人間の堕落をもたらした

‘善悪の知識の実’ とは?

多くの人たちが、人生とは何か、幸福とは何かをそれなりに説明している。しかしそれはあくまでも、人間の根本となるところを無視した無知による人間の傲慢に過ぎない。全ての人間は、否が応でも、認めようがなかろうが、神の創造物であり被造物である。そして、創造主であられる神を恐れ、神の命令を守って生きることが人間にとってすべてである。(伝12:13) 人間たちがこれを悟らないなら、限りのない空しい苦労と苦難の中で、憩いも安息も得られないまま、心霊の困苦と苦痛によってはかなく生き、土に返って行くだけだ。

人類はなぜ! ここまで来てしまったのか。そして今どこへ行こうとしているのか。これに対する全ての答えは、創世記の善悪の実の事件から探すことができる。創造主なる神は、人間を神のかたちである愛によって創造された。そしてエデンの園を創設され、そこでアダムは神と共に幸せに暮らしていた。神はアダムに、あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬと言われた。(創2:16~17)

しかし蛇はエバに、あなたがたがそれを食べれば目が開け、神のようになり、善悪を知るようになると誘惑した。(創3:5) その誘惑にひっかかり、善悪の知識の木から取って食べ、エデンから追放された人間は、罪によって、神が警告された御言葉通り、必ず死ぬしかない結果を迎えたのである。死んだと言うのは、肉体的には生きているが、霊的には死んだと言うことだ。即ち、神は霊であられる故、神との関係において死んだのである。こうして霊的に死んだ者がどんな幸せを探せようか。死んだ者はたましいの自由をはく奪されたまま、苦難と重苦しさの中で空しく生き、そして人生の終わりを括る。そして、土だから土に帰って行くだけだ。神は人間たちのこのような悲劇を決して望んではおられない。

神の全ての希望は、人類を堕落前のアダムの状態に回復させ、エデンで共に暮らし、幸せに生きることを望んでおられる。それで、女の子孫であるイエス・キリストを通した人類救済のプロジェクトを立てられた。それを通して、人類が再びエデンに回復できる道を開けておかれたのである。このように、神と人類との間の悲劇をもたらした原因は、全て善悪の実から始まった。果たして善悪の実とは何であろうか?

 1.善悪の知識の木の実(善悪の実)とは何か?

善悪の実とは、善、または悪に対する区分と判断である。(創2:17) 善なる方はただ神ひとりだけである。(マタイ19:17、マルコ10:18) 従って、神から始まったもの、つまり、神の御心、計画、御言葉等だけが‘善’となり、神から始まっていない全てのものは‘悪’となる。従って、人間の目にどんなに善で美しく良く見えたとしても、創造主が悪だと言えば悪であり、また、人間の目には醜く悪に見え、そして不便で、汚くても、創造主が善だと言えば善なのである。従って、律法を定め、さばきを行なう方は、神ただひとりだけである。(ヤコブ4:12)

ところが、アダムが善悪の実を取って食べてから、人間は、神の御心とは関係なく、善と悪を自ら区分し判断し始めた。即ち、神だけがなされる絶対的な固有の権限である善と悪の区分を、人間自らの知恵、知識、経験、分別力等をもって、これはこうであろう、あれはああであろう、或いは、これは良い、あれは悪いなどと、善と悪を自ら区分、推測し、判断し始めたのである。この時から人間は、神の許可と御心を求めず、思いのままに人間の知恵、知識、経験等によって、前に差し迫る全てのことを解決しながら生きて来た。このように神の御心とは関係なく、人間自ら善悪を区分することは、創造主であられる神に対する驕慢と無礼であり、また、神をとことん無視した行動であるため、エデンの園から追放される原因となった。人間はなぜ、善悪の実を取って食べたのか?

 2.善悪の実を取って食べた原因と結果

(善悪の実を取って食べた原因は、人間の驕慢と貪欲から始まった。その結果、神との決別をもたらした)

善悪の実の事件は、人間が、神のようになろうとした人間の驕慢と貪欲によってもたらされた事件だ。この世は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢と言う三種類の欲望によって構成されている。(ヨハネ第一2:16) サタンはこうした三欲を餌に人類を誘惑する。エバがここに引っかかったのである。つまり、アダムとエバが善悪の実を取って食べるようになった原因とは、神のようになろうと言う驕慢と、それを果たそうとする三欲の誘惑を受け、神の御心を捨て、自ら善と悪を区分し始めたのである。

