天に上って行かれるのを見たと同じ有様で

また来ると言う意味は


キリスト教(新教)は、主の再臨を霊的な事実ではなく、幻想的な誤った仮説を提示し、再臨に対する混沌と数多くの異端がはびこる原因を提供した。今日のような歪曲した再臨論を正しく定立しなければ、今後も多くの異端や自称メシアだと言う者たちの出現をあおり、キリスト教の混乱は続くであろう。聖霊が来られれば全てのことを教えて下さると約束したにもかかわらず、人間の知恵と知識によって聖書を無理やり解いて、その解釈の誤謬によって多くのたましいを間違った道へと導いた。その結果キリスト教は、恥と汚辱と滅びをもたらしたと言う過ちを、率直に認めるべきであろう。

ユダヤ教が、文字通りの律法信仰を固守することで、神 (創造主)とは距離の遠い肉的な信仰をしているように、キリスト教も聖書にある象徴と比喩の本当の意味に目をそむけ、文字だけの解釈をするなら、ユダヤ教と同じ律法 (肉的)宗教へと転落するだろう。今もイスラエルは、二千年前すでにこの地に来られたイエス・キリストを認めず、彼らだけのメシアを待っている。このように、キリスト教もやはり今のような聖書解釈と間違った再臨観に固執するなら、今後何千年が過ぎても、今もメシアを待つユダヤ教と同じ立場となるであろう。

 “その時、「そら、キリストがここにいる」とか、「そこにいる」とか言う者があっても、信じてはいけません。…「そら、荒野にいらっしゃる」と言っても、飛び出して行ってはいけません。「そら、部屋にいらっしゃる」と聞いても信じてはいけません”(マタイ24:23-26)

上の御言葉のように、イエス・キリストははっきりと‘キリストがここにいるとか、そこにいると言っても信じるな’と言われたのは、今日のような間違った再臨論に対するくさびを打った御言葉ではないのか?

‘神の国は、聖霊の中での義と平和と喜びであり、あなたがたの中にある’と言われたにもかかわらず、キリスト教は天国という概念を人間の想像で無理やり解いてしまった。その結果まるで、片方は運動靴、もう片方はぞうりをはいて来客を迎える新郎新婦の姿のような、説教の前後が合わない矛盾に逢着している。

このように我々が聖書を文字だけで解釈すれば、他方では食い違うという多くの矛盾が発生し、互いが主張し合うだけではそれぞれ異なる議論が存在するだけだ。再臨観においては、霊的な聖書の提示の内(象徴と比喩の真意が解かれるとき)でしか同一の解釈を下すことはできない。ではここで再臨観において誤解となる部分を、聖書のいくつかの解釈を通してその誤解を解消してみよう。

1 新しい天と新しい地

‘イエスの再臨は聖霊の降臨だ’で新しい天と新しい地とは、聖徒の心のうちが聖霊で満たされることを、形而上学的比喩(Metaphysical-simile)で表したものだと説明したが、もう一度我々の心霊の中でどのように天の御国が実現されるのかを説明することにしよう。ガラテヤ書を見ると、ユダヤ人たちが律法的に重要視した割礼を、使徒パウロは無視した。

“割礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です”(ガラテヤ6:15

‘割礼’とは、聖霊によって新しく造られた者、つまり聖霊によって変えられた者、聖霊で満たされた者を意味する。象徴はただ影であり実体を説明するためのもので、その実体が現われれば象徴(律法)は無意味となる。たとえば、ユダヤ人たちが安息日にしてはならないこと、つまり穂をつんで食べた弟子たちに対して意義を提起したところ、イエス様が安息日の意味を無意味としたのは、安息日の象徴がイエス様御自身であったからだ (マタイ12:1-8)

このように安息日という象徴は影であり、その象徴の実体であるイエス様が来られたことで律法が廃された。ユダヤ人たちにとっては絶対的な割礼の真の意味が、聖霊によって変えられた者を意味するように、新しい天と新しい地の象徴は、聖徒の心霊の中に、聖霊による義と平和と喜びが築かれた状態を言ったもので、神の国、天国等を形而上学的な比喩として表わしたものだ。

 (1) 新しい天と新しい地とは聖霊に満たされ変えられた心を意味する

使徒パウロは、新しい天と新しい地(天の御国)が、我々の心の中に築かれることを、コリント教会にこのように語っている。

“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました”(Ⅱコリント5:17)

“心の霊において新しくされ…新しい人を身に着るべきことでした”(エペソ4:22-24)

(2) 神殿とは聖霊の満たしが聖徒たちの心に築かれることを意味する

“この都の中に神殿を見なかった。それは万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである”(黙21:22)

使徒ヨハネが見なかった神殿の中の様子を小羊だと言った。

小羊はキリストであり(Ⅰペテロ1:19)、小羊の神殿は我々の中にあると言った。

“あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか”(Ⅰコリント3:16)

上の御言葉は、神の神殿が我々の中にあることを知ることができる肝要箇所である。新しい天と新しい地とは、キリストの聖霊に満たされた心が、聖徒の心霊の中に築かれた状態を象徴的に聖書は語っているのだ。

 2 生きた者と死んだ者

聖書で語る、生きた者と死んだ者とは、生物学的な死を意味するのではなく、聖徒の心霊の中で起こる霊的状態を象徴的に表現したものだ。生きた者とは聖霊がある者をさし、死んだ者とは聖霊のない罪の心に転落した状態を、霊的な比喩として語っている。

“あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい”  (ローマ6:11)

“御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者は、いのちを持っていません”(Ⅰヨハネ5:12)

“自堕落な生活をしているやもめは、生きていても死んだ者なのです”  (Ⅰテモテ5:6)

“あなたがたは生きているとされているが、実は死んでいる”  (黙3:1)

上の御言葉のように、生きた者と死んだ者とは、生物学的な意味ではなく、聖徒の心霊に聖霊がある時とない時を表現したもので、‘かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん’の意味は、再度霊的に正しく解釈されてこそしかるべき意味となろう。

3 天に上って行かれるのを見た時と同じ有様でまた来る

 (1)‘天に上って行かれた’の意味

“イエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見た時と同じ有様で、またおいでになります…”(使徒1:9-11)という節をもって文字のままの直訳で解釈してはならない理由が、ヨハネの福音書14章と16章に補充説明が詳しく記されている。更に、イエス様は何のために昇天され、また再臨される理由と、どのような方法で来られるのかについても詳しく説明されている。公生涯の間イエス様は‘わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです’と言われた(ヨハネ16:7)。これは言い替えれば、わたしが早く天に昇天しなければならないと言うのと同じだと言っても全く無理はない。

● 昇天しなければならない理由 

“父が子によって栄光をお受けになるためです”(ヨハネ14:13-14)

(‘携挙とは’イエス様の一次使役、二次使役の目的、参照)

● イエス様はどのように再臨されるのか?

イエス・キリストは聖霊として来られることを語られた (ヨハネ14:16,20,26,ヨハネ15:26)。私たちの心に注がれ、今も私たちの中で私たちを導かれ、私たちと永遠に共におられる(Ⅰコリント15:45)。旧約全体でも、肉の再臨ではなく聖霊再臨を約束している。(‘携挙とは’‘イエスの再臨は聖霊降臨だ’参照)

● 天に上られてから、また来られる目的(再臨の目的)

永遠に私たちと同じ所にいるため…(ヨハネ14:3,16

● どんな人が主と同じ所にいられるのか?

主を愛する者、即ち主の戒め(愛)を守る者(ヨハネ14:23)

● 聖霊の使役は何か?(再臨後の使役)

1)  聖霊があなたがたに

① 全てのことを教え

② 思い起こさせ

③ 平安を与えるためである(ヨハネ14:26-27)

2)  助け主をあなたがたに遣わす

① 罪について

② 義について

③ さばきについて(ヨハネ16:8-11)

上の考察のように、「使徒の働き」等の聖句いくつかを文字的に解釈しただけで、肉の再臨だと断定できるだろうか?再臨はどんな姿で来られるのか、来られる理由、目的…等を、使徒の働きでは充足されていない細部的な部分が、ヨハネの福音書14章と16章に詳しく記されているため、これをなくして完全な再臨を解釈することはできない。

(2)  ‘見た時と同じ有様で来る’ という意味

聖書は肉の目で見るものではなく、心で感じたことを目でも見るものだと言える。キリスト者の見ると言う概念は、可視的なものもあるが、心の中の信仰の目で見ることを意味する。

“あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって…”(エペソ1:18)

“目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです…”(ヨハネ9:39-41)

“彼らは盲人の手引きをする盲人です”(マタイ15:14)

“目の見えぬ手引きども…(マタイ23:16,24)目の見えぬ人たち”(マタイ23:17)

“目の見えぬパリサイ人たち、まず杯の内側をきよめなさい”(マタイ23-26)

上の節の文脈上、盲人とは何を意味するのか?

イエス様は、肉の目が見えない者たちを指して盲人だと言ったのではなく、霊的に無知でその真意がわからすに歩んでいる者、即ち、霊的なものが見えない律法主義者たちを咎め、彼らを盲人だと言われたことがわかる。結局、見ることと見えないことの識別は、霊的な真意を悟る者とわからない者を表現したもので、‘あなたがたが見た時と同じ有様で来る’という御言葉は、肉の目で見られるように臨むのではなく、霊的な聖霊体験を通して感じるものだということがわかる。

イエス様は40日間弟子たちに現われ、

① 神の国のことを語り、またエルサレムを離れないで、

② わたしから聞いた父の約束を待つように言われて行かれた。

その約束は、聖霊を送ることだった(使徒1:3-4, ルカ24:49)。この御言葉を語られ、行かれた通りに成し遂げるという約束により、幾間もなく聖霊がマルコの屋上の間で120人の兄弟の上に降臨することで、その御言葉が成就したのである (使徒2:1-4)

“全てのよい贈り物、また全ての完全な賜物は、上から来るのであって、光を造られた父から下るのです”(ヤコブ1:17)

上の節のように、‘見た時と同じ有様で来る’という意味は、その御言葉の約束に従って、今も全てのよい賜物が天から降りてくるということだ。これは約束した聖霊をあなたがたに送るという意味で語られたのである。その再臨は今もこれからも永遠に、教会の上に、聖徒たちに、職分に応じて賜物と恵みによって役事されるのである。

4 炎のように降臨される

イエス様の再臨はどのように来られるのか

“主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて 天から現われるとき…”(Ⅱテサロニケ1:7)

“見よ、まことに、主は火の中を進んで来られる”(イザヤ66:15)

上の節のように、イエス様が炎の中に現われるという預言を、「使徒の働き」では聖霊が炎のように降臨することで、御言葉に応じているのである。

“炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった”(使徒2:2-3)

(1)  ‘炎のように降臨される’とは

マルコの屋上の間で、約束どおり炎の舌のように各自に臨んだ通り、今も聖徒の心に働いていることを意味している。

   炎とは、焼き尽くし (へブル12:29)、怒り(申32:22)、さばき等を象徴する意味を持っている。

*参照:聖書の多くの箇所で聖霊の役事の様子が語られているが‘天に上って行かれるのを見た時と同じ有様でまた来る’に対する説明は、ヨハネの福音書14章と16章にある内容だけを取りまとめたものである。

聖霊を受ければ、聖徒の心霊の中で聖霊の強い力をもって、罪を焼き尽くし、善なる愛の心(寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶⅠコリント13:4-8)が聖霊を受けた聖徒の心を占め、愛なる行ないをするようになる。その結果、聖霊の実愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、ガラテヤ5:22)で満たされ、義と平和と喜びがあふれる天の御国が聖徒の心霊の中に築かれることを意味する。

神のさばきは、人間が考えるような恐ろしさと怖さ、困苦、または地球の終末…等の刑罰のさばきではなく、我々の罪を焼き尽くすさばきを言う。どんなに頑なな人でもそのさばきを受ければ‘私は罪人です’と言う、痛悔と絶叫にあふれ、罪に対する苦痛と苦しみの中にありながらも、歓喜と喜びと平安が訪れる愛の審判を言う (受けた者だけがわかる主観的なものである)。これが聖霊降臨、即ち、再臨である。

(2) ‘王権’とは

聖書が語る王権とは、万物を思いのままに服従させることのできる聖霊の権勢と力(charisma)での役事を言う(ピリピ3:21)。聖霊さえ受ければどんな悪人であっても、罪と悪は王権によって自ずと消滅し、どんなことも愛で昇華させ、平和に統治する権勢、こうした王権を言う。こうして肉の人から霊の人(愛)へと生まれ変わった聖霊に満たされた状態を新生と言う (Ⅰコリント13:4-7)。新生とは、人間的な努力による人格的な変化ではなく、聖霊を受ければ、聖霊の強い力によって自然に即刻的に成し遂げられる。

“神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちにくださった御霊によって知るのです”(Ⅰヨハネ3:24)

上の御言葉のように、聖霊によって私たちの中に、主は聖霊として再臨しておられることをはっきりと語っている。

以上のように、我々のなじみの再臨論に対して、肉的解釈から出た誤った枠を壊し、再臨に対する霊的な聖書解釈のために説明したものである。このメッセージが聖徒たちの信仰生活において多くの助けになればと思う次第である。


 *参照:題目の‘携挙’言う意味は、聖書の携挙を否認するものではなく、我々が通念的に考える、誤った終末論的携挙を意味するものであって、誤解がないことを願う。

ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン