羊の仮面をかぶった科学文明

【科学文明の発達による問題点と遺伝工学の虚と実】

 1 人類の現実

    現代は遺伝工学が多様に発達し、未来の脚光を浴びる分野として座を占めてきている。遺伝工学とは、現存する生物、もしくは完全に新しい形態の潜在世代を意図的に変化させる広範囲な技術だ。奇形児、低脳児、血友病等の様々な遺伝的疾患によって発生する、社会的、文化的問題を解決しようとする人間の夢が、遺伝工学の発達として現実化されている。医学的には農業や畜産業等で多くの実効性と効率性を提供している。

 倫理的に問題さえなければ、実効性と効率性について誰もが肯定せざるを得ないだろう。現在キリスト教的価値観と社会倫理観に基づく若干の良心が制動をかけてはいるが、すでに表面化された活発な研究と潜在した技術蓄積は、まだ実用化されてはいないにしても、いずれ実用化段階に至ることだろう。

2 科学文明の発達と結果

  人類の結果

    科学文明が発達するにつれ人類は、迷信は勿論のこと神秘主義を排斥するようになった。これらは人間の月面着陸を契機にさらに加速化した。神秘主義を罵倒する名分に‘月まで行って帰ってくる時代に…’という新種語が全世界に流行のごとく広まり始め、その時から人類は科学文明の時代に突入したという自負心を持つようになり、霊と肉 (科学) の戦いで、科学が主導権を握るようになった。

 科学が無条件に悪いと言うのではない。

 問題は、科学文明の発達によって人間の精神が荒廃したためである。科学文明は道徳と倫理観の確立の上に築かれるべきだが、その道徳と倫理観がまだ確立せずして、つまり人間が科学に適応しないうちに発達し続けている。

 今日程の文明に適応しようとすれば、少なくとも200~300年くらい経たなければ、その文明を人間の制度に定着はできないだろう。だがその制度が定着しないうちに、ある日突然文明が替わり、価値観の混沌と社会的混乱を引き起こすようになった。

 農耕社会から産業社会へと転換する中で多くの副作用が生じた。伝統的な価値観は崩れ、家族制度が崩壊し(大家族→ 核家族 → 個人・独身)、黄金万能主義とともに経済的価値に従って身分の格差が深まり、また、変化に適応できない新・旧世代の葛藤はもとより、文化、社会、教育等、社会全般にかけて多くの問題点が発生した。

 科学は哲学から生まれたが、今や科学の発達に哲学が追いつかない。問題が生じるたびに、臨時方便として作った制度と法で防ごうとするが、これはまた別の副作用を招くだけで確実にその問題を解決できる、明瞭な対策がない。

  科学文明の発達は
① 人間の精神を荒廃化させた。

② 倫理道徳がその役割を果たせないばかりか、その伝統的価値観が、新しい文明によって無残に破壊される結果を招くようになった。

③ 遺伝工学の発達は、神を否定する役割と名分を提供することだろう。神の固有権限である生命の創造が、人間によって創造されることで神の領域を侵犯する事はもとより、人間に神を否定させる絶対当為性を提供することだろう。

④ 神の子どもである聖徒たちは、神より科学を、神に仕えるように崇拝するようになるだろう。

     たとえば病気になった時、聖徒はまず神との関係において何がいけなかったのか、何の罪を犯したのかを振り返って見るべきだ。しかし病気の原因を探して悔い改めるより、まず薬局や病院を先に訪れるなら、これがまさに神よりは科学を崇拝しているという良い証拠だ。

●   科学文明に対する神の審判

    すでに人類は神 (創造主) から審判を受けている。平安と安息を失い、常に不安と心配の中で生きていくことがそれに対する報いだ。人間は誰でも自分が行なった行為に対しては報い (審判)  を受ける。その審判の代価として、霊の困苦と肉身の病による刑罰を受けるのである。

  科学文明の発達で体は楽になり、遺伝工学の発達で正常な肉体を持てると言っても、また別の問題が間違いなく投じられ、それを解決しようと人類は心血を傾ける。ペストが解決すれば結核が出てきて、結核が解決すれば癌やエイズ等、また新たな不治の病が生じるように、それが解決すればまた再び神は人類に心配の種を持ってこられるだろう。これを災いと言う。神は常に人類が追求するものを奪っていくのである。

    それは何故だろうか?

    神はなぜ我々をうるさく干渉されるのか?と思うが、これは我々に本当のものを与えるための神の愛であり、真理を得させるための神の愛のむちである。

3 科学の正体

    倫理道徳が破壊された人類は、科学文明との出会いで新しい局面を迎え、我々の想像を超えた世界が築かれるだろう。結局それらの目的は人間の心性を破壊し滅亡させることだ。科学文明は、確かな倫理観と道徳観を基礎にその上に納まるべきで、それが創造秩序に順応することだが、我々の現実はそれとは正反対の現象が起こっている。

    つまり科学文明の急速な発達で、人間の精神はその科学文明に引きずられ、その結果、主体性と価値観が喪失し、拝金主義をはらむしかない状況に逢着した。

  真の実用性と効率性

    人間は、実用性と効率性という、ひとつの問題を解決するために発展を続けているが、その実用性と効率性を得るのに比べ、副作用と被害はとてつもない。真の実用性を追及するなら、不便であっても、科学は発展しない方がむしろ実用性がある。人間は創世の時から今日まで、バベルの塔を積み、我々が散らされるのを免れようと、限りなく神に対敵してきたが、今日の科学文明 (遺伝工学) の発達がまさに、バベルの塔の出来事だ。

  科学文明を利用したサタンの究極的目的

    神がなくとも、ちゃんと生きることのできる世を具現することがサタンの最終目的だ。サタンは神の国を滅亡させようとする。神が成す全てのことに反対し、妨害し、破壊するのである。特に妨害の中でも、御言葉を破壊するのに主力を尽くしている。

 御言葉は、信頼し信じるとき役事と奇蹟が起こるのだが、その御言葉が力  (成就) として現れないようにするため、内では科学の主導で我々の心の信仰を破壊し、神よりは科学を頼るようにし、外では肉のことをもって神との間を遠ざけ、年俸制等の導入により同僚たちの間にねたみと嫉妬、不信の風潮を助成している。

 このようにして御言葉を無力化するか白紙に戻し、聖徒たちが御言葉を聞けないようにし、人間の理性を使用して、科学と現実的な能力  (実在主義) を信じるようにすることを主な任務としている。科学文明を通し、神より人間の知恵と科学を頼るようにすることがバベルの塔の出来事だ。人間は散らされるのを免れるため、神なしに人間自らの力で成すことを願う。人間は神の拘束を離れて、神なしに人間たちが勝手に放縦する事を望んでいるが、その背後ではサタンがこの全てを操縦している。これは神の創造秩序の根本である愛を破壊することである。

 人間が理性 (知恵) を通して作った制度は、ヒューマニズムに基づいて作られた。合理性が制度化されたのが法であるように、人間は常に近視眼的な目で部分だけを見て全体化させるという誤謬を犯している。その良い例が、科学文明は発達するほどより大きな文明の副作用を作り出しながら、自らはその解決策を探し出せずにいる。

  神の合理性と人間の合理性の相違

    神 (創造主) の合理性は永遠性に基づくが、人間の合理性は便利さに基づいている。人間は誰もが合理性を追求する。これにより科学が発達したが、この合理性をどの観点に合わせたかが問題だ。神の合理性は永遠に、人間の合理性は現実性に付与する。この基準の根本的な相違により、ここから神と人間の間に誤解が生じるのである。

    たとえば、ある人がとてもお腹がすき、当面お腹がすいているという現実性のため、食卓のご飯を食べようとすると、神はこれを止められた。後でそのご飯に毒が入っていたことがわかった。このように人間は当面の現実性のため遠くを見られず、目前のことばかり急ぐが、神は将来と永遠性をもって愛によって我々に語られる。

    人間は合理性と便利性のために科学文明を追求するが、神は永遠に基準を置かれるため、それを遮るのだ。結局、科学文明を追求する者たちは、目前の有益だけのため火の中に飛び入る虫と同じだ。神の合理性は霊的 (永遠なもの) であり、人間の合理性は肉的 (刹那的なもの) であるゆえ、その出発、即ち見る観点から相異なるため、人間は当面必要な現実に合理性を発動させるが、神は永遠に結果を置いて合理性を発動させる。

 神は、如何にしてでも愛をこの地に築こうとされる。人間が作った制度は、初めは合理的で便利なため良く見えるが、後には破壊と反目で終末を迎えるようになる。その原因は、サタンが人間の欲心に居座り、これを助長しているからだ。

4 科学をどこまで許容すべきか

  科学は人間を獣にする。

 遺伝工学の出発は、人間の臓器移植と活用の為に集約的に発達してきた。今後も無限大の発展をもたらすだろう。科学文明の発達で、農耕社会から産業社会へ、大家族から→ 核家族→ 利己的へと価値観が確立されないまま、混沌の中で人間は、思いもよらぬほどの倫理・道徳的破壊を恣行するだろう。

 複製人間 (クローン) はいかなる処遇をすべきか、また、遺伝子操作によって作られた半人半獣の場合、人間だと言うのか、獣だと言うのか?旧約時代を見れば、獣との性交もその時代に恣行された (レビ 18:23)。遺伝子操作が大衆化すれば、好奇心の旺盛な人間たちが何をするかは誰もわからない。

 科学文明を無条件的に否定するのではない。もしそうすれば世の中の外に出なければならない。しかし問題は、神と聖徒の間は信仰によって結束されているが、科学文明はこの結束を破壊し、神の全知全能を極小化させ、それに代え神の宝座に科学文明を座らせ、それを崇拝させるのがサタンの最終目的だからだ。

  科学文明の罠から教会が生きる方法

    教会は、どうすれば神の全知全能を棄損せずに、科学との調和を成して行くかに主力を尽くすべきだ。

その方法は次の通りだ。

① 御言葉を信じてはじめて役事がおこる。

信じること、それが神のわざです”  (ヨハネ 6:29) とあるように、信じる時、役事と力が出てくる。

② 信じるためには聖霊を受けなければならない。

    科学の立場では、聖霊が来られるまでという御言葉は、神秘で虚構に過ぎないが、聖霊を受ければその神秘と虚構が取り除かれ、御言葉が信仰 (神秘) によって完全に近づいて来る。

③ 聖霊の導きだけが人類が生きる道であり、教会が支えられる柱だ。

    科学文明が如何なる変化をもたらそうと、私たちの先生である聖霊が、その時その時指示して下さるだろう。この時こそが、人類と文明がともに共有し真の解決が成される。聖書には“終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言をし、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにもわたしの霊を注ぐ” (使 2:17) とあるように、聖霊の導きこそが人類の希望と望みであり、解決策である。

5 キリスト教の立場

 これまで教会は、こうした問題に対して手をこまねくか、古臭いことを言うか、もしくはのんびりとただ傍観し待っていなさい言うが、まさにこれが眠っていると言うことだ。神は迅速に処理するよう語っておられるが、キリスト教内では、聖霊が語る声を聞いてその解答を提示する預言者がなかったため、その結果、教会内でも急速に世俗化が拡大し、重病にかかっている。これが現在キリスト教の当面の問題だ。

    世の知識人たちが光と塩になることはできない。こうした問題を世の中で解決してくれるのを望むのではなく、今キリスト教が光と塩の役割を果たすべきだ。こうして地球上に科学文明が到来することを神はすでに知っておられ、人類のために聖霊を準備して下さった事を悟るべきだ。

 人類救いのためにキリスト教は、口だけの聖霊ではなく、教会の全ての上に聖霊を活性化させなければいけない。人間の幸福と不幸  (生、死、災、福)  は、神の法である真理によって役事が運行されるが、神を離れ科学で幸せになろうと、その原因である神との関係を後回しにし、当面の不便を免れようとした結果、解決だけに目的を置いたのである。これはまるで、根はそのまま残して幹だけを切るのと同じだ。結局のところ神の審判は誰も避けることはできない。罪に対する結果は、それ相当の代価を支払わなければならない。しかし科学文明は、罪の結果として生じた病を医学で代替しようとしている。

 その結果皮肉にも、医学が発達すればするほど病気の種類はより多様化し、患者は更に増えた。それは、犯罪者が助かろうと監獄を脱出しても、捕まれば更なる重刑に処せられるのと同じだ。これは神が生きておられるという証拠であり、人間の神への挑戦に対する、神の応答だ。

●  聖霊のない人たちのためのキリスト教の立場

① 聖霊のない人たちのためには、愛ではなく‘報い’を証ししてあげることだ。

②‘罪’が何なのか、‘悪’が何なのか、基準を設定してあげることだ。その設定は神の法に従って区分される。これまでキリスト教は、律法も廃し、イエス・キリストに正しく提示されたものもなく、混沌と無法の中で二千年を成長してきた。二千年が過ぎた今日でも、善と悪が何であり、罪が何であるかも十分に糾明してあげられなかったが、今こそ明確に設定してあげるべきだ。

③ 聖霊の法を守ることが、この時代キリスト教がすべき問題だ。聖霊の法とは何なのか?

    この法を守るには、まず、さばく事をしてはならないが、キリスト教の制度はそうはいかず、むしろ上手にさばくことで教会が存在するという矛盾した環境が造成されている。

④‘善’とは、聖霊の教会が担当するようになっている。教会は真理の柱であり、何事も聖霊の目で透過せねばならない。聖霊の教会が法であり、真理であり、神は聖霊の教会の上に天国の鍵を下さった。聖霊の時代は、律法時代のように法が成文化されておらず、各自の心碑に直接書いて下さると言われた  (へブル 10:16, ヨエル 2:28)

 人類の問題は、人間の理性と哲学で武装した知識では解決できない。天国の鍵は教会が持っている。神は聖霊を通してその解決方法を提示して下さるため、教会は人類が生きていく解決方法を、時代ごとに、啓示を受けて伝えてあげなければいけない。この方法だけが人類が生きる道であり、これが教会の使命である  (エペソ 3:10)

 この時代の主のしもべたちは何をして来たのか。神との交わりをしていると言うなら、果たして世に何を提示してあげているのか?神のしもべだと言いながら、神に会うこともできず、主の仕事をしたと言うのは、大変な信仰の持ち主であるか、それとも信仰の全くない者かのどちらかである。今こそキリスト教は立ち上がり、聖霊の導きを通して、高度に発達する科学文明の時代に生きる解決方法を提示してあげる‘真理の柱’(Ⅰテモテ 3:15)の役割を果たすべきである。

    ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン