネリオを伝道するよう言われた出来事(使徒10章)のように、人間の常識や論理では神の神聖と聖さを受け入れることは絶対的に難しい。それで、世の常識では信じ難いほど、見とれるような姿もなく、輝きもなく、慕うような見栄えもないのである。
この御言葉を信じるには、幼子のような純粋な状態で、ひたすら信仰の善なる戦いを始めなければならない。それは、私が知っている知恵、知識、経験、常識等をすべて否認し、ただ、何の論理も根拠もなく、すっと降りて来た聖霊によって導かれた教訓、教え等の神の御言葉ひと言に、私の人生のすべてを屈服させ崇拝することである。霊とまことの礼拝とはこのように、聖霊が教えてくださった神の御心、つまり、御言葉にそのままひれ伏し崇拝することを言うのである。世は信仰がないため、こうした霊的な礼拝を捧げることはできない。
従って、イエス・キリストはサマリヤの女に、あなた方は知らないで礼拝しているが、私たちは知って礼拝していると言われたのである(ヨハネ 4:22)。知って礼拝しているというのは、つまり、神の御心を聖霊が直接教えてくださるため、何に対して仕え行うのかを知って礼拝するという意味である。神はこのような霊的礼拝を受け入れてくださる。そして、その礼拝の中でのみ、神は自らを見せ、現わしてくださることで栄光を受けられるのである。
2. 礼拝の目的は栄光にある
神の栄光とは、神が世に現わされることである。神は霊であるため、人間の知恵、知識、感覚では感知することはできない。人間が神を感知、感覚できるのは、唯一、聖霊の導きを通して教会に語られた預言が、その通りに成就されることを通し、神に対する有無を知ることができる。それで預言が重要なのである。恰も、国家の公権力は、目で見たり、つかむことはできないが、公義で峻厳な公権力の執行を通して知ることができるのと同じだ。
このように、教会を通して啓示される神の御言葉が、その通り世に成就し、成し遂げられることで、神が生きておられることを、全ての人が各人の目で見、誰も否定することができないようにすること、これを栄光と言う。これが、御国とその義がこの地に立てられたと言うことだ。従って、栄光に至ることのない礼拝は無意味である。こうしたうわべだけの礼拝に対し ‘この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを拝んでもむだなことである。人間の教えを教えとして教えるだけだから’(イザヤ 29:13、マタイ 15:8)と言われたのである。これまで教会が、このように神の栄光を現わすことができなかったため、人類は、神に対し少しも恐れを知らない世の中へと変わっていった。もしも教会が神の栄光を現わしていたら、世界の歴史は変わっていたであろう。今からでも、教会は、空しい敬拝とならないよう、イエス・キリストがサマリヤの女に語られたように、霊とまことによって礼拝を捧げなければならない。
3. 神のみ言葉は、一点一画まで、そのまま全て成就される
代表的な例がイスラエルだ。イスラエルは、否が応でも先祖たちによって、3500年前、神と契約を結んだ民族である。その契約は今日まで変わることなく引き続いてきている。その契約は、申命記27章から34章に至るまで詳細に記されている。申命記27章では、ゲリジム山で、律法を順守した者には祝福を、エバル山では、律法に背いた者をのろうように言った(申命記 27:12-13、ヨシュア 8:33)。また申命記28章では、神の御言葉を守り敬畏する者たちが受ける祝福と守りと安息について、また、御言葉に背き偶像に仕える者たちが受ける災い、敗北と没落について具体的に記されている。そして、神の御言葉に従順しなければ、結局は、国を散らし(申命記 28:25,64)、また再び悔い改め帰って来て神のみ言葉に従順すれば、その民たちを再び集め国を建てられると、モーセの時代にすでに民たちと相互契約をされた。
この約束が、点の一つまでどのように成し遂げられたかは、今日までイスラエルの歴史がそのまま証明している。イスラエルは、ダビデ王を通しソロモン王の時代に祝福の頂点に達したが、神の御言葉を離れるや、約束の通り70年のバビロン捕囚があった。そして再び帰って来、また支配されるという繰り返しの歴史が今日にまで至っている。特に、イエス様の十字架の出来事以降二千年間散らされていたが、罪の値に基づき、その服役期間をすべて終え、再び1948年に奇跡的に成されたイスラエルの建国は、神の御言葉が点の一つまでも契約通りに成されるということを、今日を生きるすべての人類に、聖書の通り立証し見せてくださった。
イスラエルに宣布されたその御言葉は、宇宙万物、全ての被造物にもそのまま適用される御言葉である。今日を生きる地球の全ての人類もまたこの法を順守しなければならない。3500年前ゲリジム山で祝福を、エバル山で呪いを宣布した通り人間たちに臨むのである。即ち、御言葉を守った時には祝福へと、御言葉を守らなかった時には呪いの中で生きて行くしかないのである。従って自分の運命は、自分たちがこの法をいかに守ったかにかかっている。それで申命記に’見よ、私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死と災いを置いた ’と言われ、選びなさいと言われた(申命記 30:15)。従って、自分の不幸な人生に対し、人類すべて今や誰をも恨んではならない。すべては自分に責任があるからだ。
● 人類全ての人の恒久的な望みのためには、教会が光を発してあげる以外にない
現在、世界の至る所で人類が直面している災いは、神の御言葉である法を守らず捨てたためである(エレミヤ6:19)。預言者ホセアが、イスラエルが滅びたのは知識がないためだと預言したように、人類は今、人間の知恵は洪水のようにあふれているが、神の知恵がないため滅びへと向かっている。今日、人類はすべて人間の知恵だけに依存し、神の法を捨てたので神も捨てられたのである(ホセア 4:6)。
神は今人類に、あなたたちは苦しんでいるのか。わたしに帰って来なさい。帰って来るまで安息はなく休むことはできないと語っておられる。人間たちは、幸福と平和を得るため休むことなく何かを一生懸命やるが、戻って来るのは、尽きることのない心配と懸念、苦しみの中で人生を送っている。それで、人生の定義を聖書では ‘人は一生やみの中で、苦痛、病気、怒りの中で生き、去って行く存在である’ と言われた(伝 5:17)。
このように、この世は災いを受けながらも、なお、神はいないと喚いている。教会はなぜ、こんなになるまで世を放っておいたのか。教会は世の光であり、真理の柱である。光とは、聖霊によって導いてくださる神の御言葉である。この御言葉だけが、悪という滅亡と死の闇を追い払い、いのちへと導くのである。従って人類史上、今日のようにキリスト教の重要性が急がれる切実な時はない。世界平和は、教会が霊とまことの礼拝を通し、神の御心の善なる御言葉を探し出すことしかない。これこそが、今人類に直面している難題を解決できるのである。そのためにはまず、教会が新たに神に帰らなければならない。それはキリストの法である主の戒め、即ち、愛 (コリント第一 13章) を順行することで、上から降りて来る力を受けて、霊とまことの礼拝を捧げなければならない。これが現在と未来、そして永遠に救われることのできるただ唯一の方法である。
人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るあらゆる御言葉によって生きるのである。
教会の霊的礼拝である霊とまことの礼拝をお受けください。アーメン
世々限りなく主に栄光あれ。ハレルヤ。
・ 参照:愛
“ 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”(コリント第一 13章)