貪欲は、恰もドミノ現象のように、限りなく次から次へと新しいものを要求する。そうして欲望が欲望を生む飽くなき欲望の世界だ。一度陥れば抜け出られない、終わりなく切りのない世界、これをよみと言う。(箴言30:15-16) こうした貪欲を成就させるため、人間は、神の御心と神のかたちである愛を脱ぎ捨て、獣の本能の肉へと変わってしまった。肉とは、愛と反対の概念である。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、等を言う。(ガラテヤ5:19-21) こうした肉の要素が人間の内面にある限り、人間は神とは永遠に共にすることはできない。(創6:3)

“わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。”(創6:3)

このように、貪欲によって善悪の実を取って食べ、エデンの園から追放され、神との断絶をもたらした人間は、その時から神の御心の善を知る由もなく、悪へと流れて行った。

(善の属性と悪の属性)

善の属性は、光、愛、命、永遠の命、救い、美しさ、神聖、喜び、安息、平和、祝福、繁栄、健康、幸福…等であり、これは御言葉の善を行なった時、この善の属性の中にいられるのである。また、悪の属性は、死、闇、罪、呪い、没落、苦痛、災難、不幸、醜さ、汚れ、患難、病魔、虚無、悲しみ、徒労、困苦、等である。(ローマ2:9) これは、善を離れ、罪を犯した時、処されざるを得ない結果だ。従って、善悪の実の事件以後、善がわからず、悪だけに流れて行った人間たちは、当然、死の権勢の支配下で、悪の属性に伴う患難と困苦の甲斐なき人生を生きて行くのである。人類がこうした苦痛の中から抜け出せる方法は何であろうか。それは唯一、堕落前のアダムの状態に回復され、エデンへと再び帰ることであり、そうして神の御言葉である‘善’を行なうことだ。

 3.善悪の実を取って食べない方法とは 神の御言葉の‘善’へと帰ることだ

‘善’とは、神の意図されること、また、神の御言葉である。神は、善について人間たちに、第一に律法、第二に聖霊の法を通して神の御心を示されている。律法は、全ての人間が、地上で生きながら肉身の祝福を受けることのできる完全で唯一なる法だ。(申30:9) この法は、モーセにシナイ山で約束された法、十戒を中心とした法である。人間は誰であれこの法を守る時、肉身の健康、物質、名誉、富貴、長寿等、人類が追求する現世的な福を与えると、民たちに約束された永遠なる法だ。また、聖霊の法は、神のかたちを完成することで堕落前のアダムの状態へと回復され、救いへとつながる最高の祝福を受けることのできる法である。これがキリスト教信仰の窮極だ。

 第一:律法とは何か

人類が堕落前のアダムへと回復され、エデンに再び帰るために最優先されることは、死の権勢から抜け出すことである。そのためには、死に至らせる罪や悪にこれ以上騙されず、利用されないように、善と悪に対する分別力を持たなければならない。それを分別してくれるのが律法である。それは恰も、モーセが荒野で、旗ざおに青銅の蛇をかけ、死に至らせる悪とはこういうものだと、蛇の正体を明らかにしたように、律法を通して善と悪の分別力を持てるようにしてくれるのである。(民21:7-9) それで聖書は、死をつかむ権能が律法であると言っている。(コリント第一15:56) こうした善と悪の分別力は、律法の準行の可否によって、祝福や呪いとして区分される。即ち、神の善なる律法を守るときは、善の属性の中にある、命と祝福、富貴、長寿等が与えられ、また、律法を守らず背き、不従順するときは、悪の属性の中にある、禍や呪い等が執行されることで、肉にある人間たちに善と悪の分別力を持つようにするのである。

それ故、人間たちが追求するあらゆる肉身の幸福や富貴は、人間の努力や知恵、知識、手段、方法によって得られるのではなく、神が立てられたこの法を守ることで得られるのである。神は、律法を通し、祝福と呪いは神から臨むことを人類に教えている。それで聖書には、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く故、あなたが選びなさいと記されている。(申30:15, エレミヤ21:8、申11:26)

“見よ。私は確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょうあなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。” (申30:15-16)

“見よ。私はあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く”  (エレミヤ21:8)

“見よ。私はきょう、あなたの前に、祝福とのろいを置く” (申11:26)

この法は、天地が滅びたとしても滅びることのない永遠なる法である。(ルカ16:17) その為、旧約やイスラエルだけに限られた法ではなく、この地球上に存在する全て人間であれば誰でも、時代を超えてこの法を守らなければならない。これを守る時、善の属性に属することとなるため、肉身の祝福を受けることのできる唯一の法なのである。従って、律法を離れた人間の努力、知恵、手段等によって富貴や長寿を得ようとするのは不法である。不法によって取得したものは、たとえ手につかみ得たとしても、それは全て、悪い病や弊害によって享受できず、その人生は、空しく徒労に終わる。

