神の最後の約束

涙の契約

現代は、すでにイエス・キリストが語られた終末(末世)の兆候とともに、すべての人類に裁きが臨んでいる。(マタイ24章) 太陽と月は暗くなり、闇が広がるように、正義と‘善’は消えうせ、環境災害や常識の破壊、混沌、根も葉もないうわさ、騒動、紛争、疑心,不信等が支配し、世界のどこにも安定と平和はない。このように人類は今、災いの真ん中に向かって突き進んでいる。神はすでに2006年度に“災いとは”というメッセージを通し、現代を生きるすべての人類に次のように語られた。

“21世紀からは、過去二千年間の結果を締め括り、返済するべき時期、即ち終末である。返すものは返し、与えるものは与え、受けるものは受ける結実の時期である。その結実によって、神の御言葉である真理は確実に息づき、生きていて、公義をもって成されていることが証しされなければならない。それを通し人間は、神の生きておられることと、恐れを知り、罪悪を止めることだろう。今後到来する災い、艱難を人類はどのように塞ぐだろうか?

…(中略)…

今の人類は、真理なる愛からあまりにも遠く離れ、罪が官営している。物質は豊かであっても、それに対する代価として流す血は、人類に様々の方法で、すぐに人生の中に現われる。苦痛、絶望、虚無、空虚、失敗、挫折、喪失感、苦しみと、心霊では恐怖、恐れ、不信、徹底した本能の生の中に捕えられ、幸せを奪われ、また、原因不明の疾病の猛威、戦争、奪うことによって奪われ、楽しめば重みがのしかかる。現代人の娯楽はしばし楽しむ幸福のおもちゃである。これは結局、不満、苛立ち、苦痛、不快、侮辱感、恥、等を受けることによって全て支払わなければならない。これは善を離れ、罪に留まっているために起こる当然なことである。今人類は天の法に従ってさばきを受ける審判の時である。人類はこれ以上神の鞭を受けずに、早く悔い改めて帰って来て、イエス・キリストを通して救いを受けよ。”

人類はこのような神の御言葉と警告を看過した結果、今日の状況は更に悪化し、日が経つにつれ深い沼にはまり込み、難しく大変な日々を迎えるようになった。そこでもう一度、人類に向けられた、主イエス・キリストの懇切な涙の勧告の御言葉を伝えるものである。

人間が終末を迎えた原因はなんであろうか

この世はそれなりに、終末(末世)の現在の状況について、原因を探し出し、解決しようと努力をしているが、根本的な原因は、人間が善を離れ、悪を行った結果である。即ち、神を捨てたために起こったことである。(エレミヤ2:19) 神は、全ての万物を創造された唯一の方であるゆえ、神が決定され計画された御心のみを'善’と言う。神は完全なる知恵と知識、能力の全知全能によって万物を創造され、その能力をもって善と悪を判断される。従って、神の御心、御言葉等、神から始まった全てのものを’善’と言い、それ以外は全て’悪’となるのである。

ところが、人間が善悪の知識の木の実を食べて以来、蛇の誘惑を受け、目が開け、神のように善と悪を自ら判断するようになった。(創世記3:6) つまり、神の御心とは関係なく、人間自らの知恵、知識、論理によって判断し、確実に立証された科学的根拠、または、経験等により、失敗、失策のないよう事を進行し、そうした常識のみを信じて生きている。人間はこうして、自分たちの知恵、知識のままに、自ら善を設定し行うことはできるが、神の御言葉、御心でない人間自らが選択したその善は悪であるゆえ、契約の御言葉どおり、使えば使うほど、全て結果は、いばら、アザミが生えるだけだ。(創世記3:18) 即ち、没落、失敗、虚無、霧のような人生を生きて行くに過ぎない。

その理由は、全ての万物は、善と悪の属性の通りに形成されるからである。‘善’の属性とは、幸福、愛、喜び、成就、豊か、富貴、繁栄、そして思いのままに事が進む。神の御心である‘善’を守るとき、祝福の中で地に自動的にこれらが臨むのである。‘悪’の属性は、呪い、憂い、不通、苦痛、病魔、恐れ、没落、絶望、憎しみ等であり、神の御心から逸れ‘悪’を行う時、地は呪いを受け自動的にこのような、いばらとアザミを結ぶのである。

今の人類が終末を迎えた原因は、神の御心である‘善’を離れ‘悪’を行ったために、悪の属性である、恐れ、絶望、苦痛等の監獄に閉じ込められているのである。聖書には、やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである (詩編107:10-11)と記されている。このように、神の御心である善を離れ、自分の思いのままに生きて行く人たちに対し、聖書は、バベルの塔の事件を通して永遠なる教訓を与えている。

 バベルの塔の事件の教訓

人間はエデンを追放されて以来、神との断絶をもたらし、目が開け、善と悪を神のように分別するようになった。こうした神との断絶の中で、人間の思いで行った善がどのような結果となったかを見せているのが、バベルの塔の教訓である。つまり、神の‘善’を離れ、自分の思う道に行った結果を見せることで(イザヤ57:17)、人間的知恵、知識、力、能力では繁栄、成就、成功という目的は果たせないことを教えている教訓だ。バベルの塔の頂上に立てて仕えた偶像の一つである‘ベル’という偶像の意味は‘運命’または‘主人’という意味を持っている。

人間の興亡盛衰と生死禍福を主管する主人は、唯一、神のみであり、その主人の御心によってのみ人間の運命が決定されるのである。ところが、神を離れ人間の知恵、謀略、手段、能力、力、等が万事を解決する主人となり、また、これを適切に使用することが人間の運命を決定すると考える世の風潮を意味している。今も人間は依然と神の代わりにバベルの塔の偶像のベルに仕えて生きている。それで、世の友となることは、自分を神の敵にすることだと言われたのである。(ヤコブ4:4)

神は、神の意図とする法の通りに人間の国を治め、支配されている。従って、人間たちの行う結果のすべては、ただ神の意図する法の通りに成就されている。

“主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのではなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。” (エレミヤ10:23)

“人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。” (箴言16:1)

“人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。” (箴言20:24)

バベルの塔は結局、言語の混乱によって成就できず、神は、地の全面に散らされた。(創世記11:9)このように、神の‘善’を離れ、人間的な知恵、知識、力、能力をもってしては地の全面に散らされたのを見るように、繁栄、成就、成功、等の目的を達成することはできないことを教えた、人類の永遠なる教訓である。

◆ ‘悪’はなぜ造られたのか

では、悪をなぜ造られたのか、と疑問を持つ。その質問は、鎮痛剤モルヒネをなぜ作ったのか、と同じことだ。神は、全創造をそれぞれ適切に見るに良く造られた。(創世記1章)人間は神のかたちに、愛によって生きて行くよう創造された。その愛の中でのみ顔と顔を合わせ見るように、神の御心である‘善’を(Ⅰコリント13:12)おのずとわかるからである。アダムはこのように愛の中で暮らし、神と共に生きていた。それで、キリスト者たちに、ただ“愛しなさい”と言う戒めを下さったのである。獣は獣らしく見るに良く創造され、そして獣たちの生きる手段方式は、肉の本能、弱肉強食である。ところが人間が、善悪を知る木の実の事件以来、獣の誘いに乗り、獣の本能的知恵と方式に転落して生きている。即ち、神が創造された愛を守って生きるのではなく、心は獣たちの肉の要素をもって(ガラテヤ5:19-21)、また、生きる手段は、弱肉強食の方式で生きている。それで、人間の知恵や知識やはかりごと、陰謀、謀略、偽り、計略を使わないことには良い暮らしができないと考え、これを、自分が生き残れる方法、手段、処世術としている。だが、この方法をもっては、瞬間、瞬間を免れる、はらはらの人生の延命に過ぎない。結局は全て、滅亡、虚無に帰すことを、人類は悟らなければいけない。

こうした教訓はダニエルに記されている。この世の最高の権力と権勢の中にあり、神を眼中にも置かない驕慢なネブカデネザル王に、神は、彼の心を野の獣のように低くされ、いと高き神が人間の国を支配し、御心にかなう者をその上に立てられることを知るまで鍛錬された。(ダニエル5:21)このように、神は全ての人間を鍛錬し、獣の本能を神のかたちに回復しようとされている。

つまり、災難をもって人間に苦痛を与えることが目的ではなく、神の法を守って生きるよう、鍛練し教育するのが目的であられる。それで旧約のエゼキエル書には、“わたしが、主であることを知ろう”という御言葉が、約60回以上にわたり記されている。その理由は、イスラエルの民たちが、自分たちの知恵と欲の思うままに行い、また、神を離れ偶像崇拝をすることで苦痛と滅亡を直接体験し、結局は、全て神が約束した御言葉通りなること、神が生きておられることを悟るようにされる。これを、異邦の国とイスラエルの民たちの生涯の中で、60回以上の繰り返しの鍛錬によって、神を認め信じる成長した信仰へと教育するのである。

このようにして、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべてのもので生きることを悟るようにするため鍛錬されるのである。(申命記8:3)こうした教育はイスラエルの民だけでなく、永遠にすべての人類に適用される。神はなぜこのように厳しく教育しようとされるのか。ひたすら神は、堕落したすべての人類を、再び神のかたちに回復することを目的とされている。従って、人間にとって、神のかたちに回復するために絶対的に必要な過程が、誰であれ犯した罪は、必ず、それに従った報いとしての代価を支払わなければならないということだ。それが、血は血で購うということである。

 “血は血で購う”とは何か

創世記を見ると、人の血を流す者は、人によって血を流されるとある。その理由が、神は人間を神のかたちに造られたからだと言われる。(創世記9:5-6)なぜ!神は、神のかたちと、血を流すことと、何の関係があると言われるのか?

人類は、善悪を知る木の実の事件以来、‘善’がわからないまま‘悪’に向かって突き進んでいる。従って‘悪’の行為に対しては、その‘悪’を焼き尽くし‘善’を保存される。神が創造された愛の‘善’の中に、ガンのかたまりのような‘悪′が侵して来れば、その悪を最後まで取り除き‘善’を保存することで、神の子供である全人類を救い出そうとされる神の意思の表われである。こうした血の流しは、報いの法則によって成される。(イザヤ33:1,Ⅱサムエル記22:25)

つまり、何を植えようと、それをそのまま刈り取るという法則に従い、犯した罪に対しては、必ずそれに伴う代価を支払わなければならない。従って、自分が植えたものは必ずそのまま自分の人生の中で再現される。そのようにして、自分が何を間違ったのかを、直接、鏡のように見せることで、全ての人間を神のかたちに回復、成長させるのである。それで、血の流しがなくして罪の赦しはないと言われるのである。こうした血の流し、つまり、鍛練、鞭としての災難、報復、災い、御怒り、のろい等を通して悪を焼き尽くし、再び、神のかたちである愛へと回復しようとされる、涙ぐましい神の愛である。

災いはこのように、各々が、犯した罪の量に比例して、恐れ、恐怖、憂い、心配、不安、没落、病魔、等の苦しみとしてその罪を注ぎだし、全て支払うまで、罪と悪を火によって焼き尽くす期間である。それで、神は焼き尽くす火だと言われるのである。

“あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。”(申命記4:24)

こうした患難について詩編では、私を取り囲んで中傷する者の悪意を、わざわいの日と記しており(詩編49:5)、そして、患難と苦悩とは、悪を行うすべての者の上にあると記されている。(ローマ2:9)このように誰であれ、悪を行い、罪を犯した分、自分の命の血を、苦しみあえぐことによって全て注ぎ出さなければならない。

こうした災いはノアの箱舟以降、神は、地の続く限り、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とはやむことはない(創世記8:22)、と言われた通り、罪が満ちればその終末として、その人が行った通りのさばきを受け、その服役が終わればまた新しく始まる。恰も、犯罪者が監獄で刑を済ませれば罪は消されるように、新しく始まるのである。そしてまた罪が満ちれば、また再びさばきを受ける。この連続の人生だ。それで伝道者の書には、空の空、すべては空であると人間たちに伝えている。(伝道書1:2)ヨブ記では、人は生まれると苦しみに会うと言っている。(ヨブ記5:7)ここで、救いを受け、命、永遠の命へと行く道は、唯一‘善’に帰ることである・

 ‘善’は、どうしたらわかるのか

神は‘善’について、人間たちに、律法と聖霊の法をもって神の御心を現しておられる。律法は肉に属する法であり、あらゆる人間の熱望する富貴、長寿を得ることのできる永遠なる法であるのに対し、聖霊の法は、心霊に安息と平和を得ることのできる完全なる法で、御国を所有する法だ。律法は3500年前モーセを通し約束された法で、ゲリジム山では祝福を受ける法を、エバル山では呪いを受ける法を宣布され、その法の通りに人間の全ての国を支配しておられる法である。従って、全ての国家、個人の運命は、この法の遵守如何で決定される。

この法は、“あなたが、自分がしてほしいと願うことを、人にもそのようにしてあげなさい”という律法の綱領を守ればよいのである。これは全ての律法を貫く法であり、自分が何を植えようと、それをそのまま刈り取る法則だ。つまり、憎しみを植えれば憎しみとして、愛を植えれば愛として、真実を植えれば真実として、虚偽と偽善を植えれば虚偽と偽善として、自分が植えたそのままが、30倍、60倍、100倍となって自身の人生の中にそのままついて来るようになっている。

特に今日、あらゆる人類が追及する、経済的豊かさを願うなら、施しによって人を豊かにしてあげれば、自分が植えた通りそのまま豊かさを刈り取るのである。施しとは、持っているものをみな差し出し、全てを注ぎ出したとしても、永遠に豊かさを保証してくださる神の約束の法だ。(箴言19:17、11:24、)信仰によって主に仕えるように隣人に仕えるならば、少し経てば、それは植えた通り30.60.100倍となって自身に帰ってくる祝福の秘訣である。これだけが、どの国であれ個人であれ、主から物質の祝福を受ける合法的で完全なる方法である。

今日、国家間の熾烈な市場経済から生き残ることのできる完全なる神の法であり、これ以外は如何なる努力も砂上の楼閣である。このように律法は、自分が何を植えようと、それをそのまま刈り取る法であるゆえ、人間は誰も自信の運命や環境を嘆いてはいけない。剣を使う者は剣によって滅び、計略をめぐらす者は、結局は計略によって滅びる。つまり、自身の幸福と不幸は、自分が植えたものが、そのまま自分にブーメランとなって帰ってくるため、誰をも恨んではならないのである。

また聖霊の法は、アダムに再び回復され、神のかたちである愛を成し遂げる法だ。それによって自身の心霊に完全なる幸福、つまり、天国(御国)を完成する法である。聖霊の法は、愛(Ⅰコリント13章)を完成することだけが唯一の道だ。(ヨハネ14:23) こうした愛の完全なる状態を成すことは、人間的な力でも、能力をもっても、決して到達できない世界である。唯一、イエス・キリストの霊であられる助け主、聖霊の助けによってのみ到達できる世界であるため、イエス・キリストだけが救いであると言われたのである。この状態を、水と聖霊によって生まれ変わる、と言い、また、聖霊充満と言う。

このように聖霊充満とは、イエス・キリストが私を完全に支配した状態であり、こうした心霊の中でのみ主は、その人を愛し、わたし自身を彼に現すと言われた。(ヨハネ14:21)その愛の中でイエス・キリストと一つの霊となり、顔と顔を会わせるように、善なる計画と、願うところの‘善’を知るのである。こうした聖霊の法による‘善’は、愛の中に完全に到達しなければ知ることができない。ところが、教会全体や多数の全ての聖徒たちが、この中に入ることは不可能である。従って、牧者一人だけでも目を覚ましていなさいと言うのだ。

恰も、一人の科学者が新しい物質を発明すれば、人類全体が便利になりその恵沢を受けることができるように、牧者一人が、愛の中に完全に留まって神の御心なる‘善’を知り得るなら、それは教会を通して光が広がるように、塩が味を出すように、この世に証しとなるのである。それで教会を真理の柱と言うのだ。キリスト教とキリスト者たちの重要性がここにある。(人間の堕落をもたした‘善悪の知識の実とは?’参照

 キリスト教とキリスト者たちの役割

教会は真理の柱として、神が意図される‘善’を探し出し、世に宣布し証明することをもって、人類が悪に陥ることなく、悪によって滅びることのないよう保ってあげることが任務の一つである。(ヨハネ3:16)従って教会は、神の御心である‘善’を知らなければならない。イエス・キリストも、“主よ、主よ、と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです”と言われ、主の名によって多くの奇跡や権能を行ったとしても、不法を行う者どもはわたしから離れて行け“と言われた。(マタイ7: 21-27)神の御心は、聖霊を通して導いて下さる。その御心がわからないことを盲人と言うのである。従って教会は、神の御心‘善’を知り、世が、それを予備できるようにしてあげることが任務の一つだ。

またキリスト者たちは、このように教会を通して語られる神の御心‘善’の御言葉を、そのまま信じ行い、成就することで、世に、神の栄光を現すのである。この世はだれも、神の語られる御言葉を、見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かない。(イザヤ6:9、マタイ13:13)それで神は、信仰のない世に神を見せる方法として、褒美と罰、つまり、祝福と呪いの二種類を使われるのである。法を守るキリスト者たちには尽きることのない祝福として、また、キリスト教国家には繁栄と平和、自由を下さり、神の法を守らず罪と悪を行う者や国家には、呪いの災いとして、恐れ、患難、恐怖、絶望、没落、滅亡、等、褒美と罰をもって全ての人類に教えておられる。

神の栄光とは、神の御心である‘善’が、点の一つまでもそのまま成就されることである。つまり、法を守れば祝福を、守らない時は、災いと御怒りの呪いとして、この世に現されることである。キリスト者たちは、こうした神の栄光を証しする証人としてこの世に送られたのである。つまり、祝福のサンプルとして立てることによって、神を信じない異邦人たちに‘悪’を行わず‘善’を行うよう警戒と教訓を与え、悪から離れるようにすることが、教会とキリスト者たちの役割、つまり、管理人の使役である。

管理人とは、‘善’を知って伝えるべく光の使者たちだ。それでイエス・キリストは、時に従って‘善’の御言葉の糧を分け与える忠実なしもべを求められたのである。忠実に、目を覚まし、父の御心を知り、その時々に合わせ準備、予備するしもべがいれば、そのしもべは幸いである。そうでないしもべは厳しく打ちたたかれ、泣いて歯ぎしりをすると言われた。(ルカ12:42、マタイ24:44-51)

ところが、キリスト者たちがこうした管理人としての役割を果たせず、また今日、管理人の国であるアメリカもやはり、神が、世界平和と祝福の見本となる基準として、覇権国家として立てられたが、今その使命すら投げ捨てている。神はこうしたアメリカに対し持続的に警告しておられる。アメリカは早く神の御言葉に帰って来て、管理人の国としての使命を果たすことを願う次第である。

キリスト者たちが管理人の役割を果たせない理由は、愛を離れ、人間内面のむさぼり、つまり三欲(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢)に陥っているからである。むさぼりは偶像崇拝であるため(コロサイ3:5)、神の、即時的な災いと呪いを呼ぶ要因となる。従ってキリスト者は、イエス・キリストを信じ救われたなら、その救いを維持するために注意すべきことがある。

イエス様が比喩で語られたように、1万タラントを免除された者が、100デナリの借りのある者を許さないなら、再び、1万タラントを全て返すまでその罪の値を求められることを知るべきだ。(マタイ18:21-35)イエス・キリストに罪の赦しを受けた故、今は、私の人生自体が、隣人や兄弟に対し、尽きぬ愛と許しと理解の中で、聖別された人生を生きなければいけない。そうでなければ救いの恵みと恩寵を喪失する。これを、比喩として直接語られ、キリスト者たちが警戒心を持つようにされたのである。

従ってキリスト者たちは、今、全世界的に広がっている人種差別、白人優越主義、ネオナチズム等の‘悪’から立ち返らなければならない。これは、その国家や個人に災いを呼び込む事で、(箴言13:21)自ら、災いと御怒りの穴へと入って行く愚かなことである。それで箴言では、愚かさにふけっている愚か者に会うよりは、子を奪われた雌熊に会うほうがましだ、と忠告している。

キリスト教の中での人種差別、白人優越主事、ネオナチズム等は、自身たちの満足のための三欲、つまり、貪欲を成す偶像崇拝であるため、キリスト者たちはここから早く立ち返らなければいけない。もしも、立ち返らず愛から離れ、悪を悪で返すなら、救いの恵みと恩寵を喪失し、異邦人のように、それに従う恐ろしい罪と報いの審判を受けることを心に刻むべきである。(へブル6:5-8,10:26)今キリスト者たちは、貪欲の偶像崇拝を捨て、愛に帰り、終末に、災いによって苦しんでいる世に対し、管理人としての役割を果たしてあげなければいけない。

 人類は今、イエス・キリストを信じ神の懐に帰って来なさい

(患難の日、人類に施してくださる神の涙の最後の約束)

今は終末(末世)、即ち、刈り入れ (収穫)の時である。刈り入れの時とは、自身が何を植えようと、また、無益な言葉一つまでも、それに伴うさばきが成される時である。人類は、こうした災いの真ん中にいるのにもかかわらず、現実として感じていない。また、感じているとしても、人間的知恵、知識、権力、金、友、等、更に世のものを頼ることで全ての問題を解決しようとする。そのため、偶像崇拝がより激しくなる。そうして神を探しもせず、救いを求めもしない。(黙16:9-11) 人間は、誰も頼れるものがなく切迫した時、初めて神に頼るようになる。この時、呼び求め、絶叫し、悔い改める時、この時が、神を求める機会である。異邦国家であったニネベさえ、ヨナの滅亡の宣布に、断食し悔い改めたことで、滅亡を免れた。この出来事で見られるように、神は、どの国、どの民族、誰にでも救いの門を開き待っておられる。

今、人類は選択しなければならない。悔い改めて、イエス・キリストを信じ、神に帰って救いを受けるのか。それとも、神のさばきとして、自身が積み上げた罪と悪の災いを、一つも余すことなく全て受けるまで繰り返すのか、選択しなければならない。神は、無念の思いを聞かれる神である。誰であろうと、あらゆる人間の呻き、苦痛、絶叫、怨望、憎悪、不平、等が積もれば、それを公義によって裁かれる審判の神である。特に、孤児、やもめ、貧しい者、拠りどころのない者たちの泣き叫ぶ声をまず初めに聞かれ、さばいて下さる。無実の罪を注いだその罪が満ちれば、即時、即刻的にどの国であれ、または個人であれ、人種や宗教は関係なく獣までも、災いと災難がおとずれ、行った分そのまま点の一つまでも、4-77倍をもって報いを受けなければならない。

特に戦争は、怨み、憎悪、怨望、不平や喘ぎ、絶叫が満ちて爆発するのが戦争だ。その結果人類は、過去二千年間、約365回の大小の戦争がこの地にあった。わずか100余年前にも、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦を経験してきた。地球上にこれより大きい患難はなかった。今、是非、人類はこうして繰り返される悲劇を防がなければならない。この辺で、主の御言葉に耳を傾けなければいけない。従って、あなたが今日、主の御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならないと言われた。

“きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように心をかたくなにしてはならない。”  (へブル3:15)

今、人類は、神が立てられた創造の秩序である愛に帰らなければいけない。最低限、“隣人をあなた自身のように愛しなさい”と言う神の律法だけでも、どの国家、制度であれ、適用されるとき、人類は、繰り返される悲劇を防ぎ、互いに相生できるのである。だが、神の御言葉を守ることは現実的に不可能だと誰もが言う。それでも、全てが壊れ粉となり、滅びる前に帰らなければいけない。(マタイ5:29-30) 死ぬ者は生き、生きようとする者は死ぬと言われた。(Ⅱテモテ2:11) 私たちが、心に、帰ることを決めたその瞬間から、イエス・キリストは助け主聖霊として来られ、手段方法を問わず、誰であれ、どんな罪であれ関係なく助けようと、心に決めておられる。

それで、世の終わりに、“わたしの霊をすべての人に注ぎ、救いを与える”と言う約束の御言葉通り(ヨエル2:28-32)(使2:17-21) 患難の日に、呼び求めなさいと言われるのだ。叫び、探し、求める者は、この約束に従い、誰であれ、聖霊の助けによって救いを施して下さるのである。聖霊の力によって各々の立場や環境に合わせ、慰めが必要な人には慰めを、安息が必要な人には心の平安と安らぎを、病の人には癒しを、憂いを慰めで包み、不安な人には信仰と平安と喜びを、貧しい人には憐れみを、息詰まる人には自由を下さることで、今日、患難に会う息子娘たちに対し、具体的、実質的に、あらゆる問題の解決と恵みと憐れみを施して下さり、神を知らせ、感じるようにされる。そうして、失った人類全ての民を再び取り戻そうとされておられる。

これが、苦しみを受けてうめく患難の日に、人類に施して下さる、涙で立てられた神の最後の契約である。(エゼキエル37:24-26) この契約は、あらゆる預言者を通し、重ね重ね語られたことで、神は人類に“帰って来なさい、帰って来なさい”と、哀願されておられる。そして、帰ってきた人たちには、大きな恵みを施し救って下さる、最後の約束である。

“わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ――そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。” (ゼカリヤ1:3)

“主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。” (イザヤ55:1-7)

“わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。”  (マラキ3:7)

この契約に基づき、今、人類はイエス・キリストを信じ、悔い改めとともに呼び叫び、探し、求めて、その導きを受け、神の懐に帰らなければいけない。これこそが、人類が災いから抜け出すことのできる、永遠で唯一なる方法である。

もしも人類がこのまま進むなら、今後起きる患難は耐え難いであろう。バベルの塔を散らされたように、すでに準備された災いが、世界を全てひっくり返し、散りばめ、人間が到底手に負えない、地震や洪水、日照りと、全てを焼き尽くす熱気によって、神は自然を通して、人間たちが積み上げた罪と悪を、その国家、その個人個人の行為に従って注ぎ出し、審判されるであろう。

だが、公儀によって裁かれる神の、この全ての災いと患難が、人類に臨むことがないようにと願い、早く帰って来ることを切に願っておられる、我が主イエス・キリストの涙の呼び掛けを伝えるものである。そのためには、この時のために、ずっと以前からあらゆる預言者たちを通して語られた、神の最後の、涙の新しい契約を心に留め、まずはキリスト者たちと、今日を生きる約76億の全ての人類に、悔い改めがあることを切に願うものである。

主よ! どうか今、主の口から出る全ての御言葉が‘善’となることと、その御言葉を離れて勝手に行うことが‘悪’となることを、人類が悟りますように。人類は、この‘善’がわからないため、今日まで、激しい苦痛と困難の中で生きています。主よ!主が切実であられるように、このしもべも切実に願っています。

この患難の日を通し、全ての人たちが、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによることを (マタイ4:4) 悟れるようにして下さい。‘善’は祝福と命へと、‘悪’は苦痛の死と没落、虚無へと、自ら陥っていくことを悟ることができますよう、我が主、イエス・キリストのみ名によって切に求め、お祈りいたします。アーメン

ハレルヤ! ハレルヤ! 主に栄光あれ。

草はしおれ、花は散る。しかし主のことばは、とこしえに変わることがない。(イザヤ40:8)