韓国キリスト教が鞭打たれる理由 (1部) 2009. 5

私の父よ!
この国と人類はどこに向かっているのですか? 任された者たちはなぜここまで放置してきたのですか。父に向かって初めの愛を誓ったしもべたちは、みなどこにいるのですか。彼らの愛の誓いがたかが、この世の豊かさと自分の名を知らせる為の偽りの誓いだったのですか。彼らの告白も、その美しかった祈りや賛美も、全て偽りで、結局自分たちの目的を果たすためのへつらいだったのですか。あなたは子どもたちに、またそのように欺かれたのですか?

果たしてあなたを真実に敬畏し仕える民と国はどこにあるのですか?
なぜ、あなたが早くからこのしもべに、祖国を発ちなさいと言われたのかわかりました。それにもかかわらず、このしもべが最後まで固執したことを許してください。彼らは一向に、悟って癒されようとしない者たちです。古いものに安住し、自分も入れず人も入れないようにする妨害者たちに過ぎません。父よ! このしもべが固執したのは、どうにかして一つでも多く、あのしもべたちに伝えるためでした。

このしもべはひたすら、彼らが変えられることを願いました。ただ父の栄光と、福音について曲がって歪曲したものを、もう一度立てようと証し、また、父が願われる父の御心その通りを、命を尽くして伝えました。しかし彼らの頑なさが、彼らの真の知識を見る目と耳を塞ぎ、自ら闇の無知の中に閉じ込もりました。

父よ! しもべたちの心霊の中を占めていた父の聖所は一つ一つ壊されていき、もう安住する所がないと言われました。父よ、あなたは今やどこに行かれるのでしょうか。あなたは二千年間多くの国々を転々とされ、流浪彷徨されました。まるであっちこっち放浪し野宿する人の暮らしは、ほかでもない、父よあなたの暮らしと全く同じです。自分たちが子どもだと言う者たちに欺かれ、利用され、裏切られ、排斥される姿は、まるで人倫に背く背綸児が親をたたき出す、そんな仕打ちを受けられました。ひどく申し訳なくて、申し訳なくて、顔を上げて天を見上げることができません。

二千年前ユダヤ人たちは、主を犯罪者のように刑具に縛り、手と足に大釘を打ち付けましたが、今その背倫者たちは再び主のくちびるに大釘を打ち付けました。 父よ! 主がずっと以前、くちびるに釘を打たれたまま、このしもべの夢の中に現われて見せてくださいました。その時このしもべに、くちびるに打たれた釘を抜いてくれと、ねんごろに頼まれたそのことばは今も生々しく、その苦しみの戦慄を骨の髄まで感じています。このしもべはその時から、使徒パウロがダマスコで変えられたように、その背逆から変えられ、今日までその愛を変わらず保ってきました。

私の父よ!
あなたがこの時のために準備された、バアルにひざをかがめない七千人の勇士たちはどこにいてひっそりと黙っているのでしょうか。彼らは今何をしているのでしょうか。今まで七年間あなたの御言葉を聞いても、自分の安逸と身を満たすだけの者たちだったのですか? それでも、主に忠誠と命を尽くして仕えることを請願した者たちではなかったのですか?

その忠誠とは、聖殿を建て信徒をたくさん引き集めることが忠誠だったのですか。実にもどかしいばかりです。私の祖国に義人10人がいなくて滅びようとしています。このしもべは、1200万人の中で義人10人だけでも求めるためでした。これが、このしもべの唯一の欲でした。しかし彼らは、このしもべが肉の見える聖殿を拡張し、羊たちを引き集め、復興発展させようとこの世に出てきたと誤解しています。

父よ! このしもべはあなたのくちびるに打たれた釘を抜くために来たに過ぎません。それはあなたが、このできの悪い卑しいこのしもべを選び呼ばれた理由であることを知っています。このしもべの使命は、羊たちではなく、神に召された主のしもべたちです。その主のしもべたちが成功してこそキリスト教の希望があるからです。真実な真のしもべ10人には、数十万、数百万の羊の群れがあるではないですか。まるでこのしもべを、羊たちを強奪し奪うために来た強盗のように思わないようにしてください。

世界は今、災難と艱難の時代に突入しました。急いで防ぐことができるのは、ただ神のしもべたちしかいません。しかし彼らは真理に歩むにおいては盲目で、ただ、’平和だ、平和だ’と偽りの声を発するに過ぎません。世界の至る所で起こる災難や艱難は全て、神が創世の時から制定された真理を守らず、その法則から離脱したことで生じた当然なことなのに、人類はむしろ‘神は死んで、いない’と、大懐疑に陥っています。また‘愛の神がなぜ我々に平和をくれず、沈黙しておられるのか’と反論しています。みな神に対して少しも恐れていません。

キリスト教は、人類を何故この境地まで放置したのでしょう。今、誰がどのようにこの人類を救い出したらいいのでしょう。 父よ! もどかしいばかりです。果たして二千年間、主の栄光の為のキリスト教聖職者たちの熱心は、何の為の熱心だったのでしょうか? 明らかに主の栄光の為に忠誠を尽くしたのなら、今ごろは少なくとも、全ての人類をここまで虚妄な生の中で彷徨させる事はなかったでしょう。 父よ!

主の御言葉である真理は、安らぎと平和が一つ所で出会います。キリスト者たちの信仰なる、義の窮極は安らぎであり、真理に準ずることでの出会いは、愛なる憐れみです。ところが何故こんなにも薄情で、愛は見かけだけで干からびてしまったのですか。キリスト者たちは、この世に向けて真理である’愛’を知らせ、行なう、愛の基準でありモデルたちです。このモデルたちは、各々自分の場所の至る所で福音である愛を実践し、まずは家族、そして隣人へと進み、社会、地の果てまで愛を実践するモデルたちです。

このようにキリスト者たちが実践する小さな愛の行ないの一つ一つが、急速に朽ち行く人類の腐敗を塞ぎ、人類の明るい未来を開拓していく近道です。それが光と塩の役割であり、またキリスト者の使命ではないのですか。しかしキリスト者たちは、特に聖職者たちが主の戒めである愛を行なえなかったことで、この世に光と塩を現わせず、今日の闇と、朽ち腐敗したこの世を作り出したのです。彼らは光と塩がどんな意味かもわかっていません。ただ世俗の華麗なる名誉や、富貴と言う闇に馴らされています。くちびるでは光なる愛を証ししますが、行ないは肉なる闇を行なっています。

父よ! この時代ほど一人一人の心霊が疲れて弱り、残酷で悲惨な時代があったでしょうか。彼らは豊かさと安楽と名誉の奴隷となり、この世に目を抜かれ、手足をしっかりと縛られて、ぞろぞろとこの世に引きずられています。光の服を脱ぎ、世の闇に属した偽りとうわべだけの豪華で華麗な服を着て、思う存分品格を出していても、汚れと醜さに見るに忍びなく、どうしようもありません。何故にあれほどに空しいことを行ない、何故あれほどに空しさを追うのでしょう。

父よ! いつになったら、このように主のしもべたちや民たちが、この世の捕虜としてぞろぞろと引かれて行く行列が終わるのでしょうか。彼らは生きて食べて飲んで楽しむけれど、実状は腐った肉の塊に過ぎない者たちです。とても目を開けて見るには忍びなく、耳を塞ぎ目をそらせます。二千年前、荒野で叫んだ主の御言葉は、彼らの首の装飾用として飾られているに過ぎません。ただ幾つかの律法を行なっただけで自身の道理と責任を完遂したと自己満足する人たちです。その行ないは、自分はもとより神をも欺く欺瞞行為です。それが、あれほどにユダヤ人たちを責められた、のろわれたうわべ主義ではないのですか。

主日完遂や、若干の奉仕と犠牲、献金、施し、祈りで、自身が神を敬意し仕え尽くしたと自己満足することで、’これくらいならいいんじゃないか。私もやるだけはやった’と言う満足が、傲慢と驕慢を呼び寄せ、かえって神様と遠くなっていきます。常にキリスト信仰は、尽きない犠牲によって与えても与えても、常に足りなさが発見されるものです。すればするほど満足よりは咎を発見し、常に全てのことに申し訳なく、自分の足りなさゆえに全てが自分のせいで、本当に本当に申し訳ない。また一方では、その足りなさに苦しむ尽きぬ自責と、その自責が何かを得る尊さの喜びと幸福感に捕えられ、自責と満足の幸福感が共に共存する。父の戒めである愛をつかみ成す為に、更に心霊を哀痛するようにされ、私たちを謙遜へと引っ張って行かれます。従って信仰は時間が流れるほど驕慢は力を失い、謙遜の中で成長していき、その謙遜は人のものを受け入れ、従順へとつながるものであるのに、今日のキリスト者たちは、時間も時もわからない幼いロバの子のように、傲慢と独善によってわきまえることを知りません。

傲慢は全体を見ることができず、自分だけを基準にして、自分自身の知恵と知識によって判断、定罪の座にすわって満足する幼児的信仰であり、これは父の鞭に会うまでは一向に自分の足りなさと欠点を自ら認めない者たちです。傲慢は頑なを生み、頑なは真理を守ると言う真理守護名分の仮面であって、実は利己主義が本質です。

頑なの完成は極端的な利己主義です。利己主義は世の終わりであり、悪でぎっしり詰まった悪の充満であることがわりました。今がまさに父の審判されるその時です。ただ自分の利益しか考えない利己主義は悪の花です。これは夏の梅雨時、日差しのないじめじめした日陰で育つ毒キノコのように、善が停止した時のみ心霊で育つ悪の花です。この花が全人類と、世の主のしもべや民たちの各々の心霊に満開になっています。それは、キリスト教の命である聖霊の火が消えてしまった為です。

聖霊は、この世の全ての子どもたちが、悪につまずかないよう永遠に共に、誰でも呼び求め、探す者に現われて助けてくださるのに、聖霊が消滅してしまったため、その助けを受けられず、この世の善は停止しています。それに代わって悪で充満になり、悪が意気揚々と振舞っています。この世が悪で満たされる時ほど、主のしもべたちは聖霊に満たされて愛を噴出し、この世を善へと転移させなければなりません。これが光と塩の役割であり責任であるのに、そうした主のしもべたちは皆どこにいると言うのですか。まるで、大きな建物が火災になって消防士が出動したものの、その火を鎮火させる水が一滴もなくて、ただ眺めているしかない消防士のようです。どうして主のしもべが聖霊なく使命を果たすことができましょうか。

主のしもべとは、自分が好むと好まざるを得ず、その心霊に聖霊の火種を入れている器であり、その火種をこの世に転移させる者たちです。それはちょうどオリンピックの聖火リレーの走者のように、聖霊の火を持って目的地まで、山を越え水を渡り、雨風に打たれ運ぶ人たちであるゆえ、決して一人ではできません。みんな全部一緒に参与して行かなければなりません。

こうした聖霊の火が、マルコの屋上の間から始まり、使徒たちを通して西欧の多くの国、ローマ、ポルトガル、スペイン、ドイツ、イギリス、アメリカ・・・等々を渡り、約二千年ぶりに韓国にまで途切れることなくつながって来ました。その聖霊の火の手は、絶えることなく世界を全て回らなければなりません。最後に置くことにされたイスラエルを除く全ての国家、異邦人たちの充分な数がキリスト者と変えられ満ちれば、最後に除外されていた今のイスラエルに到着し、初めて彼らの頑なで頑固な心霊を、数年以内に聖霊の火で燃やすことでしょう。私たちがそうであったように、水と聖霊によって生まれ変わったイスラエルはその時はじめてアラブに対し、’私のせいです’と悔い改め、アラブ人の各々心霊の、黒雲のように真っ黒な怨恨のかんぬきと、のろいの分厚い壁を貫き、初めて和解と和合が成され、世界の平和を掘り起こして行くことでしょう。

その時初めて、ユダヤの選民思想である、我が民族だけの神と言うところから始まった民族優越主義、シオン主義の思想が完全に倒れ、神は誰でも信じ呼び求める者の、人類万民の神であることを知るようになり、独善と傲慢の民族優越主義から脱することでしょう。そして全世界どの民族にも澎湃している、世界平和の絶対的障害物である民族主義と民族優越主義が倒れ、世界万民平等主義が確実に座を占めることでしょう。

民族優越主義とは、他民族に対する差別性を言い、差別は常に国家間の不和を起こす爆弾の導火線と同じです。 父よ! 私たちは二千年の間、世界の所々でどんな事が恣行されて来たのか、世界の歴史を通してはっきりと見てきました。世界平和を遮っている絶対的障害要素は、全ての民族の心霊に深く深く根ざしている民族優越主義です。民族優越主義がある限り、世界平和は、人間の如何なる知恵や努力をもっても徒労となることでしょう。それはすでに数千年前バベルの塔の出来事で見た如く、結局は自分たちの目的に符合せずばらばらに散ることで、常に結論の幕を下ろします。

しかし聖霊の火は、私たちの心霊の間違った歪んだものをまっすぐにし、高いものを低く、低いものを高くして相互平地を作り、私たちを公義と平等へと導き、人間の罪と悪を浄化し消滅させる火です。それは罪悪の結果として来る、人類滅亡の災難や艱難を防ぎ、人類を罪悪の腐敗から守る防腐剤です。また、自分の民族だけが最高だと言う民族優越主義を打破し、人類平和を築く唯一無二なる方法です。従ってキリスト者たちは全て聖霊の運動性を消滅させず、また妨害しても、冒涜してもならず、逆らってもならないと告げられた理由でした。

もしキリスト教が、二千年間よそ見せずに忠誠を尽くして福音を伝えていたなら、聖霊の火はマラソンのリレーのように、バトンにバトンを引き継ぎ、今ごろは地球を何周も回っていたことでしょう。しかしその聖霊の火は、二千年の間地球の3分の2も今だ回れず、アメリカから引き継いだバトンを、韓国で次の走者に渡す事ができず、火はみな消え、若干の温もりしか残っていません。 見てください! 父よ!

韓国でこのように聖霊が消滅した直接的外的原因は異端論争でした。異端論争は教理の物差しを当てることで異端を塞ぐと言う名分でありましたが、実は正統、非正統と言う既得権の争いでした。

父よ! あなたははっきりと全ての罪は赦しがあるが、聖霊に関係したことは罪の赦しがないと宣布されましたが、異端論争によって聖霊を消滅させた韓国キリスト教のその罪が天に徹しました。

聖霊消滅によって、まだ福音を聞くことのできない人類の多くのたましいたちは、どれほどのどが詰まるほどに喚き立ち、絶望の中にあっても、わからない未来の漠然としたある何かを望み待っているのでしょうか。その、わからずに待っている希望の実体が、キリストの霊である聖霊であり、聖霊は人類を神に帰るようにし、全ての人類の霊魂を再び生かす命の源泉であり、また、全ての人類の念願である人類平和を築く唯一無二なるものです。ところが、こうした聖霊の火を韓国で消してしまいました。 父よ! 私たちの罪は大きいです。私たちの罪悪は大きいです。許してください。韓国を許してください。

聖霊の火種は自分のものではなく、その火種が集まって人類に伝える、人類が食べる命と善の糧であり、それは悪を塞ぎ善を行なうようにするエネルギーであります。こうした聖霊の火を消してしまったため、今の全人類の悪の猛烈な勢いを塞ぐことができず、また未来の悪を防備できないようにしてしまいました。従って人類の命である聖霊の火を消してしまった責任は全て、韓国キリスト教牧会者たち、特に聖霊運動をやった牧会者たちが受け持たなければならないその責任は、とても恐ろしくて言葉で表わす事ができません。 父よ! ひどく恐ろしく恐ろしいばかりです。彼らがどのように懲戒を受けるのか、このしもべは見ました。 父よあなたの御怒りを見ました。お許し下さい。

父よ! すでに神のみ怒りは始まり、聖霊のしもべたちを戒め懲らしめましたが、彼らは懲戒を軽くみて、何がどのように間違ったのか、その実態把握すらできずにいます。救いを叫んでいた主のしもべたちが、何故自分は救われず、望まない病によって死んで行くのか。主のしもべたちが倒れるのを見て羊たちは、むしろ、ちゃんと信じてもたいしたことはないと言って、多くの懐疑に陥り、主の懐から抜け出して、この世のどん底へと落ちています。

父よ! この世で自分を霊的だと言い、聖霊を叫んだしもべたちが、何故こうして望まない疾病や病魔によって死んでいくのか、その理由をはっきりと彼らが知って悟れるようにして下さい。また、今直ちに自分たちに災いがないと、かえって自分の信仰を合理化している彼らの無知蒙昧を許してください。彼らは、神が、決して傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、最後まで憐れみと誠実によって一貫される、生きておられる神であることを知らずにいます。やはり!あなたは憐れみの源泉であられます。人の子たちにその憐れみによって、傷ついた葦を折らず、消え行く燈心を消されないだけであるのに、彼らは何故これほどに、悔い改めることを望むあなたの心の奥をわからないのでしょう。

このしもべはすでに、あなたが語られた御言葉をそのまま全て彼らに伝えました。今や彼らは、自分たちが蒔き植えたものを刈り取らなければなりません。その責任の所在を各々に明らかに求められるでしょう。それは神を恐れない者たちに、神の生きておられることを現わし見せることで、神を畏れることの秩序へと再び回復されることです。それはこの時代を生きる全ての牧会者を通して代々子孫の教訓として残されることでしょう。これを通し、草はしおれ花は散る、しかし主のことばは永遠で、一度語られた御言葉は点一つまでも全て成し遂げ、成就されることを知らせてください。 父よ! どうか彼らがこのしもべを通して伝える神の御言葉の真意を悟るよう切に願います。 私の父よ! 彼らを父の懐に戻してください。

(2部へ続きます)

韓国キリスト教が鞭打たれる理由(2部)