救い・いのち・永遠のいのち、の真の意味は

キリスト教の中心思想である救い、いのち、永遠のいのちの意味が、キリスト教内でその解釈がひどく歪曲され疎かに扱われている。それぞれが異なった固有の単語概念をもっているにもかかわらず、救い、いのち、永遠のいのちを、ただイエスの再臨を通して得られる‘救い’一つに解釈しようとする誤謬を犯している。現代キリスト教の重要関心事の一つが終末論、特に復活にある。その復活を連結させ来世的な救いだけで全てを解決しようとする傾向があるが、これを聖書的な照明により、救い、いのち、永遠のいのちについて正しく提示してみよう。

【1】救い

● 語源的概念
へブル)イェシューアー:開放せよ
ギリシャ)ソーテーリア:開放。

完全な開放のために、堕落した人間を、今世、来世の破滅から救い出すことを意味する。
ギリシャ)ソジェイン(新約):身体的な危険や死からの助けを意味する。

● 聖書的概念
* 敵の手からの救い(ルカ1:71)
肉体のと私たちの弱さからの救い(マタイ8:17) 
* 罪からの救い(マタイ1:21)
神(創造主)の御怒りからの救い  (ローマ5:9) 
* 苦難からの救い(エレミヤ30:7-10)
* 災いからの救い (ヨブ5:19)
* 戦いからの救い  (申20:1-4)
* 悪のわざからの救い  (テモテ2 4:18)
* 苦悩と死の陰からの救い  (詩107:13-14)
* 死からいのちへの救い  (ヨハネ11:25)
世に存在する如何なるものからの救い  (ヨハネ16:23)

このように多くの救いの概念を、今日のような‘来世観’または‘罪の問題’(称義、栄華、聖化)を解決することだけに制限してはならない。今や聖徒たちが、生活の中で起こる全ての問題を解決する現世的な救いに、より大きな比重をおいて正しく証しすべきである。

イエスの名によって何を求めようと“だれであれ、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます” (マタイ7:8)

“わたしの名によって求めることは何でもそれをしましょう…”  (ヨハネ14:13)

“父に求めることは何でも、父はわたしの名によって、それをあなたがたにお与えになります”  (ヨハネ16:23)

上記のような御言葉が意図する救いの意味を、今や現実生活に積極的に適用するべきだ。

今日のように、救済観をどれか一つでも疎かにしたり、極めて制限した部分だけを強調、弱化すれば、聖徒たちが信仰生活をするにおいて、多くの無理と副作用が生じるため、信仰の混線を防ぐためにも、早く完全な救済観を定立してあげるべきである。

1)  ただ信仰によって救い (問題解決)を受ける

聖書では、救い(問題解決)を得られる方法は、ただ信仰によって得られると示しているが、ほとんどの教会は聖書的な方法より、人間の手段と方法を通してでも救われると、人本主義を信仰に接木してきた。その結果、御言葉と一致しない矛盾した抽象的な信仰を提示し、それでも不足な部分を人本的な教理や哲学を引き入れ、今日のような混乱を招いた。多くの人たちは、教会に通ってさえいれば当然救われるかのような誤解をしているが、教会に行くだけで救われるのではなく、信仰を持って最終目的地に到達した者だけが救われると言うこと心すべきであろう。

2)  信仰がないため救いに至れないのだ

つまり‘信仰がないため救いを得られなかった’とも言える。ほとんど説教を通して聖書の知識を持ってはいるが、多くの聖徒は信仰がないために、救いに対しては全く恵沢を受けられないのだ。

● 現代教会の特徴

現代教会は聖書に根ざしているのではなく、各教団の教理に根ざしている。その結果、教理的知識は発達したが、信仰の力が十分に現われないという特徴を持っている。そして信仰を論理と理論によって理解して初めて信じようとする誤った信仰観をもっている。このように論理がなければ信じ受け入れることができないと言う、現代教会の最も大きな脆弱点である。

このように、信仰なく論理と教理だけに頼り理解しようとする誤った風潮が、キリスト教の中に広く拡がり、信仰生活で信仰(信じること)が特に必要とされていない。その代わり信仰を持つために理論と論理に重点をおき、結局は救いに至れないようになる。その結果、聖徒たちの信仰に力(能力)が現われないという矛盾が発生する。これはまるで、種籾を釜で煮てから種まきをし、芽が出てくるのを待っている様なものだ。信仰とは、見ないで信じるのが信仰だと聖書は定義している。信仰には論理も知識もなく、ただ信じるのが信仰だ (へブル11:1)

たとえば、どんなに最新型の機能を持つ自動車でも、砂漠で燃料がなくなれば無用物と化す。このように、聖書でたくさんの救いの恵沢について約束をしているが、現代キリスト教は聖霊の力ではなく、知識と論理による間違った信仰を設定し、根本的に死んだ信仰を提示しているのである。その結果、多くの聖徒が当然得るべき救いの恵沢を十分に得られないでいるもどかしい実情だ。

イエスを信じさえすれば罪は赦され、信じさえすればどんなことであれ救い (問題解決)を得るのである。従って救われるためには信じなければならない。これは言い替えれば、信じない時には救いはないと言うことだ。水泳をするには、水着に着替えてから水の中に入らなければならないのと同じで、救いとは、信仰(信じること)の中にいる時にのみ、その力(能力)が現われるのである。聖徒たちが生と信仰を営むにおいて、救いは万能となる。信仰さえあれば世の全てのことが(いつ、如何なる時、何処でも、何であれ、過去、現在、未来…) 救いの対象なのだ。

今日のように、救いを終末論的来世観、及び罪の問題だけに片寄って強調してはならない。全人的で (霊、魂、肉-whole men)、人生の中での過去、現在、未来に対する現世的救いに比重を置いて取り扱うべき時である。

聖書の御言葉の‘信じれば救われる’と言うのを‘教会に通えば当然救われる’と誤解している。だが‘救い’ (人生の逆境の中での問題解決、天国、聖霊充満) は、信仰無くしては成されない (Ⅰペテロ 1:9)。救いに至るまでは、信仰を必ず持たなければならない。

たとえば汽車で旅行をするのに、切符がなければ汽車に乗れないのと同じだ。救われるためには、汽車の切符のように、信仰が必ず必要なのである。この戦いを聖書では‘信仰の戦い’と言っている (Ⅰテモテ 6:12)。我々はこうして限りない不信、罪悪…等との熾烈な戦いを (Ⅱコリント 10:3-6) 生活の中で瞬間毎に要求される。そしてこの戦いに勝った者だけがいのちの冠を得られるのである (ヤコブ1:12)

 3) 信仰は聖霊を通してのみ得られる

信仰を得るには、ただ聖霊を通してのみ得る事ができる。信仰は天に属しているゆえ、全ての人のものではない(Ⅱテサロニケ 3:2)。努力で得られるものでもなく、ただ神の恵みの中で築かれるもので、聖霊によってのみ可能なのだ (コリント1 12:9)。このように信仰は聖霊の力によって役事されるもので、これを我々は恩寵 (恵み) と言う。

だが現代多くの教会が、神が約束された諸々の救いの恵沢を十分に受けることができない明確な理由は、神の前に然るべき祈りと悔い改め、哀痛することなく人間の手段と方法だけで神を求めようとするところにその原因がある。

冒頭で述べたように、キリスト教が、これまで救済観において我々人間の罪の問題(称義、栄華、聖化)と終末論的、来世の救済観だけに力点をおいて教えてきたが、今は現実生活で起こる‘問題の解決’と‘聖霊充満’等、現世的救済観に多くの比重を置いて正しく教えるべきである。

【2】いのち (Life)

聖書の中心思想の一つが‘いのち’だ。我々はこれまで、いのちについてあまりにも疎かに扱ってきた。また、いのちと言う聖書的概念での、消極的で部分的な概念のみで定義を下している。聖書的見解と異なる概念としては、称義、聖化、栄華が考えられる。倫理的には人間の罪からの回復と関連したいのちに、霊的な概念では、主が再臨される時、イエス・キリストが復活された時と同じ体に変えられて救われる、と言ういのちに連結しようとするのがキリスト教の一般的な信仰観だ。

● 語源的概念

* へブル語)ハッイーム・ネフェシュ
ギリシャ語)ゾーエー・プシュケー

これは様々な意味と複雑な概念を持ち、神が人間をいのちとして造られた時受けた‘息’を意味することもでき、息は‘プニューマ’ (ギリシャ語) で聖霊を意味する。聖霊である‘プニューマ’は風、呼吸、生命、霊、息遣い、精神、息を意味し、生命は原語そのまま解釈すれば、聖霊という意味だ。

● 聖書的概念

①穏やかな心は、体のいのち…(箴14:30) - 心が穏やかなことが体のいのちである。

②御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません (Ⅰヨハネ 5:12)

御子 (聖霊) を持たない者はいのちがなく、聖霊を持つときいのちがある。

③キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理…(ローマ8:12) -御霊の原理をいのちと言う。

④私たちのいのちであるキリストが…(コロサイ3:4) –聖霊 (キリスト) は私たちのいのちだ。

このように解釈しても全く無理はないであろう。上記の節をすべて総合してみると、御子はイエス・キリストであり、キリストは三位一体に立脚し聖霊となり‘聖霊’は即ち‘いのち’だと言うことがわかる。

いのちの反対の概念は死であり、罪を‘死’と言う(ローマ6:23)。また世の悲しみは死をもたらすと言った (Ⅱコリント 7:10)。霊から離れ肉的逸楽(この世)を好む者を死んだと言う(Ⅰテモテ 5:6)。結局聖書は、聖霊の中 (キリスト) にいる時をいのちがあると言い、聖霊の外(非真理)にいる時には死だと断定している。

キリストの霊がなくてはキリスト者ではないのと同じで (ローマ8:9)、血を飲んだ者だけにいのちがあると言った (ヨハネ6:53)。その血とは、いのちを意味する (レビ17:11,14)いのちはつまり聖霊である (ローマ8:2)。このように聖書では、いのちを人間の生物学的な肉の生命と死の概念だけで語っているのではなく、聖霊の中での生だけが本当のいのちであり、生きていると言い、聖霊の導きを得られない信仰は死んだものだと聖書は定義している

これは、サッカー競技で選手が規則を順守しゴールインした時には点数が認められるが、もし反則をしてゴールを成功しても、そのゴ-ルは競技規則で認められないのと同じで、神(聖霊)から出ていない全てのもの、つまり、この世的 (人間的) なことは、スポーツ競技で規則を破り反則をするのと同じ結果を招くことになる。

天の真理である最高の法(聖霊の法)の通りに生きていく時のみ、いのちがあると認められ、聖霊から離れた(非真理)世俗的生き方を死と解釈する。即ち聖霊によって歩む時を、いのちを得たと言うのだ。‘いのちを得る’と言うのは‘聖霊を受ける’と言う意味に解釈すべきである。これがまさに、いのちに対する正しい聖書解釈となるのである。

【3】永遠のいのち (Eternal Life)

永遠のいのちとは、‘いのち’のように、救い、いのちの中に隷属させた永遠性の概念だけで解釈しようとする傾向が多分にあるが、生の時間的永遠性を内包したものと言うよりは、真で、完全で、永遠の持続性のある、完全であられる聖霊 (神) 御自身を説明するための、神 (聖霊) の概念として解釈すべきだ。

● 語源的概念

へブル)ハッヤ- オーラ-ム
ギリシャ)アイオーニオス ゾーエー

① 永遠なる生命(生命の質的な面まで含む)
② 永遠なる生
③ 生きた霊

● 聖書的概念

① キリストを知ること(ヨハネ17:3)
② この方こそ、真の神、永遠のいのちです(Ⅰヨハネ 5:20)
③ わたしは、父の命令が永遠のいのちである事を知っています(ヨハネ12:50)
④ 神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6:23)

上記の御言葉は、これまで我々が理解している一般的‘永遠のいのち’とは全く違う概念で説明されている。この節に基づいて永遠のいのちに対する概念を詳しく比較考察してみよう。

① キリストを知ること(ヨハネ17:3)
ここでは、永遠のいのちは、キリスト自身について知ること(知識)を語っている。

② この方こそ、真の神、永遠のいのちです(Ⅰヨハネ 5:20)
イエス・キリスト自身を永遠のいのちと言う。
キリストの内に永遠のいのちがある。

③ わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています(ヨハネ12:50)
父(神)の命令は永遠のいのちとなる。

④ 神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6:23)
神の下さる賜物は永遠のいのちと言える。

上記の内容を簡単に追論すれば次の通りだ。,

永遠のいのちとは
① キリストを知ること(知識)
② イエス・キリスト
③ 父(神)の命令
④ 神の賜物を言う。

これは、聖霊の使役だけが上記の内容と一致することが簡単にわかる。従ってこれまで我々が馴染んできた永遠のいのちの意味が、聖書的解釈とはあまりにも大きな差があると言うことがわかる。

① キリストを知ることが永遠のいのちだ
キリストを知る方法は、‘御霊が来るとき、その御霊がわたしについて証しします’(ヨハネ15:26)と言われたように、聖霊が来られてはじめてキリストをはっきり知ることができる。そして神の御心のこと(キリストを知ること) は、神の霊 (聖霊) のほかは誰も知らない (Ⅰコリント 2:11) とあるように、ただ聖霊だけができることだとわかる。

 イエス・キリストは永遠のいのちだ
ここでイエス・キリストが永遠のいのちとなることは、誰もが皆知っている聖書の常識であるため言及しないとする。

 父(神)の命令が永遠のいのちだ

“わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは父の命令が永遠のいのちであることを知っています”(ヨハネ12:49-50)。何を語るかあらかじめ考えるなと言った (ルカ21:14)。聖霊によって全てのことを教え、あなた方に話した全てのことを思い起こさせてくださると言われた (ヨハネ14:26)

“聖霊に逆らうことを言う者は、誰であっても、この世であろうと 次に来る世であろうと赦されません”(マタイ12:32)

このように聖霊は我々の中で命令し導かれる。その命令に従わない時、その不従順に対しては罪の赦しはない。即ち、聖霊の導きが永遠のいのちなのである。

 賜物は永遠のいのちだ

“神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです”(ローマ6:13)

賜物はプレゼントであり、そのプレゼントは聖霊だ。

“賜物として聖霊を受けるでしょう”(使2:38)

賜物は聖霊の使役であることがわかる。

上記の全ての内容を総合してみると、聖霊の使役だけが永遠のいのちに対する意味と正確に一致すると言うことが簡単にわかる。‘いのち’と同じように、聖霊によって導かれる時を、永遠のいのちと解釈してこそ、正しい聖書解釈となるのである。

ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン