携挙とは
あの時の約束のその霊は、公生涯を終え復活されたイエス・キリストであり、
その方は聖霊であられ、その霊は私たちの心に注がれ、私たちの導き手となった。
1. イエス・キリストは即ち聖霊であられる
イエス・キリストの使役は、1次と2次に亙り使役が分かれている。
1次はこの地での使役、つまり二千年前のユダヤの国での使役を言い、2次は復活昇天後の使役を言う。
● 一次使役の目的
人間の堕落後、神 (創造主) は救いのわざとしてイエス・キリストを送って下さり、堕落した人間を回復させることを、数多くの御言葉と預言によって約束された。“律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから”(へブル 10:1)と語られているように、イスラエルという国を通して、象徴として後に到来する雛型 (聖霊) を、律法(捧げ物の規定、聖幕論、例祭、新月、安息日…)によって仕えるようにされた。その方が来られ、神が語られた全ての預言と約束を果たし応じることによって、神の御言葉が事実であったことを確認させて下さった。これが1次使役の目的である。
● 二次使役の目的
イエス・キリストは肉においては死なれたが、霊においては復活されたので、この時こそ本当に重要で永遠なる霊の使役が始まった。神の残りの約束である、わたしの霊でアダム以前へと人間を回復させるということが残っているため、このためにイエス・キリストは‘生きた霊’(生かす御霊,Ⅰコリント 15:45)として来られ、私たちの心に注がれ、今も私たちの中で私たちを導かれ、私たちと永遠に共におられるのである。
イエス様が‘生きた霊’として来られた理由
① 神が預言され語られた、贖いのわざが進行中であるため、‘生きた霊’ として来られ、私たちを導いて下さっている。この贖いのわざは人類が全て救われるまで永遠に進行される。
② 罪の問題を処理して下さるために来られた。
③ 私たちの弱さを知り、私たちを助けるために来られた。
・ あの時の約束のその霊は公生涯を終えられ
① イエス・キリストが歩まれた3年間の公生涯は肉の使役を指す。この使役は罪を背負う使役。
② 子羊の血を流す使役。
③ 神が、旧約からバプテスマのヨハネまで、語り預言された全てのことを応じ果たす使役。
④ 救いの見本を自ら私たちに見せて下さった使役。
イエス・キリストが、自ら身をもって果たされたのは、神の御言葉を全て応じ果たすことで、神の御言葉が事実であることを立証し、それによって神の栄光が現われる時はじめて肉の使役が終わるのである。
“イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。”(ヨハネ 7:39)
こう語られているように、肉の使役を果たしている公生涯の過程では、まだ弟子たちに聖霊は臨まれない。イエス・キリストが肉で死なれてはじめて霊の使役が始まる。この時から聖霊の役事が始まるため、イエス・キリストも“わたしが去って行くことは、あなた方にとって益なのです”(ヨハネ 16:7)と言われたのである。十字架で苦難を受けた後“完了した”(ヨハネ 19:30)と言われ死なれた。この御言葉は肉の使役の終結と共に、霊の使役としての始まりを意味している。
ではイエス・キリストは如何にして、肉にありながら霊の権勢を受けられたのか?
それは、苦難と従順であった。“キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ…多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ…”(へブル 5:7-9, ピリピ 2:7-11)キリストは人としてこの世におられた時にも、苦難と従順によって完全となられた。
・ 復活されたイエス・キリストであられ
イエス・キリストは人としておられる時にも、今後霊として来ることを知り、弟子たちに‘聖霊を受けなさい’ と言われた (ヨハネ 20:22)。十字架で死なれた後、復活されたイエス・キリストは(Ⅰペテロ 3:18)‘生かす御霊’即ち‘生きた霊’となり(Ⅰコリント 15:45)再び私たちの所に来られた。このように今や聖霊の時代が到来したのである。
・ その方は聖霊であられ
“肉においては死に渡され、霊においては生かされて…”(Ⅰペテロ 3:18)とあるように、霊として復活されたイエス・キリストは今や聖霊として来られ、神が約束された贖いのわざ、つまり堕落した人間をアダム以前へと回復すべき使命を果たしておられる。私たちの弱さを知り、私たちのためにとりなして下さり(ローマ 8:26)、私たちと永遠に共におられるのである (ヨハネ 14:16)。
・ その霊は私たちの心に注がれ、私たちの導き手となった
神は、旧約を通してメシアについて証し預言されると同時に、聖神(聖霊)つまり ‘霊’ のことを語られた。これは即ち聖霊の時代となることを預言されたのだ。その霊を私たちの心に注ぐと言われ(イザヤ 32:15 ,ヨエル 2:28)、“主の名を呼ぶものはみな救われる” と語られた(使徒 2:21)。
“生まれながらの人間(肉に属するもの)は、神の御霊に属することを受け入れません・・・”(Ⅰコリント 2:14)とあるように、霊として来られる方を、肉をもっては受け入れることはできない。ただ信仰によって聖霊を受けることができ(ガラテヤ 3:14, ヨハネ7:39)、その方の導きを得ることができるため、新しい御霊によって仕えよと言われたのだ(ローマ 7:6)。旧約の時は神に律法によって仕えたが、今は聖霊によって仕えるのである。
キリスト教では聖霊の位置を、イエス・キリストが体をもって再臨されるまで聖徒たちを助ける程度にしか認識していない。これは三位一体とロゴスを否認するのと同じだ。“助け主がいつまでもあなた方と共におられる…”(ヨハネ 14:16)という御言葉が、もしイエス・キリストの体をもっての再臨を語ったのであるなら、どうして永遠にあなた方と共におられると、聖霊を語ることができるだろうか?
人間がここで、イエス・キリストと聖霊を二分化させたために誤解をしたのだ。
肉として1次使役を果たされたイエス・キリストと、霊として降臨され2次使役を果たしておられるイエス・キリストは、同一の方である。
イエス・キリストは即ち、聖霊である。
この方は肉においては死なれ、霊として降臨され、今も私たちに、先生、引導者、牧者、謀士長、知恵、預言、力、等様々な形をもって、様々な状況の中で私たちを助けて下さり、永遠に私たちと共におられる。これをまさに再臨と言うのである。
2. 天国とは
聖書の天の御国 (天国) は、我々が一般的に考えるようなそうした所ではない。ここにある、あそこにあると、肉の目で見えるように築かれるのではなく、私たちの心の中にあると言っている。
“神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです”(ルカ 17:20-21)
このように天国は、人間が想像する天の遠いどこかにあるのではなく、私たちの心の中で聖霊によって義と平和と喜びが築かれる時、これを ‘神の国’ と言われた。
“神の国は…義と平和と聖霊による喜びだからです”(ローマ 14:17)
マタイの福音書では、10種類余りの比喩で心の天国を表現された。信仰によって聖霊に満たされた心霊に築かれると言われたにもかかわらず、無理に想像の天国を作り出したのだ。人間の知恵では決して悟り得ないのが聖書の御言葉である。私的に解釈してはならないのは、彼らには知ることを許されなかったことを知るべきだ。
“たとえを使わずには何もお話しにならなかった” (マタイ 13:34, マルコ 4:11-12)
この御言葉は、全てが比喩であり象徴で、その隠された意味は聖霊を通してのみ御言葉が照明されるためだ。
救い (聖霊) は、誰でも主の名を呼ぶものに成し遂げられる。だが救いは受けられる条件を備えた者に臨むのであって、条件だけ備われば誰にでも聖霊は臨まれ、その聖霊の導きの中で聖書解釈が可能なのである。
ユダヤ人たちが今でもメシアを待ち焦がれているように、キリスト教も彼らのように再臨のイエスと想像の天国を待っているが、聖書では ‘聖霊に満たされなさい’(エペソ 5:18)と言われ、これを天国だと言われた。
3. 旧約では再臨というのはない
旧約では、直接聖徒の心に聖霊によって降臨されると言われただけで、再臨に対しては全く言及されていない。
“わたしの霊をあなたがたのうちに授け…” (エゼキエル 36:27)
“上から霊が私たちに注がれ…” (イザヤ 32:15)
“神の霊である主の霊が、わたしたちの上にある。主はわたしに油を注ぎ…” (イザヤ 61:1)
旧約では、我々が理解している再臨ではなく、聖霊降臨を語っている。(イザヤ 61-1-3)
神の究極的な目的は、人間の救いのために、聖霊を永遠に私たちのそばに送ると言う御言葉である (ヨハネ 14:16)。私たちの弱さを知っておられる神は、聖霊を通し助けると言う計画を語って下さったのだ (マタイ 8:17)。つまり神は人間の救いが目的であり、聖霊は目的のための手段と言うことで、聖霊を通して人間の救いを成し遂げると言う御言葉なのである。
たとえば、人が商売をしようとすれば資金が必要なように、霊的生活を営むには必須的に聖霊が必要であるため、神は聖霊を通して助けると言われるのだ。旧約では再臨と言う用語は一言も言及されてはいない。イエス・キリストの誕生と死を預言し、あくまでも聖霊によって聖徒を助け、救うと言う約束をされた。これは即ち、イエス様の肉身の再臨ではなく、聖霊としてイエス様が再臨されることを語られたのである。
4. 聖霊だけの永遠性
“ 助け主をあなた方にお与えになります。その助け主がいつまでもあなた方と共におられるためです” (ヨハネ 14:16)
“見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます” (マタイ 28:20)
もしも、終末論者たちが望む肉身の再臨として来られるならば、なぜ聖霊が永遠にともにいると言われたのだろうか。肉身として再臨されればイエス様が直接統べ治められ、聖霊は退くはずだが、なぜ聖霊が全面的にずっと (永遠に) おられ、聖徒を助けると言われたのだろうか?
この御言葉の内容は、肉身の再臨ではなく聖霊降臨を語られたのである。聖霊だけが創世から終わりの時まで永遠に存在するという御言葉であり、イエス様は聖霊として降臨され、永遠に私たちと共におられるという意味である。
5. 主が来られるまでさばいてはならない
“ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません” (Ⅰコリント 4:5)
‘主が来られるまで’ とは、聖霊が来られて義について、罪について、さばきについて語られ、全てのことを教え、思い起こさせ、聖徒を導くと言う御言葉である (ヨハネ 16:8-10, ヨハネ 14:26)。即ち聖霊として降臨され、聖徒たちを教え悟してあげるゆえ、聖霊が来るまで待っていなさいと言う意味だ。‘さばいてはならない’ と言うのは、聖霊が来られ、聖徒に全てのことを教え思い起こさせるゆえ、先走って人間の知恵と人本を使うなと言う意味である。
キリスト教は、再臨されてもいないのに非常に多くのさばきをしている。韓国キリスト教の病弊である異端論は、主が来られるまで何事もさばいてはならないと言う御言葉に、真っ向から違反するのではないのか。肉身の再臨を信ずる聖徒なら、再臨される時まで口をつぐむのは勿論のこと、心でもさばいてはならないのに、それでもさばくのは何故なのか。
今のキリスト教の現実は、多くのプログラムと制度等を作って教会に適用してみてはいるが、信徒数は多くとも質的な面は異邦宗教にも及ばないのが事実だ。教会で使われる多くの制度とプログラム等が、祈りの中で出た聖霊の導きであったのか、それとも人間の知恵から出たものなのか聞いてみたい。
6. 御言葉が実現されない理由 (イエス様はうそつきなのか)
“ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます” (マタイ 16:28)
‘ここに立っている人々の中には’ とは、二千年前イエス様と共にいた弟子たちに語られた御言葉だ。しかし二千年が過ぎた今も、再臨を待ち望んでいるが来られていない。文字通り解釈すればこの御言葉はうそになる。キリスト教が一般的に考えるのは、イエス様が復活され、40日間弟子たちと生活されたのをもって、弟子たちに見せたではないかと誤った解釈をしているが、これは復活されたイエス様であって、神のもとに上がって行き、王権を持って下って来られた方ではなかった。
“わたしはまだ父のもとに上がっていないからです” (ヨハネ 20:17) という御言葉は、まだ天使たちを従えて王権を持って再臨されたイエス様ではないという意味だ。ではイエス様はうそを言われたのか?これは、聖霊として現われると語られた御言葉を、誤った解釈をして誤謬を犯したのだ。
“その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人々は…わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。” (ヨハネ 14:20-21)
この御言葉は、新しい戒めである愛を心霊に築いた聖徒に、イエス様は聖霊として再臨するという意味なのに、比喩と象徴で語られた御言葉を文字のまま解釈したため、今でもその聖書の内容が成就しないのだ。
● ‘その日’ とは何か
我々が理解している終末の日ではなく ‘聖霊を受ける日’ 即ち、聖霊が降臨される日を言われた。その日には三位一体が成立する如く “わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります” と語られた (ヨハネ 14:20)。
7. 三位一体
聖霊に対するキリスト教の通念は、‘キリストが復活昇天された後に、世に残ってキリストの福音を伝える聖徒たちの間で働かれ、キリストの体となる教会を成長させ、将来、神国が完成される時まで働かれる’と考えているのが一般的な教理だ。だが我々は‘一体’という言葉を通し、聖霊の役割が何であるかを調べてみよう。御父の神は、天地を創造される時、御子のうちでともにあったと聖書は言っている。
“この方は、初めに神とともにおられた” (ヨハネ1:2-3) とあり、“造られた全てのものより先に生まれた方” (コロサイ 1:15-16) とあるように、聖霊はすでに天地を創造する時にも、そこに共におられた(創1:2)。御父、御子、御霊はいつでも共に働かれる。
● ‘三位一体’ の意味を見れば
三位:ギリシャ語で ‘トリアス ヒュポスタシス’、ラテン語で ‘トリニタス ベルソナ’ だ。これを英語で訳すと ‘Tres Personae’ という言葉で ‘3つがそれぞれ独立して存在している’ という意味だ。
一体:ギリシャ語で ‘ミアウシア’、ラテン語で ‘ウナ スブスタンツィア’ だ。この英訳は ‘One Substance’ という言葉で、‘3方が各々の独立的人格性を持ちながら、その本体は一つ’ という意味だ。即ち ‘御父、御子、御霊は一体であり一つ’ という ‘三位一体’ が成立する。
御父の神は、数多くの約束を子 (御子) の時に果たすと、預言によって約束された。御子イエス・キリストは来られ、父の全ての約束に応じ、また聖霊を約束して行かれた。
“助け主、即ち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…” (ヨハネ 14:26)
“その方、すなわち真理の御霊が来ると…” (ヨハネ 16:13, ヨハネ 14:18-21)
再臨の約束とは、聖霊として来られることを約束されたのだ。
御父、御子、御霊は神であられる。御父も神、御子も神、御霊も神であられる。
ならば、聖霊降臨は御父が来られたのであり、また、御子キリストが降臨されたのと同じ意味である。聖霊降臨はキリストが来られたのである。
これが即ち、三位一体(trinity)である。
キリスト教はこれまで‘三位一体’ではなく、イエス様と聖霊を分離した ‘二位一体’ 信仰をしてきた。このように聖霊降臨をイエス様の再臨と認めないなら、‘三位一体’ を認めないことであり、これは即ち、ロゴスを否認することである。
● 神学がロゴスを成立させた過程
一般的に神学ではロゴスをこのように説明している。
ヨハネの福音書1章1節の御言葉によれば、“初めにことば(Logos)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった” とあり、ヨハネの福音書1章14節では、“ことばは人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた” とあるが、ここに Logos に対する説明と啓示が表われる方法が説明されている。
①ロゴスは神とともにあったゆえ永遠に存在する。
②そのロゴスは神だ。
③その神が人の体を着けられた。これが聖肉身 (受肉) だ。
④その肉身を着た神は、私たちとともに住まわれる。
⑤ヨハネの福音書1章18節によれば、本来神を見たものはなく、ひとり子であるロゴスが神を現してくださった。
即ち、神を啓示してくれたと言う。
このようにしてロゴスを成立させているが、その中の4番目 ‘その肉身を着た神は、私たちとともに住まわれる’ と言うこの御言葉を否認することになる。これは即ち、三位一体とロゴスを否認することだ。肉の再臨を待つことは、すでに来られている聖霊を否認するのと同じである。
マルコの屋上の間で、120人の兄弟が心を合わせ祈りに専念していた時、炎のような舌が表われ聖霊の役事が始まった五旬節の日以後、今日までこうした聖霊の役事が絶え間なく成されている事実を悟るべきだろう。
上記のように、イエスの再臨は肉の再臨ではなく、キリストの霊である聖霊として来られ、聖霊の力によって苦難と苦労から救って下さり、私たちの弱さを助け、神との関係を仲保して下さるのである。今もキリストは霊として再臨され、現代文明を生きていく我々を、神の摂理に従って各個人を聖霊で導いて下さっている。聖霊は愛の土台の上に降臨されるため、イエス様は、他宗教のように倫理や道徳的規範、指針を下さず、ただ愛ひとつを強調された。
聖霊のない教会や聖徒は、信仰をどのようにすべきかさえわからず漂っている。今日のキリスト教信仰は、イエスを信じることが、死んでから救われるための手段へと転落してしまった。今、キリスト教は誤った道から戻り、ただ聖霊の教えと導きの中で、聖霊の照明下で聖書を正しく悟り、今は勿論のこと、これからも永遠に私たちと共におられるイエス様を正しく証しすべきだ。世紀末の終末と再臨論が横行する混沌と混乱のこの時代に、キリスト教が真理をはっきり提示してこそ、聖徒たちは正しい信仰と価値観を持って生きていくことができるのである。
“今から誰であれ、この御言葉これ以外に、イエスの再臨、終末を証しするなら、神の御怒りとわざわいが霊肉ともにあるであろう。
聖霊の語られる声を聞きなさい。アーメン 主イエスよ、成就し賜え。”
ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ アーメン