キリスト教は二千年のねむりから覚め

立ち上がって光を放て

(キリスト者の権限と役割)

 キリスト教のこの世に対する任務は、救い、即ちこの世を滅びないようにすることです。しかし今日、この世は全人類がたましいの闇に閉じ込められています。キリスト者たちは、こうした暗いこの世で光を放てという目的で召されて生きるのです。光は闇を追い出します。聖書では、主の御言葉は光だと言っています(詩篇119:105)。光なる神の御言葉は真理であり、それはキリスト者たちの愛によって完成されるのです。人間は真理なる愛を守っていくことで、心配、懸念、苦痛、病魔、災い…等を予防し、常に幸せな人生を謳歌できるのです。一方愛から離れる時には、願わざる各種の災害や、疾病、艱難、苦痛、心配、懸念、気掛かり…等に支配される。それを災いと言います。

 神は、人間がみな幸せな人生を生きることを願っておられます。それで時代ごとに数多くのしもべたちを要所要所に配置し、愛しなさいと叫んでおられるのです。従って旧約からの全ての預言者たちの数え切れないほどの叱責、警告、叫びの核心骨子は‘愛’しなさいと言うことです。それが新約では、第一、心と思いと知性と命を尽くして主なる神を愛せよ。第二、隣人をあなた自身のように愛せよ、と言う二つの戒めをもって完成されるのです。この愛の声を聞かなければ、如何なる個人、社会、国家であろうと、災いによって滅亡や没落をもたらすのです。神は、これをせよとキリスト者、特に牧会者たちに祝福権、罪の赦しの力等、数多くの権限を下さったのです。

1.キリスト者と牧会者たちの権限

 神の嗣業を受け継いだキリスト者とは、誰でも祝福をすれば祝福が、呪えば呪った通りになる、祝福と呪いを管掌する祝福の基となる人たちです(創12:2)。つまり、この世の全ての祝福と呪いはみな、キリスト者たちの口と行ないに応じて決定されるのです。キリスト者たちを呪えば、この世は呪いを受け、キリスト者たちを祝福をすれば、この世は祝福を受けるのです。それでキリスト者たちは行動に気をつけなければならないのです。自分たちの言行が、この世と異邦人たちにとって徳のある行為でなかったり、さばかれる言行をすることで、この世が我々キリスト者たちを呪えば、その呪いは彼ら自身の頭に返る為、気をつけて徳のある行動をせよと言うのです。

 従ってキリスト者たちは、善行を行なうことによって、この世が我々を祝福するようにし、この世を祝福の地に手入れをする農夫たちなのです。つまり罪と悪に満ちたこの世の干からびた地を、敵をも愛することで、祝福の沃土にする任務を神から与えられた祝福の基となる人たちです。神はこのようにキリスト者たちに愛の戒めを命じ、それによってこの世の腐敗と滅亡を塞ごうとされるのです。

 特に主のしもべたちの祝福は、個人的に、社会的に、国家的に、人類全体に影響を与えるのです。バラクは何故あれほどに、神のしもべの祝福のひと言に国家の運命をかけるほど、バラムに祝福を受けようとしたのでしょう。神は何故、祝福しようとするバラムの口をあれほど塞ごうとされたのでしょう。それは神のしもべが、神に代わって一度宣布した祝福は、神も、秩序の為にはその通り進行するしかないからです。つまり祝福は、主のしもべに下さった権限であり、その権限を執行する主のしもべの祝福は、神の約束であるゆえ、神の名誉と権威の為自ら破棄する事はできないのです。従って、この世と羊たちは、牧会者たちの祝福なくしては決して、霊的、物質的成長は難しいのです。仮に人間的な自分の努力によって富と名誉を得、自身で霊的成長をしたとしても、それはまるで、主人が植えていない、庭木に生い茂る雑草のようなもので、そのうち時が来れば主人によって抜かれるのです。

 牧会者たちに失敗があり、間違いがあっても、この世のようにむやみに判断、定罪してはならない決定的な理由が、祝福権を持っていると言うことです。一方、牧会者たちは祝福権の乱発に注意しなければなりません。神の御心が何かわからずに、自分の思いで行なっては、神の反対側で逆行するバラムの道に行くからです。それで聖書は、バラムの逸れた道に行くなと言う大きな教訓を、我々聖職者たちにしているのです。逸れた道とは不法のことであり、不法とは、神が許していない事、または、神の御心通り行なわないことを言います(マタイ7:21)。従ってその道を避ける方法は、ひたすら神の御心を求め、探し、確認し、更に確認することしかありません。このように、神は牧会者たちに祝福権を下さった一方、それに対する責任をまた確実に求められます。ほとんどの牧会者たちの人生が、なぜあれ程にいつも大変で、わけも無く苦しく、手に余るほどなのでしょう。それは、羊たちに対するあらゆる責任の為です。

 牧会者は羊たちのあらゆる罪を、自分の罪のように背負うべき一次的責任を負った人たちである為、信徒数が多いと言うのは、それくらい背負うべき罪の重荷が大きいと言うことです。大型教会の牧会者たちの人生が、常に訳もなく難しく大変なのは、信徒たちの全ての罪の十字架を丸ごと背負わなければならない為、その罪の重さだけ難しく大変なのです。下から見れば羨望の対象だろうが、実際は否応なく自分が死ぬ日まで幸福とは関係のない人たちであり、生涯一度たりと息を深くまともに吸うこともできない、ある重さに押さえ付けられて生きなければならない人たちです。牧会者の自身の十字架、つまり、信徒の数だけのその罪の価を背負わなければならないからです。

 また牧会者は、自分の説教に対する助詞の一言一言まで、すべて責任を負わなければなりません。この世でも保証人は自分の保証に対する責任をそのまま背負い込むように、牧会者は自分の命は勿論のこと、たましいを担保にして、羊たちに神の御言葉を保証する証人たちなのです。だから牧者は、羊たちのたましいを命の中に居るように保ち守る見張り人たちであり、その見張り人に対しては、神の御言葉をきちんと伝えなかった責任は見張り人たちに、またはきちんと伝えたが、その言葉を聞かなかったことに対しては、羊である当事者たちにその血の価を求めると、聖書は警告しています(エゼキエル33:1-7、3:17-21))。果たして、キリスト教は神の御言葉をきちんと伝えたでしょうか?

 人類の歴史は、報いの歴史で染み付いて来ました。しかし、キリスト教は救いだけに偏ったあげく、報いについては看過してきました。報いとは、自分の行なった通りに、植えて刈り取る法則で、善を植えれば褒美として、悪を植えれば罰として治められる法則です。キリスト教は、このように褒美と罰が明らかに存在することを、この世に知らせることが任務なのに、死んでからの天国と言う救済論に遮られ、現世の報いである、悪に対する罰を看過してきました。従って、キリスト教が、救いと共に報いをきちんと教えてさえいたら、世界と人類の全ての歴史は完全に変わっていたでしょう。

 ご覧下さい。イエスキリストが死なれ3日目に復活されてから、二千年の間に起こった結果を。この時代、今、聖書に記された御言葉の助詞一つまでその通り成就したのを、我々は目で見ている神の生きた証人たちです。
 ユダヤ人たちがイエスキリストを否認し、背き、冒涜、謗った代価は、酷くきびしいものでした。その代価は彼らが行なったそのままに、あちこちの国を流浪し、臭い雌豚と言われ、けだもののように卑しまれ、虐待、蔑視を受け、最後には約600万人の虐殺をもってその血の代価の最後の一滴までを支払ったのです。そうして約二千年ぶりに、奇跡的に国が再び回復し建国されたが、誤った選民思想と、目には目、歯には歯という、許しのない報復思想によって、彼らはまた再び隣国から怨声と怨望を受け、罪を犯すことに血眼になっている。その罪の価は報いの法則によって、また再び返さなければならない悪循環の繰り返しとなり、これを通して彼らは深い教訓をもう一度受けることでしょう。

 現在、地球の奥地チベットで起こっている事件もまた、中国がチベットに行なったそのままを全て補償し悔い改めるまでは、尽きることのない内乱と混乱によって安寧と平和はないでしょう。それは、中国に対するチベット人の怨恨、怨声、怨望、ため息、嘆き、挫折、慟哭、絶叫、恐怖、不安、等の呪いを中国が全て背負わなければならないからです。こうした怨声はきちんきちんと積まれ、このまま放置すれば、中国はその荷に押さえられ決して咲くことはできません。世界はこれを注視し、教訓とすべきでしょう。

 この世はこのように、動物たちの生きる上での秩序となっている弱肉強食と言う力の論理によって生きようとするが、全ての万物は、ただ神の御言葉である真理の通りに、人生の生、死、災、福が形成され運行される。それは何であれ、植えたとおり刈り取る報いの法則によって、各個人、社会、国家の興亡盛衰と運命が決定されるのです。キリスト教はこうした神の法である報いの法則を証ししなければならなかったのです。もし、救いと共に報いを正しく伝えていたら、各国のこうした罪悪は防げたでしょう。神は、報いを看過し伝えなかった結果としてもたらした罪悪のその血の価を、牧会者たちに求めておられます。

 律法のしもべたちには、肉身の各種疾病や病苦によって、成長した霊的しもべたちには、肉身の疾病と霊的な心霊の刑罰によって、羊たちのその血の価を支払わなければなりません。神が、霊的しもべたちに与える霊的な鞭は、人間の想像を遥かに超えた甚だしい刑罰で、それは、この世のあらゆる苦痛と不安、恐怖、絶望の闇の中にカチンカチンに閉じ込められるのです。その苦痛と困難は、鞭を打たれた者にしかわからない。この世の如何なる苦痛や不幸であっても、霊的苦痛に比べれば、その苦痛は天国であるほどです。

 しかし神が今、聖職者と牧会者たちに願われるのは、鞭ではなく、真の悔い改めの中で聖霊に満たされ、世界のもつれにもつれた結び目を、一つ一つ解き放つことを願っておられます。そのためにはどうか教勢拡張や自分の教会の為だけに気を使うのではなく、新しい亜麻布を着、立って世界を目を凝らして見てみて下さい。言及したように、この世は皆、全人類が市場経済論理という混乱の沼にはまり込み、しきりにもがいています。持っている国と持たない国、ある人とない人に分けられ、互いに食うか食われるかの弱肉強食の力の論理だけが存在しています。その結果は、互いの競争、ねたみ、嫉妬、持てず奪われた者たちの飢えと嘆き、喚き、憎悪、憤り、怨声、怨恨、悪口、呪い等の罪悪を生み、こうした原因によって人類に災いをもたらすのです。

● 災いの原因と解決方法

 災いとは恰も、水車がいっぱいになった水の重みの力によって回り続けるように、この世でほとばしる嘆き、延声、怨望、不満等の罪悪が一つ一つ積まれ、その力によって災いやのろいが各個人、社会、国家に降り注がれるのです。従って災いは、昨日今日一日で起こるのではなく、長い歴史と歳月にわたり、積もり積もった怨声、怨望、不平、鬱憤、憤り、嘆き、憎悪心等の、罪と悪の実が吹き出すもので、神は、その無念と怨声と怨恨の訴えを聞いて裁かれるのです(ミカ7:7)。こうした災いを防ぐ道は、怨声、怨望、不平、悪口、怒り、憎悪心の原因を解決してあげ、そうした罪と悪が神の前に届かないよう、和解、許し、寛容、補償等で防ぐことしかありません。

 まず、各個人の罪悪は、当事者を直接訪ねて行って、心から悔い改めることです。聖書の御言葉は、「供え物をささげようとしている時、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。それから、来て供え物を捧げなさい」と言っています(マタイ5:23-26)。当事者が亡くなっていなければ、関連のある子孫を訪ねてでも、自分の過ちを詫びて許しを求めることです。

 それから徹底した悔い改めの祈りによって、隣人と和解したことを申し上げるのです。もし相手が心から自分を許してくれなければ、その悔い改めは何の意味もないもので効果はありません。悔い改めと和解の原則は、自分の環境や立場や名分より、まず相手の立場と目線で理解し尊重してあげ、それに従ってあげることです。和解ができなければその怨恨と呪いは、一生影のように、その罪の価を最後のちり一つ支払うまで自分に付きまとい、その瞬間から自分にくる良い祝福を遮ってしまい不通となってしまうのです。

“あなたがたの罪は、良い物をあなたがたに来るのをさまたげた”(エレミヤ5:25)

 悔い改めを通し和解ができれば、その次は相手から祝福を受けるのです。その時はじめて自分の前に遮られていた不通の塀が打ち壊され、再び思うようになり神の祝福へとつながるのです。
 また国家的には、自分たちの国家が繁栄と平和の中で良くなることを願うなら、まずその国の国民は、自国に対して怨声と怨望、呪い、不平、等を決して注いではならない。特に王や統治者、為政者たちにしてはなりません。それは彼らの過ちではなく、すでに国民の怨声、怨望、呪い、不平、等の罪や悪によって誤ってしまった結果を、その王や統治者、為政者たちを通してそのとおり進行する神の使いであるゆえ、聖書は、彼らに無条件に従いなさいと記しています。(ローマ13:1-2、Ⅰペテロ2:13、テトス3:1)

“すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背く者である。背く者は自分の身にさばきを招くことになる。”(ローマ13:1-5)

“あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。”(Ⅰペテロ2:13)

“あなたは彼らに勧めて、支配者、権威あるものに服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり・・・”(テトス3:1)

 その国の王や統治者、為政者たちに与えられた国家の権勢は、神から出た天の権勢である。その権勢を持った為政者は、否が応でも神の使いであり、各自の善行と悪行に対する審判の為に立てられたのです。もしその国の国民が悪行を行なえば、その国の王や為政者たちに良い知恵が遮られ、闇と死の知恵だけが臨み、滅びの道へと入って行き、国民が善行と祝福の中で感謝の生活を送れば、その国の王や為政者たちに良い知恵が臨み、その国に繁栄と安寧がもたらされるでしょう。

 ほとんどの為政者は、国民が自ら選んで立てた人たちです。その為政者がどんなに政治、経済、外交等、多方面に卓越していても、国民の怨声、怨望、不平、紛争の中では、絶対にその全ての知恵と能力は塞がれてしまうのです。その指導者を通して、国民の念願である国家の平安と繁栄がその通り反映されることを願うなら、まずは国民の一声の祝福がなければなりません。

直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる。(箴言11:11)

 しかしどの国にも、常に不平不満の疎外階層はある。彼らの口から出る怒り、憎悪、悪口、呪いが集まりに集まり、まとめて大きな災いとして国家に致命的な混乱や困難を与え、打つのです。最近サイクロンによって、十何万人の死傷者を出したミャンマーに降りかかった災害もまた、国民の嘆きと怨声と怨望が集まり起こった事件です。こうした災いを塞ぐ方法は、ミャンマーの国民が一つの心で怨声と怨望をすぐに止め、為政者たちを祝福することです。このような方法は人間の常識では決して理解できないことだが、しかし神の御言葉である真理は、愛だけが万物全ての解決策であり、予防し治療する万病薬なのです。それでキリスト教が、あなたがたを迫害する者のために祝福を祈り、呪ってはならない(ローマ12:14)と言う理由です。従って、こうした災いを防ぐことができる人は、キリスト者しかいません。壊れて故障した車を自動車整備所で直すように、この世の全て壊れ故障したものを直す人たちがキリスト者たちであり、それが、キリスト者たちのこの世に対する使命なのです。

キリスト者たちは今、二千年の深いこの世のねむりから覚め、立ち上がって光を放て

2.キリスト者たちの役割

 全ての万物は、創造主である神にいつも感謝し、賛美しなければいけません。特に神を畏れることが目的である全ての人間は、神の豊かな恵みにあずかり、いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝し賛美することです。神はそれを喜ばれます。
 しかしこの世は、神に対する感謝と賛美ではなく、その反対の罪悪によって、怨声、不平、憎悪、呪い、悪口、貪欲、冷笑、絶叫で満ちています。神は全ての罪悪に対して、誰であれ、その訴えを聞いて下さり、罪を明らかにして審判される方です(ミカ7:9、ルカ18:1-7)。
 その間で和平を築く役割がキリスト者たちです。従ってキリスト者たちは、社会と世界あちこちの片隅で陰になった所を訪ねて行き、怨望と不平、悪口によって、たましいが病み傷ついた心霊を抱きしめてあげ、自分自身のように、自分が受けている境遇や立場のように、彼らの深い傷をなでてあげ、抱きしめ、傷を癒してあげなければなりません。

 それで、この世は、あなた方が思うほど、そんなに非情で冷酷ではなく、この世のまた一方ではこうして温かみもあります。あなた方が見たのはこの世の一部分で、この世の全体ではなかったのです。このように彼らに近づくほどに、傷が深い分だけ、彼らは社会、家庭、友達から受けた傷を、尽きぬ憎悪心と呪いと不平、不信等をもって吐き出し続けることでしょう。

 果たして彼らが普通の状態に戻るだろうかと言う疑念が持ち上がるが、愛は必ず勝利する故、彼らの心霊に、噴き出すようにいっぱいに詰まった、家庭、社会、国に対する不信、不平、悪口ののろいを、愛で抱きしめてあげるのです。このように愛で和平を築く橋頭堡の役割が、塩の役割であり、それによってこの世の滅亡と腐敗を防止するのです。

 このようにキリスト者たちの役割は、イエス・キリストがこの世の罪を負って下さったように、我々も霊的には祈りをもって、肉的には奉仕や善行の施しをもって、病み、苦痛を受けてうめく隣人の十字架を代わって負ってあげるのです。それで国家、社会の苦痛と怨望、怨声、怒りを静まらせ中和させ、また為政者たちを祝福し、彼らの失敗や過ちを、自分がしたことのように代わりに悔い改めてあげ、良い道を準備してあげるのがキリスト者たちの役割なのです。

 このように祈りと施しを通してキリスト者たちは、信仰の完成である二つの戒めを果たすのです。祈りを通しては、第一の戒めである、心と思いと知性と命を尽くして、時代ごとに求められる主の御心が何であるのか、その意中が何であるかを常に注視し、祈りをもって求め探し、聖霊の教え導かれるその御心をその通り行なうことで、主を愛せよと言う第一の戒めを果たすのです。施しを通しては、第二の戒めである、隣人を自分自身のように愛せよと言う戒めを守り果たすのです。この二つの戒めの均衡と調和の中でのみ、教会とキリスト者たちの霊的信仰は成長できるのです。

 愛が多くの罪をおおうことであるなら(Ⅰペテロ4:8)、施しは、罪を清める方法です(ルカ11:41)。施しは、物質的に貧しい人たちを豊かにすることによって、彼らの心配、懸念の苦痛を解決してあげ、神と和平を築いてあげることです。キリスト者は、自分の全ての所有は神のものだと言う、完全なる認識で武装されていなければなりません。その理由は、万物はすべて神の所有であり、祝福を受けたキリスト者たちは神の執事であるため、貧しい人たちの哀訴は当然キリスト者たちの責任だからです。今、我々皆、ヤコブの手紙5章1-7節までの御言葉を、深く詳しく調べ参考にすべきでしょう。

 従って施しは、義務感や、事務的、形式的に行なうなら、それは生命力を失った死んだものです。ですからキリスト者たちの施しは必ず聖霊によって内密に行ない、ただ主だけに栄光を帰さなければなりません。自分の善行による施しは、いつかは自分を目立たせ自慢したがり、栄光を必ず受けたがるが、聖霊による施しは、ただ主だけに栄光を帰し、その善行によって自分が知られること自体がとんでもないことで、はずかしく、決まりが悪いのが特徴です。その訳は、私の体を貸しただけで、全ては主がなさったと言う確固たる分別が私を支配するからです。このように聖霊の力をもって犠牲、奉仕、施しをすることが、全き光を放つことです。光を放ったと言うのは、主をこの世に現したと言うことです。ですからこうした役割は聖霊に満たされていなければできません。聖霊の満たしは、父の心が私にそのまま転移されて、父の愛によって満たされるため、決して彼らの要求を拒否できず、けちけちした心は去り、私の助けによって隣人の苦痛と心配が和らぐことを願う憐れみであり、豊かに当然のこととして分け合う法なのです。

 また、この世で起こる罪悪は、まるで自分が犯した罪のように贖罪する心で、疎外階層、陰となった所を訪ね、一つ一つ凶悪の束縛を解いてあげ、くびきの綱をほどき、圧制された者を自由にし、飢えた者にあなたの食物を分け、流浪する貧民をあなたの家に入れ、裸の者を見れば着せ、苦しく困難の中にあるあなたの肉親を、避けて隠れずに助けてあげ、こうしてこの世の陰のさした所を見回し、彼らから降り注ぐ怨声、怨望、不平などを整理整頓、解決することです。これが、肉体の飲食を断つ肉的断食ではない、真実な和解と許しと施しである霊的断食の真の意味なのです。キリスト者たちは、国と人類の為に毎日毎日施しするものを探し、霊的断食をもって、神とこの世の間で和平をもたらしてあげるのです。キリスト教は今、二千年の深いこの世のねむりから覚め、立って光を放つべき時点にいます。立って光を放つと言うのは、光の働きとして、この世に膨拝した苦痛の嘆きと怨声、怨望、不信、呪い、悪口、憤り等の闇を追い出すことです。この働きは、聖霊充満でなければ決してできません。

 従って、キリスト者たちが今すべき急務は、聖霊に満たされ、人類の長い歴史を通して一つ一つ積まれた全ての悪の実を整理することです。それは世界の所々で罪悪によってカチンカチンに凍りついた怨恨と怨声を早く処理することです。怨恨と怨声の罪悪は、彼らの心の奥からにじみ出る、真の感謝と許し、そして彼らの口から祝福の言葉が出る時はじめて罪が消されるのです。今、この全ての罪を代わりにキリスト者たちが消してあげなければなりません。それがキリスト者たちのこの世に対する使命なのです。

 「聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20:23)とあるように、こうした罪の赦しの力で、教会は、社会、国家、宗教を越え、長い歴史を通して全世界にいっぱいに満ちている怨恨、怨声の落書きを、霊的なものは祈りと信仰によって、肉的なものは施しと善行によって、その罪と悪を消し、如何にしても良い世を作り上げなければなりません。その時はじめて各個人、家庭、国家間の長い対立の厚い壁を壊し、相互間の和解と和平を掘り起こすことができるのです。従って全人類の総体的責任がキリスト者たち、特に全ての聖職者と牧会者たちにあるのです。人類の未来の興亡盛衰もまた、全てのキリスト者たちの行動如何にかかっているのです。

 今、各国のキリスト教聖職者、及び牧会者たちは、人類のあの悲劇がこれ以上代々伝わることのないよう、祝福と慟哭の涙で彼らと一つになって祈り求めることが、今着るべき新しい亜麻布です。今の人類は、力でも、能力でも、如何なる知恵をもってしても、この数知れない難題を解決することは決してできません。ただ主のしもべの目に流れる慟哭と絶叫の涙だけが、その国と人類に約束された幸福の保障なのです。その信仰の祈りを神はどれほど受けたいと願っておられるか。牧会者の方々が、この涙を忘れてもうどれほど長く経ったでしょうか。早くその新しい亜麻布の衣を着、両手を上げて祈り、死ぬその瞬間まで、各々の祖国の為に、また人類の為に祝福をしてください。

 ‘義’の、この新しい亜麻布の衣を今みな着なければ、直ちに使命は剥奪されるでしょう。今のように使命を怠って実を結ばない全ての責任は、本人たちが負わなければなりません。どうか心を頑なにされることなく、早く聖霊充満をまとい、キリスト教本然の役割と本分を、命をかけ忠誠を尽くして遂げて下さることを願います。

 命をかけ忠誠を尽くしなさい。そうすればわたしが命の冠をあなたにあげよう。
 耳のあるものは聖霊が教会に語られる声を聞きなさい。アーメン

 全ての人類の望みなる主よ! キリスト者たちのこれまでの多くの誘惑と彷徨を防ぐようにされ、今から行く道を提示して下さり、人類に滅亡と災いを避ける道を教えて下さった神に、感謝と賛美を捧げます。
 ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!

 草はしおれ、花は散る。しかし主のことばはとこしえに変わることがない。

 我が主よ! 世々限りなくあなただけに栄光がありますよう。 -アーメン-