“これらのことが全部起こってしまうまでは,
この時代は過ぎ去りません”
と言われたのに…なぜ?

 < 再臨、終末論の聖書的確言に対する誤謬 >

    神学が主張する終末論で、イエス・キリストの再臨論の聖書的確言の根拠として、マタイの福音書24章、ルカ17章、マルコ13章があげられる。これはイエス・キリストが直接預言された内容として、再臨、終末論の代表的な重要な根拠としている。まず、本文の節から詳しく見てみよう。

 マタイ24:3-34

“イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

    そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、私こそキリストだ、と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。・・・・・・・・

    そのとき、「そら、キリストがここにいる。」とか、「そこにいる。」とか言う者があっても、信じてはいけません。 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

    さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、「そら、荒野にいらっしゃる。」と言っても、飛び出して行ってはいけません。「そら、へやにいらっしゃる。」と聞いても、信じてはいけません。 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。 死体のある所には、はげたかが集まります。・・・・・・・

    34節:まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。”

 マルコ13:4-37

“お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するような時には、どんな前兆があるのでしょう。

    そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、私こそそれだ、と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。・・・・・・・・・・

    30節:まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

    気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出かけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。

    だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。”

    上のマタイの福音書24章と、マルコの福音書13:4-37節の本文は、教理が主張する終末論的 (再臨、艱難) 概念で解釈してはならない。今まで主張している終末論的な事柄として起こらないと言うはっきりとした証拠が、マタイの福音書24章34節と、マルコの福音書13章30節に記されている。“まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません” と言われている。

    この御言葉に立脚したなら、マタイの福音書24章と、マルコの福音書13章の預言は、すでに過去に全て成就した。マタイ24章のイエス・キリストが預言された御言葉は、その通りその世代に成就し、創世以来由来がないほど、ユダヤ人たちにとっては最大の災難としてどのように艱難が成就されたのか、その歴史的事実を歴史家ヨセフスによって明白に一つ残らず記録され、今日まで伝えられている。

    このようにイエス・キリストが語られた預言は、一画も余すことなくその世代に全て起こり、成就されて約1900年以上も経っているのに、今まで起こっていないと言う終末論の主張は、イエス・キリストがすぐにその時代に (この時代) 起こると預言された御言葉を、真っ向から否定する行為である。

    肉的な艱難と災難は、すでにイエス・キリストが預言したその世代に全て起こり成就した。今、我々が待つべき霊的終末 (再臨、艱難) は、我々の心霊で起こることなのである。イエス・キリストは、霊的に心霊で艱難が起こることを、ルカの福音書17:20-37にこのように記している。

    “さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。20節:「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

    21節:そら、ここにあるとか、あそこにある、とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

    イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が、こちらだ、とか、あちらだ、とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまがひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。

    しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。人の子の日に起こることは、ちょうどノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

    また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

    人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

    あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」 弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」 主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

    パリサイ人たちが再臨について、いつ来るのかイエスに質問すると、イエス・キリストは、“神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある。」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。” とはっきりと、神の国は心霊で築かれることを糾明する御言葉を語られた。また、ローマ14:17節には、神の国は、義と平和と聖霊による喜びだと記されている。

    これは、今まで教理が解釈するような、聖徒が死んでから行く天の御国の誤解を防ぐため、聖書がはっきりと断定し、糾明しておいたのだ。それにもかかわらず、教理は今日でも依然と、神の国が霊的な聖霊の世界であることを乗り越えられずにいる。心霊に築かれる神の国に引き続き、イエス・キリストは弟子たちに、23節から37節まで艱難と災難を預言している。これは、我々の心霊の中に聖霊を受けることによって起こる、それまで主張していた悪の勢力に対する艱難と災難を意味しているのである。

    艱難、災難とは、聖霊の降臨によって、我々が、死の権勢という暗黒の権勢の支配下で罪の奴隷となっていた古い人を滅ぼし、一挙に、神に対しては新しいいのちに生き返ることを言う。即ち、私の中にあった罪、死の権勢が、聖霊を受ける時稲妻がひらめくように、電光石火の如く瞬く間に私の心霊で、罪が裁かれ、義は生き返る出来事を意味する。古い性品 (罪性) は、艱難と災難を受けることで罪に対する張り裂ける苦痛と絶叫と痛悔が伴い、また一方では、新しい人としての解放によって、喜び、歓喜、喜悦が一緒に同時に共存する。それで助け主聖霊が来られれば古い人に対し、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせると言われたのである  (ヨハネ 16:8)

    さばきとは、ヨハネの福音書16章11節を見ると、イエス・キリストの空中再臨後に起こるさばきの事ではなく、助け主が来られれば、聖霊によって我々の心霊で、罪について、義について、さばきについて叱責されると言われている。ここでさばきとは、この世を支配する者、即ち、我々を支配していた古い人がさばかれる事を意味するのである (ヨハネ 16:11)

    即ち、聖霊を受ければどんなに頑なな人でも、真に ‘私は罪人です’ という痛悔と絶叫がほとばしる。罪に対する苦痛と苦しさの中にありながらも、義と平安と喜びが訪れて来るのである。このように聖霊によって我々の心霊の中で起こる出来事であるため、ルカ17:23節に、肉的にイエス・キリストが再臨すると人々が言ったとしても、決して動揺してはならないと念を押しているのだ。(聖霊のバプテスマに与った者だけが悟ることができるため、与った者以外は決して悟ることができない事だ。)それゆえ22節で弟子たちに、人の子の日を一日でも見たいと願っても見られないと語られているのである。

    また黙示録では、“見よ。わたしはすぐに来る”  (黙 22:7) と記されている。‘すぐに来る’ のギリシャ語の、エルコアイ タックィーは、遅れることなく、即座、即時、早く、すぐに、素早く等の意味で、未来形ではなく現在形として使われている。こうしてすぐに来ると記されているのに、二千年が過ぎた今でも、教理が気を揉んで待っている主の再臨が、今だかつて起こっていない理由は何なのか?

    今、キリスト教は、主の再臨が肉をもっての再臨ではなく、マルコの屋上の間から始まった聖霊降臨であることを正しく伝えてあげなければならない。神の霊であり、御子イエス・キリストの霊である聖霊は、キリスト教信仰の救いの実在者であり、実体であることを認識する時はじめて真のキリスト教信仰となることは言うまでもなく、聖書の目的と求めに正確に到達することができる。再臨イエスを待つと言うのは、すでに二千年前に来られたメシアを今でも待っているユダヤ教のような、愚かで無謀なことである。聖霊降臨はまさに、キリスト教待望のメシアであり、聖書全体を通して我々に約束された永遠の契約であり、おきてである。

● 今のキリスト教はユダヤ教と同じだ

    ユダヤ教とキリスト教は、信仰の方式と形式は違うが、内容はそのままである。誰でも今のキリスト教の確実な実体を見ようと思えば、ユダヤ教を見ればわかる。その中にキリスト教のすべてが盛り込まれている。ユダヤ民族である今のイスラエルは、聖書の歴史の中で消えた民族ではなく、これからもずっと子々孫々歴史を通して、神の御言葉通りに契約、約束が如何に履行、成就、結末したか等を見せることによって、全ての民族に持続的に教訓を与えるためのサンプルとしての、信仰のモデルの民族である。

    キリスト教は、ユダヤ教の現イスラエルを通して、信仰の多くの教訓を供給するのに十分なたくさんの糧が貯蔵されている。こうした教訓を通し、どのように信仰をしたらいいのか、良い標本となっている。キリスト教の立場で見る時、ユダヤ教は生きた宗教なのか、死んで没落した宗教なのか、また、イスラエルの信仰行為は生きた行為なのか、死んだ行為なのか、聖書的なのか、非聖書的なのかと言う定義を下し、考えてみるべき時である。

    現キリスト教が、空中再臨するイエス・キリストを待つように、彼らもやはり旧約聖書に記された預言者の預言通り、イスラエルを救う自分たちだけのメシア出現に希望をかけている。キリスト者の立場では、彼らの希望がどれほど愚かで愚昧な、実現することのない虚像であるかは誰もがわかっているが、彼らは子々孫々その希望と未練を決して捨てられずにいる。それによって根深く打ち込まれた自分たちだけの選民思想が、誤った民族優越主義へとつながり、傲慢で身勝手な人類平和の障害物となっている。彼らの内面は、国家全体が集団選民思想魔術にかかっているのだ。また現代。世界の人の精神的流れを導いている思想は、一部ユダヤ人の精神の中から出てきた為、我々は、好むと好まざるを得ず彼らの支配下に置かれ放蕩している。神のないこの世も、それなりに世界平和と、暮らし易い理想的な世界論を具現するために設定された理想的理念がある。それが即ち、平等、正義、博愛主義、(ヒューマニズム)として現われている。

    選民思想に陥っているユダヤ人たちの精神の中に、世界平和のための最小限の基本的義務である平等、正義、博愛主義がちゃんと作用、活用されていると思うだろうか。彼らの精神の中には、誤った民族優越主義的な選民思想で満ち溢れ、自分と自分の民族だけが神から選ばれた民族であり、他民族は、ユダヤ人のために存在するという従属的世界観をもっている。ほとんどの西欧国家がみなそうであるが、どの国の国民より、ユダヤ人たちほど民族優越主義の慢心に陥っている民族はないだろう。

    イスラエルは、全国民の一人しか残らずとも、決して、世界悲劇の原因となる選民思想を彼らの精神の中から消すことはできないだろう。彼らの信仰は、このようにはずれたまま神を崇拝しているという事実を、キリスト教はしっかりと見るべきである。彼らは何がそんなに重要で放さずに固執しているのか。それはすでに来られたメシア、イエス・キリストを否認した結果である。その結果の代価は、二千年間むごい残酷な苦痛を支払ってやっと現代に至って脱したが、また再び罪を犯している以上、その代価は必ずまた支払わなければならない悪循環へとつながり、永遠なる悲劇の民族となることだろう。同じ神に仕えながら、たとえ聖書の旧約片方だけをもって信仰をしたとしても、これほど異なる理由は何であろう?それは、聖書解釈の見解に従って、世界人類の歴史が全く変わり得ると言うことである。

    彼らのこうした悲劇は、イエス様の当時、祭司長たちとラビの幾人かの強情によって、ユダヤ民族を悲劇の民族にしたのである。公義の神は絶対的にイエス・キリストの公生涯の期間、祭司長たちとラビたちに、良心によって、イエス・キリストがメシアである事を悟ることのできる恵みを十分に与えたが、彼らの心性が傲慢と頑なによって否認し、拒否したためである。

    その結果の悲劇が、ユダヤは勿論のこと、今日まで人類全体にまで影響力を及ぼしている。ラビたちのその血の代価をどうするのか。その当時のラビたちは、ユダヤ教の固執的な伝統継承主義が神に真にきちんと仕えることだと思っていた。だが、神にきちんと仕えるために熱心に教えたその行為は、かえって神の国をそしり妨害する行為となった。彼らの熱心は誤った、くい違った忠誠だったからだ。

    キリスト教もやはり、ユダヤ教の立場と同じ魔術にかかっている。彼らがメシアを待っているのと、キリスト教の再臨イエスを待っているのとでは、何が異なるのか。また、彼らが選民思想に陥っているのと、キリスト教が自分たちだけが救われ、神に一番きちんと仕えているような錯覚に陥っているのと、何が違うと言うのか。キリスト教の姿は、ユダヤ教と全く同じ縮小版である。そのまま模倣していると言う事実を誰もが自覚し、目覚めるべきである。

    キリスト教は聖霊の宗教だ。約二千年前、使徒パウロはローマ教会に、新しい御霊によって神に仕えるよう (ローマ7:6) 宣布したにもかかわらず、これまでほとんどのキリスト者たちは心に留めることなく、律法的にのみ神に仕えていた。その結果、キリスト教はこれまで、ただ救われたと喜び、救い、救いと言い、救いの祝祭だけに持ち切りになっていて、誰一人きちんと霊的に神に仕える方法を教えられなかった。信仰において、個人的救いが優先ではないと言う点をまず考えなければならない。イエス・キリストは、心と思いと知性と力を尽くして神を愛しなさいと言われ、これがキリスト教の第一の戒めであると言われた理由が何であるのか、深く考察してみるべきである。今キリスト教は、救いの祝賀ムードから脱し、救いの喜びと感謝の発露で、ただ神に仕えることへと転換するべきだ。真に神に仕えるというのは、新しい御霊によって仕えなければならない。これは即ち、聖霊の導きを受ける信仰を意味するのである。

    聖霊は神の霊であり、神ご自身であるため、聖霊の導きを受ければ神の御心を直接知ることができる。そしてその通り応じることができ、また、その通り仕えることができる。こうする時、神はご自身の御心に符合するので栄光を受けられ、喜ばれるのである。時代ごと、各個人ごと、激変する状況に従って、信仰をどのように守っていけるのか。キリスト教は如何に対処してあげられるのか。それは、神の霊である聖霊の導きに従って行くことしかない。

    それでイエス・キリストがしもべたちに、時に応じて食物を備えさせる忠実な思慮深いしもべは誰であろう (マタイ24:45) と言われたのは、聖霊の教えと導きにしたがって、時代ごとに急変するこの世の風潮と思潮に立ち向かい、教会の信仰を守ることのできる御言葉を、その時代にふさわしく、御言葉の中で常に新たに神に仕える方法を提示してあげなければならないと言う意味である。これを心に刻むべきであろう。

● 聖霊の御言葉と力の実行

    聖書には、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって ①悪霊を追い出し ②新しい言葉を語り ③蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず ④病人に手を置けば病人はいやされます」と記されている。こうした約束の力を受けるために、都 (エルサレム) にとどまっていなさいと言われた (ルカ 24:49)。その力と権能を行なうことのできる原動力の実体者が聖霊だったのである (使 1:8)。従って、力が現われないと言うのは厳密に言えば、偽のキリスト教者たちである。

    この時代の教会が、聖書で言及する力 (しるし) が現われない理由は何であろうか?理由は簡単だ。汽車がレールから外れれば走れないように、聖書から全く離脱したからである。信仰と各自の恩賜によって差はあるが、キリスト者たちにとって力が現われないと言うのは、厳密に問えば偽者だ。この力とは、ある特定の人たちだけに現われるのではなく、信仰を持ったキリスト者なら誰にでも現われる外的しるしなのである。今まで聖霊のしもべたちが、御言葉の証だけでなく力も共に行なうことをもって、信仰の確信を幼い信仰者たちに植えてあげたために、こうして韓国キリスト教が急成長することができたのだ。

    この時代の本物、偽者の霊分別の判断方法は、“神の国はことばにはなく、力にあるのです”  (Ⅰコリント 4:20)と言われたように、力の可否で判断すれば良い。私が力 (しるし) を行なっているのか、それとも全く現われていないのかと言う可否を自分自身判断して、その力が現われないなら、その信仰は悔い改めから始め、聖霊のバプテスマを受けて新たに信仰を始めなければならない。

    キリスト教は全ての宗教を完成させる完全な宗教だ。これは、聖霊ゆえにあらゆる宗教の中の最高の宗教となるのである。全ての宗教は愛 (仁、慈悲・・・等) を目指している。他宗教は、自分たちの努力によって愛の行ないに到達しようとするが、キリスト教は、聖霊の力と能力によって容易く簡単に到達できるからである。それはちょうど、ある農夫が、かまで一日中かけて200坪の刈入れができるとするなら、トラクターを持っている農夫は、一日に数十万坪を全部刈入れるようなものだ。人間には到底できない愛の行ないを、聖霊によって容易く簡単に行なうことができるために、最高の宗教、完成した宗教となるのである。

    キリスト者とは、この世に対しては愛の伝令たちであり、愛の化身とならなければならない。愛は、神を伝える福音の中の福音だ。(すでにキリストの信仰の中で言及したゆえ、誤解のないよう願う)その愛の行ないが集まり、最小限、この世が悪に流されて行かないようくくって置く心張り棒だ。聖書には数多くの命令  (戒め) がある。それは、そうした環境や状況の中でも常に善を追うべきこと。また、喜びなさい、感謝しなさい、祈りなさい、などである。異邦宗教や聖霊のないキリスト者たちがこれを守るには不可能な要求だが、聖霊をもってすれば容易く簡単で、絶対可能な要求なのである。

    私の中に聖霊が来られれば、憎めと言っても憎むことができない。また、心配したくても心配がなくなり、代わりに希望と確信をもち、何事にも感謝し、喜び、座っても立っても自分でも知らずに私の口は祈っている。見える全てのものに対して愛情と祝福の祈りが絶えることなく、何事にも判断定罪することが本当に嫌になり全く関心もない。むしろ何事も許せるようになり、寛容をもって忍耐し、かえってその怨讐のために一晩中自分のことよりも大切に祈る。

    全ての万物が、地位の上下差別なく平等に見え、命に対する尊重と大切さが自ずとわかるようになる。私の頬を打った者の手を心配し、もしや私の頬を打って手は痛くはないかと言う思いで気がかりなだけで、けしからんと憤る思いは少しも起こらない。何でも助けてあげたくて、与えたくて、バスに乗っても電車に乗っても、見えるもの全て祝福してあげ祈る。障害者を見れば、彼らにいつも生きる希望を下さり、誰からも愛されるようにして下さり、イエスを信じる人でないようなら、必ず主を受け入れる心を下さいと祈る。

    お金や物を見れば、あれはあの人の家に送れば良いなあ。あの服はあの人に着せればほんとに良く似合う。この靴は、このあいだ執事の靴を見た時、もうだいぶ傷んでいたから、履かせたら良いなあ。お金が少し生じれば、誰か助けられないかと狂わんばかりで、誰々はどうやって手助けしようかと、その喜びに弾み一晩中ねむれなくなる。新聞記者を見れば心配し気がかりで一晩中祈らずにはいられない。

    たまたまテレビを見て悲しいことが出て来ると涙が先立って、牧師が泣いてると言われるみたいできまりが悪くて見られない。どんな些細なことでも人の意見を尊重し大切に思う。何であれ、どこにいようと常に神と共にいることを感じ、たった一瞬でも私一人だと言う思いがなく、何事にも心配がなく信仰と確信を持っている。

    常にどんな状況の中でも神の御心を即刻的に知ることができ、その通り大胆に行なう。またそれを行なうまでは他のどんなこともできない。私のこの歩みの全てが主の力であることがわかるゆえ、感謝し、寝ても覚めても主にどうやって栄光を捧げようかと考える。

    また、自分自身に対し常に足りなさを感じながらも満足し、私は小さく見え人は大きく見えながらも、到底語る事のできない愛の力でいっぱいに満たされ、人間の言語と文字では到底表現できない美しさがある。この全ての力が天から降りてくるのである。

    故に、マタイの福音書5章は、律法では行なうことの難しい要求をしているが、聖霊の中にあればただ自然に自動的に成し遂げられることである。自分が無意識のうちにマタイの福音書5章の山上の垂訓を口にし、本能的に祈り求めている自分自身を感じるであろう。キリスト者とは、すでに我々はこの世の肉身をもって、この世の常識と制度の中で生きているが、霊は、このように聖霊の支配によって天国生活を満喫して生きている。従って、こうした心をもって生きるゆえに、キリスト者を御国の民と言うのである。

    表面的な義務感としての許し、寛容、愛ではなく、聖霊の力によって内面から出てくるまことと真実をもって、自ずと、「あなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言う命令を履行することができるのは、ただ聖霊だけである。罪と死の奴隷から脱し解放され、本来の存在、即ち、最初のアダムへと回復することで (ローマ 8:2) 神との和解が成されるという、キリスト教信仰の窮極に至る事ができるのは、救いの実体者であり、イエス・キリストの霊であられる聖霊だけだ。こうした力を、聖徒を通して信仰のないこの世に現すのだ。聖徒はこのために召されたのである (エペソ 2:10)

    これまでの伝道は唇伝道だ。これは誰でも行ないがなくとも口で伝道さえすればよかったが、今21世紀からは、聖霊の力による行為伝道を神は求めておられる。行為伝道は聖霊の力を受けた者だけができる。教会や伝道者は少しでも間違えれば二重人格者や偽善者となりかねないゆえ、律法信仰をもっては絶対不可能であり、偽善者を量産するだけだ。

    現代キリスト者は誰も、二重性を行なわずにはいられない状況に常にさらされ、そうした現実的構造の中で生きている。その中で真実を行なうと言うのは不可能だ。それでも我々クリスチャンたちは、自分の良心と一致した真実だけに歩まなければならない人々だ。この世は自分たちが二重性を持っていながらも、信仰者たちには持たないことを要望する。そのため、信仰者に二重性が発見されれば即時、容赦のない辛らつな非難が浴びせられる。それでほとんどのクリスチャンたちは、この世の人々よりもっと偽善を備え、これを擬装し隠しているうちに、中は腐っているが表は美しく塗られた墓のように、腐敗し収拾がつかなくなっている。

    しかし、キリスト者と言うのは決して人間臭さが出てはならない。どんなにはたいて、くまなく捜しても、キリストの香りだけが出て来なければならない。これが、聖書が求めていることだ。もう全てを神様に差し出し捧げたから、もはや私が生きるのは、ただキリストのためだけである。キリストのためと言うのは、ただ聖霊の役事に従って動くと言うことだ。ところが信仰において人間臭さがあるというのは、自分のための何らかの目的があるからだ。

    率直なところ、誰もみな持続的にキリストの香りを出すには不足な者たちだ。それは、心が貪欲であるからだ。貪欲があることで心は純粋になれず、純粋でないため真実になれない。真実でないため、結局は主に会うことができない。従って聖書は、貪欲は偶像崇拝だと言うのである。偶像崇拝と神を兼ねて仕えることはできない。この時代、キリスト教は言うまでもなく、あらゆる宗教の指導者たちはあまりにも多くの貪欲を抱いている。口では神に仕えながら、行動では貪欲と言う偶像に仕えている。この貪欲の心を隠すために、それらしい名分を作り出して装い、下の者たちはその腹の内もわからずに名分の供えの羊となる。

    このように、ユダヤのラビ何人かの貪欲によって生じた我執と傲慢と頑なによって、ユダヤ民族全体を悲劇の民族に作り出した教訓を、もう繰り返してはならない。聖書と共にユダヤ史を研究すればするほど、報復の神、まことの神、愛の神、創造者の神であることを切実に感じることだろう。多数ではなく、一人二人によって国家の興亡盛衰が決定してしまった事実がわかる。聖職者たちの位置がそれほど重要だと言う事実を知るべきである。可視的に何万、何千、何百の信徒に仕える牧師と言うだけの認識ではならない。彼らが持っているその霊権で言うなら、それ以上の限りない影響力を発揮することができると言う事実を自覚するべきだろう。今我々キリスト教の牧会者たちだけでも、新しい覚悟と決断を持って使命に臨むべきだ。

● この時代の牧会者たちがとるべき姿勢

    イエス・キリストは、自称、神をちゃんと信じていると自負していたユダヤ人たちの実状を、なぜサタンの集団だと言われたのか?聖書には、主の名によって預言をし、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって奇蹟をたくさん行なったとしても、父の御心通りに行なわなければ不法をなす者であり、彼らは用いられたが不法を行なえば見捨てられると言う事実が、マタイの福音書7章に記されている。

    多くの牧会者たちが、主の名を呼び牧者としての使役をしているが、果たして常に生活の中で主の御心を確実に知って、信仰によって行なっているのか。油を注がれたサウロが神から見捨てられた真相が何の為だったのか、これは今日のキリスト者たちに何を教訓として説明しようとしておられるのか。これは全て、神の御心がわからず、自分の思いを先に行ない貫き通したところから始まった事だ。

    21世紀からキリスト教が神にきちんと仕える方法は、ただ神の御心を知り、その御心に従ってその通りに仕えるべく信仰とならなければならない。その為には、聖霊の導きに従う信仰へと転換しなければならない。それは使徒時代の使徒たちが歩んだように、心からイエス・キリストに従い仕える信仰へと帰る事のできるキリスト教信仰の方法であり、また、キリスト教信仰を完成することのできる唯一の方法である。

    聖霊のないキリスト教は、使徒時代以後二千年をさ迷い、巡りに巡って今日に至った。二千年間数多くの制度や信仰の方法、規範、教父たちによる信仰の見解、また、幾人かの宗教改革者たちによる信仰見解の提示、及び、現代に至っては哲学と神学の交合等、時代ごとに台頭した多くの思潮によって、選択されたり、捨てられたりと言う過程の繰り返しの中で成長してきた。それでも常に何かわからず渇きがあり、また、何かを求め続け、探し、さ迷っていた。

    今後また、どれほど、どこを、どのように、いつまでさすらい、さ迷うのか。もうここで終わりにしても十分だ。我々は二千年間そのように信仰し生きてきた。その結果二千年間の高い代価を支払って得たキリスト教の教訓を片手に握っている。その教訓だけでも我々は充分である。その教訓を通し、二度と後孫たちがこれ以上さ迷うことのないよう、聖書的なキリスト教信仰の、確実で完全な基盤を備えてあげなければならない。

    今、この時代の聖職者たちに神が願われることは、自分たちの行為を片付け、新しいしもべたちに、彼らが行く道を塞がずに開けてあげることだ。この行為こそが、この時代の真の殉教である。果たして幾人が、‘私は罪人でした。すべての原因は私の過ちであり、神を間違って証しました’ と、神と韓国キリスト教の前に伏し、処罰を覚悟する思いで宣布できるだろうか。こうして宣布できるしもべたちこそが、真の高貴な殉教者だと言えよう。バプテスマのヨハネが ‘主は栄え、私は衰える’ と主に告白し、自分の時が過ぎたことを知ったように、一粒の麦が地に落ちて死ぬ時、多くの新しい命の復活ができる道を開くのである。

    彼らが今まで積んだ権威と富、名誉…等は、今、神のために全て差し出すべきだ。そうする時、彼ら自身が今まで伝えて叫んできた、待望の神の国が開かれる礎石となるだろう。世代交替が成される今こそ、韓国キリスト教は言うまでもなく、子々孫々人類に、満ち満ちたキリストの信仰である霊的宗主国としての基盤が備えられる。イエス・キリストの中であらゆる宗教を統合すべき使命を、今韓国教会の牧会者たちが、神から注がれている。今や韓国の未来の運命は勿論、全人類の未来が今韓国牧会者たちの選択如何にかかっている。今伝えているこのメッセージは、この時代韓国教会の神のしもべたちに伝える、神のメッセージである。アーメン。速く成さしめ給え。

ハレルヤ! 世々限りなく主に栄光あれ  アーメン