イエスの血は聖霊だ

我々はほとんど‘イエスの血’と言えば‘イエス・キリストが十字架上で血を流され死なれた、犠牲の血だけを考え、その血の代価によって我々は信じさえすれば罪が赦され救われる’と言う、抽象的な聖書知識を持っている。悪霊を追い出す時にも、それに対する真の意味もわからないまま、イエスの血!イエスの血!と叫ぶ、多くの教役者や信徒たちをこれまで多く見てきた。

これはまるで、薬を買って手に握ってさえいれば病気が治ると言っているような無知である。病気が治ることを願うなら、手にあるその薬を飲まなければならない。それと同じで、何の意味もなく、イエスの血!と言うのではなく、その意味は何なのか、また、私にどのように適用されるのかをはっきりと知り、‘イエスの血’が、なぜ‘聖霊’となるかについて、聖書に基づいて次のように追論してみよう。

[追論 1 ]

(1) 血はいのちだ

“そのいのちである血のままで食べてはならない。

あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する”(創 9:4-5)

(創造主) は、血のままで食べてはならないと命令され、その理由は、血はいのちであるからだと言われた。

“肉のいのちは血の中にある…”

“すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである”  (レビ17:11,14)

よって、血はいのちであることがわかる。
    血=いのち

(2) いのちはキリストだと言った

“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです”  (ヨハネ14:6)

ここで‘わたし’と言うのはキリストを指し、イエス・キリストはいのちを意味する。

“わたしのいのちであるキリストが…”  (コロサイ3:4)

このように、いのちはキリストであることがわかる。

いのちは即ち、キリストだと言う御言葉だ。

    いのち=キリスト

(3) キリストは聖霊だ

‘三位一体’に立脚すれば、キリストと聖霊は一つだ。

“神は…御子の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました” (ガラテヤ4:6)

“その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが…” (ヨハネ14:20)

上記の御言葉でも証しされるように、イエス・キリストは私たちの内におられる聖霊を語っている。

    キリスト=聖霊

(4) いのちは聖霊だ

“キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理…”  (ローマ8:2)

この御言葉の意味は‘御霊の原理はいのちだ’と言ってもよいだろう。

“御霊による思いは、いのちと平安です”  (ローマ8:6)

(上記の御言葉を総合して追論すれば次の図のようになる。)

上の図のように‘イエスの血’は即ち、聖霊だという公式が成立するのである。

[ 追論 2 ]

(1)‘イエスの血’ [ 契約の血 (マタイ26:28,ルカ22:20)] は聖霊だ

‘神が、旧約で人類を救うと預言された約束は、イエス・キリストを通して成就した。これは、人類の犠牲の羊として十字架で血を流して死なれた、イエス・キリストの功労によって救われる’と一般的には考える。これは間違った意味ではないが、しかしそれだけでは完全な使役(契約:2次使役があるため)を全て遂げたのではない。これは十字架で死なれた、それ自体に効果がないと言うのではなく、イエス・キリストの使役の中の1次使役は完遂されたが、2次使役があるため、それだけでは完全な使役の完成ではないという意味だ。(‘携挙1’参照)

聖書を留意して見れば、こう表現するのがもっと正確だ。イエス・キリストが十字架で血を流されて死なれたそれ自体よりは、血を流されたその功労(代価)によって聖霊が来られ、この聖霊によって人類の贖いのわざが完成された。

聖書では、神は、血を流された代価として、イエス・キリストを高く上げ、すべての名に勝る名を与え、すべてのものがイエスの御名にひざをかがめるようにされた(ピリピ2:8-11)とある。その代価によって、約束された聖霊を父(神)から受け、注いで下さった(使2:33)

“神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて…” (使2:33)

この御言葉の意味はたとえば、シンチョン (女性の名前) が米300俵を受け取る代価として、水の中に落ちて供え物になったのと同じだ。(家族のために米300俵と引き替えに自分の命を犠牲にした娘の物語)もし水に落ちて供え物になっただけで、米300俵をもらえなかったなら、この契約はシンチョンにとっては、しようとしなかろうと何の意味もない契約だ。この喩で、シンチョンが水の中に落ちる条件を、イエス・キリストの血を流す条件だとするならば、米300俵をもらう代価は、血を流された代価によって受ける聖霊だと言える。

この比喩のように、イエス・キリストの流された血の代価とは、即ち、聖霊だと語られている。それでイエス・キリストも、わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです (ヨハネ16:7)と言われた。それは、わたしが死んで(十字架で血を流して)はじめて聖霊(助け主)を送って下さると言う御言葉である。これはイエス・キリストが遺言として、父の約束されたもの、即ち、血を流す窮極点である聖霊を待ちなさいと言われたのである(ルカ24:49,使1:4)。このように、イエス・キリストの契約の血の窮極点は、まさに聖霊なのである。

(2) 聖霊をなぜ約束だと聖書は言っているのか

前記したように、聖霊は流された血の代価 (功労) である(使2:33)。神が人類救いのために、この聖霊を送ってくださると、旧約の時から数多くの約束をされた。

“上から霊が私たちに注がれ…” (イザヤ32:15)

“その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ” (ヨエル2:28)

このように、神が約束された最終窮極点が聖霊であるため、聖書では約束の聖霊と言ったのだ。

“約束の聖霊をもって…”  (エペソ1:13)

“御父から約束された聖霊を…”  (使2:33)

“約束の御霊を…”  (ガラテヤ3:14)

“新しい契約…”  (Ⅱコリント3:6)

それでイエス・キリストも弟子たちに遺言として、聖霊を受けなさいと言われた。

“さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものを  あなたがたに送ります…”  (ルカ24:49)

“父の約束を待ちなさい…もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです”  (使1:4-5)

結局、神が約束された人類救いの最終窮極点は、イエス・キリストの流された血を通し、その代価として私たちに聖霊を送ってくださることだ(使2:33)。その理由は、この世で信仰を守るには、人間があまりにも弱いことを知っておられる神が、聖霊を通して私たちの弱さを十分に助けて下さることで、私たちが豊かにアダム以前のような新しい心へと回復できるようにして下さるという計画である。それで聖霊を受けなさいと言われたのである。これが即ち、キリストの再臨である。

[ 追論 3]

ヨハネの手紙第一5章7-8節を見ると、
御霊は真理だ
あかしするものが3つあり、御霊と水と血だと言っており
この3つが1つとなると言った

結局、この御言葉に基づいても、‘血’は‘聖霊’だと言うことがはっきりわかる。

このメッセージが、牧会者たちと、真に真理を求める聖徒たちの信仰に、多くの助けになればと思う次第です。

ハレルヤ! ただ主に栄光があれ  アーメン