"わたしを再び十字架につけるのか"

(2000年1月に発表されたメッセージ)

    21世紀を迎え韓国のキリスト教  (プロテスタント)  は、神(創造主)から、アジア及び世界宣教の責任を負うべき、重大な時代的使命を与えられている。それゆえ全世界に、霊的福音化の先鋒大将として新しく生まれ変わらなければいけない。アジアの中で、日本は偶像の国であり、中国は社会主義国家、インドネシアやマレーシアは回教国、インドはヒンドゥ-教、タイやベトナムは仏教国である。だが韓国は聖霊の体験と失敗があったため、霊的にも経験豊富な国であり、儒教、仏教、道教を経験し、各宗教の長短所をはっきりと知って対処していく事のできる長所がある。また、様々な宗教が対峙しながらも紛争がなく、互いの秩序を維持し、互いに共存できる知恵がある民族であり、アジアではキリスト教国家として見本を見せることのできる最高の適任国だ。

    韓国のキリスト教が、神が下さった時代的使命をきちんと果たして行くには、言葉だけで、どの宗教よりキリスト教が最高だと言うのではなく、その事実を行ないによって証し、他人のことも理解し包容してあげられる環境の土台作りが差し迫った課題だ。キリスト教国家になるというのは、福音 (神学、力) と共に、神からその所有である豊かな物質と、世界最強の国力を与えられることを意味する。(例:ヨーロッパやアメリカ等の国々のように)

“その主人は彼に、自分の全財産を任せるようになります”  (マタイ 24:47)

    神はこれまで、いろいろな民族を通して、そのしもべの使命を任せられた。使命をきちんと果たせない時には、その全ての所有を再び奪って行くと言うことは、過去の歴史を通してわかっている事実だ。このように、韓国のキリスト教が用いられ捨てられないためには、神所有のぶどう園を任されたしもべとして、万般の準備をしなければならない。今や21世紀、韓国の未来の成敗可否は、我々キリスト教がどうするかによって、祝福を受けるのか、それとも鞭打たれるのかが決定されることを心すべきである。これまで韓国教会は、量的な面では目覚しい成長をしたが、質的には成長できなかった大きな障害要因の中で、次の2つだけを言及しよう。

① 教派主義の混乱を防ぐには、聖書の正しい霊的解釈が必要である。

② キリスト教の最も大きい病弊である異端論の廃止

1. 霊的解釈の必要性

    キリスト教史で見て、過去二千年間多くの霊的成長をしたと考えているが、使徒時代以後これまで霊的な成長は停滞していた。実に今から霊的成長が絶対的に必要な時期である。教会は霊的にある時、教会としての本分を果たすことができ、教会だと言える。

    たとえば、キリスト教は、かごに卵を産む鶏に喩えられる。ユダヤ教を通した律法の歴史が、雌鳥が卵を卵巣の中で排卵する過程だとすれば、イエス様の誕生と復活、そして聖霊降臨の役事は、その排卵したものが成長して卵を産むのと同じだ。そしてイエス様以後の二千年間のキリスト教の歴史が、産卵した卵を孵化させるため、鶏がその産んだ卵を懐に抱いている過程であるとするなら、今21世紀を迎えたキリスト教の姿は、卵からかえり出てこようとする、ひよこの孵化のように、温度と環境  (西洋哲学と迫害、文明と世俗との戦い等)  の変化を通した霊的な孵化の過程にある。卵から孵化し割って出てきたなら、21世紀からは霊的な活動が始まるのである。

    今の人類は、限りなく駆け上がるだけの科学文明の中では、人間の価値観は失われ、そして今後如何なる宗教も、文明と共に変わり行く徹底した実用主義の前には、実効を上げる事はできない。霊的なものでない ‘道徳宗教’ や ‘律法宗教’ は、人間の文明の前では無力と化すだろう。つまり倒れてしまうと言うことだ。こうした文明社会で存在できる宗教は、精神的なもの追求する宗教と、霊的な宗教しか残らない。キリスト教も、文明社会で存在できる唯一の方法は、霊的に変わることである。

    今のような聖霊のない ‘肉的な教会’  (人間の知恵と知識、または律法的なことだけを追求する教会)  は、限りなく変わり行く文明の前には、教会としての機能と役割は喪失してしまう。そして今後、聖霊のない肉的な教会が生き残るために、二種類の様相の教会が出てくる。

    それは、自分たちの教理を死守するために、閉鎖的教会となるか  (現教派主義体制)、文明と世の要求に妥協して世俗化するかである。すでに多くの教会が世俗化しこの路線をとっている。

    今や科学文明が極に達する21世紀には、人間はその文明に対する嫌悪と反感から、宗教を通して、喪失した人間の価値観と荒廃した精神を取り戻そうとする。その時は特に東洋思想   (宗教)  が大手を振るうであろう。キリスト教も、中世の時に異端に追いやられこれまで潜在していた神秘思想等が、いつかは再出現し大手を振るう時、キリスト教は如何にそれを対備し、解決するのか?

