異端と反キリスト[2]

(告白、来られる、教えの真の意味)

    キリスト教信仰は、大きく分けて、教理的信仰と聖書的信仰の二つに分類される。霊的信仰(聖書的信仰)とは、聖書の完全な基礎の上に聖霊の導きに従って信仰することを言い、肉的信仰(教理または文字的信仰)とは、律法的 (パリサイ人)、教理的、または聖書を文字的にのみ解釈し、それに従って信仰することを言う。(図表参照)

言及したとおり、文字的にのみ聖書を解釈する信仰を律法主義(教理)と言い、肉的信仰または文字的信仰とも言う。肉的信仰とは、聖霊なく神(創造主)を信ずる信仰である。律法は、成文化された法によって信仰するため、法 (戒め )をきちんと守れば信仰をきちんとすることであり、法を守れなければ信仰ができないものとして即座に区分される。その一方霊的信仰は、すでに愛によって律法を完成させた後、その次に聖霊の導きに従っていく信仰であり、キリスト教の完全な信仰を言う。

今までの異端論は、聖書に立脚して解釈したのではなく、聖書を離脱した教理に照らし合わせて定義を下している。従って異端論者たちが、異端或いは反キリストだと定罪し判断する基準が、彼らの教理に立脚すれば符合するであろうが、真の判断の基準である聖書に立脚してみれば、彼らの定罪と判断が大きな誤謬であったことがわかる。

反キリストについて、聖書で言及されている代表的な部分は、ヨハネ第一2:22、ヨハネ第一4:2、ヨハネ第二7節があげられる。今まで聖句上の‘告白’‘来られる’という句節の間違った解釈によって、異端論がはびこるようになり‘教え’と言う真意が間違って解釈されることで、独善的、閉鎖的、冷笑主義的なキリスト教へと転落してしまった。今まで何がどのように間違ったのか、一つ一つ聖書的に正しい糾明をしてみよう。

1 告白する霊

“人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。 それは反キリストの霊です。”  (Ⅰヨハネ4:2-3)

告白:ギリシャ語の’ホモロゲオー’で、「同意する」、「同じことを言う」、「誓う」、「約束する」、「確言する」、「是認する」・・・等、多くの解釈ができるが、その中で、霊的と肉的(文字的)二種類の解釈をしなければならない。

● 文字的解釈での意味

上記の聖書の節を文字的にのみ解釈すれば、ここでは、人となって来たことを、完了分詞として使われていて、ただキリストの受肉だけを強調したものだ。イエスをキリストとして認めるのか否定するのかという、単純に信仰的に信じる問題を扱っている。つまりイエス・キリストを救い主として認めればキリスト者となるが、認めず否定するなら反キリストとなるのである。

神学(教理)の一般的な解釈方法である文字的解釈をすれば、上の節は、イエスを救い主と告白し信じるなら、誰をも異端、反キリストだと判断してはならないのである。だが現実的にキリスト者として、イエス・キリストを救い主であると信じない人がどこにいようか。教会に出席するということは、すでに誰でもキリストを救い主として告白する行為なのだ。教理はそれにもかかわらず、聖書にないことを自ら作り、むやみに異端だと判断、定罪している。それはもはや聖書の御言葉の外への離脱である。結局御言葉の外に越えているため、彼らこそが、自分自身を世の中に、異端者、惑わす者、反キリストだと公布する愚かな行為である。

霊的解釈での意味

告白するというのは、同意し、更には約束し、是認し確言するということである。それでは何を同意し約束するのか。それは、信仰をして行く間、状況や環境に応じ、各自に時に応じ役事される、真理の霊である聖霊の導き(教え、思い起こさせる教訓、力、御言葉 (ヨハネ14:26))に 同意し、確言し、是認することを真なる完全な‘告白’と言うのだ。逆に時に応じた聖霊の役事を否認することを、反キリスト、異端  (Ⅰヨハネ2:22) と言う。

受け入れる次元の告白と聖霊導きの告白

霊的解釈とは、文字の比喩と象徴性を言うのである。従って、神学で一般的に解釈する、告白するという次元を、ただイエス様を受け入れる次元に局限してはならない。告白は①受け入れる次元の告白と②その時ごとに役事される聖霊の導きを常に告白する、二つの側面で解釈しなければ、今日のように信仰の誤解と誤謬が発生する。

たとえば、受け入れる次元の告白を、若い男女の結婚式だとするなら、聖霊の導きを受ける次元の告白は、結婚式後の持続的な結婚生活だと言えよう。神学で一般的に利用する“人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです”(ローマ10:10)の御言葉で、イエスを信じるのに、口で告白するだけでも救われるのだと考えて、この節の説明をしているが、これは恰も、若い男女が結婚式場で今結婚式をあげた状況と同じで、未信者が今、主を信じますと受け入れた時、救いを受ける内容として解釈するべきだ。

結婚をしたなら、生活費、子供達の養育等、実際的な結婚生活全般にわたっての方法論が出てこなければならないように、主を受け入れたなら、今から主にどのように仕えるのかという、信仰の方法論が重要なのだ。信仰の方法論は、キリスト教信仰の真随である。聖書の核心であるへブル人への手紙10章16節の‘その日の後’と記されている、聖霊の導きによる教えによって信仰をしなさい、と聖書は言明している。

“それらの日の後、わたしが彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。

わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。”  (へブル10:16)

‘その日の後’の信仰は、五旬節、マルコの屋上の間から始まった聖霊による信仰方法である。イエス・キリストの十字架の代価によって聖霊が来られ (Ⅰコリント15:45)、今は霊として、誰でも求め、探し、呼び求める者たちに、各自の状況と環境に合わせ、司令官として(イザヤ55:4)、指導者として (マタイ23:10)、先生として (マタイ23:8) …等、様々な姿をもって、実際の生活で私たちを導き助けると言うのである。

こうした聖霊の導きを受ける霊的信仰こそが、キリスト教信仰の最高の真髄であり、聖書の教えの核心であり、またパウロ思想の核心であることを心すべきであろう。つまり、受け入れることと、持続的信仰生活とは別個の問題だ。一回か、または一時的に、一度信じて救われると言うのは、主を受け入れることを言う。受け入れたなら、その受け入れたと言うだけで信仰生活が生涯自ずと解決し持続するのではなく、今から生活の中で、瞬間ごとに状況に応じてその時々に聖霊が導かれる、全ての役事と御言葉だけを信じること、これをヨハネ第一4:2節の、告白と言うのである。

即ち、文字的信仰の特徴である、一度救い主だと口で告白して受け入れることだけではなく、使徒たちがした信仰のように‘霊的告白’即ち‘聖霊の導きに従って信じ (告白) 信仰すること’であると聖書は言明している。ところが今までキリスト教の教理は、告白をひとまとめにし、受け入れる次元だけの解釈をしたことによって、キリスト教は、受け入れただけで、実際的な聖霊の導きによる信仰生活ができなかったのである。

まるでキリスト教は二千年間、結婚式自体が結婚の全てであるかのように、結婚式の祝賀ムードに浸っていただけで、実際的な結婚生活はしないと言うような、愚かで無知な盲目的信仰だけを追求して来た。しかし聖書は、私たちが神の子どもであることは、聖霊ご自身が私たちの霊と共にあかししてくださると教えている(ローマ8:16)。

告白は、神を聖霊から証された時のみすることができる。聖霊から証を受けなければ否定せざるを得ない。それで誰もキリストの御霊を持たない人は、キリストのものではない(ローマ8:9)と言明しているのだ。神を知る知識の伝達とは、神の事情は神の霊意外には誰もわからないと言ったように、聖霊だけが知ることができる。聖霊は神の深みにまで通達する通達の霊であられ、また啓示の要素と属性を持つ啓示の霊であられるため (Ⅰコリント2:10)、聖書は啓示を受ける者以外には、神が誰であるかわからないと言明しているのである (ルカ10:22)

啓示とは、聖霊の導きを言う。聖霊の導きは無条件真理である (Ⅰヨハネ5:6)。真理の霊が私たちの心に来られて、思い起こさせ、教え、教訓されて (ヨハネ16:13)、求め、探し、呼び求める者を導いて下さるというもので、その導きに無条件従順し、従うことを求めているのである。このように真理とは、神であり (詩篇31:5,イザヤ65:16)、神のかたちであると同時に神の要素であり、神の属性であると、真理と神の相互関係を定義できよう。その真理は、全宇宙を創造し内在しており、統制し、主管し治める原則であり法則である。真理とは実に愛であり、愛は真理である。真理は、真理の霊であられる聖霊である。

真のキリスト教信仰とは、如何にしたら毎日毎日の生活が愛に向かえるかと言うことが、信仰の重要課題である。キリスト教信仰は、端的に表現すれば、毎日毎日を愛に向かう旅程だと言えよう。こうした方法を通して、キリストのかたちを作ることである。しかし神学 (教理)は、この旅程に向かうにおいて、常に判断、定罪、驕慢と論争へと駆け上がるだけで、かえってつまずきや害になるだけだ。それで使徒パウロは、幼稚な教えや空しいだましごとの哲学によって誰のとりこにもならぬよう注意しなさいと、重ね重ね言っている(コロサイ2:8)。そして、キリストを知る知識こそが、この世で一番高尚であり、そうなるために私が今まで知っていた全てのことを、ちりあくたのように捨てたと告白した (ピリピ3:8)。そうしてただ聖霊だけを主張している。それで新約は律法を強要しなかった。教会は、教会を治める為の若干の制度があっただけで、使徒パウロは如何なる教理も形成しなかった。ただ聖霊に満たされること、聖霊の導きだけを強調し叫んでいるのである。

新約になって、律法を無視したり廃するのではなく、律法を完成させるのである。律法の完成は愛であり、愛は最高の法である。キリスト教の戒めは、①心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛することと、②あなたの隣人をあなた自身のように愛せよと言う二つに集約される。それで今日、①番は熱い使命感として、②番目は愛として作用し、この時聖霊が私たちの心霊に宮を築き、我々と、インマヌエル恩寵によって永遠に共にするという、この約束が聖書の内容の全てである。

教理主義者たちはまるで、麻薬中毒者が麻薬なしには到底生きられないように、教理に徹底的な中毒になっていて、教理なくしては到底キリスト教信仰を形成、指向できないよう認識されている。しかし、キリスト教の中では、教理が占める場は全く必要としない。ただキリストを信じる信仰によって、愛の完成と言う旅程があるのみだ。それが即ち、キリストのかたちを作ることだ。(包括的内容が内包されているため誤解のないよう願う) それで、ただ聖書に帰れと言うのである。

聖書全体の核心は、神が私たちと共におられると言う、インマヌエルだ。心霊にインマヌエルが成し遂げられれば、キリスト教信仰は完成である。ここからは、その方が導くままに従順すればよいのである。聖霊の導きに従って従順することを告白 (是認) と言う。従順しなければ否認することだ。それで、きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならないと言われたのだ (へブル4:7)。つまり、聖霊の導かれた声を否認してはならないことを、旧約時代から預言者を通して懇切に語り、戒めていたのである。

聖書は、聖霊に逆らう罪を非常に大きな重犯罪として扱っている。聖霊に逆らうと言うのは、聖霊に導かれた御言葉に逆らうことを言う。また、他の人が聖霊の導きを受けていく信仰を、自分の基準に合わないと言って冒涜したり、そしったりする者は、罪の赦し (救い) を剥奪すると同時に、重犯罪者として裁くと語られている。それで聖書は、これらのことが聖霊の役事なのか、それともこの世の霊の働きなのか、あなたがたの知恵ではわからないから、兄弟をむやみに判断定罪してはならないと念を押している。止むなく判断することがあれば、主が来られるまで、つまり聖霊の導きがあるまではむやみに判断せず、じっとしていなさいと重ね重ね語っているのである。

2 人として来られる

 “人を惑わす者、すなわちイエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大勢世に出て行ったからです。

こういう者は惑わす者であり、反キリストです” (Ⅱヨハネ7)

文字的解釈での意味

人として来られる

新共同訳:イエス・キリストが肉となって来られたことを

口語訳:イエス・キリストが肉体をとってこられたことを

告白しない者、と翻訳されている。

人として来られることに対する既存神学的解釈は、単純にイエス・キリストの受肉として解釈をしており、一般的聖書解釈においても、文字的に単純にイエス・キリストの受肉と再臨として解釈をしている。

聖書に記されている反キリストについて、文字的にのみ解釈をしてみるなら、人として来られたことに対して否認する者が反キリストであり、惑わす異端となると記されているだけで、今まで既存神学で異端論の基準としている全ての御言葉の節は、聖書には全く言及されていない。これまで根拠のない異端論争であったに過ぎない。

文字的解釈だけで見れば、異端論者たちはどの一箇所も聖書に立脚したものがない。逆にそれは、聖書に記されている、さばき、定罪するなと警告する御言葉を否認するものだ。聖書の外に越えて解釈する行為こそが異端である。また聖書に記されていないものを基準にしてさばき、定罪したため、それは明白な聖書への違反であり、これこそが異端思想だ。異端論者たちは、彼らの判断の基準が、聖書に立脚したものなのか、教理に立脚したものなのかを深く心に刻み、今からは反キリスト的な行動は慎み、悔い改めるべきであろう。

霊的解釈での意味

 1) 人(肉体)の意味は何なのか

前で言及した“人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな…” (Ⅰヨハネ4:2) に取りあげられている初臨のイエス・キリストの肉体は、罪のないお方である。人間の罪のために代贖の羊としての立場で罪の体をまとった為、人 (肉体)と言う単語を使うことも可能であるが、本文の‘イエス・キリストが人として来られた’での人 (肉体) と言う単語では、また再び罪の体で来られるような解釈となってしまうため、今後来られる再臨のイエス様として解釈することはできない。聖書上の肉体を、単純に肉身をまとう、或いは身体等に解釈してはならない。では聖書で肉を象徴する意味が何なのかをまず知らなければならない。それはガラテヤ書にきちんと説明されている。

“肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません”  (ガラテヤ5:19-21)

このように、不品行、汚れ、好色…等、肉にあれば、わたしの霊、即ち聖霊を受けることはできないと言うことだ。創世記では、神が人間と共にできない理由を明確に説明している。

“わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉に過ぎないからだ” (創6:3)

ところが、王の王であるイエス・キリストを肉体として表現すると言うのは、即ち不品行、汚れ、好色、偶像礼拝…等の罪の体として再び来られると言うのと同じ解釈になるため、再臨には解釈できない。これは“神の満ち満ちたご性質が形 (肉体) をとって宿っています”  (コロサイ2:9)と言われたように、聖霊が、罪ある聖徒たちの肉体に聖霊として臨まれるという解釈となる。即ち肉体を持つ聖徒であるが、誰でも信仰によって探し呼び求める者に、イエス・キリストの霊であられる (Ⅱコリント3:17) 聖霊が降臨され、罪ある我々 (肉体) の弱さを助けると言うのである。

 2) 人として来られたことを告白しない者とは

「来られる」について使徒の働きでは、“聖霊があなたがたの上に臨まれるとき”(使1:8)と、使徒たちに‘各自の上に聖霊が臨まれる’ことを説明している。

また、聖霊が臨まれることを、コロサイ人への手紙では、“神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています” (コロサイ2:9) と表現されている。これは聖霊が人間の肉体に宿ると言う意味だ。神は人間を救う約束を旧約の多くの預言者を通し預言し約束された。その約束によりイエス・キリストを送って下さり、またイエス・キリストの十字架の代価によって、助け主聖霊として来られ、今も誰であれ求め、探し、呼び求める者に、聖霊として臨まれ助けて下さるのだ。

従ってイエス・キリストが復活、昇天される前、弟子たちに“あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい” (ルカ24:49)と言われたのは、聖霊を示されたのである。その御言葉に従って、マルコの屋上の間で各自の上に聖霊が臨まれたのである (使2:3)

このように、イエス・キリストが人 (肉体)として来られるとは、聖霊が各自の上に臨まれるのと同じ意味である。これは神が旧約の預言者たちを通して“わたしの霊を全ての人に注ぐ”と預言された約束どおり、聖霊が人間の肉体に臨まれるという (使2:17) 解釈となるのである。

本文の‘人として来られたことを告白しない者’の真の意味は、聖霊の降臨である聖霊の導き (啓示) …等を否認することである。それは即ち聖霊に逆らい、冒涜し、そしることだ。従って聖霊の導きを受けずに信仰をする者と、聖霊が無くともイエス・キリストを教理だけで信じる者たちは、聖霊の降臨を否認する者であって、彼らこそが反キリストとなるのである。

3 キリストの教え

“だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります” (Ⅱヨハネ9-11)

1) 文字的解釈での意味

「キリストの教えのうちにとどまる」についての文字的解釈は、「聖書から我々は神の教えを得る」(ローマ15:4)と解釈される。聖書では教えについて多くの箇所で言及しているが、特にヨハネ第二9-11の教えと言う御言葉の誤った解釈によって、キリスト教が、異端だけでなく異邦人にまでも対話や交際を避けようとし、挨拶すらもしない利己的で独善的で閉鎖的な宗教に転落してしまった。

イスラエルがパレスチナにする報復行動がどこから出たのか。目には目、傷には傷、という聖書の御言葉を、文字だけで間違った解釈をした結果、キリスト教の核心である愛は排除し、報復だけに明け暮れているのである。今キリスト教は、聖書の真の意味を正しく解釈するときはじめて、独善と閉鎖から脱し、キリスト教としてあるべき品位とキリストの香りを放つことができるであろう。

イエス・キリストの教えの目的は、ただ愛である。愛を通して信仰の窮極である聖霊に到達させようとされる (Ⅰヨハネ4:7-8)。信仰の行動綱領としては、マタイ5章を信仰の指針として行なう時が、聖徒が本当に神を愛すると言う表現であり、告白なのである。

“もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです” (ヨハネ14:15)

律法の綱領は、①心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛し、②あなたの隣人をあなた自身のように愛することであり  (マタイ22:37-39)、この二つの綱領の中に律法は完成される。また律法の行動指針はマタイ5章全体に要約されている。これは律法が要求する律法の核心であるため、マタイ5章の指針から脱することは、御言葉から脱したと言うことであり、またキリストの教えから脱したことだ。聖書上の大部分の教えは、律法を完成することで聖霊を受けると言う教えである。

 2) 霊的解釈での意味

“預言者の書に、「そして彼らはみな神によって教えられる」”  (ヨハネ6:45)

“あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある”  (イザヤ54:13)

神の教えとは、ただ聖霊が教えたことだけに従うことだと言っている。(Ⅰコリント2:13) “わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける” (へブル10:16)と言う預言者たちの約束と預言に従って、今も誰でも呼び求め探す者の心碑に聖霊によって教えておられるのだ。旧約は既にこのように、直接神が聖徒たちに教え教訓すると言う約束の御言葉を預言しているのだ。

つまり教えとは、聖霊の導きを受けることを言うのである。つまり「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話した全てのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26) …等を言う。今もイエス・キリストは助け主聖霊として来られ、探し、呼び求める全ての者を教え導いておられるこの聖霊の導きを、神の教えと言うのだ。

また、“主が来られるまでは、何についても先走ったさばきをしてはいけません”  (Ⅰコリント4:5)と言うのは、即ち、聖霊が来られて教えて下さるまで、何についても先走ったさばきをしてはいけないと強く言っているのだ。教えて下さると言うのは、既に旧約時代の預言者たちを通し数限りなく約束し預言された神の約束である。その約束に従って、今も助け主聖霊によって、神は教えておられるのである。

“あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け…”  (イザヤ54:13)

“わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す”   (エレミヤ31:33)

“わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける”(へブル8:10)

上の節のように、神の教えとは即ち聖霊の導きである。今も聖霊は我々の中で役事しておられるが、こうした聖霊の導きを神秘だと言って、無条件否認し心をかたくなにする事が、即ち聖霊をそしり、逆らうことであり、これが反キリストである。従って聖書は、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と言い、聞いて従わないなら安息に入れないことを警告している (へブル4:7,詩95:7)。もう肉的 (文字的、律法的) 信仰から脱皮し、聖霊の導きを受ける信仰へと転換しなければいけない。そうでなければ十字架の道を空しくする者たちとなってしまう。

従って“あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は家に受け入れてはいけません。その人にあいさつの言葉をかけてもいけません” (Ⅱヨハネ1:10)と言う御言葉は、決して聖霊が教えて下さったこと意外は、さばき、定罪するなと言うことであり、聖霊が教えたこと意外には、その如何なるものにも惑わされてはならないと言うのが「教え」の真の解釈となる。(教えとは、聖霊に導かれた御言葉を言う。先に言及した告白と同じ内容のため重複することもある。)

4 聖霊を受けられないのは

以上のように、告白、来られる、教えの霊的解釈は、聖霊の導きを言うものである。異端とは、聖霊によらないあらゆる思想、即ち人本思想を異端であると聖書は定義している。神学は、異端論の判断を教理によって区分しているが、聖書は、聖霊(霊)によってのみ区分できると言明している (使5:33-40)。つまり、裁かれる方は神お一人しかないのである。しかし現代キリスト教が恣行する異端論は、徹底した人間の知恵、知識と力によって判断し、防御し、解決しようと言う、人本主義的信仰観であるため、彼らがまさに異端であり、反キリストである。

キリスト教の正統とは、使徒パウロの信仰であった愛の中で、つまり聖霊の導きの中で信仰することを言う。キリスト教は今、空しく盲目的な教理という枠から脱し、キリスト教の戒めと行動綱領である愛(聖霊)の中に入ることだ。その時初めて、キリスト教の真実に到達できるのである。

教理に立脚した信仰は、異端剔抉と遮断を急務だと考えるが、聖書に立脚した信仰は、愛が優先されると言うことを知るべきだろう。愛を破壊し打ち壊してまで異端論を云々と主張し弁論すること自体が、聖書に違反している。どんな法も、愛より優先することはない。それを心すべきである。それが真にキリストに従って信仰する信仰生活である。

これまで教理は、聖霊の無い文字的解釈だけで告白、来られる、教えの誤った解釈を信仰に適用したことで、キリスト教の本質を傷つけ破壊した。聖霊は御国を受け継ぐ保証だと言われた(エペソ1:14)。神の嗣業は、聖霊の保証を受ける時はじめて神の仕事をできる信仰に到達するため、聖霊の無い律法をもっては主の仕事は不可能である。それで教理に立脚した大部分の教会が、嗣業を受け継ぐことも知ることもなく、神と全く関係の無い自分たちだけの満足と義のために教会を切り盛りしている。

ハガルの子が、本妻の子イサクを苦しめ迫害して、結局は女奴隷ハガルとその息子は嗣業を受けられず荒野に追い出されてしまった。このように、これまで教理主義者たちは、聖霊のしもべたちを迫害し嘲った結果、神の嗣業を受けられず追い出されてさ迷っているのである。

全ての教会は、聖霊の導きと重要性を誰もが認識している。そして全ての信仰者たちは聖霊に満たされることを熱望している。しかし聖霊から徹底して顔を背けられている理由は何なのか。それは教理主義者たちが、教理に立脚して聖霊のしもべたちを迫害し嘲った結果、どんなに聖霊を受けようと叫び求め、たたいても、聖霊を受けることができないのだ。今キリスト教は教理を捨て、聖書が求める愛(聖霊)に帰るべきである。それがアブラハムの約束の子、即ち、嗣業を継ぐイサクへと帰ることのできる唯一の道である。

    ハレルヤ! ただ主に限りなく栄光あれ  アーメン


  我々は神学用語をできる限り使わないようにしている。なぜなら霊的信仰を説明できる符合した用語がないからだ。神学の用語では霊的信仰の説明と理解に達することができないため、できるだけ神学用語を脱皮しようとするものである。