終末とは?

    キリスト教の終末思想は聖書を通して強調された。こうした思想が根深く幅広い支配をしている。これによってキリスト教の中では、異端思想、祈福(ご利益信仰)、または神秘思想の思潮を作り出し、これらが真なる聖書的信仰の求めを完全に歪曲させる原因の一つとなった。

    終末論の特性は、政治、社会等、国家的な混乱や不安の中で更に幅を利かせ、日帝時代に全教団的に起こった終末思想を通し韓国教会は急成長し、教会内で終末的信仰観を信仰の最高目的と認識するよう強調されてきた。教会が語る終末の対備策というのはせいぜいのところ、その日その時は神のみがご存知だから、早飲み込みせず、御言葉に耳を傾け、常に目を覚ましていなさいと言う程度しか正しい信仰観を提示できず、それ以上は説明できずにいる。こうした、ぬるま湯的な方法は、いつの時も、厳しい環境が訪れたり、また世紀末では必然的に終末思想が押しを利かせ、異端がはびこる素地を残した。

1. 聖書的な真の終末とは

聖書解釈の誤解

    聖書的に終末とは、我々がキリスト教的通念で考えるような終末ではない。

    金持ちの青年がイエス様のもとに来て、どうしたら永遠の命を得られるかと尋ねた時、イエス様は、永遠のいのちについてではなく、いのちについて語られたのである  (マタイ 19:16-22)。このように我々は聖書を誤解した。

“そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです”   (マタイ 22:29)

    天国についての御言葉も、我々の常識と想像で考える天国ではなく、心の天国を比喩で表現されたのだ。

“神の国はあなたがたのただ中にあるのです”  (ルカ 17:21)

“神の国は…義と平和と聖霊による喜びだからです”(ローマ 14:17)

    イエス様が、マタイの福音書で表現された天国についての10種類以上の比喩で、我々が想像する天国とは全く異なるという事がわかる。天の御国(天国)は、ここにある、あそこにあるというのではなく、あなたがたの心にあると言われ、聖霊のうちで義と平和と喜び、つまり聖霊に満たされることだと断定しているのに、我々はなぜ無理やり想像の天国を作り出すのだろうか?

 イエス様の再臨は、聖霊の降臨を語る比喩で、聖霊が聖徒の肉身に臨む時の現象を比喩で表現されたのである。

比喩の目的

イエス様は公生涯の間、すべての御言葉を比喩で語られた。マルコ 4:34)

“なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。イエスは答えて言われた。あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしないからです”マタイ 13:10-17, マルコ 4:11-12)

    この御言葉は、比喩の目的を語られる場面である。創世記でいのちの木を炎の剣で塞がれたのと同じだ。神の奥義を聖霊によってのみ知るためである。聖霊ではなく人間の知恵では神を知る奥義を許可されなかった。人間の知恵に依存して作った普遍妥当性をもつ福音の方法ではなく、ただ聖霊の教えの役事 (働き) があってはじめて聖書の事実を歪曲せず正確に明かせるのである。

“真理の御霊来ると、あなた方をすべての真理に導き入れます”(ヨハネ 16:13

    聖書を私的に解いてはならないと警告されたのは、御言葉の役事を通し後世の人々に教訓しようとする神のみぞ知る比喩と象徴である故、重要なだけにするなと言われたのだが、傲慢で無礼な者たちが聖書をむやみに解釈したことで、今日のキリスト教は失敗を自ら招いてしまった。昔、使徒たちが知恵と知識不足で聖書解釈や教理、組織神学等の体系を確立しておかなかったのではなく、自分の分をわきまえていたため、むやみに神の領域を侵さなかったのだ。その理由は、聖霊が下れば誰であれ我々を真理の中に導き、直接統べ治められ、すべて教えて下さるからだ。キリスト教が他宗教と異なる点がまさにこの聖霊にある。

2. 終末の真の意味

    聖書では ‘終末、末世、収穫の時、患難の時、御怒りの日、裁きの日、終わりの日、’ 等の聖句がある。これらを総称し終末論、末世論者たちの根拠としている。現在流行する終末論者の想像を可能にした代表的な聖句は、‘マタイの福音書24章3‐44節’ の御言葉があげられる。イエス様は時あるごとに比喩で語られ、比喩でなければ何も話されなかった  (マタイ 13:34)。このように全ての御言葉は比喩であり霊的象徴を内包している。

    たとえば、“この人は、「わたしは神殿をこわして、それを3日のうちに建て直せる」と言いました。”(マタイ 26:61)この御言葉は、イエス様が神殿となった御自身の体を指して語られたのだが  (ヨハネ 2:21)、パリサイ人たちは‘神殿’の比喩を悟れず、むしろそれをのろいとし、イエス様を罵りあざけり、殺す根拠にまで悪用した。ある人たちは、‘聖書は霊的に解くべきものがあり、文字そのまま見るべきものがある’ と言うが、比喩でなければ語らなかったと言うイエス様の御言葉と、この人たちが主張する言葉とでは誰の言葉が正しいのか?このように‘マタイの福音書24章3-44節’の御言葉の中にも、神が語ろうとされる意図が隠されている。それを詳しく見ると次の通りである。

‘この時代は過ぎ去らない’ の意味は何であるか

●  “このことが全部起こってしまうまではこの時代は過ぎ去りません。” (マタイ 23:34)

    その時代に生きた人たちはすでにみんな死んでしまっていないのに…どの歴史にもその時代に終末と再臨があったと言う事実はない。これは、聖霊として臨むと言うことであり、肉身の再臨と考えたらこの御言葉は全く合致しない。

“人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです”(マタイ 24:27)

    聖霊を受けた聖徒なら誰もが経験するように、聖霊がいなずまのように瞬く間に聖徒の心を捕えて入ってくる様子を表現したものであり、これは聖徒たちに聖霊がどのように臨むかを教える聖句である。

“「そら、荒野にいらっしゃる」と言っても、飛び出して行ってはいけません。「そら、へやにいらっしゃる」と聞いても、信じてはいけません” (マタイ 24:26)

    これは、多くの異端たちが想像するような、ある一定の時間と場所で特定な人たちに肉体の姿で再臨するメシアではなく、無所不在、天地に満ちておられる助け主、聖霊が、誰でも主の名を呼ぶ者たちに聖霊として現われるゆえ、そんな言葉に惑わされるなと言う意味である。

“終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ”   (使徒 2:17)

    これは呼び求めるすべての聖徒に聖霊を注ぐという永遠なる約束である。

“その時、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます”  (マタイ 24:40-41)

その時、畑にふたりいると’

    イエス様の天国の比喩の中で、種まきのたとえ(マタイ 13:18-23)を見ると、畑は聖徒の心霊である心を意味する。我々が肉の思い等を真の心で悔い改めて、心霊の畑をきれいに耕していけば、聖霊が強く働き、義と平和と喜びを通し、心の天国である神の国が築かれることを表現した場面である(ローマ 14:17)。

‘ひとりは取られ’

    これを根拠に終末論者たちは、人が突然天に上がっていくと考え、携挙と言う新種語を作り出したが、これは体が天に上がって行く携挙ではなく、聖霊が下ればいなずまのように私たちの心を捕え、聖霊の心 (愛) に瞬く間に変わり、我々の心が新しい天と新しい地へと替えられ、すべて私のせいだ!という悔い改めとともに、喜びと感謝に満たされ、罪について、義について、さばきについて、神の思いへと変わる心の状態を語っているのである(ヨハネ 16:8)。

‘ひとりは残されます’

    またひとりは、どんなに祈っても肉の思いである不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興 (ガラテヤ 5:19-21)が心に染み付いていて、その心に真の天国が築かれず苦しむ心霊を表現した御言葉だ。我々は信仰生活の中で、奉仕する時や祈る時など、多くの人が同じ場所で同じ事をしたとしても、聖徒の心霊に聖霊が共にある時とない時の心を比喩として語られた御言葉である。

‘ラッパの音とともに’

“…みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、一瞬のうちにです”   (Ⅰ コリント  15:51-52)

    旧約ではラッパは、律例や規例を知らせる時や  (詩 81:3-4)、祭司がイスラエルの子孫たちに、過ちを指摘し警告する時ラッパを吹いた  (イザヤ 58:1)。これはイスラエルの民の罪と咎を警告し知らせる意味であり、預言者イザヤの声をラッパに象徴したものだ。

“角笛のように声を上げよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ”  (イザヤ 58:1)

    この全部を総合してみると、‘ラッパ’ とはイスラエルの民が律例や規例を犯したとき、預言者が彼らの過ちを警告し咎める声、つまり ‘預言者の声’ を意味する。今日では聖霊の声で、聖霊が聖徒の心に働き、罪について、義について、さばきについて叱責するその御言葉が、心霊と骨髄を刺し通すことで痛悔に張り裂け、私のせいです、私は罪人ですという告白とともに、肉の心(ガラテヤ 5:19)から聖霊 (愛) の心へと忽然と変えられる姿を表現したものだ。

いちじくの木のたとえを学べ

“枝が柔らかになって、葉が出てくると 夏の近いことがわかります”  (マタイ 24:32)

    この御言葉は、イスラエルの歴史と今後起こる預言を比喩として語られたものだ。イスラエルはキリストを十字架につけて殺した罪により流浪の民となり、ばらばらに散らされ全世界を転々としたが、それをもっても終わらず、世紀末にヒットラーによる600万の虐殺をもってその血の代価が終結し、二千年ぶりに国を取り戻すことができた。

    このように ‘いちじくの木のたとえ’ を通して報いの法則がわかる。これは罪人が、罪の価として監獄で刑期を終えて出て来れば、その罪科がなくなりようやく自由になるのと同じだ。このようにイスラエルもイエス様を殺した血の代価を全部支払ってようやく新しくなり、今のイスラエルと言う国を取り戻したのである。

● “これらのことが全部起こってしまうまではこの時代は過ぎ去りません”   (マタイ 24:34)

    この御言葉の意味は、この時代、つまり自分の時代に自分の罪科は全て報いが成されると言う意味だ。自分が犯した罪は自分が全て受ける。それにより神の生きておられることを知りなさいと言うことだ。全ての万物は、蒔いた通りに刈り取る真理により、報いがあることを語っている。

    真理を離れたこの世は、こうした終末を迎え続けながら生きて行く。いちじくの木のたとえのように、この世は罪に対する報いの悪循環で、人類歴史は創造主の御言葉に照らし、犯した過ちに対する報いの歴史が続いている。

    人類はこうした数知れない悪循環の中で、少しずつだが創造主  (神) を知るようになり、いつかは絶対者が創造主であることと、絶対者の御言葉   (ロゴス)  によって、世の謎の生、死、災、福が運行されている事実を悟るようになるだろう。

    聖書は人間が永遠に生きる方法の、永遠のいのちを提示しているから真理と言うのだ。

    真理の中にいる時、つまり真理を信じ守って歩む時、永遠のいのちに到達できる。真理を守る方法として、この時代では聖霊の導きを受けていく生活を言う。これは御言葉に歩むことと同じである。神の審判は真理を基準に役事されるだけに、信じる者にとっては、より多くの真理を知っているため有利であり、この世の信じない者たちは真理をわからない分、不利とならざるを得ない。

    この地に存在する全ての人類が真理を悟るようになるまで、まず選ばれたキリスト教が、忠誠と熱心をもってこの使役を果たさなければならない。イエス様の再臨は、五旬節マルコの屋上の間から始まり、切に呼び求め悔い改める心霊に聖霊が降臨されることである。そして聖徒を救いに至らせるため、聖徒たちの罪と係わりなく、今も呼び求める者に現われて下さることを信じるべきである。

“二度目は罪を負うためではなく、神を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです”(へブル 9:28

    もし、終末 (末世) 論者たちの主張どおりの終末が来るなら、携挙と審判のみがあるはずだが、なぜ聖霊を水のように注いで下さると言ったのか?

“終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ…”(使徒 2:17)

    これらの用語はすべて比喩、象徴であり霊的意味が含まれている。だがこれを無視し文字のまま直訳して、各自が自分の欲のまま都合のいいように信仰に適用させる間違いを犯した。

終末とは、ある事の結果として報いを受ける時を言うのである。

“神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って 報いをお与えになります” (ローマ 2:6-9)

“各自その肉体にあってした行為に応じて 報いを受けることになります” (Ⅱコリント 5:10)

    たとえば、Aという人がBという人の物を盗んだとしよう。盗んだことが発覚し恥にさらされ賠償をせねばならない。この時、Aという人は恥とともに賠償のための苦痛が伴う。つまり物を盗んだ結果、賠償と恥にさらされる時を ‘終末’ と言う。

    一般的に考える終末と審判は、地球の滅亡とともに、最後の審判によって人類の歴史が終止符を打つと大概は思っているが、神 (創造主) が語られる ‘終末’ とは、どんなことであれ、そのことの最後の時、つまりその時々に、良いことをすれば喜びと祝福に、悪いことをすれば苦痛とのろいの代価を支払うことで、自分が蒔いた通りに刈り取ると言う報いに従って結果を迎えることを、終末と言うのである。

3. 終末の分類 

  個人的終末

    個人的報いが成される時を言う。

“神は、ひとりひとりにその人の行ないに従って 報いをお与えになります”(ローマ 2:6-9)

    たとえば、誰かが犯罪を犯したとする。その犯人は犯罪に対する代価として、裁判官によって裁判を受けて刑が確定し、罪の分だけ監獄生活をしなければならない。このように、個人的な罪に対する報いとして、それに準ずる代価を受ける日、つまりその報いを受ける日である。

  国家的終末

    戦争や災難を通し、国家全体が審判を受ける時を言う。

    たとえばイスラエルは、数多くの罪悪と偶像崇拝によってバビロンに捕囚されて行った。新約ではイエス様を十字架につけて殺した後、その血の代価として二千年間世界各国で流浪生活をし、600万虐殺という苦痛の中で罪の代価を全て支払ってようやく奇跡的に国を再び取り戻した。イスラエルは、国家的な終末による罪の代価を支払ったのだ。

●  世界的終末

    古代から世界全体が、戦争や災難により審判を受けた。

    たとえば、第一次世界大戦や第二次世界大戦があげられる。こうした事はすべて偶然ではなく、罪を犯したことに対する必然的な報いなのだ。

    キリスト教は通念的に、終末が来れば地球の滅亡が来ると考えるが、罪に対するその代価を支払い終えれば、再び新しく回復されていくのである。我々がよく言葉にする ‘再臨、終末、末世、収穫の時、患難の時、御怒りの日、さばき、終わりの日、’ 等は各々固有の象徴的な意味がある。ところがこれを我々は終末という固定観念で間違った解釈をして聖書を誤解し、結局多くの霊的混乱を引き起こした。今キリスト教は新しい21世紀を迎え、間違って証された終末論をきれいに整理し、我々の信仰を引き継いでいく後世のために、正しい信仰感を再定立すべき使命がある。

    聖書解釈の誤謬によって人類の歴史が変わった。聖霊の視覚で正しい解釈さえしていたら、今日のヨーロッパやアメリカが滅亡の死線を越えることはなかったであろう。キリスト教の腐敗と滅亡をこれ以上黙過してはならない。もう二度とこの地で末世と終末論に対する好奇心と誘惑に陥ることのないよう、間違った理論に終止符を打とうとされる神の命令に従って、この御言葉を伝えるものである。

    ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ アーメン