    今後起こるこうした状況に対して、準備し備えておかなければ、その時ではもう遅い。食い止めることのできない渦に巻かれ、聖霊のない肉的なキリスト教は立つ場所がないであろう。こうして近づく未来に対して備えるべき重要な時期に、キリスト教は暇そうに異端論争などしている時ではないことを強調しておきたい。今の肉的なキリスト教教理と論理では、他宗教を凌駕することはできない。彼らの質問に何の答弁も提示もしてあげられない、どうしようもない実力の水準であることを悟るべきだ。

    韓国、中国、日本の、倫理、道徳、価値観を導いてきた儒教が、現代文明の前に無力に倒れたように、キリスト教もやはり霊的に生まれ変わらなければ、儒教と同じ二の舞いを踏むだろう。キリスト教はただ霊的な時、即ち聖霊が役事する時にのみ、時代を超えた無限な力の中で、時代ごとに世の中に向け正しいことを提示してあげ、光と塩の役割を果たし、あらゆる他宗教を統制し導いて行けるのである。

1) 霊的な正しい解釈だけがキリスト教の葛藤を解消できる

    前記したように( ‘キリスト教失敗の原因’ )キリスト教教育政策の失敗は、聖書解釈の誤謬によって招いた。聖書の正しい解釈は、ただ聖霊の教えの中でのみ真の意味を悟れるのだが、御言葉の真の意味と象徴もわからないまま、霊的に無知な者たちが哲学の道具である論理にたより聖書を解釈し、聖徒たちに間違った教えをしてきたことで、キリスト教は混乱だけを加重した。

あのむなしい、だましごとの哲学によって…そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって…” (コロサイ 2:8)

 哲学の論理と知識による文字的、人本主義的な解釈方法が、結局、終末論を作り出した。そして天国と地獄、再臨という仮説を作り、聖徒たちに注入し広め、今日に至った。その枠がどれほど強く厚いことか、真実を説明し正しいことを示してあげても信じようとしない。こうした副作用は、聖書で我々が理解しているかのように、天国、地獄、再臨論等を霊的でなく文字的に無理に解こうとする高慢から始まった。

聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない”(Ⅱペテロ 1:20)

“無知な、心の定まらない人たちは…それらの手紙を歪曲し、自分自身に滅びを招いています”(Ⅱペテロ 3:16)

    そのように聖書を誰でもやたらに解釈できるのなら、生命の木を守る炎の剣の意味がない (創 3:24)。キリストは奥義であると言われたのに、誰でも簡単にわかるものなら奥義だと言う意味が全くないではないか  (コロサイ 4:3. エペソ 3:4)。聖書を私的に解いてはならないと言う意味は何を語っているのか(Ⅱペテロ 1:20)。倫理や道徳、律法的な肉の解釈では、神が語られる真理の真意に達することはできない。かえって全く違った方向へ逸れて行くだけだ。

    たとえば、宝捜しをする時、宝がAという地点にあるなら、B、C地点では決して見つけることはできない。それと同様で、聖書は霊的に解釈する時にのみ神が語ろうとされる御心を見つけられ、外的表現の中にある内的意味の真理の実体がわかるのである。ユダヤ教の聖書(旧約)解釈は至極文字的である。その文字がキリスト教の内で霊的に再び照明されたように、今、教会内での全ての聖書解釈は、霊的解釈が急を要する時だ。

    たとえば、遇像礼拝は、むさぼり貪欲(コロサイ 3:5)。鳩は聖霊(マタイ 3:16)。水は神の御言葉(エペソ 5:26)。虹は、契約(創 9:13)として象徴されることなどがあげられる。

    回教  (イスラム教)  はどうだろうか。我々キリスト教の立場で見れば、回教はモーセ5書だけをもって全体の信仰観、及び世界観を確立しようとする矛盾に陥っている。これは成長したところで奇形的な姿にしか映らない。神は愛であり、聖書全体がイエス様を証したものであり、聖霊 (愛) がキリスト教真理の精髄であるのに、モーセ5書だけをもって神全体を理解し説明しようとした結果、妙な宗教として誕生したのだ。これは即ち、聖書解釈の方法において、かなり多くの問題があったことがわかる。

    キリスト教が質的に成長することができなかった原因を探ってみると、霊的な深さがないために、非常に初歩的な知識や仮説を土台に、聖書を文字のまま解釈し疑問だけを増やした。そして自分が解釈したものだけを絶対化し、他人のものを認めようとしない独善があった。これはまるで、競技場で使う望遠鏡だけで、宇宙全体を見られると主張するような愚かで無知な話しである。聖書の真理は、ある特定な人によってのみ説明や証しされるのではない。表現する人によって変わることもなく、見る人の観点によって変化するものでもない。また、ある面を強調したり弱めたりしてもならない。ただ聖霊の照明下でのみ、真理の真の意味が分別されるのである。

2) 教理主義が生じた由来と矛盾と副作用

    これまで真理は、時代的に、シーソーゲームのように、必要に応じて降りたり上がったりする合理主義がもたらされ、教理主義の合理化のために片方だけを強調し過ぎたり、また真理が、一部知覚のない教派主義者たちによって徹底的に歪曲され、悪用されてきた。その良い実例が公課学習  (一連教育)  や要理  (重要な教理)  問答などである。これは各教派の主張する教理と時代の必要性により、真理  (創造主の御言葉)  を彼らの興味に合わせ悪用された代表的なことだ。

    初期のキリスト教時代には、異端を防ぐためと言う当面の課題の中で、キリスト論を定立する時期であったため、教理の絶対的な必要性があった。その当時には、信仰をどのようにしたら良いのか、方向性もなく安着していなかった。何も整理されたものが無かった為、教理  (キリスト論) を通してでしか、世俗化、又は ‘異邦宗教とキリスト教’ ‘哲学思想とキリスト教’ と言う、はっきりとした境界の範疇と囲いを定めるしかなかった。その当時は全てが広範囲で、混乱し、無知で、聖書普及が一般化されておらず、口伝えで福音を証したため、真理の毀損を防ぐにはある囲いが必要であった。だが、現代ではこうした教派主義者たちの教理はまるで、車が走っている高速道路に垣を張り、自動車を通れないようにするような、霊的成長の障害物となる結果を招いている。

    その当時にも聖霊は役事されたが、非常に広範囲で、キリスト論における聖霊の導きが漠然とし、異端思想や神秘思想に簡単に接ぎ合わされる危険があった。そしてギリシャ  (哲学) との戦いで信仰を守るには、教理が必要であった。だが現代では印刷技術の発達により聖書普及が一般化され、キリスト論がかなり整理された状態であるため、かえって教派主義が信仰において莫大な障害物となる。故に教派主義、教理を打破し、聖書中心へと帰らなければならない。

    教派主義とは、教理主義に立脚し成長したもので、聖霊の主管的な信仰をする者にとっては、各自の属する教派の教理と聖霊の導かれることが一致しないことで、かえってその教理によって混乱と副作用が起こり、遂には脱退してしまう。だが現代教会の教理主義はむしろ教派主義の合法性を提供している。聖霊のない御言葉中心の教会は、自己の合法性のために教派が必要であり、教派の庇護の下にある者たちはみな、自己の合法性を保護されるためにいる。これを指して ‘教主主義’ と言う。

    多くの信徒を率いる大型教会で見られるが、牧師が偶像化されていない教会がどこにあるか見てみよ。彼らはその保護を受けるため、教派という囲いを張りその中に安住している。バベルの塔の事件で、我々が散らされないようにしようとしたように、人間たちは共同体や団体、教派等を作り神に敵対しているという現実だ。

 多くの御言葉中心の教会が、恩賜教会や聖霊が役事するしもべたちを心配するが、一番大きな問題はむしろ聖霊が目やにほどすらもない御言葉中心の教会だ。聖霊の役事するしもべは誰も、教派や教理の制裁があるのを肌で感じるだろう。聖霊の役事に従おうとすると、聖書には一致するが教派の教理とは一致せず、教理に合わせ信仰しようとすれば、聖霊の役事がないという矛盾に気づく。聖霊が役事するしもべは誰も簡単に異端に陥ることはない。その理由は、聖霊の役事をする復興講師や牧師であっても、一旦罪を犯せば聖霊は去って行き、力が消滅するのを知っているからだ。聖霊の役事は、聖書の法に立脚した時のみ起こるのである。聖霊は罪に敏感なためだ。

3) 物質祝福の祈福信仰から脱し心霊の祝福へと転換すべきだ

    今日キリスト教が祈福信仰を通して物質の奴隷となった原因は、聖徒たちに向かう神の愛の可否を見積もる尺度が、物質の祝福であるかのように比重を置いて歪曲し、間違った聖書解釈によって教育した結果だ。聖書の ‘幸福の使信’(マタイ 5:3-12)は、肉として現われる物質の祝福ではなく、心霊の祝福について語っているのだ。それにもかかわらず、無理に物質の祝福につなげて解釈する傾向まである。聖書の数多くの祝福を、霊的な解釈よりは文字的にのみ解釈した結果、キリスト教が異邦宗教のように祈福信仰へと転落したのだ。

    勿論、我が国が経済的に困難であった、1950~1980年代の時代を生きた聖徒たちに、神の力による物質の祝福を強調せざるを得ない時代的状況は理解できる。しかしもう、肉的な祝福を信じ仰ぐ事が信仰の全てであるかのような信仰の幼児的段階から脱するべきだ。今や、聖徒たちが物質の祝福を通して神が生きておられることがわかったなら、祝福が物質の祝福だけにあるのではなく、真の神の祝福が心霊の祝福にあると言うことを悟り、霊の新しいもので神に仕えるよう、正しい信仰観を定立し提示してあげなければいけない。

“古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです”(ローマ 7:6)

4) 世界福音化のためには水準の高い霊的成長を目指すべきだ

    東洋哲学や他宗教の理性的で膨大な理論を、何によって説得し理解させるのだろうか!アジアの宗教は、西洋哲学より非常に水準が高く卓越した思想であり、その門は厚く非常に高いという事実を知るべきであろう。福音を伝える方法も順序と手順がある。どんなにキリスト教の良い御言葉も、今の肉的水準では異邦宗教の思想や教理を説得するのは難しい。論理と思想で武装された彼らにキリスト教の教理を注ぐ方法は、まず聖霊の役事と力によって実力行使  (使徒パウロが聖霊の強い役事によって変わった様に)  をした後、御言葉が入って行くのが順序だ。たくさんのユダヤ教の知識を持っていた使徒パウロが、ダマスコで変えられたのは、御言葉によるのか?それとも聖霊の力によるものなのか? 韓国のキリスト教もまた、200余年で1200万人へと急速な成長を重ねてきた原動力は、御言葉中心ではなく、聖霊の役事と恩賜が中心となり、多くの神の役事と体験があった故に可能だったのである。

    教会は、御言葉中心の教会と、聖霊の恩賜中心の教会に分かれる。

    この地にキリスト教が定着し普遍化するまでは、聖霊が役事する恩賜中心の教会の非常に大きな影響があったにもかかわらず、現在韓国教会の姿は、御言葉中心の教会が主導権を握り、むしろ恩賜中心の教会は既成教団から疎外され、個々の独自的な活動が原因により、大部分は異端というレッテルが付きまとい苦しめられている。いくらかの恩賜中心の教会が問題を抱えていたが、だからと言って全ての恩賜中心の教会を問題視して糾弾し罵倒するのは非聖書的である。

    たとえば、市場で魚を売る母親が、息子娘を大学まで出して、結婚させ嫁に行かせたのに、その後で、母親から生臭い匂いがし、汚いと言って罵る子どもと何の違いがあろうか。御言葉中心の教会は、恩賜中心の教会を無視したり排斥してはならない。恩賜とは、神から受ける各個人の聖なる固有の職分的使命である。それにもかかわらず、これをむやみにさばき定罪するのは、つまり神をさばき定罪する行為である。

 恩賜中心の教会が、自分の主張を曲げないのには、彼らなりの体験を土台にした確かな信仰と証があるからだ。その体験は神の恵みによるものだから絶対従順しなければならない。聖霊の役事のない言葉は死んだ言葉であって何の価値もない。御言葉中心の教会とは、白昼、神学を仮装した哲学に過ぎない事を悟るべきだろう。聖霊のない説教はやかましい鉦に過ぎない。霊を実体だとするなら、肉は殻であり影である。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません”(ヨハネ 6:63)

“律法には、後に来るすばらしいもののはあっても、その実物はないのですから…”(へブル 10:1)

    神学的な聖書知識は誰でも会得できるが、力 (恩賜) 信仰なくしては、つまり聖霊なくしては絶対不可能である。主席転倒したキリスト教の、この現実を悟るべきだ。世の知識は、理論や説得、論理でいくらでも可能だが、霊的な事は、霊的な力や恩賜、また信仰等がなければできない。神なく解決しようとする人間の理性中心、つまり人間の知恵で全てに対峙し解決しようとする人本主義の行き着いたところが、今日の御言葉中心教会の出現である

 このように、キリスト教が間違う原因を誰が提供したのだろう。御言葉中心の教会は、終末論のような誤った聖書解釈はもとより、自分たちの教理の合理性と絶対当為性のために、啓示の適用を誤った結果、啓示に対する不信を抱く原因となった。そしてこれは、キリスト教固有の絶対的最高の境地である ‘聖霊の交わり’ ‘聖霊の導き’ まで否認する悲劇を招いた。今、既成教会では啓示に対する不信風潮が蔓延し、聖霊の導きと言葉では言うが、疑心の対象となっている。そして異端に片付けてしまうと言う悲劇が起こっている。だが、聖霊の導き(啓示) のないキリスト教は想像もできないことである。

“父のほかに、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかはだれも父を知るものはありません”(マタイ 11:27)

知恵と啓示の御霊をあなたがたに与えてくださいますように”(エペソ 1:17)

 啓示を否認する教役者こそが、霊的なものを見ることもできない盲人である。神を、霊でなく肉だけで理解しようとする愚かな者たちであり、彼らが即ち、反キリストである。牧師たちの祝祷の中の、聖霊の交わりとは何を意味するのか。その真の意味は、神との交わり (聖霊の導き) が、キリスト者にとって最高の境地である故、神の祝福と言うのである。しかし知識で武装した肉の教会では、祝祷する時には聖霊を叫びながらも、実際の信仰の行為では、聖霊の導き (啓示)  を否認する二律背反的な矛盾と無知を赤裸々に表している。今キリスト教は、教派と教団同士の文字的聖書解釈による、相互の内容相違という自家撞着から抜け出して、その内面に隠された霊的な神の真意を悟らなければ成長することはできない。

2. 異端論廃止

    前記したように、韓国教会は御言葉中心の教会と恩賜中心の教会に分かれている。キリスト教の中で異端だと烙印を押された教会は、ほとんどが聖霊の役事する恩賜教会であるという点だ。(統一教会、勝利祭壇、エホバの証人等、自分をメシアだとする者たちと、三位一体を否認する者たちは除外する) 聖霊の役事が強い教会であるほど、御言葉中心の教会から、より激しい逼迫と批判を受けている。逆に聖霊の役事がなく教理に忠実な教会であるほど模範的な教会として認められるというのは、大変な矛盾としか言いようがない。これは1970年代以後に教界内で異端教会がはびこり、このために聖霊が役事する教会を異端視し、よりいっそう激しく罵倒するようになったことで、むしろ聖霊の役事を忌避し、それに代えて神学的論理にいっそう熱を上げた結果である。

