キリスト教失敗の原因
1.キリスト教の危機は豊かさと安楽から始まった。その安楽を助長したことがキリスト教教育政策の失策だ
科学文明が発達するに従い、生活は潤され楽になったが、時が経つにつれ心霊は干からび破壊され、キリスト教の姿もますます衰退している。多くの教会が、聖霊がなく人間の知識 (人本)と哲学をもって神 (創造主) に代わって説明しており、科学をまるで神が人間に下さった祝福かのような誤解をしている。物質の祝福が神との関係において、愛の可否を計る尺度となり、神よりお金をより愛し、滅亡へと駆け上がる今日のキリスト教の現状を探ってみよう。
● キリスト教の教育政策
聖書では、世の中心はキリスト教(イエス・キリスト)であり、私たちを世の光、塩と言った。しかしキリスト教国家を自称するヨーロッパやアメリカの教育現場で起こる、頻繁な銃乱射事件は教育政策の失敗例を赤裸々に表わしている。
アメリカは国民の大多数がクリスチャンであり、よい環境と水準の高いプログラムを通じて青少年たちを教えてきた。しかし、こうした教育を受けた者たちが、自分の感情が損なったと言って校友たちや先生に銃を乱射する堕落した良心を如何に説明し、こうなるまでの間キリスト教の信仰教育は何をしていたのか!
アメリカの教育の失敗は教会教育の失敗であると同時に、社会全般にかけて破滅していく問題点を見せている。またアメリカは韓国教会の母体である為、アメリカの教育の失敗はいずれそのまま我々にも現実として現われることだろう。 今日社会全般にわたる道徳と良心の荒廃化現象がなぜ起こるのか、キリスト者たちがどこから壊れ出しているのか探ってみよう。
キリスト教の危機は常に豊かさと安楽から始まった。産業革命以後、急速な科学文明の発達により、人類は生活の豊かさと安楽をもたらした。だが信仰者たちにとってその豊かさと安楽が怠惰と無精を生み、贅沢と享楽の風潮に倣い、純粋で清い信仰の情熱も色あせてきている。結局、科学文明は便利さを提供した代わりに、人間の心性を汚染し良心を破壊し、信仰者たちにとっては怠惰と無精によって信仰を破壊させる結果を招いた。
このように、豊かさと安楽が信仰者たちに及ぼす影響がどれほど致命的であるかをよく知っていた使徒パウロは、キリストの力が常に留まる方法として‘弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難を甘んじている’と言った (Ⅱコリント 12:10)。それで信仰は先進国よりは開発途上国がむしろ信仰の熱心と復興があるのだ。これは大変な環境と与件を信仰によって神に頼り、成就しようとする欲求が強いために起こる自然的な現象だ。
この時教会は、一生懸命な信徒たちの信仰を捕らえてあげ、常にその信仰を神と連結してあげ、より成熟した信仰の道に進むよう導いてあげなければならない。しかし現代教会の姿を見ると、信徒が自分の希望を成就することで教会も復興をもたらしたが、信仰教育がそれを後押しできず、それ以上信徒たちの信仰が育たないままでいる。
韓国のキリスト教は望みどおり復興し、1200万信徒と言う量的な成長をした。だが今日のキリスト者たちがどんな信仰を持って、どのように信仰生活をしているのかを、冷静に推し量り、乗り越えて行くべき時である。この世が科学文明を背負い発展すると同時に、人間の心性も堕落を続けているが、心性が堕落する速さに比べ、キリスト教信仰教育はそれに追いつかない状態だ。
どんなに良いプログラムと良い環境がキリスト教をバックアップしたとしても、今の教育制度と方法では、急速に代わり行く世代の良心を守り回復するには力不足だ。この問題の解決方法は、これまで疎かにしてきた‘報いの法則’を証しすることしか、聖霊の必要性を感じていない現代キリスト者たちを罪から救う解決策はない。
今まで悔い改めという言葉ほど、軽く意味なく乱発された言葉はない。聖書には、罪に対する報いについて非常に重要視して言及しているにもかかわらず、どんな過ちを犯したとしても悔い改めだけで済むと言うような、間違った信仰教育が問題であったのだ。(マタイ 16:27, 箴言 24:12, Ⅱサムエル 3:39…)だが教会では終末と審判、愛について強調してきただけで、いざ肝心な報いに対する警覚心をきちんと証ししなかったため、かえって聖徒たちの罪を傍助している。また、罪に対する報いとしての懲戒を受けながらも鍛練だと思っており、あたかも報いは不信者に起こることで、教会は無条件に赦されていると言うような選民思想に心酔している。報いの法則は、キリスト教の教理の中で救済観に劣らず、疎かに扱ってはならない非常に重要で重い比重を占めている。愛と報いの均衡を成す時に美しい信仰へと成熟するため、決して片寄った教育をしてはならない。
イスラエルの歴史を見ると、イエス様を十字架につけた結果、二千年の流浪生活とともに、行く先々で蔑視と冷遇を受け、最後には600万の大虐殺があった。これがまさしく報復の神という御言葉を確認させる重要な証拠のひとつだ。このように教会は、報復の神について多くの比重を置き、徹底した教育をすることが、罪の誘惑にさらされた聖徒と青少年たちの良心を守ることである。たとえば、ある会社の工場で職員一人が一つの品物を生産していた。ある日会社が拡張し、品物10個を目標に10名の職員を置いたが、10名の職員がたった一つの品物もろくに生産できなかったら、その主人にとって職員は何の意味があろうか。
アメリカをはじめとしたヨーロッパのキリスト教国家を見てみよう!神は多くの国の中でアメリカをかしらとして立て、光と塩の役割を果たすよう世界最強の軍事力や経済力等、多くの祝福を下さったが、それをもって彼らは何をして来たのか。そして今何をしているのか。
神の御心に順応しない彼らに今残っているのは、“ところがそれが悪いしもべで、「主人はまだまだ帰るまい」と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます。そして彼を厳しく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”(マタイ 24:48-51)と言われたように、他の国に行なったとおりの報いを受ける審判だけが残っている。我々はアメリカやヨーロッパの富を羨んでもならず、彼らの信仰に倣ってもならない。
● キリスト教国家とは何か
キリスト教国家とは、最小限、社会全般にわたりあらゆる生活の基礎が真理を優先視する環境を造成し、真理を制度化して定着させ、全ての法の主体が神の御言葉であり、全ての国民がこれに従い守る社会を意味する。
“「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して、下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい”(マタイ 5:38-42)
また、こうした聖書の御言葉で、社会的倫理と道徳の枠を立てる国家となり、心と思いと力を尽くして創造主に仕える事を最高の価値観とするよう教育し、それを制度化し実行する国がキリスト教国家だ。即ち、創造主のみに仕える事を理想とする国家を言う。
アメリカやヨーロッパの多くの国々が、自らキリスト教国家だと自称するが、果たして彼らが聖書の御言葉に基づいた真のキリスト教国家であるのか?彼らは国家の元首である大統領や内閣の閣僚たちが就任宣誓をする度に聖書に手を置いて誓いや宣誓をするが、彼らの行為は、御言葉と行動が一致した真の信仰ではなく、単なる形式的な宗教行為に過ぎない。
その政治家たちも、明らかに教会で教育を受けた信仰者たちであるが、その信仰が全く政治に反映されていない。信仰と政治が分離しているのは、もはや死んだ信仰であり、神の前には何の価値もない。聖書で、行ないのない信仰は死んだ信仰だと言っているように (ヤコブ 2:26)、信仰と現実生活が分離した状況が続く限り、その社会は死んだ社会であり、西洋哲学の如く理想論としてその運命は尽きることだろう。
では彼らと比較して韓国のキリスト教はどうであろうか?
1200万の信徒は何をし、彼らは今どこに向かって走っているのか。
韓国の牧会者たちよ!
今、1200万の信徒をどのように教え導くのか?
今こそ、神が願われるキリスト教国家がどういうものなのか考えるべき時だ。教皇を置くカトリックは何であり、改新教、即ち‘プロテスタント’は言葉の通り‘神の前に抗する者’として残るのか。今のこのような福音と教育では、世の光と塩の役割を果たすどころか、かえって科学文明の中に吸収され世俗化されるだけだ。文明との妥協が続けば結局キリスト教の没落をもたらすと言うことを忘れてはならない。キリスト教が世に生き残る方法とはせいぜい、信仰を守るために文明を拒否し、開拓時代と全く同じ生活をしているアメリカの清教徒のように、囲いを張って生きるしか特に対策がないのか、深刻に考えるべき時だ。
2. 聖書解釈方法の誤謬によって失敗をもたらした
儒教では‘仁’を最高の理念として生活の指針を立て、日常生活に適用する具体的な倫理綱領と実践道徳を提示し、それなりには効果を得ている。だがキリスト教ではその時々に、神 (創造主) が直接聖霊によって各自を、神の摂理に従って愛で導かれるため‘愛’以外には、具体的な倫理綱領や指針はない。
しかし聖霊の導きなく、それぞれ教派別に作り出した彼らだけの教理を掲げ、それを指針として神にきちんと仕えているかのように歪曲されてきた。イエス様はこのように信仰する者たちに向かって厳しく叱責された。
"この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから" (マタイ 15:8-9)
● 聖書の旧約は予票と象徴だ
神はイスラエル民族を選ばれて、人類の贖罪のわざのあらゆる準備を始められ、神の意図される神国建設のために、信仰の初歩的なことから教育し訓練してこられた。
たとえば、飛行士が実際に飛行する前に、地上で実物と同じ模型飛行機で操縦を習うように、旧約全体を通じて、これから霊的生活ができるよう、教会と聖徒たちのために信仰方法と教訓的なことを見せて下さったのだ。捧げ物の規定、聖幕論、例祭などは全て将来到来する天国の模型である。“律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから…” (へブル 10:1)このように象徴的なものを、キリスト教は、その象徴の中にある神の真意を悟れず、文字のままを実際生活に適用させようという愚かさを犯している。また、科学と哲学を接木し実用化しようとする愚かな失敗を犯し続けている。
これはまるで絵の中の食べ物を、お腹いっぱいに食べようとする幻想と同じであり、運動選手に理論だけを教え、実技の訓練をさせないのと同じだ。実践に出たら何もできず敗北するだけだ。比喩の中に込められた神の真意でなく文字そのままでは、実現できない理想論として終わるだけだ。これがまさにキリスト教の現実だ。
このように、聖書にある文字のまま信じる者たちと、哲学 (理性) によって教育された信仰を‘律法主義’と言う。これは信仰の一番下の初歩段階にすぎない。聖書の御言葉は全て比喩であるため、その比喩の中で聖徒たちに語ろうとされる神の御心が何であるかがわからなければ、信仰の成長した身たけまで育つのは難しい。
イエス様の弟子の間でも、霊的なものを文字のまま(律法)適用しようとした時、争いと混乱があった。使徒パウロも、異邦人たちが改宗して教会に入ってきた時、割礼や捧げ物、礼拝等いろいろな問題で難しさを経験した (使 15:1-21)。
現代キリスト教は神の意図と御心を考えず、人間の目線で聖書を文字のまま解釈したため問題が生じた。即ち、本来の意味と象徴ではなく、とんでもない方向へと歪曲し過ぎたのだ。聖書の正しい解釈は、人間の理性と知恵ではなく、神の固有の権限であるゆえ聖霊だけができるのである。
それにもかかわらず、御言葉の意味と象徴をわからない霊的に無知な者たちが、自己の方式で理解した御言葉に基づいて信徒たちに間違った教えをし、混乱だけを増した。使徒の時代から今日までキリスト教は、聖書の御言葉の比喩と象徴を解くことができず、神の御心とその意味をきちんと悟れずに、それ以上信仰の発展のない‘律法宗教’に停滞している。
また、聖霊を叫びながらも聖霊の真の意味と価値をわからず、応用することも使用することもできないキリスト教は、愚かな人間の知恵で聖書を解釈した結果、‘聖霊’をキリスト教信仰の根本にするのではなく、付き添い程度に転落させてしまった。結局、人本主義者たちが作り出した想像の中の再臨イエスと共に、実現することのない彼らだけの終末論を作り出した。こうした教理で神に仕える事が地上最大の信仰であるかのような錯覚の中で、虚空に向かってもがいている。しかし神は、人間の知恵を少しも受け入れないと言うことを決して忘れてはならない。
ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光あれ