イエスの再臨は聖霊の降臨だ

    主の再臨は、聖霊の降臨を言うのである。

イエス・キリストの肉体的再臨と終末論に対する執着によって、信仰の本質を喪失したキリスト教が新しく生まれ変わるには、何よりもまず、聖書の正しい解釈なくして神(創造主)との正しい関係は定立できないことを知るべきだろう。今こそ聖徒たちが幻想的な信仰の惑いから脱するよう、正しい信仰観を提示してあげなければならない。

これまでキリスト教が待っている再臨主が、常に我々と共にある聖霊であることを正しく提示さえしていたら、現在のような姿のキリスト教ではなく、もう少し成熟した美しい信仰を持つのは勿論のこと、この世も新しい世界観の具現によってもう少し美しい世の中、つまり聖徒たちの望みである神が統治される‘神国’が聖徒たちの心霊の中に早く築かれたであろうと信ずる。

これまで、聖霊の教えではなく、人間の知恵と知識によって聖書が照明されたことで、キリスト教信仰の本質から相当離脱してしまった。終末論については、その問題点を指摘するだけで、互いの責任転嫁はもとより、隠蔽にあくせくする境地にまでに至り、結局キリスト教史の恥ずべき1ページを記録している。こうして聖徒たちを蹂躙した責任は誰が負うのか?

聖書は初めのページから(創1:2-神の霊は水の上を動いていた)最後のページ(黙22:17-御霊も花嫁も言う。…いのちの水のほしい者はそれをただで受けなさい)まで、聖霊を語っており、聖霊を受けなさいと言われ、イエス・キリストも聖霊を受けることを託して行かれたのである。では主の再臨が、どうして聖霊の降臨を言うのかについて考察してみよう。

 [1] 小羊 

小羊は聖霊であられる。

多くの聖徒たちが、小羊 (黙21:10-27) の雛形であるエルサレムの神殿を指して、聖徒たちが死んでから行く天国だと思っている。しかし我々が考える想像や推測がどれほど間違っているかを、小羊の象徴の中に内包されている意味を通し弁証してみよう。

ヨハネの黙示録21章10~21節までは、使徒ヨハネが見た、エルサレムの神殿の外の様子を表現したものである。

“御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下ってくるのを見せた。…12の門は12の真珠であった。どの門もそれぞれ1つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった” (黙21:10-21)

22節では、使徒ヨハネが見なかった神殿の中の様子を表現したものだ。

“この都の中に神殿を見なかった。それは万物の支配者である、神であられる主と、小羊が都の神殿だからである” (黙21:22)

ここで都の神殿だと表現した小羊は誰なのか?また、何を意味するのか?

 一般的には小羊はイエス・キリストを象徴する。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊”  (ヨハネ1:29)

“傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの…”  (Ⅰペテロ1:19)

● 神殿の象徴は:

 聖徒を意味する

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか”  (Ⅰコリント3:16)

“あなたがたのからだは…聖霊の宮であり…”  (Ⅰコリント6:19)

 キリスト自身の体を指した

“しかし、イエスは御自身のからだの神殿のことを言われたのである”  (ヨハネ2:21)

小羊がその神殿だと言うのは、小羊自体が神殿だと言う意味だが、現実的に小羊の体の中にどうやって神殿を建てられようか?これは前記のように、‘聖霊の宮’であるイエス・キリストを象徴したもので、つまり、聖霊を指している。従って小羊の神殿とは、聖霊の宮を意味する(Ⅰコリント6:19)。このように小羊の雛形であるエルサレムの都は、聖徒たちが想像する、死んでから行く天国の雛形ではなく、聖霊を受けた聖徒たちの心霊の中で起こる天の御国、即ち、義、平和、喜び (ローマ14:17)の心を象徴化したものなのである。

[2] いのちの水

● いのちの水とは聖霊を意味する。

“生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである”  (ヨハネ7:38-39)

 いのちの水を受ける者:聞く者、渇く者、願う者  聖書では、いのちの水を受ける者と、受けられない者がいると言った。

“これを聞く者は、来てください、と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。”  (黙22:17)

② いのちの水を受けられない者:おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者この御言葉は、誰でも、聞き、渇き、願う心霊は、悔い改め呼び求めさえすれば、ただで聖霊を下さると言う意味だ。

“いのちの水の泉から…しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。…”  (黙21:6-8)

このような者は、聖霊を受けられないと言う意味だ。

従って聖霊を受けるためには、悔い改めが優先されなければならない。黙示録の最後のページまで聖霊を受けなさい(黙22:17…いのちの水を受けなさい)と言っているのだ。

[3] いのちの書

いのちの書とは、天の御国に聖徒の名前が記録された書であり、いのちの書に記録されると言うのは、天の御国に入れる条件と資格が与えられたと言う意味だ。だがこれは文字のままではなく霊的な意味として、いのちの書と言う象徴を通して聖霊に満たされていく方法を提示しており、いのちの書に記録されたと言うのは、つまり聖徒が聖霊を受けられる条件と資格を備えたことを意味する。

黙示録の新しい天と新しい地を、聖徒たちが死んでから行く天国だと想像しているが、これは事実的な目に見える形ではなく、聖徒の心の中が聖霊で満たされ、義、平和、喜びの天の御国(ローマ14:17)が築かれる状態を説明したもので、この御言葉は、聖徒の心の中の聖霊の満たしを形而上学的比喩(Metaphysical-simile)で表したものだ。

つまり、聖書で語る天国 (天の御国)とは、聖霊に満たされた心霊を喩えたものである。多くの人が間違って認識している歪曲されたキリスト教の天国観は、人間が勝手に作り出した想像の国に過ぎないことを、聖書を通し考察してみよう。

いのちの書とは、天の御国に聖徒の名前が記録された書であり(出エ32:32)、いのちの書に記録された者だけが天の御国に入ることができる(ダニエル12:1)。罪を犯した者は書物から消し去られる(出エ32:33)

● サルデス教会を通し、聖霊を受けられる資格と方法をこのように提示している。

“勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない…” (黙3:4-5)

ここで‘勝利を得る者’とは‘信仰によって最後まで成就すること’を言い、‘白い衣’とは‘聖徒たちの正しい行ない’を意味する(黙19:8)。聖徒はこのような信仰と行ない、資格と条件が備えられた時にのみ聖霊を受けることができる。

現代教会がこの間聖霊を喪失してしまったのは、与えられた環境を、自分の合理化もしくは名分によって、神の御言葉を最後まで信仰によって守れなかった結果である。故に聖書は、聖徒たちが如何なる状況や環境であれ、信仰で打ち勝ち、キリスト者としての香りと行ないが守られる時に聖霊を受けられるのだと、その方法を提示しているのである。

● 聖霊によって歩むことは、いのちの書に記されることである。いのちの書に記されると言うのは象徴で、つまり聖霊によって歩むことを言うのだ。

“悪霊どもがあなたがたに服従するからと言って、喜んではなりません。あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。”  (ルカ10:20)

“わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです”(マタイ12:28)

上記の御言葉のように、悪霊は聖霊の力で追い出すのである。このように聖霊によって悪霊を追い出すなら、いのちの書(天の御国)に記録されるのである。これはすでに聖霊を受けたことであり、天の御国が臨んだという意味だ。この二つの節を総合してみると、聖霊によって歩まなければいのちの書に記されないと言うことがわかる。悪霊を追い出すのは、聖霊がある時にのみ可能なことであり、聖霊充満は、自動的にいのちの書に記される。

いのちの書に記された者、即ち聖霊がある時に、聖なる都エルサレム(聖霊充満、聖霊の中での義、平和、喜びの天の御国)に入れるのであって、聖霊がなければ入ることはできない。

“すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りを行う者…”(黙21:27)等、このようなことを行う者たちは、聖霊を受けることはできない。小羊のいのちの書に記された者だけが入れると言うのは、聖霊に満たされた者だけが、天の御国を心の中で経験できるからである。

天の御国は、聖霊の中で義、平和、喜びを築くことであり(ローマ14:17)、聖霊を受けた聖徒の心霊の中で起こる聖霊の様子を、形而上学的比喩(Metaphysical-simile)として表現したものだ。

[4] 旧約には再臨に対する御言葉は言及されていない

旧約には、イエス・キリストの誕生と使役は預言されているが、再臨に対しては一言も言及されていない。旧約は新約の雛型であり影であるため、新約にあるすべての御言葉は、必ず旧約に象徴として表現されている。

“食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日…これらは後に来るものの影であって…”(コロサイ2:16-17)

“律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから…”(へブル10:1)

“その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって…”(へブル8:5)

たとえば説教をする時、新約にある御言葉を、旧約の象徴となる御言葉と、対として合わせることができなければ、その説教は完全な説教とは言えない。それはただ人間の知識と知恵から出た仮説に過ぎない。

“主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである”(イザヤ34:16)

こうした観点で見る時、何故それほど重要なキリスト教の再臨観が、旧約でなぜ言及されていないのか?むしろ旧約では、聖霊の降臨については数多くの預言をしている。

“その後わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言をし、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。…”(ヨエル2:28~)

“その上(地)の民に息を与え、この上を歩く者に霊を授けた神なる主は…”(イザヤ42:5)

“その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である…”(イザヤ11:2)

“わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ…”(エゼキエル36:27)

“わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす”(イザヤ42:1)

上記した全ての御言葉は、聖霊の降臨について述べているにもかかわらず、我々はこれまで聖霊の降臨を、キリストの肉での再臨だと言う間違った理解をしていたのだ。

[5] 聖書の文脈上で見れば、イエス・キリストはすでに再臨され、我々と共にいると書いてある

“キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父も御子をも持っています”(Ⅱヨハネ1:9)

教えのうちにとどまる者はすでに御子(イエス・キリスト)を持っていると言い、教えのうちにとどまらない者は御子を持っていないと言った。教えのうちにとどまる時にのみ、イエス・キリストは降臨されるという意味だ。

  “真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。”(Ⅱヨハネ1:3)

この御言葉は、真理と愛がある時はいつでも常に聖霊が来るという約束であり、条件(愛と真理)さえ合えばいつでも来られるということだ。真理と愛の中にいる聖徒の心霊に、聖霊 (キリスト) は共におられるという意味である。

“あなたがたは初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなた方も御子および御父のうちにとどまるのです”  (Ⅰヨハネ2:24)

“神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神がわたしたちに与えてくださった御霊によって知るのです”  (Ⅰヨハネ3:24)

“私たちの交わりとは、御父および  御子イエス・キリストとの交わりです”(Ⅰヨハネ1:3)

“見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”(黙3:20)

上の御言葉は文脈的に見れば、イエス・キリストはすでにこの地に再臨され我々と共におられ、このように心の戸を開ける者、聖霊の声に従順する者に、イエス・キリストは今も聖霊として来られ、働いておられるという御言葉だ。

このように、聖書解釈自体はひとつの独立した神学であるが、問題はその解釈が聖書的なのかである。聖書にある全ての預言を文字のまま、我々の周辺の具体的な状況と同一視した解釈は絶対に危険である。これは聖霊の導きと教えの中で悟るもので、人間の知恵と知識で解釈し断定することは、明らかに非聖書的な解釈方法である。

黙示録とは何か

1) 黙示録の定義

黙示録は、外的なことと内的な象徴についての預言書である。

● 外的には、現実世界で起こる世界の全ての歴史は、聖書の黙示録に基づいて成就してきた。また今も成就し、今後も成就し続けることを表わしている。

● 内的には、聖徒たちの内面の世界、即ち心霊で起こる事柄を語っている。

サタンは、キリストの国を立てようとする神の御心に絶え間なく対抗しているが、結局は、主が悪の勢力を滅ぼし神の国を立てられる。こうした悪との戦いは、聖霊に満たされることで終結され、神の意図される聖霊統治(神政国家)が成し遂げられることを比喩で語られたのである。

2) 黙示録の目的
一般的に神学で説明しているように

①我々が受けやすい霊的試練を悟らせて下さるため

②悪の闘いを説明するため

③闇の勢力に対する聖霊の最後の勝利を確信させることで、神が我々を慰めるために書かれたものである。

ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン