新しい天と新しい地’の再解釈

聖書は、聖徒が死んだ後の死後の世界を扱ってはいない。イエス・キリストが語られた山上の垂訓が、人間たちの望む物質祝福の次元ではないのと同様、もう聖書を死後の世界と物質的祝福次元の、祈福信仰の次元で見てはならない。

神 (創造主) は霊としてのみおられる。その御言葉が肉身となられた方がイエス・キリストであり、初めであり、終わりであられる。この方は、人間の認識できる視覚、感覚という、論理、説得、理解等の概念で感じられるのではない。

天国、神の国、救い、いのち、永遠のいのち、生きた、死んだ、見る、見えない…と言う数多くの聖書上の言葉は、人間の文字的言葉の概念では解釈できない。霊の言語であるゆえ、象徴であり、その象徴の内容が霊的に解釈されなければならない。従って聖書はむやみに私的に解いてはならないと言ったのだ。しかし、こうした聖書の霊の概念を、神の警告を無視して直接直訳して解釈したことで、聖霊降臨をイエス・キリストの再臨へと解釈を誤ったのである。

創世記6章3節を見ると、神が人間に、神の霊(聖霊)として現れることがわかる。そして歴史の書、預言の書、詩歌の書…等、旧約全般にわたって「現れる」と言う預言は、神の霊によって降臨されることを預言していたのである。それは旧約で‘インマヌエル’として我々に現れることが記されている。これが旧約預言の核心である。その‘インマヌエル’は今も聖霊として我々に“あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります” (ヨハネ14:20)と、このように、神は我々と共におられることを記している。

聖霊が、神学で言うように、再臨イエスが来られるまでの一時的な使役なら、ヨハネの福音書14章16節の“その助け主がいつまでもあなたがたと共におられるためです”と言われた理由に注目して見るべきであろう。このように、助け主としていつまでも我々と共におられると言うのは、一時的なものではないという確実な根拠である。

また、聖霊に対する認識と感覚について、世は、その方を①受け入れることができず ②見もせず ③知りもしないと言った (ヨハネ14:17)。しかし聖霊を受けた者については、あなたがたはその方を知っていますと言われたように、聖霊を知ることができる。そしてその時はじめて、私の中で生きて働かれる方であることがわかるのである。故に、キリストの霊がなければキリスト者ではないと言明したのだ。このように‘インマヌエル’となった心霊の状態に対して、聖書は、天国、神の国、聖霊充満、新しい天と新しい地…等、様々な方法で象徴、比喩、表現し、説明している。

聖書が求める真の救いとは、完全な聖霊の助けによって、神のかたちを成すことを言う。今、神学は称義、救いのみを主張し‘イエスを信じて救われたから、死んで天国に行く’と、聖徒たちを放縦させるのでなく、次の段階の、キリスト教の窮極である神のかたちを、如何にして我々の中で聖霊を通して現象化するのかと言う、正しい真理をきちんと提示してあげるべきである。(参照-インマヌエル:神は私たちと共におられる(マタイ1:23)。今も聖霊として来られ、その方が私の中に、私がその方の中に、おられるのである。

● 既存神学の聖書解釈の原理

信仰は、すべての基準を聖書に基づいてするため、正しい霊的解釈でなければキリスト教信仰の窮極に到達できない。既成神学の聖書解釈の原理を知るには、まず宗教改革のルターとカルヴィンへと遡らなければならない。聖書解釈において、ルターの見解は、聖書はあらゆる人にわかるように書かれたものであるから、いろいろ複雑な意味を付け加えて理解してはならず、単純に解釈すべきだと主張した。

その理由は、その当時には聖書普及が一般化されておらず、また、複雑な聖書解釈を通し一般人たちを遮断して教権主義を掌握した旧教に対抗して、聖書解釈を単純にすることを強調し、神学的に訓練されていない人も読んでわかるように記録された。解釈上の明らかでない部分は‘聖書の中にその答えが全てあり、聖書自体が解釈者だ’と言う原則を持ち、カルヴァンもやはりその原則をそのまま受け入れていた。

ルターと同じくカルヴァンもまた、聖書解釈の三つの原則、①単純に文字的意味を受け入れること ②聖書自体が聖書の解釈だ ③キリストを発見することを期待しながら聖書を読まなければならないと主張し、付け加えて、聖書の霊感説信言聖書の同一性を強調している。それによって、今日まで彼の影響下での聖書解釈が中心となっている。実にもっともらしくすばらしく見えるが、このような完璧な矛盾と乖離はない。これらの教理はまるで、底引き網漁船で魚のもと(種)を絶やそうと言うのと同じだ。結局この戦略は、霊的な聖霊の種を絶やそうとする徹底したサタンの計略である。カルヴァンが聖書を強調した理由の一つが、旧教(カトリック)や小宗派たちとの対抗のためであった。小宗派たちは、聖書と別に聖霊の直接啓示を主張することで聖書の権威を破壊したと言うのだ。カルヴァンがキリスト教綱要で、聖書と聖霊の関係を明らかにすることで聖書だけを強調したのは、旧教(カトリック)と小宗派に対抗するための防御、攻撃用であった。

カルヴァンは、文字的解釈に反対した中の一人だ。フランスの人文主義者セバスティン・カステリヨは、ジェネバの学校の校長として招請された。カステリヨが別途に牧師職を願うや、カルヴァンは彼の牧師任命に立ち塞がった。それはカルヴァンとカステリヨの間に、聖書の聖句と教理をもって大きな意見の相違があったからだ。カステリヨは、聖書と教理を文字的に解釈すべきだと主張するのに対し、カルヴァンは、比喩的な意味として理解すべきだと主張したのだ。その後カステリヨはカルヴァンによってジェネバから追放されバーゼルに行った。バーゼルでカステリヨは、カルヴァンの非寛容性と聖書的見解を批判、猛攻撃する中の一人となった。まったく皮肉としか言いようがない。

カルヴァンは、比喩的に聖書を解釈すべきだと主張しながら、彼の教理の大部分が文字的解釈であったのは、彼が文字的、霊的(比喩的)に対する知識が皆無状態であったことがわかる。過去の歴史が証明するように、学問というのは、歳月が過ぎれば新しい学説が出てくるようになっている。神学もやはり約五百年前の、聖霊の役事が普遍化していなかった時代の解釈による神学定立だったのである。

教理主義者たちは、教理の形成は思弁的ではなく、聖霊による霊的解釈だと主張する。これは大変な偏見から始まった誤解だ。たとえば‘カレー’という食べ物がある。インドで食べた正統のカレーと日本で食べたカレーは味が全く違う。また韓国で食べたカレーも日本とは違う。それぞれの国によってその味が違うのは、自国の味覚に合わせたからだ。このように聖書解釈も神学者たちの知識、周辺状況と環境、恵みの程度、気質、理解、体験等、自身のみの信仰的見解から理解し解釈したものを、ただそれだけが正統だと主張するから、今日のような大きな誤謬を犯すようになったのだ。結局、聖霊の教えによらない、あらゆる人文主義に立脚した思弁的なものは、全て肉である。肉は死を生むと聖書は記している(ローマ8:6)

● 霊的解釈のための基本接近方法

キリスト教とは、霊と霊的なものを目的としている(ローマ8:6)。これまで一貫して主張してきたように、神学の極めて大きな失策は、聖書の全ての解釈を文字的解釈から始まり、律法主義に停滞し、多くの矛盾、乖離、枯渇と混乱等を加重していることだ。

聖書の内容は霊的に解釈しなくてはいけない。霊的とは、一つの象徴の中に数多くの意味を含んでいるが、現代では霊、霊的という意味ほど曖昧に乱発される単語はない。霊的という定義を下すなら、‘聖霊が導いたこと’と言えば、ある程度定立されることだろう。

聖書の霊的解釈というのは、文字的解釈のような、数学の公式と同じく一つに一つの意味を内包するのではなく、数多くの包括的な意味を適用させることができる。まさに‘鞄と風呂敷’の違いのようなものだ。鞄に入れることができるのは、大きさと形で限定されるが、風呂敷はその大きさや形に制限はない。従って、教派の教理の衝突等の原因も聖書解釈から始まったことだ。聖書は、このように各自の恵みに従って異なった解釈がされるのである。キリスト教とは、愛という大命題をもって信仰生活全般にかけて適用させ、聖霊を受けて維持し導かれる、どの宗教より包括的な宗教であることを自覚し、新しく出発しなくてはいけない。

神学では数多くの聖書解釈の方法がある。しかし、まず霊的の基本的な接近は、聖書に出てくる象徴性、または比喩の意味を解釈することだ。聖書を解釈する接近方法の姿勢として、旧約の預言書を無視してはならない。もし、イエス・キリストも旧約で預言者たちを通した預言がなく突然現れたなら、我々はこの方を信じることはできないし、信じてもならない。しかし数多くの預言者たちの預言を通し、既に旧約聖書全体にわたりメシヤ出現を宣布されていたゆえ、我々はその預言を根拠にキリストがメシアであると確信できるのだ。

このように旧約は、新約の確認書となる。それ故、我々が、新約に出てくる再臨と言う用語を許容できないのは、旧約では再臨するという内容は全く言及されておらず、ただ聖霊の降臨だけが言及されているからだ。今、聖書解釈において、神学者たちはここに (降臨) 注目しなくてはいけない。

“わたしのをあなたがたのうちに授け、”  (エゼキエル36:27)

“上からが私たちに注がれ、”  (イザヤ32:15)

“神である主のがわたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、”  (イザヤ61:1)

どんなに新約で、多くの要求や宣言、預言があったとしても、むやみに解釈してはならない。必ずや旧約聖書から確実に確認、立証されてはじめて、御言葉の解釈の完全性が認められるのである。それは童話に出てくる‘シンデレラのガラスの靴’のように、その足にぴったり合わなければ靴の持ち主ではないのと同じだ。旧約と言う靴に、新約と言う足がぴったり一致しなければならない。故に聖書は“主の書物を調べて読め。…それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない” (イザヤ34:16)と言明しているのである。新・旧約の連れ合いのない、一人だけの文字的解釈の危険性を警告していたのだ。

今まで神学はそれなりに、新約と旧約との対(連れ合い)を通し、一致したかのように思っているが、ただ旧約で預言が成就した幾つかの節を捜し出し、応用した程度をもって、まるで全て成したかのように解釈してはならない。それは氷山の一角にもならない。引照付き聖書の対(連れ合い)程度に軽く考えては、今日のキリスト教のような大きな誤謬を犯すことになる。

● 聖書全体が秘密の暗号と同じだ

聖書全体が秘密の暗号のようなものだ。それは比喩であって(マタイ13:34)、人間の知恵ではむやみに解読できないように擬装され隠されている。その理由は‘誰もが真理を悟るようにしたからではない’と言った。

“あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない”  (マタイ13:14-15)

聖書は、ただ聖霊の助けによってのみ明らかにされるようになっている。天国、いのち、救い、新しい天、新しい地…等も、比喩で語られたこうした暗号を、そのまま文字だけで直訳して解釈すれば、本来の意味が縮小したり、歪曲され、結局とんでもない誤謬が発生する。

常に言及してきたとおり、文字的解釈をもっては決して聖書が求める目的に到達できない。かえって全く異なった方向へ到達するようになる。文字的解釈によって行なう信仰を律法主義と言う。文字的解釈が、異端だと言われずに牧会をすることのできる、非常に安全な聖書解釈の方法だと、そのように教わってきた。そして決して教理からはみ出さないこと以上の安全地帯がどこにあろうか。その安全地帯を誰よりも保守し、そうした方法と過程を十分に経験してきた。

しかし問題は、文字的解釈、または教理に忠実であるほど信仰の生動感は渇いてしまい、キリスト教の本質的な全ての遂行(愛、光と塩)をすっかり忘れてしまうことだ。その結果は、現キリスト教の正体の本質が、聖書の要求と目的から色変わりしてしまったことを見るだけでわかる。結局、現キリスト教は、ユダヤ教にも及ばない内容のない形式的な宗教、ないしは常に停滞できずにふわふわさ迷う、厄介な問題児の宗教へと転落の道をたどっている。このようなキリスト教の没落は、文字的な聖書解釈の誤謬からその原因を探すべきである。

● 教理をもって霊へと到達できない理由

霊というのは、理性の如何なる論理をもっても決して説明することはできない。三位一体を見よ。また二千年前のイエス・キリストの復活、五つのパンと二匹の魚の出来事…等、数限りない異蹟や奇蹟が、聖霊の助けのない信仰で理解できるだろうか。こうした異蹟や奇蹟は、人間の理性で論証してみれば理解の助けになるかはわからないが、決して心霊に確実な信仰として植えることはできない。

“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し”(へブル4:12)と言われたように、その御言葉が心霊に折り重なり、二千年前のことが‘今私にも起こる’‘私にもできる’という信仰までの到達は、聖霊にしかできない。今日神学が様々な方向に細分化し神を証しするが、神学科目が新設され発展するほど相対的に生命力がない理由がまさしく、聖霊によって成されていないからだ。理性による教理は霊に達することはできず、理性に伝達されるだけだ。理解することのできる理解力を与え知識を持たせるだけである。

人間の構造は、霊、魂、肉、または霊と肉と言う構造で成り立っているが、その中の霊は、アダムの堕落と同時に死んだ。再び生きる方法は、神の霊である聖霊が、人間の中の死んだ霊に作用する時のみ可能である。(エゼキエル37章参照)それは即ち、聖霊が人間の中にある理性である魂と霊に、骨髄の分かれ目さえも刺し通し伝達されるとき(へブル4:12)、その時はじめて死からいのちへと再び生き返ることができるのである。(エペソ4:22-24,ローマ6:4)

霊的宗教は、心霊(霊)に伝達される時のみ新生する変化がある。理性は理性に伝達され知識を生み、知識は人を高慢にするだけで (Ⅰコリント8:1)、霊 (心霊) の到達には何の役割もできず、霊とは何の関係もない。神学を哲学だと言う理由がここにある。理性による教理の発達は、かえって複雑で混乱を加重するだけだ。それ故、神学者、牧会者たちが真に聖霊を受けることを望むなら、神学(教理)を捨てるべきである。

聖書では、人間の理性によって立てた全てのものは肉で、肉は無益(ヨハネ6:63)、あるいは死だと言明している。そして、ただ聖霊の役事と導きを受けることだけを認めている。それで使徒パウロも聖霊によらないものは全て何であれちりのように捨て、また取るなと言ったのである(ピリピ3:8)。律法で神に仕えるのではなく、水と聖霊によって生まれ変わり(ヨハネ3:5)、霊の新しいもので仕えるべきだと記されている(ローマ7:6)。教理で信仰が教育され体質化した人たちは、自分が知っている全ての事を否定しなければならないため、聖霊を受けるには、新しい決断と覚悟の中で、相当な祈りと叫び求めが必要である。

1  新、旧約の預言が一致するべきだ

言及したとおり、御言葉の完全性が認められるには、必ず、新、旧約が一致しなければならない。聖書に預言されている‘インマヌエル’を通して照明してみよう。

神の御言葉である聖書の主題は、キリストである。アダムの堕落後、神はイエス・キリストを通した人類救いの計画をされ、実現するための全てのことを、旧約の預言者を通して預言された。全ての預言の核心は、メシア出現についてである。旧約のメシアについての預言の中には‘神の霊’‘御霊’をもって救うと言う預言であふれている。

神学で扱う聖霊論は、再臨にあらゆる比重を置き、主の再臨まで聖徒を助ける一時的なものだと言い、聖霊の立場をあまりにも疎かに看過している。だがこれに比べ聖書は、旧約の預言の大部分が、御霊をもって聖徒の救いを実現させる同伴者であり、実体者として焦点が合わされ記されている。こうした誤謬の原因は、聖霊の使役に対する誤解から始まったことだ。ここでメシアの救いの実現が如何なる方法で具現されるのか、はっきりと指摘してみよう。まずイエス・キリストの使役は、一次、二次使役に分け、分類して解釈される。さて、神学はここに注目すべきだ。

  一次使役は、我々の罪のための贖いの羊として来られた使役である。我々の罪のために十字架で死なれ、御言葉を全て成就し、また我々に対し手本の使役(‘携挙1篇’参照)等を果たし、死なれる事で1次使役が終わった。これは旧約のイザヤ53章1-9までに詳しく、どのような生き方をされて死なれるのかと言う預言として記されている。

 ”私たちの聞いたことを、だれが信じたか。・・・彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。・・・・・・私たちはみな羊のようにさ迷い、おのおの自分勝手な道に向かって行った。しかし主は、私たちの全ての咎を彼に負わせた。・・・・・・” (イザヤ53:1‐9)

  二次使役は、霊としての使役である。ここからイエス・キリストは王の王として、聖霊としての永遠なる霊的使役を始められるのだ。これは堕落した人間を、再びアダム以前へと回復することで、神との和解をさせる使役である。その為にはまず、アダム以前の姿である神のかたちに回復されなければならない。その時絶対的に必要な条件が聖霊である。神のかたちへの回復は、人間の努力による力でも能力でも成すことはできない。ただ聖霊の力だけが可能なのだ。従って‘生かす生きた御霊’として降臨され、我々の心に注がれ、我々を助け導いておられるのである。

また、ローマ書8章11節では、‘死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるのです’と言われ、ヨハネの福音書全般にかけて、キリストは2次使役である霊の使役を語っておられる。また、コリント第一15章45節には、最後のアダムは‘生かす御霊’となり、と言い、イエス・キリストの霊、即ち、助け主聖霊がキリストの救いの実在者であることを言明している。旧約では、聖霊が救いの実在者であることについて、数多くの預言が記録されている。(エゼキエル36:26, ヨエル2:28  ,イザヤ61:1,  イザヤ32:15…等)

“あなたがたに新しい心を与え、新しいを授ける”  (エゼキエル36:26)

“その後わたしは、わたしのをすべての人に注ぐ”  (ヨエル2:28)

“神のである主のが、わたしの上にある”  (イザヤ61:1)

“上からが私たちに注がれ”  (イザヤ32:15)

● 旧約では上の節のように、神の霊でありキリストの霊であられる助け主聖霊が、救いの実在者として我々の中で共にされるという、インマヌエルを預言している。

● 新約ではヨハネの福音書で、イエス・キリストが、助け主聖霊によって聖徒の救いを実現する実在者であることを預言している。(ルカ24:49, ヨハネ14:10, ヨハネ15:26, ヨハネ20:22…等)

“わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。”  (ルカ24:49)

“父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、共におられるためです。”  (ヨハネ14:16)

“助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。”  (ヨハネ15:26)

聖霊を受けなさい。”  (ヨハネ20:22)

使徒たちは、主の降臨を既存教理が解釈するような、肉の再臨や携挙等、終末論的に解釈されたら、上記した旧約(預言者たち)と、新約(イエス・キリスト)の預言等とは全く一致しない。使徒たちの言う主の降臨は、再臨や携挙ではなく、聖霊降臨として解釈してはじめて、新、旧約全ての預言の一致と、同一性が完成、成就するのである。

二次使役の霊として来られると言うメシア預言によって、イエス・キリストは‘生きた霊’として来られた (Ⅰコリント15:45、ローマ8:9-11)。時代を越え、人類と永遠に共にされながら、人類の (ヨハネ14:26、マタイ28:20) 子々孫々を救うと言う契約の約束である。

このように旧約の預言は、神の霊(聖霊)を通した救いであり、新約のイエス・キリストの預言は、助け主聖霊を通した救いであり、使徒たちの預言も聖霊の降臨を預言したもので、新、旧約が一致するのは、肉としての再臨や携挙ではなく、聖霊降臨であることがわかる。こうなってはじめて旧約の創世記(1:2)から、黙示録最後の章と節に出てくる、いのちの水(黙22:17:いのちの水とは聖霊を意味する ヨハネ7:38)全て聖霊によって一致するのである。始めも聖霊、終わりも聖霊となる、アルファとオメガなのである(黙22:13)。即ちキリスト教とは、聖霊で始まり、聖霊によって終わる宗教である。

もし、使徒たちが預言した主の降臨を、肉的な携挙や再臨として解釈するなら、旧約の神の霊による救いと、新約の助け主聖霊によって救うと言う預言が対にならないばかりか、全く一致しない誤った聖書解釈となり、救済論を歪曲し、聖書を完全に破壊する行為となる。

 

2  携挙と再臨は聖霊降臨として解釈するべきだ

神学は再臨と言う単語を使っているが、聖書には再臨と言う単語はない。全て降臨として記されていることに注目すべきであろう。一般的に神学で使っている再臨と言う単語と、聖書で使われている降臨と言う用語は、かなりの解釈の相違がある。神学でそれほど重要な再臨論が、旧約では全く記録されていないと言うのは、その解釈は間違った解釈と言うことだ。言及したとおり、旧約にない、新約聖書一人だけの再臨論は、人間の理性によって私的になされたものである。今や神学者たちは使命感を持ってここに注目し、多くの研究が必要であろう。これまで神学は大変な偏見の中で再臨に対する解釈をしてきた。

聖書に記されている降臨とは、ギリシャ語)パル-シアで、王や高官が土地を訪問する時使う専門用語である。王の訪問、立会い、臨在、降臨、来られる、出現等の意味があり、英語のPresence(臨在)の意味を持っている。神学は、これを任意に再臨として使っているが、降臨に対しテルトゥリアヌスは、既にその当時、霊が礼拝の場所に臨在することを表現する時に使った。

従って、再臨とは神学の虚構用語であり、虚構性を事実化させる欺瞞用語だ。これまで文字的解釈がこれを扇ぎ立てていた。人々に刻印され、再臨という魔術にかかっていたのである。聖書は、主の降臨を待ちなさいと言ったのであって、主の再臨を待ちなさいと言う御言葉は聖書のどこにも記されていない。

”その時主は…降りて来られた” (創 11:5)

”主は雲の中にあって降りて来られ” (出エ 34:5、民 11:25)

”主は雲の柱の中にあって降りて来られ” (民 12:5)

”あなたが降りて来られると” (イザヤ 64:3)

”その日に、主イエスは来られて” (Ⅱテサロニケ 1:10)

”主の来られるのが近いからです” (ヤコブ5:8)

 ● 天国と神の国

キリスト者なら誰でも、死んでから入りたいと願っている所が、天国と神の国だ。だが聖書に記されている天国と神の国を文字的に解釈したとしても、全く違った概念で説明されている。これが死んでから入る天国の概念として説明されているのか、それとも心霊でインマヌエルとなって築かれる比喩的説明であるのか、今まず理解すべきであろう。

第一に、神の国は、我々の心霊に聖霊によって築かれるものであると提示している。

イエス・キリストは、神の国はあなたがたの中にあると語られた。

 “神の国は、あなたがたのただ中にあるのです”  (ルカ17:21)

神の国が臨んだ証拠については、“神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです” (マタイ12:28)と語っている。天国は、ギリシャ語)エフターションで、臨んだ、と解釈され、これは既に自身の中に神の国が現臨しているという事を語っているのである。

神学が今まで主張した天国が、聖徒が死んでから入る来生にある天国でないことを、明らかにはっきりと記している。使徒パウロもやはりローマ書で、神の国は、義と平和と聖霊による喜びだと、はっきりと言明している。(ローマ14:17)

第二に、イエス・キリストは天国について、マタイの福音書を通して10余種類の比喩で表現している。その天国は、比喩で我々の心霊(心)を表現されたものである。これは聖徒が死んで入る所だと考える天国とは、完全に異なる概念であることがわかる。

“天国は、良い種を自分の畑に蒔いておいた人のようなものである”(マタイ13:24)

“天国は、一粒のからし種のようなものである”  (マタイ13:31)

“天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると全体がふくらんでくる”  (マタイ13:33)

“天国は、畑に隠してある宝のようなものである”  (マタイ13:44)

“天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである”  (マタイ13:45)

“天国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める網のようなものである”  (マタイ13:47)

“天国は、王がしもべたちと決算をするようなものだ”  (マタイ18:23)

“天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労務者を雇うために、夜が明けると同時に出かけて行くようなものである”  (マタイ20:1)

“天国は、一人の王がその王子のために婚宴を催すようなものである”  (マタイ22:2)

“天国は、十人のおとめが、それぞれ明かりを手にして  花婿を迎えに出て行くのに似ている”  (マタイ25:1)

    第三に、再臨と携挙の後に起こる、死人が起きると言うのは霊的復活として解釈すべきだ。 このように、天国は、心の天国、神の国を語っており、この天国の比喩は全て、死んでから行く天国とは何の関係もないことをはっきりと証明している。

 “死人が神の子の声を聞く時が来ます。・・・聞く者は生きるのです”  (ヨハネ5:25)

上 の節は、文字的直訳をすれば、携挙と同時に、死人が主の声を聞いて肉をもって生き返る場面を描写している。しかしこれは肉の復活ではなく、堕落後死んだ霊が、聖霊を受けると同時に生きるという、霊的復活を意味しているのである。

“罪悪の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし”  (エペソ2:5)

“キリストとともに葬られ・・・キリストとともによみがえらされたのです”  (コロサイ2:12)

キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい” (コロサイ3:1)

    以上のように天国、神の国、復活・・・等は、文字的解釈による、聖徒が死んでから行く死後の世界の概念ではないことがはっきりとわかる。全て霊的概念であって、心霊の中に神の霊でありキリストの霊であられる助け主聖霊によって、完全に支配された聖霊充満の状態を、天国、神の国だと聖書は記している。 上の節で見るように‘死人が起きる’と言うのは、既成神学が主張する携挙と共に起きる、死人が再び生き返ることではなく、霊的復活をもって新生した心霊を語っているのだ。旧約で言及されている代表的なのが、エゼキエル37章に出てくる、干からびた骨が神の息(聖霊)で生き返る場面だ。これは携挙の後に起こる肉的復活ではなく、堕落後死んだ霊が、聖霊のバプテスマを受けて再び生き返ることを描写した預言である。

3  使徒たちが待望した降臨に対する再解釈

使徒たちが待望した‘主の降臨’は、全て‘新しい天と新しい地’に帰結する信仰の到着点であることがわかる。‘新しい天と新しい地’とは、文字的解釈を下せば、明らかに聖徒たちが死んでから行く天国だと言うだろう。だが聖書の解釈は、イエス様は全て比喩で語られ、全て比喩になっていると言うことを知るべきだ。だから聖書を私的に解いてはならないのだ。また、霊を追求する宗教だということを忘れてはならない。聖書の文字的解釈は、決して聖書の求めと目的に達することはできない。その象徴の中の意味が解釈されることを霊的解釈と言う。‘新しい天と新しい地’について、いくつかの側面から考察してみよう。

1)  新しい天と新しい地に対する聖書的考察

まず‘天’と‘地’の象徴性から調べなければならない。

   ‘天’という象徴は聖書では、神、義(詩97:6)、知恵、明哲等を内包している。代表的には‘義’を象徴するもので、旧約で‘義’は律法を守る者であるが、新約では‘信仰’、即ち神を信ずる信仰を象徴している。

“信じるなら、その信仰が義とみなされるのです”  (ローマ4:5)

“アブラハムには、その信仰が義とみなされた”  (ローマ4:9)

聖霊の作用の中には、信仰のない弱い心に信仰を与える作用もあり、その作用によって神だけを敬うようにするのである。‘新しい天’とは、新しい信仰によって、即ち聖霊の力によって生じた、神を信じる信仰で満たされた状態を言う。この世に向いていた心が、神に向かう新しい信仰と知恵、義を持つことを意味する。

    ‘地’の象徴は、我々が良く知る、カインとアベルの捧げ物を通して知ることができる。これまで、‘カインは地の作物から主への捧げ物をしたが、アベルの捧げ物だけ目を留められ、カインの捧げ物は目を留められなかった’(創4:3-5)と言う内容をもって数多くの多様な説教がされてきた。ここで、カインが捧げた地の作物はなぜ受けられなかったのだろう?と言う疑問が持たれる。ところがその答えは、地の作物を捧げたと言う意外には他の原因がない。‘地の作物’という象徴は、コロサイ3:5節にちゃんと表現されている。その’地’と言うのは、即ち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり、偶像礼拝等を意味し、カインはこのような心をもって捧げ物をしたという象徴である。今日でも聖徒たちがこうした地の産物である、不品行、汚れ・・・等をもって祈り、礼拝、奉仕等をするなら、神は決して受けられないだけでなく、かえって神の御怒りが臨むと言う意味である。今後聖書はこうして解釈すべきだ。

地上のからだの諸部分、即ち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。

このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです” (コロサイ3:5)

従って‘新しい天と新しい地’とは、聖霊によって、不品行、汚れ、むさぼり等、古い人を脱ぎ捨て、神に仕える心が心霊に新しくされ、新しい人に創られることを意味する。これは即ち、新しく変わった心霊を意味するのである(エペソ4:22-24)。こうした変化は、我々と神が一致したインマヌエル、即ち聖霊によって神が私たちと共におられる時のみ可能なのである。これが新しい天と新しい地の象徴である。

言及してきたように、新しい天と新しい地を、聖徒たちが、再臨 携挙によって入る天国として想像しているが、実は聖徒の心霊の中で助け主聖霊が、義と平和と喜びで充満に満たした状態を、象徴的に表現した形而上学的比喩なのである。(更なる敷衍説明ができないことを理解願い、いつか主が許されるままに、次に詳しく一つ一つ証しできることを個人としては願う。主の許しがあるようたくさんの祈りを願う。)

2)  新しい天と新しい地に対する新生の次元での考察

‘新しい天と新しい地’は、神学で言う、新生した心霊だと言える。使徒パウロは、このように新生した心霊について“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました” (Ⅱコリント5:17)と表現している。ここでキリストのうちと言うのは、ローマ6:23を見れば、賜物(聖霊)、永遠のいのちとして表現されている。この全てが聖霊を象徴していることは誰もがわかる。即ち聖霊のうちにあれば、心霊が全て新しいもの、新しい天新しい地に変わると言うことだ。

  “古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたの心の霊において新しくされ真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと”  (エペソ4:22-24)

このように新しい天と新しい地とは、聖霊によって新しく造られた新しい心霊を意味し、聖霊の新しいもの、つまり新しいいのちで (ローマ6:4,7:6) 神に仕えることを意味する。即ち、水と聖霊によって生まれ変わった (ヨハネ3:5)、新しいいのちとしての新生を意味するのである。

3)  新しい天と新しい地に対するインマヌエルの次元での考察

“見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する  先の事は思い出されず、心に上ることもない”  (イザヤ65:17)

“わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、主の御告げ。あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く”  (イザヤ66:22)

“主の日は、盗人のようにやって来ます。・・・正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます”  (Ⅱペテロ3:10-13)

“また私は、新しい天と新しい地とを見た”  (黙21:1)

    上の節で見ると新しい天と新しい地は、全ての聖徒たちが待望する再臨、携挙された聖徒たちの最終目的地であることがわかる。ところが新約聖書で‘新しい天と新しい地’について正確に描写され記されている箇所が、ヨハネの黙示録21章3節の‘見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住む’と説明され記されている。‘新しい天と新しい地’とは、‘神が私たちと共におられる所’という意味であり、聖書では‘神が私たちと共におられること’を‘インマヌエル’と言う(マタイ1:23)

一般的に空中再臨を主張する、テサロニケ第一4章15-18節までの御言葉の中でも、17節の後半に空中再臨の到着点と結果は、“このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります”と記されている。雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主と共にいると言うのは‘私たちとインマヌエル’になると言っているのだ。

 “主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。…このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります”   (Ⅰテサロニケ4:15-17)


    使徒たちが待望した新しい天と新しい地という所は、神が私たちと共におられる所である。神と私たちが共にすることをインマヌエルと言う。そのインマヌエルは今も聖霊として、あなたがたがわたしのうちに、わたしがあなたがたのうちに、私たちといつまでも共にすることを言うのである。

4 インマヌエルの必要性

キリスト教は聖霊から始まる宗教、つまりインマヌエルから始まる宗教である。インマヌエルは他の言葉で言うなら、聖徒の聖霊充満によって、あなたがたがわたしのうちに、わたしがあなたがたのうちで (ヨハネ14:20)、主と結び合わされた状態を言う。このように充満な心霊は、聖霊が引導者となって直接私たちの心霊に教え、思い起こさせ、知恵を与えて、罪から守り導いて下さるのである。聖霊は神の霊でありキリストの霊であるゆえ、神のかたちであると言える。(コロサイ1:15)

● 聖霊が私たちと共にすることで聖徒に及ぶ窮極は、堕落したアダム以前の神のかたちに再び回復させることだ。

聖書が求める真の救いとは、堕落前のアダムの状態へと帰ることである。昔のアダムが罪によって堕落し、失ってしまった神のかたちを再び回復することで、神と和解し、人間はもう一度追い出されたエデンの園 (霊的回復) に入ることができるのだ。神と和解するには必ずインマヌエルとならなければならない。

神のかたちへの回復とは、肉は死んで、聖霊によって新しく生まれ変わることを意味する。(ヨハネ3:6)  これを新生と言う。このように霊的に新しく生まれる霊的復活を言うのである。その方法の核心は、キリストの霊である聖霊を通して得ることができ、イエス・キリストの模範 (Ⅰペテロ2:21、Ⅰコリント2:1) を通じてのみ、その道を探し上がって行けるのだ。(‘キリスト教の没落と聖書解釈の誤謬’‘携挙1篇’参照)  キリストがどのように聖霊の導きを受けインマヌエルとなられたのか、つまり聖霊の導きを受ける方法を多角的に私たちに自ら模範を見せて下さることで、全ての人類に救われる方法を教えて下さった。それがキリスト教の核心となる聖霊の導きである。

聖霊の導きとは、アダムから堕落したそういう人間である聖徒が、神のかたちなる神の性品へと突入できる唯一無二なる道だ。これは、人間の力でも能力でも救われること(神のかたちへの回復)はなく、ただ神の御力を受けてはじめて(Ⅱペテロ1:3)霊の境地に到達できるのである。つまり聖霊の導きとは、徹底して自分を殺し服従して、神の全知全能をそのまま聖霊によって指示、教え、思い起こし、力、恩賜・・・等で導く、その導きに従うことを言うのである。

イエス様がどのように聖霊の導きを受けたのかは、四福音書にその行跡が正確に記されている。またすぐ引き続いて、使徒たちがどのように聖霊の導きに従ったのか、その見本が「使徒の働き」に記されている。今日、現代教会の聖徒たちは、聖霊の導きに従って歩まれたイエス・キリストと使徒たちの模範を、その通りに従い仕えなくてはいけない。そうすることで、善悪の実の事件後、堕落したアダムが、再び堕落前の状態に回復され、神のかたちを着る事のできる唯一無二の方法を、自ら教えて下さっているのだ。それで使徒パウロも、ただ聖霊に満たされなさいと強調した理由が、まさしく、神は私たちと共におられると言う意味の、インマヌエルとなる時に可能であるからだ。

インマヌエルは、私たちと共におられる神、即ち、聖霊である。旧約の神の約束の窮極であり、新約ではその方を助け主聖霊として語られた新・旧約の窮極である。インマヌエルを実現させるためイエス・キリストは肉の体で来られ、贖罪の羊として十字架で死なれ、その功績により神はイエスを神の右に上げられ、イエスは約束の聖霊を御父から受け (使2:32)、インマヌエルの実体である聖霊として来られたのである。今や聖霊は、マルコの屋上の間から始まり、私たちの救いの実在者として子々孫々永遠に引き継がれていく方である。聖徒の聖霊充満は、新・旧約の完成を語る。インマヌエルとなった心霊を、聖書は、聖霊充満、新しい天と新しい地、新しいエルサレム、神の国・・・等として表現している。

以上のように、神学で語る再臨と携挙は、文字的解釈による聖書解釈の誤謬であった。聖書で語る真の意味は、聖霊降臨、即ち、神が私たちと共におられるインマヌエルである。キリスト教はもう、イエス・キリストの肉をもっての再臨と携挙を待つのではなく、聖霊と一つとなって、聖霊の導きを受け、従い、従順することで、神のかたちへと新しく誕生、復活しなくてはいけない。これが真の、救い、いのち、永遠のいのちである。

ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン