真の真理を求める方たちへ

前編にて、救い、いのち、永遠のいのちについての概念を論証したように、救いは来世的救いではなく聖霊を受けることであり、それが救い、いのち、永遠のいのちであることが理解できた。現在のキリスト教はまるで、マラソン選手が、ゴールがどこにあるのかわからないまま、ただ漠然と走っているようなものだ。死力を尽くして走りたくても、ゴール地点(窮極点)がはっきりせずに、あっちこっちさ迷っているような姿だ。

今のように‘イエス天国’という掛け声のもと、死んでから天国に行くため信じると言う無知からだけは脱するべきだ。ある人は、召されるままに使命を行なうことが信仰の目的だとも言う。勿論間違った言葉ではない。だが使命を行なうためには何よりもまず、信仰の窮極点に達しなければ使命は完遂できない。これは信仰者であるなら誰にでも例外なく共通に適用されることである。

[1] キリスト教信仰の窮極点はどこまでなのか

使徒パウロは、‘キリストの満ち満ちた身たけにまで達する’(エペソ4:13)ことだとはっきりと言っているが、我々の信仰の現実は全くそうではない。一般的なキリスト者であるなら、イエス・キリストが肉の体を着て空中再臨される時、我々信じる聖徒はみな空中に引き上げられ、永遠に主と共に生きることに信仰の窮極的目的を置いている。それが我々キリスト教の信仰の現実だ。だが問題は、聖徒たちが考える窮極点と神が示す真の信仰の窮極点とが、あまりにも異なると言うことだ。

1次、2次契約の目的

人類の贖いのわざの為に、神はイスラエルを選んで象徴とされ、1次契約、即ち律法を彼らに与え、それを守ることを命令されたが、彼らの不従順と形式主義によって初めの契約は壊れ、再び旧約の預言を通し、2次契約を立てて下さる事を約束された(へブル10:9)。その約束である2次契約の窮極点がまさに、イエス様の‘契約の血’である。聖徒たちはその血を飲むことによって神との契約を守ることとなり、新約の窮極点に達するのである。その肉と血を飲む者だけが‘わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまる’と言われたのである (ヨハネ6:56)。

血の象徴は何を意味するのか?

血はいのちであり、また、いのちは聖霊だ(ローマ8:2)

このように血=いのち=聖霊という関係が成立する。

従って血は、聖霊を意味する(へブル10:29, へブル9:14)

故に、イエスの血 (聖霊) とキリスト教は絶対的不可分の関係であり、信仰の核心なのである。聖霊がなく行なう信仰の行為は‘羊の仮面をかぶった反キリスト’であり、神とは何の関係もない‘異邦宗教’に過ぎない。

“キリストの霊を持たない人は、キリストのものではありません”(ローマ8:9

このようにキリスト教信仰は、神が立てられた契約のその窮極点に達してはじめて、聖霊が我々を全人的に(霊、魂、肉-Whole Men)、つまりアダム本来の姿のように完全となるよう主管し導いて下さり、教えて下さるのだ。こうした聖霊の満たしは、つまり聖霊の完全な支配下に入るということだ。

1) 聖霊がキリスト教信仰の最終窮極点となる当為性

聖書の新・旧約で指向する窮極的合意点は、まさに聖霊に到達している。

旧約で、預言者たちの預言を通して約束した契約が、新約で、イエス様の最後の遺言が終着点であり、到着点である。その到着点である聖霊が、即ち、キリスト教信仰の窮極点となるのだ。それで使徒パウロは、他の事は全て廃し、ただ聖霊に満たされなさいと言ったのである (エペソ5:18)。その主人公がまさに、イエス・キリストであられる (ヨハネ5:39)

聖霊と信仰の段階

窮極点は、1次と2次の段階に分けて考えられる。
* 1次窮極点(肉から新生するまでの段階)

① 聖霊を受けて
② 信仰に絶対的に活用をし
③ 如何なる状況や環境であれ、生活の中で動揺せずに聖霊充満を維持する段階だ。

これは登攀するときのベースキャンプのように、頂上に上がるための前進基地で、2次登攀に備えるための準備の場所だ。

* 2次窮極点(新生した後聖霊と共に生きる)

聖霊に満たされて、部分的に聖霊の導きを受けるだけではなく、完全な導きの中で聖霊 (キリスト)と共に生きることを言う。この段階は生、死がなく、ステパノ、パウロ、ピリポ、エノク等のような聖霊の人を言う。こうした窮極点に達するために使徒パウロは“キリストの満ち満ちた身たけにまで達する”と言われた。ここで言う‘満ち満ちた身たけ’とは、‘愛が完成した人’(Ⅰコリント 13:11)を言う。

しかし、コリント人への手紙第一13章に見る‘愛’は、決して人間の徳と努力では到達できるものではない。ただ聖霊によってのみ完成できる。その理由は、愛が聖霊の本質であるからだ。また聖書に‘・・・上がって行かれるのを見た時と同じ有様で来る’(使1:11)の意味は、文字通りの肉の再臨を言われたのではなく、愛が完成されれば (聖霊充満) “顔と顔を合わせて見ることになる”(Ⅰコリント13:12)と表現されたように、それは肉の目で見るのではなく霊感により心で感じるものである。誰でも聖霊に満たされれば聖霊の教えの中で神の御心を悟り、知ることができると言う意味である。

2) 聖霊が信仰の窮極点となる証拠

聖霊がなぜ信仰の窮極点に達したと言うことなのか、その証拠は何によってわかるのか考察しよう。それは聖書の‘その日’という御言葉を通してその証拠となる根拠をはっきり知ることができる。

神の契約と聖霊の役割

旧約の預言者を通して預言されたとおり、契約を守り行なわなければ罪となる。

それで神は、罪によって堕落した人間を再び回復させるための贖いのわざの一環として、イスラエルの民と契約を結んだが、イスラエルの民の不従順によって契約が守れずや再び2次契約を計画された。

だがこの契約を守るには、人間があまりにも弱いことを知っておられる神は、キリストを送り、我々の弱さを十分に助けて下さることで、豊かにアダム以前のような新しい心に回復できるようにするという計画である。だがその助けを得るには‘イエスの血’即ち‘聖霊’なくしては絶対にだめである。これは罪悪によって死ぬしかない民たちにとって望み希望となり、万有を回復させる再契約を結ぶ意味として‘その日(Those Days)’と言われたのである。

“あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き

あなたがたに肉の心(軟らかい心[韓国語訳])を与える”   (エゼキエル36:26,11:19)

この御言葉のように、新しい心に回復させると言う意味だ。その心に回復しようと、呼び求め、探し、たたく信仰を持つ者たちは、救い、つまり全ての問題から解決されるが、高慢な者と怠ける者、求めない者たちはその恵沢を見られないと言う意味だ。

‘その日’ は何を意味するのか

マタイの福音書24章を見ると‘その日’は御怒りと苦難の日として表現されているが、それは何を意味するのか霊的に再照明してみよう。

その日、悲惨なのは身重の女と・・・”  (マタイ24:19)

“それらの日の苦難に続いてすぐに・・・”  (マタイ24:29)

“ただし、その日、その時がいつであるかは誰も知りません”  (マタイ24:36)

この御言葉は、聖霊が‘王権’ (カリスマ=聖霊の強い役事を持って来られ、聖徒たちの心霊の中にある罪を完全に焼き尽くし (へブル12:29)、屈服させ、再び善なる良心に回復させると言う意味である。聖徒のうちには霊と肉があるが、肉、つまり罪に対する御怒りの日を意味する.即ち我々の心の中で、霊は新しくされ喜びがある一方、私の中の罪は苦難と苦しみを受けるさばき (Ⅰペテロ 4:6) の‘その日’を意味するのである。

“私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか”  (ローマ7:24)

使徒パウロの告白のように、このさばきは我々が理解しているような艱難の審判ではなく、愛の審判を意味する。聖徒の心霊に聖霊が臨むと、聖霊の‘王権’の力によって、罪に対しては哀痛、悔い改めの苦痛があるが、また一方では神の恵みに対する喜びと感謝の思いが二分化されて同時に起こる状況を言うのである。また‘その日’は我々の誤った行為に対する報いを受ける日だとも言える。このように霊的に解かなければならないマタイの福音書24章の‘その日’を文字のまま誤った解釈をし、多くの誤解を引き起こしたのだ。

 “それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである・・・わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける・・・” (へブル8:10)

‘それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである’という意味は、聖霊を受ければ聖霊が直接思い起こさせ、教え、義について、罪について、さばきについて、私たちを真理へと導くと言うことだ。これは、聖霊のほかにはどこの誰も指導者や先生にはなれないと言う意味である (マタイ23:8-10)。

“それらの日の後、わたしが彼らと結ぼうとしている契約はこれであると主は言われる・・・”  (へブル10:16)

“それらの日の後に、わたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである・・・”  (エレミヤ31:33 口語訳)

上の節の‘その日’を全て総合してみると、イエス様の遺言と、使徒パウロの書簡を通した懇切な願いと、旧約の全ての預言が、神が約束された最後の契約である、聖霊によって私たちを助けると言う意味で‘その日の後’と言う希望的なもので集約帰結している。

3) 信仰の窮極点に達する方法

ただ聖霊によってのみ、聖徒は信仰の窮極点に到達できると聖書は次のように記している。

誰を通して:聖霊を通し (ヨハネ14:16-17)

い   つ:その日とその時はわからない (マタイ24:36)

どんな時に:心の用意ができた時   (マタイ25:10,24:44)

誰   に:呼び求め, 哀痛し, 探し, 求める者に   (マタイ7:7,ヨハネ16:24)

どのように:私たちの心に聖霊の平安, 喜び, 愛, 慰め, 信仰, われみで  (ローマ14:17)

な   ぜ:罪から私たちを救って下さるため   (マタイ1:21)

このように聖霊は我々の中に来られて天の御国を築かれる。これは神が聖徒たちに約束された新しい契約である。そして愛の戒めを守る時に信仰の窮極点に到達できるのである。このような聖霊が、どのような形をもって来られるかについては、聖書に詳しく記されている。

“わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり・・・”   (エゼキエル37:26-27)

“わたしたちはその人の所に来て、その人とともに住みます”   (ヨハネ14:23)

“父はもうひとりの助け主をあなた方にお与えになります。

その助け主がいつまでもあなた方とともにおられるためです”   (ヨハネ14:16)

このように、神が契約された約束の成就は、聖霊の姿として来られることだ。しかし聖霊ではなく人間の理性と知識だけによって聖書に近づいたため、今日のような間違った救済観が出て来たのだ。新約では聖霊を‘天の御国’や‘天国’として、旧約よりもっと具体的で形而上学的な比喩で表現されている。幾度も述べたとおり、マタイの福音書13、18、22、25章では‘天国’についての比喩を、そしてマルコの福音書4章では‘神の国’の比喩が語られているが、我々が一般的に考える天国と、比喩で語られた天国の模様とが、あまりにもかけ離れていることがわかる。その理由は、新約で語られている天国は、聖霊について語っているからだ。

“神の国は、あなたがたのただ中にあるのです”  (ルカ17:21)

結局、新・旧約聖書全体の信仰の窮極点は、聖霊充満をもって終結している。

“聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます”(使1:8)

“あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは 都にとどまっていなさい”(ルカ24:49)

[2] 救いが聖霊である理由

我々が一般的に理解して救済観は、空中再臨を通して引き上げられ、救われて永遠のいのちに入り永遠に生きると言う、未来的で来世的な救済観であるが、聖書では、新生した者は生きながらすでに天の御国に入っていると言っている。

1) ‘御子の支配の中に移してくださった’の意味

“神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました”(コロサイ1:13)

(御子のご支配の中=御子の国[韓国語訳])

ここで‘御子の支配の中 (御子の国) に移してくださいました’とは、生きて移す現在形で語っている。これを文字のまま一般的な解釈をするなら、その時代にコロサイ教会の人たちの中で、生きて御子の支配の中 (御子の国) に移された人が誰かいたのか・・・?ということになる。この御言葉は肉としての救いではなく、新生した聖徒たちが聖霊の中にいることを語っているのだ。このように聖霊充満の中にいることが、即ち、天の御国にいるのと同じ意味である。

‘救い,いのち,永遠のいのち’編でもすでに触れたが、これは恰も、アメリカ大使館が韓国の地にあっても、国際法上その大使館の建物はアメリカの領土とみなされるのと同じ道理である。聖書は、私たちがもう一度生まれなければならないと教えている。もう一度生まれると言うのは、生まれ変わると言うことで、私の知、情、意を否認し、聖霊の導きのままに歩むことを言う (ヨハネ3:5-7)。我々全て肉の体は、アダムの不従順によって生まれた時から霊的には死んでいる存在だ。それで聖書は、聖霊がある時を生きていると言い、聖霊がない時を死んでいると言っているのである(ローマ8:6)

“神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください”  (詩51:10)

この御言葉は、聖霊を受けようと準備するもので、聖霊を受ければ、聖霊の王権 (Charisma) によって、全人的(霊、魂、肉-Whole Men)に変えられるのである。

‘王権’とは

‘王権’は、万物を思いのままに服従させることのできる権勢と力である。聖徒の心に聖霊が臨む時、聖霊は‘王権’(Charisma=聖霊の強い役事)と権勢と力をもって、心霊にある罪を責め、焼き尽くし、結局聖徒は聖霊の前に屈服し、痛悔と涙で真の悔い改めをする。このように聖徒の罪を屈服させ変化させるのを誰の権勢だと言えようか?これが即ち‘聖霊の権勢’であり‘王権’を意味するのである。

このように王権とは、聖徒の心に聖霊が臨む時起こる形而上学的な感情を表現したもので、これを文字と論理で正確に表現することは不可能だ。ただ聖霊を体験した聖徒ならみな容易に共感するだろう。

2) ‘神はあなたのすみかであり’

神はあなたのすみかであり・・・”   (申33:27 口語訳)

“神の幕屋が人とともにある・・・”   (黙21:3)

この御言葉は、わたしがあなたがたにおり、あなたがたがわたしにおる (ヨハネ14:20)と言うのと同じ御言葉である。これはつまり、聖霊として私たちの内に住まわれ、私たちと共にすることを意味している。

3) ‘すべてを新しくする’  (黙21:5)

この御言葉に注目してみよう。我々が一般的に考える天国であるなら、天にすでに天国が作られていて、我々は引き上げられて入って行けばよいのだ。そうであれば、その時にはむしろ、「これまで最後まで信仰を守ろうとご苦労だった。どうだ、万物は新しかったかね」と言うのがもっとふさわしい表現ではないか? しかし上の節の内容を見れば、‘私たちが天国に入ってはじめて万物が新しくなる’と言う表現だ。

従ってこの御言葉の内容は、肉による再臨を意味するのではなく、私たちの心霊に来られる聖霊を語っているのだ。これは聖霊が私たちの心に降臨されることによって、その時はじめて私たちの心霊が新しく変えられることを語っているのである。

このようにキリスト教は、聖書解釈の誤りによって間違った救済観をもってきた。ある貴重な宝物が東の方に埋まっているのに、彼らは北の方へ行って探すようなものだ。彼らが教える通り北の方で探すなら、生涯かけてもその宝物は見つからないのと同じ道理である。

キリスト教はこれまで聖書を文字だけで解釈した結果、誤った来世観に再臨を集約させ、今日のような歪曲した来世的救済論に至った。聖書で語る通り、救い、いのち、永遠のいのちの真の意味が、聖霊に満たされることであるときちんと教えていたら、今日のような歪曲し誤った信仰から脱し信仰の多くの発展と進歩があったであろう。

[3] 信仰の最終目的地である窮極点の結論

新約では信仰を‘キリストの満ち満ちた身たけにまで達する’(エペソ4:13)までと言われた。これがまさに聖徒たちの信仰の窮極点である。その次からは、聖霊の導きを受けて行くことがキリスト教信仰の最高の窮極点である。つまり、信仰の窮極点の1次窮極は、聖霊に満たされることであり、2次窮極は、聖霊の導きを受け主と共に生きることである。このように1次窮極と2次窮極に到着し、主と共に生きることがキリスト教信仰の最終目的地 (窮極点)となるのである。

以前アフリカのウガンダで、誤った終末論を信奉する狂信徒700余名が集団自殺した事件があった。こうした悲劇的な事件は初めてのことではなく、昔から世界の所々で幾度にもわたって起こっている。この地に正しい救済観(再臨)が確実に定立されない限り、自称メシアだと言う者たちの出現は続き虚勢を張るだろう。こうした悲劇的な悪循環は今後も続くことだろう。

このように続く事件の責任を誰が負うのか?これまでキリスト教が、キリストの再臨について正しく証さえしていたなら、このような問題は防ぐ事ができたであろう。これまで‘携挙1,2,3,4’を通して一貫して述べてきたように、聖書が語る真の救済観(再臨)とは、聖霊の降臨を語っていると言うことを、もう一度、確証するものである。


真の真理を求める方たちに、このメッセージを伝えるものです。

ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン