聖霊充満とは


 聖霊充満とは、神の神聖が私たちの心霊を通して聖さと聖潔として現れることである。光と闇が分けられているように、確然とキリスト者とこの世を分けているのである。アダムの堕落後、肉に変わった人間たちは、誰も神のかたちである愛を自分で完成することはできない。どんなに努力しても、それは全てが未完成の愛に至るだけである。愛を完成できるのは、ただ神の助け、つまり聖霊の助けだけが絶対可能なのである。神の助けを受ける道は、イエス・キリストを信じる信仰を通し、その霊であられる聖霊を私たちの心霊にいっぱいに満たすことである。このように聖霊充満にいっぱいに満たされた心霊をキリスト者と言い、それを神の性質にあずかった者と言う。ところが今日のキリスト者たちは自負と誇りが全くなく、自分たちをあまりにも過小評価している。

 キリスト者とはギリシャ語で’油を注がれた者’たちであり、王や祭司長のように神から聖別された者であることを現わす。それで聖書は私たちキリスト者たちを、王である祭司、聖なる国民 (Ⅰペテロ 2:9) たちだと言われたのである。油注ぎとは、聖霊と力を象徴するもので、キリスト者とは、つまり聖霊の力を受けた人たちである。その力によってもはや人間たちではなく、この世で朽ちていくのを避けて神の性質にあずかった者たちである (Ⅱペテロ 1:4)。今や聖なる‘神’と言える人たちだ。

“おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ”(詩 82:6)

“「わたしは言った。あなたがたは神である。」”(ヨハネ 10:34)

 従って聖霊に満たされない心霊は、厳密に言えばキリスト者とは言えない。
聖霊充満は、火災現場で熱い火気から身を保護する消防士の防火服のように、キリスト者としてこの世で完全に完璧に使命を果たせるよう準備された複合的な力だ。キリスト者たちには誰でも聖霊はある。しかしその聖霊が、自分の職分を十分に果たすことができるくらいの分量まで満たされて、必ずや聖霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ 5:22-23))を、内的、外的に結んではじめてキリスト者であることを証する確実な証となるのだ。従って聖霊に満たされなければ決してキリスト者としての証人となる生、光と塩の役割を果たすことはできない。

  聖霊充満の徴候

  キリスト者各々の心霊の中で役事する聖霊の満たしは、こういうものだ、ああいうものだと如何なる言葉や文字でも全てを表現することはできない。ただ私たちが感じるのは、私たちの心霊に喜びがいっぱいに満ち、その平安と喜びに酔っていることだ。その喜びは三徳である信仰、希望、愛の新しい要素によって成されている。

  律法的信仰は、聖書に記された全ての御言葉を信じることを言う。しかし放縦しようとする肉のために、聖書の要求を全て守るのはとても無理であり、その要求は良心に足かせをつける束縛であり、自由の剥奪である。それで自発的よりは命令を守らなければならないと言う義務感で守る。それに反し、聖霊充満の中での信仰は、聖書のとても小さい微々たるものまでもただ全て信じ、やってあげたい。それでも足りなくて済まなく、申し訳なく、まるで軍に入隊する息子に一つでももっと食べさせたい母の心情のように、痛ましく済まない心で聖書の要求を隣人に行なうのである。

  律法的信仰でマタイの福音書5章の要求を、どのように行なうことができようか。私が何故理由もなく右の頬を打たれるだけでいなければならず、侮辱を受けなければならないのか。御言葉に基づいて従順するにはしたが、多分生涯の恥辱として忘れず、繰り返し繰り返し思い出し、悔しくて胸が塞がることだろう。それに私の下着を取ろうとするのに、どうして上着まで持って行きなさいと言えるだろうか。多分最高裁まで上訴してもだめなら、どんな方法を動員してでも自分の権利を取り戻すことだろう。奪われると思えば、どうにも悔しくてたまらず、寝てもいきなり起き上がり、決意の祈り3年、いや10年でも夜も眠らず祭壇で神に悔しさを切実に訴えることだろう。

  ところが聖書は逆に、そういう者のために祝福の祈りをしてあげなさいと求めている。信仰がいくら良くても奪われた傷が回復するには多くの時間が必要である。ただ一生懸命努力してその記憶を覆うだけの水準で終わることだろう。このように律法的信仰は、神の命令であるから死力を尽くしてその事件を覆うことで解決するのがやっとだ。

  しかし聖霊充満な心霊は、その状況に対する真の理由と原因を、この世の論理ではなく、天の知恵と論理で教えてくださる。奪われたが決して悔しくもなく、当然そうなるべきことで、かえって天の慰めがもっと大きくなって、その慰めと喜びが悔しさを捕えて飲み込んでしまう。そうして一気に、その人のために本当に、「彼が私のように神をわかるようにしてください。そして彼らのすべての罪から彼らを赦してください。」という悔い改めの祈りと祝福の祈りがほとばしるのである。

  このように聖霊充満は、少し前まで隣人に持っていた心、貪欲・・・等の心が簡単に捨てられ、本当にかわいそうで痛ましく憐れみ、彼らの全ての過ちはひたすら私の過ちであり、今すぐにでも手を差し伸べて、済まない悪かったと謝罪し、彼に全てを明け渡したとしても惜しくも恥ずかしくもなく、そうしなければならないと言うある絶対的な力、この力を私は全く拒否できない。そして許し、寛容、その上に愛をもってその人のたましいまで深く深く惜しんであげ、そうして彼の為に代わりに、自分の身上の問題よりもっと深く重要に責任感を持ってとりなし、悔い改めてあげるのだ。

  また、自分の心は常に喜び、その喜びによって全身は綿毛よりも軽くてやわらかく、全宇宙をゆうゆうと飛んで、心霊で全天下を行き来する事ができる。今私のポケットに小銭一つなくても、全てを所有しているような幸福感がしきりに心霊からほとばしり、あれほど夢に見た幼い頃の童心の世界が今、目の前に広がって現実に現われ、私の心霊でその頃よりもっと強い感動で感じられ、目には感激、喜悦と喜楽に溢れ涙で答え、全ての貪欲の所欲は無謀であることを悟り、引き潮のように引いていく。

  私をあれほど苦しめた蚊の大群のような心配懸念は、その泰山のような信仰に木っ端微塵になり、ほこりのように散らばって退く。憎しみ、ねたみ、嫉妬・・・等は、どこから出てきたのか完全な知識が私に説明し、道理を問うことで、到底抜け出すことのできなかった心、何でも全て燃やすような恐ろしい気勢のねたみ、嫉妬の炎は、即刻消却されてしまう。憎しみによって誹謗、仕返ししようとした悪い考えは、直ちに恥ずかしくて自ら逃げ出し、いくら探してもなく、済んだ水晶のように透明な真実性が、どこからともなく突然心霊の全てを満たす。

  その真実性がまさに聖潔であることを自ら感じ、金剛石のように、光を受けると直ちにたくさんの角度に零れ落ちる絢爛な光のように、これまでわからなかった数多くの知恵と知識が溢れ出し、祭司長の愛の聖なる麻布のように、何にも憐れみ、慈悲深く、謙遜で、柔和で、寛容になる(コロサイ 3:12)

  善し悪しの分別力と共に、これまで人に抱いていた恨みと不平とのろいの心は、血を吐く心情で悔い改め、また、悔い改め、自分を後悔する。こうした異常現象が自分に突然近づき、全ての万物が明るくなって光り、やさしくなって美しい世の中に変わり、全ての生命体と自然に疎通する。その生命体は私に祝福し、愛していると答え、自身の立場を訴えて私に慰められることを望む。さらに祝福してあげ、全てのことに感謝しありがたく幸せで感激し、その感激に浮き立ち賛美し涙を流す。

  また、どこからそうした忠誠心と使命感が出てきたのか、全ての命令に即刻的に従順する忠誠心に溢れ、常に隣人と国家と人類に対する気がかりが生じ、その気がかりに眠ることができず心配し、その救いの方途を探し心がひりひり痛み、憐れみ、かわいそうで身もだえする。

  人間はこのように聖霊に満たされた時、本当の幸福を感じるのである。

 人間にとって幸福とは何か!

  人間が追求する幸福は、自分の心霊に愛が完全に成された状態になった時が本当の幸福である。それはあらゆる哲学や宗教が糾明しようとし、また全人類があれほどに求め熱望し望んだ幸福の定義である。人間の幸福の条件である愛の要素は (愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます) (Ⅰコリント 13:4-7)である。つまり人間は創造された本来の姿に帰る時はじめて、完全な幸福を見つける事ができるのである。それは神のかたちである愛によって回復される時だ。つまり人間の幸福の条件は、愛の完成である。

  肉に支配されて生きるこの世の人々は、笑い、騒ぎ、食べ、飲んで、それなりの人生を生きているが、実状は、心霊に数多くの傷、切迫感、窮乏、憎しみ、ねたみ・・・等、貪欲に引かれるままについて行く人たちである。その労役による苦労が手に余りあちこち倒れ、全て憂いと苦痛、心配にうめく人たちだ。豊かであるほど、知識人であるほど、幸福を心のままに享受することのできる条件、環境が揃っているようだが、幸福を感じる心霊がすでに壊れてしまっているため幸せがない。彼らは幸福を切に願うが、それは常に抽象の中にある理想であり、幸福の条件が横にあっても決して感じることができない。その幸福が過ぎ去り非常に遅れてはじめてあの時が幸せだったと、思い出を懐かしむ。あるいは幼い頃の童心の世界の中で幸福だったことを遅れて悟る人たちだ。これは幸福が排除された人々、つまり幸福から剥奪された人々である。

  全て人類の幸福は、聖霊に満たされた時感じることができる。このように神は人間を愛によって造られ、制定した本当の幸福、それを天国、神の国、新しいエルサレム、インマヌエルと言う。これに比べ人間が追求する幸福はまるで、雨の降るある日、広々した大平原で汚らしいむしろを一つもらって喜び、頭からかぶって雨を避ける程度にしか表現できない。

  その世界は受けた者以外は誰もわからない。如何なる言葉や説明をもっても表現することはできない。一生にたった1分でも、聖書が提示する本当の幸福を感じたなら、その人は幸運な人である。多くのキリスト者たちが初めの愛である恵みを受けた時を忘れられない理由がここにある。その当時は決して恵みは強烈ではなく、平凡で日常的なようであったのに、いくらか過ぎてはじめてその時を慕い懐かしがるのは何であろうか。

  その時に比べ今は、金、高い地位、家庭の団欒、名誉・・・等、この世のものを全て所有したとしても、相対的に常に心の片隅には影がさし、できることならあの時あの頃にもう一度帰りたい切実な熱望の中で生きて行く。振り払うことも、消し去ることもできない、尽きない恵みの慕わしさと、その頃に受けた恵みが懐かしく、今すぐにでも命に替えても所有したい心情だが、しかしどうすることもできない環境に置かれている凄絶な自分の姿を見る。その恵みは決してこの世の如何なるものにも代えられない大切で尊い幸福のかたまりそのものであり、核心であったことを悟るのである。このように数知れない人たちが、キリストの中で物質的祝福は受けたが、心霊の奥ではむせび泣き、満たすことのできないうつろな何かに捉えられ、一生懸命信仰をしてみるが、するほど満たされない。こうして一度失った恵みをもう一度受けることは難しい。

  従って聖霊に満たされることも重要であるが、聖霊充満をどのように維持し管理するかがもっと重要である。しかしキリスト教はいくら最高のきちんと整えられた聖霊論の教理を持っていると言っても、また聖霊に満たされたと言っても、ほとんどは3ヶ月以内に聖霊を消滅させてしまう。きちんきちんと律法から始まった牧会者でさえ、3年ほど維持した後徐々に消滅してしまう。これがキリスト教プロテスタントの現実だ。それは世俗主義の浸透によるものである。

 聖霊充満の妨害要素は肉の要素だ

  律法的信仰で解釈する世俗主義が、この世的常識と普遍的思考感であるなら、霊的信仰においての世俗主義とは、肉の要素 (不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興 (ガラテヤ 5:19)) を心霊に持っていることを言う。肉の要素を心に抱いたりしまっていることを世俗主義と言う。この世俗主義が聖霊充満を妨害する代表的な妨害要素である。

  肉の要素が充満すると、常に肉の欲に引っ張られて生きる。つまりこれが終わればあれを成就しようと気を揉む。こうして常に貪欲の中に生きるようにし、貪欲に仕える偶像崇拝者にして、私たちと神との関係を分離するのである。

  また全てに、恨み、不平不満、苛立ち、怒り、事々に言い掛りをつけ、状況と条件さえ整えば時間も時刻もなく憎しみと憎悪心が噴き出すように、尽きることなく溢れ出す。私には過ちがあったとしても少ししかなく、全ての過ちは相手にある。だからもっと不届きで憎らしく心寂しい思いで更に悪口と中傷をする。そして相手が現われれば密かにこっそりと、高尚な面持ちで核心をつく言葉で傷つけ、それによって私の不満を解消する。また子犬が常に骨を口に噛んでおもちゃにするように、自分の口にはいつも人に対する不平不満、誹謗、さばきが離れることがなく、誰であれ引っかかるまま、手当たり次第、鬱憤が晴れるまで噛み付き、相手より力が足りなければ周囲を説得して自分の方につけ、仲違いさせる。こうしたけしからんと言う思いに捕まると、機会を見て残忍に仕返しするのである。このように聖霊充満、肉の充満 (サタンの役事) は全て内面で起こる。

  しかしキリスト者とは、周辺が常に肉の要素でぐるぐる巻かれていても、その中で愛だけを執行しなければならない人々である。特に神は牧会者たちにこうした怨讐をいつも周囲に送り、許し、寛容、愛を現わす証人たちとして立てられた。それで牧会者の周辺はいつも、憎しみ、心寂しさ、物足りなさ・・・等にまみれている。従って牧会者たちは聖霊充満でなければ一歩も進むことができないため、常に聖霊に満たされていなければならない。そのためには殉教の精神で、ただ愛一つをもって神の怨讐である肉を支配し (肉:不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興 (ガラテヤ 5:19))、勝利して、神との交わりが成されなければならない。その交わりの中で神の御心、摂理、教訓・・・等を、教会とこの世に知らせる光の使役を果たすことができるのである。

  また聖霊充満の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制 (ガラテヤ 5:22))等の力を持って、隣人とこの世、また羊たちと自分の前に置かれた肉的要素である悪を治療するのである。こうして治療を受けた羊たちがまさに、この世に向け学んだとおり知ってるとおりの愛を伝える証人たちである。この世はこうしてキリスト者たちの善良な行ないによって腐敗が塞がれるのである。従って聖霊充満は理論ではなく、実質的に自分自身の行動の中で今、聖潔と愛の行ないとして現われるべきものなのである。

  もしも自分の行動の中で今すぐ愛の行ないが現われないなら、それは聖霊充満ではなく、肉に属していると言うことだ。これはつまり聖霊がないという確証であり、まだ非キリスト者に過ぎない。従ってキリスト者たちは愛でないなら無条件背を向け、さわっても、触れても、味わってもならない。それで天国 (神の国) は、ことばにはなく、力にある (Ⅰコリント 4:20) と言われたのである。

  今、牧会者及びキリスト者たちは、サタンの計略の手管に自分自身を欺かずに、全ての基準は、これまで自分自身が作った物差しではなく、ただ愛の (Ⅰコリント13章) 標準のものさしで堅く心霊に刻み込み、毎時自らその物差しを正確に当てて、誤差があれば徹底した悔い改めをしなければならない。これが初めの愛に帰る近道であり、聖霊充満を維持する道だ。そして肉のサタンの道を決して振り返ってはならず、ただ愛の道へと突き進まなければいけない。

  今日プロテスタント教会は、全てきちんと整えられた聖霊論を持っているが、それは信仰に全く適用できず、死んだ聖霊だけを持っている。今や聖霊論は理論でではなく、自分の中に愛の力が現われるよう適用するべきである。それを成すには初めの愛を探し回復しなければならない。

  初めの愛の感激が、全ての教会の上に共にあり、また、我等の主イエス・キリストとの交わりが、全ての聖職者と牧会者たちの上の共にあるよう祝願するものです。

  我が主よ! とこしえに栄光を受けたまえ。
草はしおれ、花は散る。しかし主のことばはとこしえに変わることがない。
ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!