“わたしは日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上の重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし神は、その人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これは空しいことで、それは悪い病だ。” (伝6:1-2)

こうした、いのちと祝福の法を伝えるために、過去二千年間、伝道者たちが全世界を巡り福音を伝播した。そしてまた、数多くの殉教者たちが血を流したのである。従って全ての人類は、キリストの福音を聞かなかったと言い逃れすることはできない。(ローマ10:18、ローマ1:20) そして今、異邦宗教や国家を含めたあらゆる人類の貧困、飢え、飢餓、不通、病魔、テロ、戦争、天災地変等ののろいと災いは、固執と頑なさにより神の法である律法を信じず、守らないことで生じた‘悪’の当然の結果であるゆえ誰も恨んではならない。その結果に対して自らが責任を負わなければならない。神が人類にこれ以上、何をどのようにしてくれればいいと言うのか。今、人類に残っているのは神の審判である。その審判とは、神が植えていないものを全て抜いてしまうことである、即ち、神の善(マタイ15:13)に属さないものは全て抜き、焼き尽くしてしまうことを言う。それで聖書は、あなたが、きょう、御声を聞くなら心を頑なにしてはならないと記している。(へブル3:15、4:7)

“きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こした時のように、心をかたくなにしてはならない”  (へブル3:15,4:7)

このように神は、人間の目には見えないが、律法に基づき公義をもって確かなる祝福とのろいと言う審判を成されることで、神を自らこの世に現し示してくださっている。それで、ことばは神であると言うのだ。(ヨハネ1:1) その裁きは、吐いた無益な言葉一言から、更には獣までも裁かれることで(創9:5)万物を支配し運行され、今日まで人類歴史や各国家、家庭、そして個人の興亡盛衰の根幹を成している。人類は、こうした律法の執行の可否を通して、神に対する確固たる信仰と敬畏心が形成されてきた。そうすることによって、聖霊の法へと進み入ることができるのである。従って律法は、神に対する信仰を成長させ、聖霊の法へと進むための養育係、つまり、幼い時期の家庭教師のような役割だ。

“律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました”  (ガラテヤ3:24)

律法によりこの地で享受することのできる最高の富貴と栄華の極点にいたソロモンは、伝道者の書を通し、後世に、人生の虚無を伝えている。即ち、あらゆる人間が求めるこの世のありとあらゆる富貴と栄光を全て得ても、得れば得るほどはかなく、寂しい思いと空しさが押し寄せるのを見、人生は、全てが空しく空の空であると告白している。これは、もう律法から直ちに霊的へと成長しなさいと言うしるしである。霊的とは、イエス・キリストが示された天国の福音である。

人間の幸福は、物質の豊かさによる富貴栄華にあるのではなく、創造主であられる神の懐に帰る時、初めて完全で永遠なる幸福を感じるのである。それが、天国、即ち、エデンの園へと帰ることであり、そこが、人間たちが到達すべき目的地である。天国がどれほど素晴らしいかについては、イエス・キリストが、天国は、ソロモンのあらゆる栄光をもっても、野に咲く一輪の百合の花にも満たないと言われた世界だ。(マタイ6:28-29) その世界を証してあげるのが天国の福音である、聖霊の法だ。

 第二:聖霊の法

聖霊の法は、愛の完成を通し、神のかたちを成すことによって、天国、即ち、エデンの園に再び帰る法である。愛の完成は、律法をもっては成すことはできない。律法は単に善と悪を区別する法である。そして律法の完成は、愛である。(ローマ13:10) しかし、律法を持って人間がどんなに努力し尽力を尽くしても愛の完成は成せない。その愛を一度に心霊に完成することができるのは、イエス・キリストの霊であられる聖霊の助け以外にはない。それが聖霊の法である。聖霊の法は、聖霊充満と聖霊の導きで構成されている。

● 聖霊充満

聖霊充満は、堕落によって死の中にいた人間が、愛の完成(コリント第一13章)を通し、再び神のかたちを回復し、天国であるエデンの園に帰ることである。これを、新しいいのちを得た、また、救いを得たと言う。愛の完成は、イエス・キリストの恵みによってのみ成し遂げられる。恵みとは、私たちの心霊の中にある肉の要素(ガラテヤ5:19-21)を追い出し、完全な愛の霊であるイエス・キリストの霊、即ち、聖霊の力を注がれることによって(ローマ5:5)、その愛(コリント第一13章)に支配されることを言う。そうして義と喜びと平和によって構成された神の国が、私の心霊の中で成し遂げられるのである。(ローマ14:17)

恵みを受ければ瞬く間に心霊の変化が起こる。憎んでいた心、つまり、これまで少しでも被害を被ったり心に傷を受けたりすると、仕返しや呪いがためらいもなく唇からほとばしっていたそんな悪い思いから、恩讐を愛する心へと、そして、神の御言葉に対する不信と疑心が、あまりにも当然とそのまま信じられるようになる。右の頬を打たれれば左の頬を差し出し、下着を奪おうとする者に上着まで脱いであげ、5里を一緒に行こうと言う者に10里を共にしてあげるなど、神秘な愛の力が今、自分に現れるのである。

このように聖霊充満は、ちょっと前まで隣人に持っていた怨み、不当な欲望…等の思いが容易く捨てられ、本当にかわいそうで痛ましく、憐れみの心に変わる。隣人、兄弟の間違いが全部無条件に自分の間違いであり、私のせいであることを感じ、今すぐに手を伸べ、悪かった、済まないと謝り、彼に全てを差し出したとしても、少しも惜しくも恥ずかしくもない。そうしなければ治まらない、ある絶対的な力。この力を自分は全く拒否できない。そして、許し、寛容、その上に愛によって彼のたましいまで深く深く大切にしてあげ、そうして彼のために、自分の問題よりも大事に責任感を持って代わりに仲保、悔い改めの祈りをしてあげるのである。

それも無理強いや義務感ではなく、あまりにも当然に自発的に成されるのである。このように天国は、漠然とした天の国のどこかに存在する未知の場所という概念ではなく、すでにイエス・キリストが“神の国は、あなたがたのただ中にある”(ルカ17:21)と言われたように、神の国は、私たちの心霊の中で成し遂げられる義と平和と喜びの国である。(ローマ14:17) アダムもまた神話の中に存在する人物ではなく、今、現実の中で天国を築いた私の心霊の内に存在する。これが、イエス・キリストが伝えられた天国の福音である。

このように聖霊充満は。善悪の実の事件によって堕落した人間が、神のかたちである愛へと回復することであり、これをもって神と結び合わされ交わりが成されるのである。そして、神と一つの霊になることで、神の心、意図、知識等が全て共有され、わかるようになる。(へブル8:11) そうすることによって‘善’、即ち、聖霊の導きを受けて行くのである。このように、聖霊充満と聖霊の導きは一つとして成し遂げられる。

● 聖霊の導きとは、完全な善について導きを受けることだ

聖霊の導きとは、聖霊充満を通して神のかたちに回復されたことによって、これまで断絶していた神との交わりが再び成され、直接神から善と悪の区分と教えを受けることである。即ち‘悪’である罪について、また‘善’である義について、さばきについて、教え、思い出させ、教訓することで、私たちを直接導いて下さるのである。(ヨハネ16:8) 神の事情、その御心は、神の霊以外には誰も知ることができない。(コリント第一2:11) 従って、イエス・キリストの霊である聖霊が、私たちに直接神の善なる御心を教えて下さること、これが聖霊の導きである。

聖霊の導きは、すでに多くの預言者たち、特に2800余年前、旧約の預言者ヨエルを通して、終わりの日にキリストの霊である聖霊を全ての人に注ぎ、救ってくださると預言された。(ヨエル2:28-32、使徒2:17-21) あなたがたの息子や娘は預言をし、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐと約束された。聖霊の導きは、今もこうした方法によって、私たちの心霊に神の法を聖霊によって直接啓示し導いて下さるのである。(へブル8:10、エレミヤ31:33、へブル10:16) このようにして、神が直接、善を教えると言われた、新、旧約聖書の預言を全て成就し、終結されるのである。

“彼らはみな神によって教えられる”  (ヨハネ6:45)

“わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす”(エレミヤ31:33)

“あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け…”  (イザヤ54:13)

聖書は、こうして神が直接善を教えられ、失ってしまった人類をエデンへと回復させる救いをもって、善悪の実の事件は終わりを締めくくるのである。

以上のように、人類を死へと堕落させ、残酷な人類の歴史を作り上げた善悪の知識の実とは、人間の善と悪に対する判断、定罪を指しているのである。善と悪の判断は、神にしかできない固有権限であるにもかかわらず、人間は善悪の実の事件以後、創造主の存在を無視し、人間自身の考えと知恵によって全てを判断し行なってきた。あげくの果てには、神の存在まで否定する境地にまで至った。その結果、善を失い、人類に返って来たのは、悪の結果である苦痛と災いのみである。こうした結果をもたらした善悪の実の事件の中心にはアダムがいる。

アダムは実在人物である。その証拠はアダムからカイン、そしてアブラハムまで続く系譜をもって聖書は立証している。また、人間には、エデンで暮らした痕跡が残っている。そのため、絶え間なく幸福に対する熱望と懐かしさを持って生きて行く。しかし、神を除外した人間たちだけの幸福はない。仮に得たとしても、その幸福は永遠に未完成で終わる。それで聖書は、“笑うときにも心が痛み、終わりには喜びが悲しみとなる”(箴言14:13)と記されている。本当の幸福は、人間は神のかたちに造られた故、神の懐に帰り、善、即ち、神の御言葉に従って生きる時、得られるのである。この地で富貴と長寿を願うなら律法を守り、そして、完全な幸福、天国を願うなら、聖霊の法に従うことで得られるのである。従って、こうした‘善’の導きを受けないことは、また再び取って食べることと同じであり、不法となる。このように、不法を行なう者に対して、イエス・キリストは、わたしから離れて行けと言われた。

“わたしは、あなたがたを全然知らない。不法をなす者、わたしから離れて行け。” (マタイ7:23)

従って、使徒パウロが叫んだ福音の核心は、ただ聖霊に満たされなさいと言うのだ。(エペソ5:18) それを通して聖霊の導きを受けて行くのである。その導かれた御言葉が、即ち、神の法の‘光’である。(詩119:105) その光は、おもに教会を通して伝達される故、教会を真理の柱と言うのである。従って教会は、この‘善’について伝えてあげる義務がある。そうすることによって、その善をもとに、人類は初めて闇から放たれ自由を得るのである。それで、ただキリスト教だけが、救いの宗教だと言うのだ。

<参考>

   愛寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 (コリント第一13:4-7)

   肉不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興。 (ガラテヤ5:19-21)


    神は、今日、人類に次のように語っておられる

今は、神の審判の時、終末である。神の審判は、神が植えたものでないものは抜き、焼き尽くすことである。そうして、神が造られた万物の秩序と‘善’を保護されようとしておられる。聖書にはすでに、終末のしるしについて次のように預言されている。

    第一の症状は:①人々は自分を愛し ②金を愛し ③大言壮語し ④不遜 ⑤神をけがし ⑥両親に逆らい ⑦感謝せず ⑧汚れ ⑨情けを知らず ⑩和解せず ⑪そしり ⑫節制がなく ⑬粗暴 ⑭善を好まず ⑮裏切り ⑯向こう見ず ⑰慢心 ⑱神よりも快楽を愛し ⑲見えるところは敬虔であってもその実を否定する者になる。(Ⅱテモテ3:1-5) こうした不法がはびこるので多くの人たちの愛は冷たくなり(マタイ24:12)、荒らす憎むべき者が聖なる所に立ち、非正常的な風潮や社会現象が雨上がりの筍のように出てきて、義人たちが苦しむ時である(マタイ24:15)

    第二の症状は:民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われる(ルカ21:10-11)。こうした症状が現われる時が終末のしるしである。それは人類が、神が造られた法である秩序を遵守せず、不法によってむやみやたらに生きてきた結果、今日、こうした苦痛を受けるのである。世界の国々が、こうした苦しみから自分たちを救ってくれる政治的な英雄を切に願っているが、そうした英雄はいない。英雄とは、ひたすら神が造られ制定された神の法に準じて生きて行く生のみだ。

従って、神の御言葉と律法に準じて生きるキリスト教国家は、律法の約束によって当然覇権国家や先進国となるようになっている。そして、不法を行なっている国家、即ち、自国の利益追求のため悪亊を行なう国家、独裁国家、平和を破壊し世を混乱に陥れる国家、環境破壊を恣行する国家、人類の滅亡を自ら招く核を主張する国家等は、その悪が積まれた分だけ、ブーメランのように、自分たちに4~77倍となって帰ってくる。そして、飢え、飢きん、各種様々な病や奇病、ひどい干ばつ等の自然災害によって、審判を受けるようになっている。この審判を通し、全ての人類が、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る‘善’なる御言葉によってのみ生きるという、大きな教訓を悟らなければいけない。これを悟るまで、人類は、植え、刈取り(自分が蒔いた種は自分が刈り取る)の繰り返しと、患乱と苦しみの中で、空しい人生を生きて行くしかないのである。

耳のある者は、イエス・キリストの霊であられる聖霊が語られる声を聞きなさい。

草はしおれ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに変わることがない。

ハレルヤ。ハレルヤ。世々限りなく主に栄光あれ。アーメン