    韓国キリスト教会が1200万人に復興した裏側には、聖霊の運動の恩賜、力、預言、啓示等の後ろ盾と共に、人間の理性と科学では説明することのできない数多くの奇蹟と、聖霊の役事があったから可能だったのだ。こうした聖霊の役事が、仏教の理論、儒教の絶対価値観、霊媒の神秘を桁外れに凌いだからこそ、彼らは自分のものを捨てキリスト教の方へと改宗できたのである。これが韓国でキリスト教が成長する原動力となった。このように、聖霊の役事のない御言葉中心だけではキリスト教の存立自体が不可能であった。

    全てのキリスト者たちに質問してみよう!

    信じて信仰を始めたきっかけが、御言葉だけの理解と説得によるものだったのか、それとも各自聖霊の体験と役事を通してなのか?ほとんどの聖徒たちが、聖霊の役事の中で経験したその体験を持って御言葉の中へと流れて行ったが故に、その聖霊を土台に、御言葉中心の教会さえも復興できたのだ。しかし今は、聖霊を体験した世代がだんだんと減少し、聖霊を体験した聖徒たちまでもがその恵みが消滅していく実情だ。これを通し、西欧やアメリカのように、我々のキリスト教もやがて没落して行くという事を認識すべきだ。今この時点で、キリスト教を再び復興できる方法は、聖霊の役事を活性化させる以外には他の方法はない。

    韓国教会内には、聖霊が役事する教会はだんだん消え、それも異端だとされた教会内だけでかろうじてその命脈を維持しているが、それさえも無くす為に死力を尽くしている最中だ。今の20~30代の若年層は、ほとんど聖霊の役事と恩賜、力が何であるかわからない。彼らはまるで井の中の蛙だ。その中だけで育てられ、世の中がどんな模様かもわからず、その中の世界しか知らない。御言葉中心の養育も重要だが、聖霊の役事を通した恩賜の体験も絶対的に重要に扱うべきである。聖霊の体験と役事がない韓国教会の将来は暗たんたるものだ。

1) 聖霊がない牧師は教師にすぎない

    説教だけ上手なら牧師としての資格があると言う、安逸な風潮は消え去るべきだ。主のしもべになるなら、まず、使命感と犠牲の心、愛、信仰…を備えるべきで、知識は二次的な問題だ。聖霊充満ならば、知識と知恵は自ずとついてくるものだ。

“助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます”(ヨハネ 14:26)

    少なくとも、1960~1970年代までだけでも、牧会者たちはただ信仰と使命感ひとつで堅く立ち、ほとんど大部分が聖霊の役事するしもべたちであった。しかし現代教会の特色のひとつが、40代以下の教役者の大部分が、聖霊の体験なく牧会に臨んでいるという事実だ。牧会者は何よりも ‘聖霊に満たされること’ と ‘聖霊の交わり’ が最優先順位だ。しかし今、キリスト教の一般的風潮は、知識と哲学、及び、教育を通した論理的な信仰を優先視する非聖書的な間違った牧会観をもっており、皮肉にも聖霊が役事する牧会者より、知識で武装した肉的な牧会者がキリスト教の主導権を握っている。

    説教とは、聖霊の役事と教えの中でのみ可能なのだ。聖徒は、聖霊によって役事する御言葉を聞く時、心霊が生きて信仰が育つのである。牧会者が聖霊の声を発する時に、聖霊が聖徒たちに転移し聖霊が臨むのである。しかしこうした聖霊の声ではなく、自分自身の知識によって伝えるのは説教ではなく、公課学習にすぎない。このような方法で説教し教える人たちを称して、牧師ではなく、教師と言うのだ。知識だけを追求する教会は、自分たちの論理と教理に催眠にかかり、堅い枠と厚い壁で幕を張り安住している。

    聖霊なき説教は、当然のごとく倫理的なことを強調し。道徳的な説教をする。イエス様から叱責されたパリサイ人とは、聖霊なく律法のみに歩もうとする者を指称したように、聖霊を代言する者を牧師と言い、聖霊なく知識的なもので説教し教える者を教師と言う。果たして自分の立場と身分が、牧師なのか、教師なのか、点検してみよ!もし、教師の身分で牧師の座に着いているなら、神の前に悔い改め、聖霊の力で再び新しく牧師として生まれ変わらなければいけない。

2) 韓国キリスト教はどんな実を結んだのか

    聖書では、それぞれその実を見てその木がわかると言った。牧会者たちは1200万という数字だけを自慢せず、今、教会の外で起こる信徒たちの行動を注意深く観察してみよ。そうすれば、葉だけ生い茂る実のない木として信徒たちを育ててきたことがわかるだろう。果たして我々はこれまで何を教育したのか?倫理、道徳的な面だけを強調しすぎて、結局倫理と道徳的宗教へと堕落させた。今日教会は、信仰の根本となる愛に目をそらし、とんでもない、聖書にはほんのわずかな句節しかない ‘異端論’ に、より多くの比重を置いて教育している。

    一度異端として烙印を押されると容赦も兄弟も父母もない。彼らが他の教会に移っても異端として責め立てる背倫的な宗教へと転落している。甚だしくは、一人の教授のもとで教育を受けた同じ神学校の中でまで、若干の神学的な見解の違いだけで、異端と烙印を押され罵倒されると言うもどかしい実情だ。このように、韓国教会はキリスト教全体を見られず、一部分しか見ていないにもかかわらず、全体を見ているかのようなふりをしている盲人だ。こうした、聖書から逸脱した胸の痛い事が我々の周囲でよく見られる。いったいこのような事がなぜ起こるのだろうか?

    霊的世界が何なのか、霊的、神秘、啓示という用語はキリスト教の核心であるが、聖霊のない牧師たちのためにタブー視されて来て、むしろ間違った異端たちが使う用語に転落してしまった。いったい聖書上に出てくる霊的な事は誰が果たし、どうすれば異端だと言われず、その基準点を設定してあげるのか?むしろ聖霊の体験をしたことも聖霊の役事もできない人たちが、知識の物差しを持って、あたかも聖霊の剣であるかのようにむやみに振り回し、かえって神を罵倒し、聖霊の役事を踏みつけている。その基準点を設定もできずに異端だと設定し、提示したものが果たして聖書的だったのか?彼らが判断する基準は聖書の御言葉に根ざしているのか?それとも自分たちだけの論理と教理に根ざしているのかを聞きたい。全ての判断は結局、聖書の教えに帰らなければならない。聖書では、聖霊の導き (啓示) を受けられない律法的信仰者を、盲人だと言っている。

“知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人…だと自任しているのなら”(ローマ 2:19.20)

    キリスト教の信仰は、聖霊の中でのみ真の真理が現われるのである。聖霊の導きを否認し塞いでしまう事を、霊的には反キリストだと言った。霊的なものを追求していくためには多くの問題を抱えてくるだろう。だからと言って聖徒たちを霊的無知の中にどれほど長く閉じ込め、いつまでさ迷わせるのか?今からは選択の余地がない。肉のこと  (世のこと)  は論理や理解によって可能だが、霊的なことは ‘聖霊と水と血’(Ⅰヨハネ 5:8)の養分を食べてはじめて成長するのである。肉のことのように知識  (理論)  の養分では決して成長することはできない。牛や馬の餌である草が、人間の食物にはなり得ないのと同じだ。キリスト教が最も差し迫り当面している問題は、東洋思想との接戦に先立ち、この時代の霊的なことが何であり、どのように信仰生活に活用し、どんなことが間違っているのかを、聖書的な考察と聖霊の教えの中で、確かな代案を聖徒たちに示してあげるべき時代的使命に直面している。かえって今のキリスト教の ‘教理主義’ による ‘蟄居主義的閉鎖主義’(自分のものでなければ認めず、自分のものだけが正しいと主張する主義) 即ち ‘教派第一主義’ は、霊的成長において非常に大きな障害物となる。

    聖書的に見る時、今の多くの教会はキリスト教とは言えない。敢えて教会だと言うなら、母胎の中にいる胎児のように、まだその形体が完成されていない未熟児だ。

“私はあなたがたに乳を与えて、堅い食物は与えませんでした…あなたがたは、まだ肉に属しているからです…”(Ⅰコリント 3:2-3)

    あまりにも幼稚極まりない水準であるため、他宗教では我々のキリスト教を嘲笑っている。言葉では最高の宗教だと自任しながら、何が怖くて異端だと言う教会や他宗教の前に堂々と立てず、門をしっかりと閉めているのか?異端だと烙印を押された教会の中には、むしろ御言葉中心の教会よりは霊的に成長した教会が多く、聖霊の教会であるほど、聖霊の役事が強いほど、異端と断定され罵倒されるのを見るとき、とても胸が痛んでならない。

    敢えて常識の中で、自分が理解できる範囲の中だけで信じると固執するなら仕方がないが、しかしそれは異邦宗教の一部にすぎない。キリスト教は聖霊によって仕える神秘の宗教(Ⅰコリント 2:14-15)だと言うことをもう一度言いたい。そこには多くの神秘がある。自分が体験できないと言って兄弟をむやみにさばくなと、聖書には幾度にもわたり教訓していることを心すべきだ。

“生まれながらの人間は、(肉に属するもの)神の御霊に属することを受け入れません。…御霊のことは、御霊によってわきまえるものだからです。…”(Ⅰコリント 2:14-15)

    キリスト教はもう、各自の恵みと恩賜によって役事する全ての教会を認めるべきだ。(異端だと判断し定罪した教会)ためらいもなく聖霊が役事する教会を異端だと判断し、大胆に定罪する者たちは、自ら聖霊の体験を一度もしたことがないと信仰告白をしているのと同じだ。それでもなお知識だけで異端を判別するなら、それはイエス様をまた再び十字架につけることである。聖霊の世界は無限で神秘なものである。だから今からは聖霊の証もなく判断し、異端だとむやみに定罪した者たちこそが異端だとさばかれる環境が作られていくべきだ  (ローマ 14:14)

3) どこまで聖霊を認めるべきなのか

    それでも聖霊の役事を、人の知恵と理性でも十分に理解できるといった錯覚は早く捨てるべきだ。なぜなら人の言葉では言い表すこともできず、世の論理で表現することも考えることもできないのが聖霊の役事であるからだ。

“人間には…口に出すこともできない言葉を聞いたことを知っています”(Ⅱコリント 12:4)

    使徒パウロが、コリント教会に送った手紙を通し、第三の天の比喩を神秘だと言った。おとめマリアを通したイエス・キリストの誕生の秘密も神秘である。イエス様は、聖霊の人の神秘を風だと表現した。その他、聖書には数限りない多くの御言葉を通し聖霊の神秘を記している。キリスト自体が奥義であり神秘であるのに、教会は自分が理解できなければ異端だとし、聖霊の役事するしもべたちをむやみにさばくという蛮行をためらいもなく行なっている。

    たとえば、お祖父さんと一緒に座っている孫は、お父さんがお祖父さんに向かってお辞儀をすれば、一緒にそのお辞儀を受けるのと同じだ。聖霊のしもべたちが聖霊に捕らえられて説教する時、はばかることなく聖霊の声を代言するのを見て信仰のない者たちは、あれがメシアにでもなったのか?と言って、異端だと主張するのを見るたびに、もどかしいこと極まりない。

    お父さんは自分の息子を見てお辞儀するのではなく、お祖父さんを見てお辞儀をするのである。そのように聖霊が自分の中で役事する時には、聖霊の強い役事によって、聖霊が語ろうとする御言葉を代言もできるのだ。こうした聖霊の役事を肉の目を基準にして、これをもって異端だと判断するならば、聖霊のしもべたちは世の顔色を伺おうと臆し、どうやって聖霊の役事ができようか?またある者たちは、聖霊を認めながらも聖霊の役事の矛盾と副作用に対して心配をする。

    しかし、聖霊を体験した者たちは理解できるだろうが、聖霊のしもべたちは神の御言葉から少しでも逸れれば聖霊は去り、力は消滅し、それ以上役事は起こらない。聖霊が強く役事されるのは、その心霊に愛が完成された時に神が役事されると言うことを信じるべきだ。それにもかかわらず、こうした聖霊の役事を、韓国教会はどれほどさばき、異端だと定罪したことか?幼い息子がお祖父さんの横でお父さんのお辞儀を受けたと、その息子を不届き者だと言って殴る、そんな狂った父親がどこにいようか…。しかし現代キリスト教は、そういう狂った父親の役割を、今でもためらいなくやっていると言う我々の現実だ。自分がメシアにでもなったかのように行動をするならば問題は深刻であるが、聖霊の時代にはある特定の人がメシアとなるのではなく、ただ、役事される聖霊だけが存在するだけだ。特に御言葉中心の教会は聖霊をちゃんと体験もせずに、恐れ多くも霊的な教会を異端だとさばいてはならない。

4) 判断と定罪の罪悪を捨て愛の義の衣を着よ

    世の御言葉中心の牧師(肉の牧師)たちは、まるで、幼い女の子が、きれいなかわいい靴を履き、服は古着を着ているのに、まるで自分がお姫様になったかのような素振りをしているようなものだ。韓国教会がこの地に定着し、復興することができたのは、神の力が生きて働く恩賜中心の教会があったからこそできたのに、彼らを異端へ追いやり抹殺するなら、結局はキリスト教が、かろうじて命脈を維持してきた命の綱を自ら切るようなものであり、自分の足の甲を斧で断ち切るのと同じだ。彼らがどんなに間違ったとしても、ユダヤ教や回教、モルモン教、エホバの証人、統一教会等よりも間違うことがあるのか?彼らの間違いを敢えて指摘するならば、聖霊の役事の体験だけを中心に、片方に片寄って強調したことだけだ。

    聖霊の役事は、具体的、論理的、体系的ではない。故にその全ての判断の基準を聖霊に委ねるしかない (Ⅰコリント 4:5)。聖徒は如何なる状況であれ、愛と許しとあわれみの座を離れずに守ることが、聖徒の本分であり、隋一の倫理観である (エペソ 4:2)。どんな状況にあっても、絶対に主は守って下さるという、信仰の中に留まっていなければならない(ローマ 14:23)

    信仰によって行なったものに汚れたものはない。これ以外に、人間の考えと知恵で行動することを人本と言うのだ。このように信仰の中では、汚れていると言う者が汚れているのである (ローマ 14:14)。一つの聖霊が、信仰の中において汚れ間違うものはないが、人間が勝手にその基準を設定しただけだ。一つの例として使徒時代の礼拝方法を見てみよう。

“あなたがたが集まる時には、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示をしたり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい”(Ⅰコリント 14:26)

    これは、霊的な礼拝の光景である。初代教会では自然に当然のごとく行なわれていた礼拝方法だ。しかし、現代教会でこのような礼拝を捧げたら、即刻、異端だと烙印を押されるだろう。果たしてそのやり方が聖書的だったのか、それともどれを異端と言うべきなのか…。初代教会の時の礼拝儀式と、今の各教団で行なう礼拝儀式を比較してみよう。

    現代教会の特徴は、聖書とは一致していない点だ。言葉では ‘御言葉に立ちなさい’ と言いながら、聖書よりは自分たちの教理を、より重要視している。真のキリスト者であるなら、キリスト教教理の中心である愛の戒めに忠実する義務があり、これが聖書的であり御言葉に立つことである。今キリスト教内は、異端だと言われた教会を包容し、愛の行ないだけに勝負の照準を合わせるべきだ。聖書的に見れば、彼らもやはり私たちと同じ兄弟姉妹であり、一つの肢体である。即ち、聖霊の力を行ない、悪霊を追い出し、預言をし、癒し…九つの恩賜を行なうことは聖霊の一部分であり、当然に存在する聖書の一部分なのだ (Ⅰコリント 12:7-11)。教会の側から見る時、自分の教団の教理から違背する異端であっても、むやみに警戒するのではなく、多くの忍耐を持って、まず、私から心の扉を開き、愛で接し、相手が心の塀を築かないよう待ってあげなければいけない。教会はただ、聖霊と愛にのみ、異端と正統の照準を会わせるべきである。

5) 韓国教会は異端が多いのではなく信仰と愛がないのだ

    これまでの教会の行動が、聖書的であったのか考えてみよう。無条件異端だと言うのではなく、見方を変えれば、彼らも神に最高に仕える信仰の方法を、そのように選択したのだと言いたい。彼らも我々のように誰よりも神を愛している。神を我々の命だと言うなら、彼らもやはり神は彼らの命である。我々が神の為に存在するように、彼らも神の為に存在している。ただ神を愛する方法と各自置かれている立場が異なるだけだ。

    今日のような異端論処理方法では、かえって彼らを刺激し、より反目の感情を根深く広くするだけだ。教会は、内部的には、外部勢力を阻止し対抗するために、更に閉鎖的にならざるを得ないだろう。その結果は保守主義を生み、保守主義は今日のように自らの自救策として、自分たちの教理で囲いを張る教派主義、及び、蟄居主義的閉鎖主義者(Seclusionism Solationism)等を輩出せざるを得ない。ユダヤ教が、今では世習宗教となって残っているように、聖霊のないキリスト教は閉鎖的宗教へと、結局はユダヤ教のような世習宗教へと転落し、いずれ50~100年後には、今の教会を博物館ででも見ることになるだろう。なぜなら聖霊のない律法宗教では、時代の潮流に歩調を合わせて発展して行けないため、我が国の儒教のように衰退せざるを得ないからだ。

6) あなたは信じた時聖霊を受けたのか

    聖書では、霊的な死を死であると言った。キリストの霊がなければキリスト者ではないと言われたように(ローマ 8:9)、いくら肉的信徒が多くても、聖霊がなく肉では神とは何の関係もない異邦人に過ぎない。神は肉の信徒ではなく、霊的に変えられた聖徒を探しておられる。韓国教会は霊的でなくしてキリスト教の発展を考えるべきではない。そして異端論を整理せずしては、今後霊的な成長と未来はないであろう。

    前記した二つの問題、霊的解釈の必要性と異端論廃止が解決された時、今後霊的に跳躍することのできる新しい21世紀を迎えられるだろうが、これが解決されなければ韓国教会の未来の保障はない。

    ‘悔い改めよ!天の御国が近づいたから’ という文を書き、牧会者たちから多くの反論が寄せられた。これはあっけにとられることである。少なくとも聖霊の体験を一度でもしていれば、この声が聖霊の声であることを誰もが悟ったであろう。一般信徒側からの反論の声なら理解もできるが、教役者の口から反論の声があったと言うのは胸が痛んでならない。この声が一介の個人の声に聞こえるなら、彼らはいつ、どんな方法で神の声を聞くと言うのか?この声が誰の声かさえも分別できない、霊的無知な者の前には驚きと驚愕を禁じ得ない。

    このメッセージが私個人の私見であったのなら、敢えて多くの人の批判を受けることを知りながら、こうしたことを言って何を得ようと言うのか。また、人気を得ようと英雄心に燃えたのだと言うやるせない声を聞いてまで伝える勇気も蛮勇も全くない。ただ、このしもべでなくとも誰かが伝えなければならない声を、微賎なしもべに機会を下さった神に感謝を捧げ、神の命令と強い役事に、謙虚に従順しただけである。


    この文を牧会者の方たちに捧げるのは、我々みんな一緒に、謙虚な心で神の御言葉を基準にして悔い改め、完全になることを望む切なる心からです。神は、早く全ての教会が霊的に生まれ変わることを望んでおられ、この文は、新しい21世紀を迎える韓国キリスト教に向けられた神の愛のメッセージなのです。ひとすじに神を死ぬほど愛する心と、この身が粉々になろうとも、キリスト教の将来を思う心でこのメッセージを伝えるのであり、聖霊の強い役事の中で、この文をキリスト教(プロテスタント)教会に謹んで捧げるものであります。

ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ  アーメン