聖書が語る

反キリスト、異端、惑わす者とは [1]

今キリスト教で成されている異端判断、定罪の基準の一切は聖書ではなく教理に基づいて一方的に成されている。甚だしくは、一部の教理主義者たちの間では、教理が形成されていなかった使徒時代の使徒パウロまでをも教理というまな板の上に乗せ、キリスト者であるのかないのかと言うあきれた論争をしている。それ程一切の判断基準を教理に立脚してキリスト教を理解しようとする、誤った奇現象が起こっている。

中世の時は勿論のこと、現代でも同じく、常にそうして来たように、教理は教権確立と立地確保の手段として悪用されている。このように教理に立脚した信仰の風土と環境が続く限り、真のキリスト教の姿に帰るというのは絶対的に不可能である。

1 聖書的信仰と教理的信仰の相違点

キリスト教信仰は、大きく分けて教理的信仰と聖書的信仰の二つに分類される。

教理は理性の理解を通して、論理という道具一つだけを使って信仰に至ろうとするが、一方聖霊は、哲学等が使う論理よりは聖霊の力で信仰に至らせる。聖霊の力とは聖霊の役事を言う。それは教理のように画一化された方法ではなく、環境と立場に合わせその時々の必要に応じて役事される多様性を持っている。従って聖書的信仰の特徴は、人間の内面の人格と、人生の実質と、倫理的な教訓の範疇を用いるが、一方、教理的信仰の特徴は、本質に対する客観的規定と学術的方法に力点を置いている為、信仰が形式的に流れやすい。

学者たちがそうであるように、自分の思想に対しては絶対的である反面、他人のものに対しては決して受け入れようとしない排他性のため、その習性がそのまま信仰に反映し、神学の論争へと発達した。こうして発達した数知れない論争の中の一つが、白黒論理の異端論につながっている。現代キリスト教の現実は、自分が今、他人に異端だと言われない為には、更に声を高めて他人を異端に判断定罪しなければ、自身の権威と地位を支えられない実情だ。キリスト教は、問題解決の最後の解決策として、異端に追いやってしまえば全ての問題をやさしく簡単に解決できる修羅場と化してしまった。

しかし、聖書は全ての問題解決を、愛によって解決するよう教えている。キリスト教の信仰の水準が高い低い、信仰心があるなし等の全ての基準は、聖書や教理を多く理解したり、祈りや施しを沢山すること等に基準を置くのではなく、私が今怨讐を本当に愛しているのか、いないのか、‘愛’の基準に置くべきであるのに、現代教会は聖書の基準である‘愛’ではなく、教理に基準を置いて信仰の一切の判断と基準にしている。聖書が語る反キリスト、異端、惑わす者、にせ教師、にせ預言者等は、聖書上同じ意味に解釈しても大きな無理はないであろう。新約では、反キリストと惑わす者について具体的な規定が2ヶ所 (Ⅰヨハネ4:2-3,Ⅱヨハネ1:7) で言及されている。

“人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。…イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものはありません。それは反キリストの霊です” (Ⅰヨハネ4:2-3)

“人を惑わす者、すなわちイエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大勢世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです” (Ⅱヨハネ1:7)

この二つの御言葉を土台にして、反キリストと惑わす者の実体について糾明しよう。これを文字的に解釈をするなら‘人となって来た’と‘人として来られた’に対する解釈は、単純にイエス・キリストの受肉と再臨に解釈することができる。

つまり、イエス・キリストの受肉と再臨を認めるのか否認するのかによって、キリスト者なのか、それとも反キリストなのかの可否が決定されるのだ。

だが現実的にキリスト者として受肉と再臨を否認する人がどこにいようか。こうして文字的解釈だけをするなら、厳密な意味で異端はない。聖書で、さばいてはならないと強調したにもかかわらず、逆に聖書にないものを自ら作り、定罪、判断する異端定罪は、もはや聖書の御言葉の外に相当離脱している。

    聖書的な解釈をするなら、上の節(Ⅰヨハネ4:2-3,Ⅱヨハネ1:7)で見る時、イエス・キリストについて告白するのか否認するのかによって、キリスト者なのか、それとも反キリストになるのかと言う、異端論の本質的問題を規定し取り扱っているのだ。

聖書は、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません” (Ⅰコリ12:3) と言った。また“キリストの御霊を持たない人は、キリストの者ではありません” (ローマ8:9) と明言しているように、イエス・キリストを主と告白することは聖霊がなくてはできないのである。イエス・キリストが弟子たちに“あなたがたは、わたしをだれだと言いますか”と聞かれた時、ペテロが“あなたは生ける神の御子キリストです”と答えると、“このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です” (マタイ16:15-17)と言われたように、聖霊の関与と介入がある時に、主だと告白できる信仰と確信が生まれるのである。

たとえば、アンパンを作るのに、中身のあんこが入った時にアンパンと言えるのだ。あんこのないのはアンパンとは言えないように、キリストを信じる信仰も、聖霊がなく信仰する人をキリスト者とは言わないのである。聖霊が心霊に内住し、聖霊による教訓と教え、導きを受ける人をキリスト者と言うのである。従って、聖霊があればキリスト者であり、反対に聖霊がなければイエス・キリストを否認する者であって、惑わす者、反キリストとなる簡単な論理である。

今日の神学の文字的解釈では、異端論はないと言ってもよい。仮にあるとしても神が教訓を下さるためのものであって、教会は寛容と愛で最後まで歩み、愛で解決することが、異端思想問題を解決できる唯一無二の方法であると、聖書は求めているのである。

異端だと判断定罪することに対しては、麦と毒麦の喩えにあるように、しもべたちが主人に毒麦を抜きましょうと言った時、主人は、麦も一緒に抜き取るかもしれないと心配し、そのままにして置くように言った。麦と毒麦は収穫の時、刈る者たちが来て、麦は倉に納め、毒麦は火に焼かれると記されている (マタイ13:24-30)。また、イエス・キリストは王の王でありながらも、姦淫の現場で捕まった女に対し“わたしもあなたを罪に定めない”(ヨハネ8:11)と、むやみにさばかない手本を見せて下さった。ところが異端論者たちは何の根拠と権利で聖書にもないものを罪に定めさばくのか。イエス様が見せて下さった手本をなぜ守らないのか。

このように、キリスト教の信仰観では、自由で広く包括的な信仰ができるようにしたものを、何の根拠と権利で狭く狭小な空間に旗を立て、ここだけが正統だからここに集まらなければ異端だと、さばき定罪するのか。今までの異端論の基準は、教理に基づき一方的に進行されてきた。韓国教会は、主人の命令に逆らう異端論者たちの気ぜわしい異端索出によって、キリスト教全体が抹殺されてしまった。韓国教会は、自分が属する教団と自分の教会を除いては、互いを間違っていると言い合いながら自省の声はない。彼らの主張する論理通りなら異端でない教会がどこにあるのか。韓国教会をこの境地にまでした異端論者たちの正体は果たして誰なのか?

これまで、信仰の正統性を守ると言う名分と、神に対する忠誠心の発露が、自身の教権確立と立地確保のための外れた忠誠心だと言う事実を悟るべきだ。その燃える使命感というものがせいぜい、自身の栄達と汚れた口に一日3回糊口を凌ぐためのものではないのか自ら判断してみるべきであろう。もうこれ以上、神に向かう燃える使命感だと、見かけのよい名分にかこつけず、早く聖書にすべて帰るべきだ。これまで兄弟をつぶすのに血眼になっていた燃える使命感はもう消して、ただ愛だけで噴出させるべきだ。

ガマリエル律法学者の言葉どおり“もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすればあなたがたは神に敵対する者になってしまいます” (使5:38-39) と言ったように、自称メシヤだと言う、朴泰善、文鮮明の没落を我々は目で見ている。このように非真理は放っておいても自ら自滅する。真理だけが永遠性を持っているのである。

当面は非真理がどんなに繁栄したとしても、彼らは草のようにすぐに刈られ、青草のようにすぐにしおれる。教会と聖徒たちは異端問題については黙って神に委ね、どのように役事されるのか畏れる心で待ち、性急な判断を慎み、ただ愛を土台にした聖霊の導きを受けていくのが、キリスト教的な真の信仰である。

人は常に誰かによって支配を受けている。つまり私自身の主権というのは無い。自身の意思とは関係なく常に誰かの支配を受けている被造物なのである。聖書に“人は誰かに征服されれば、その征服者の奴隷” (Ⅱペテロ2:19)となると言っているように、誰でもキリストの霊 (聖霊) の支配を受ければキリスト者であるが、この世を支配するサタンの霊に支配されれば反キリストとなる。従って聖書はイエスを信じるキリスト者たちに、この世の霊から抜け出して、水と聖霊によって生まれ変わり、聖霊の支配下にいなさいと言うのだ (ヨハネ3:5)。キリストの霊がなければキリスト者ではないと言うのである (ローマ8:9)。

2 聖霊の外的なしるしと内的な証し

聖霊を受けた者たちは、内的、外的な確かな証しと、しるしを持っている。こうしたしるしを通し聖霊の有無がわかり、これによってキリスト者と反キリストがわかる。

  外的なしるし

外的なしるしについては、マルコの福音書で次のように語られている。

“信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、 また病人に手を置けば病人はいやされます” (マルコ16:17-18)

このように聖書は、はっきりと信じる者には

①悪霊を追い出し

②新しい言葉を語り

③蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず

④病人に手を置けばいやされると言われた。

こうしたしるしは、キリストを信じる者と信じない者を規定した正確で確実な宣言であり、このしるしは、ある特定な人たちだけが行なうものではない。これは恰も、大韓民国の国民ならば、兵科と関係なく基本的に銃剣術は誰でもできるように、キリストを信じる者であれば、誰でも当然と自然に基本としてついてくるしるしである。糸と針のように、信仰と力 (能力) は互いが不可分な関係であるため、特に悪霊を追い出す力と癒しの力は、信じる者たちには当然現れるようになっている。

イエス様が、悪霊につかれ目が見えず口がきけない人たちを癒しておられる現場で、パリサイ人たちがイエス様のこうした力に対し、悪霊どものかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだと批判した時、イエス様は、どんな国でも内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もしサタンがサタンを追い出して仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くかと言われ、サタンがサタンを追い出すことはないと語っている。信じる者が悪霊を追い出す力があるのなら、それは聖霊によるのであり、すでに神の国はあなたがたの所に来ていると言われたのである (マタイ12:22-28)

“わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたの所に来ているのです”  (マタイ12:28)

このように悪霊を追い出す力と言うのは、聖霊がなくてはできないため、こうしたしるしを行なうと言うことは聖霊がある証拠であると同時に、キリスト者であるという証票である。もしこうしたしるしが現れないなら聖霊がないと言うことである。このような人たちこそ、反キリスト者と断定してもよい聖書的な正確な判断方法である。ところが聖霊のしるしもない者たちが神の御言葉を証しすると言うのは、全く言語道断な間違ったことである。

  内的な証し

内的な証しとしるしとしては、愛の証しがあげられる。

聖霊が充満に内住した心霊の上には、常に生活の中で行ない全てに聖霊の実が結ばれ、キリストの香りが放たれるのだ。

“聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる法律はありません”  (ガラテヤ5:22-23)

高級な香水をふったと自慢しながら、不快な疎ましい匂しか出さなければ、それは紛い物の香水をふったと言う簡単な論理だ。このように、聖霊があると言いながら、聖霊の実が内面から形成され、生活の中に表出しなければ、それは自らはっきりと聖霊がないと証しすることである。

聖霊を受けたキリスト者であれば、誰でもこうした内外の証しとしるしが現れるはずであるが、韓国教会ではこうした証しとしるしが消え去ってもう長い。逆にこうした力としるしを行なう教会を異端だと目をつけ罵倒してしまう。聖霊の力、役事、啓示的信仰と言えばどこか陳腐な信仰、或いは異端だと、ためらいも無く定罪し罵倒すると言うキリスト教の現実だ。

神学は異端論の判断基準を教理によって区分する。しかし聖書は、聖霊によってのみ区分できるのだと明言している。復讐はわたしのすることである(へブル10:30)と明言しているように、創造主だけが判断者であり審判者であられるのだ。ところが今の現代キリスト教が恣行する異端論は、創造主の全知全能を完全に無視し排除したまま、徹底した人間の知恵、知識等で防御し解決しようと言う人本主義的信仰観である。異端とは、聖霊によらない全ての思想、即ち、人本思想を異端であると聖書は定義している。

従って、キリストの霊がないのに教え導く者を指して、聖書では、愚かな者、盲目な者、偽りの師であると言った。こういう者が説教をすれば惑わす者であり、異端思想を説教する羊の仮面をかぶった偽りの師であるのだ。

仏教の慈悲、儒教の仁、キリスト教の愛等、名称は各々異なっても全ての宗教が追求するのは愛である。だがキリスト教が異邦宗教と異なる点は、仏教は慈悲、儒教は仁で終わるが、キリスト教は愛という兵器を持って天の御国に攻め入る宗教だと言うことだ。即ち、あらゆる宗教が追求する愛、つまり慈悲と仁は人間の希望事項であり理想論に過ぎない。実現不可能なことをキリスト教は聖霊の力で成就してしまうため、聖霊の宗教と言うのである。

こうしてあらゆる宗教を超越し、全てを包容し、救いはキリスト教にあると主張する大宗教としてのキリスト教が、いざ教派による内輪もめだけに没頭し、自分の所属する教派だけが正統であると主張している状態だ。使徒の時代コリント教会ではめいめいに、私はパウロにつく、私はアポロに、私はケパに、私はそう言うのは必要なく直通してキリストに属する者だと、各々分かれて主張した時 (Ⅰコリント1:12)、パウロはこれを叱責し“神の御前では誰も誇らせないためです” (Ⅰコリント1:29)と言い、“誇る者は主にあって誇れ”と言っ た(Ⅰコリント1:31)。

コリント教会がそうであったように、今、現代教会も、私はカルヴィン派、私はルター派、また、私が正統だと言う愚かなことをしている。聖書では、先生はひとりであり (マタイ23:8)、指導者もキリスト (聖霊) ひとり (マタイ23:8) であると記されている。ただ聖霊の導きだけが信じる信仰の対象となり、真のキリストに仕える方法なのである。

従って聖書は、神に対する礼拝も霊によって捧げ (ヨハネ4:24)、祈りも霊によって成し (Ⅰコリント13:1)、信仰も聖霊によって与えられ (Ⅰコリント12:9、ガラテヤ5:5)、施し奉仕も霊によってしなければならず、聖書も聖霊によって見る(Ⅱペテロ1:21)など、初めから終わりまで聖霊の導きを通し、知恵と知識等の教訓を神 (聖霊)から直接受け (Ⅰコリント2:13)、何一つ聖霊を離れては何もすることはできないのだ。ところが信仰をしていると言いながら、聖霊に依っていなかったと言うのは、これまで正しい信仰をしなかったと言うことである。つまりキリストのわざをしなかったと言うことだ。結局、自分の家の事はしないで、他人の家の事だけに没頭していたと言う始末だ。

3 教理は徹底した人間の戒めであり羊の仮面をかぶった狼

我が軍がゲリラと深い山中で戦闘を繰り広げている。戦闘は何年もずっと続いているのである。明らかにこれ程の時間が流れれば、食糧と戦闘物資がなくなって降伏するはずなのだが、何年が過ぎてもゲリラたちの戦闘が可能だというのは、誰かが戦えるように秘密裡に十分な物資を輸送していたと言うことだ。キリスト教は、パウロ思想の核心である、ただ聖霊によって信仰しなさいと言われたのに、これまで聖霊が無くともキリスト教信仰が可能だったのは何だったのかと言う事だ。ゲリラたちに誰かが物資を供給したように、誰かが、聖霊なくともキリスト教信仰を可能にしたのである。それがまさに教理だ。

教理主義者たちは聖霊について大変な誤解をしている。その中の一つが、自身の教理も聖霊によるものだとやたらに乱発していることだ。イエス様は、あなたがたはあなたがたの父である悪魔から出たのか、聖霊から出たのか (ヨハネ8:44) の可否がわかる‘自己診断法’を教えて下さった。つまり肉に属しているのか、もしくは聖霊に属しているのかを自己診断で分別できる方法を次のように語られている。

“だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、私が自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は、真実であり、その人には不正がありません”  (ヨハネ7:17-18)

このように教えは神から聖霊を通してくるものであって、人間自らの知恵は不義なものだと語っている。従って、助け主聖霊による導きではなく、教理または人間の知恵と知識等による全てのものは全部偽物である。

今の現代教会の信仰は聖霊を主とするのではなく、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ツヴィングリ、バーゼル、カルヴァン、カール・バルト等の教理の枠で聖書を組み合わせて一連の教育をしているため、聖書は、“彼らが、わたしを拝んでもむだなことである。人間の教えを教えとして教えるだけだから”(マタイ15:9)と言われたのだ。

彼らが聖霊の役事によって教理を作ったと言うなら(現代教会の実で見れば、聖霊の役事であったか否かは検証されない)、彼らの教理は彼らだけの信仰の見解や思想に過ぎず、聖書ではない。聖書は絶対的な戒めだ。しかし今は、人間の戒めである教理が神の戒めの座にすわっている。教理が異端定罪の基準になっているのは、つまり教理が法(人間の戒め)となっていると言うことだ。結局、人間の戒めが聖書よりも上に座っていると言うことであり、神の上に人間が座っていると言うことではないのか。教理は、神学者たちの信仰的見解と思想であり、一つの理想論にすぎない。

キリスト教史的に見る時、これまで教理はキリスト教信仰の実践信仰において失敗し、一つの実現の可能性のない理想論であったことが現時点で検証されている。その確かな証拠に、今のキリスト教をこれ以上、教理では維持し支えられないと言う、自省の声が教会の中で起こっていることと、また教理によるところの教派の実を見ればわかる。

聖書は“実によって彼らを見分けることができます”(マタイ7:16)と言われたように、聖霊による信仰であれば当然聖霊の実が現れるはずである。大豆を植えた所には大豆が出て、小豆を植えれば小豆が出るのであって、とうもろこしやジャガイモが出てくるのではない。

しかし、今の教理による改新教 (プロテスタント) は、愛ではなく、嫉視、反目、異端の定罪、判断等と肉の実だけがぞろぞろと生り、醜く汚く染み付き、到底キリスト教とは言えない境地にまで至っている。これは結局、各教派の教理が聖霊によるものではなく、一つの理想論であったことを立証している。到底、教理では信仰できないという証拠だ。それで神は、“彼らがわたしを拝んでもむだなことである。人間の教えを教えとして教えているだけだから” (マタイ15:9)と言われたのだ。

キリスト教の生命は聖霊である。否が応も無く聖霊で始まり聖霊で終わるべき聖霊の宗教だ。従って、キリスト教信仰の核心である聖霊が無くとも信仰できるように作ったものは全て羊の仮面を被ったものだ。教理は人間が作った人間の戒めであり、聖霊がなくとも信仰をできるように作った補助材で、見かけは美しく簡便で便利に作ってあるが、その中は毒が入っている偽物であるゆえ、羊の仮面を被った反キリストと言うのである。

従って教理は、人間の言い伝えとこの世の初等学問を追うだけで、キリストを追うのではないのに、皮肉にも現代教会では教理が聖書よりも優先視され重要視されている。こうした空しいまやかしに、これまでキリストの信仰が略奪されてきた。

信仰はこのように“征服されれば、その征服者の奴隷”(Ⅱペテロ2:19)となる、生きるか死ぬかの熾烈な戦いの中で、勝利者だけが生き残る実際の状況下で、この世は、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢(Ⅰヨハネ2:16)と言う滅亡の網を張り、吠えたける獅子のように信じる者たちを食い尽くそうとしている (Ⅰペテロ5:8)

我々信仰者たちは、ここでいかに信仰を守ることができるのか。まるでイスラエルの民がバビロンに引かれて目玉を抜かれ、手足を縛られ、捕虜に引っ張られて生活したように、信じる者たちがこの世の捕虜となってしまってもうすでに長い。神学はこれまで、本当に信仰生活をしようとする霊的なキリスト者たちを異端だと罵りながら、丸ごとつかんでこの世に引き渡すという取り持ちの役割を、この世に対して忠実に行なっていた。

そして自身たちはキリスト教神学の正統だと主張しているのだ。教会は、看板だけ教会であって、かしらはキリストの愛の模様ではなく、羊の仮面を被った狼のかしらの模様をしている。イエス・キリストが再び教会のかしらとなり (コロサイ1:18)、そしてただ聖霊が信仰の根本とならなければならない。

4 聖書(愛と聖霊)に帰れ

キリスト教は今、牧会者が必要なのであって学者が必要なのではない。学者はチリのように散らばっている。これらは恰も、サルがどんなに人の真似をうまくやったとしてもサルはサルであって人にはなれないのと同じで、肉は肉であり、霊は霊である (ヨハネ3:6)

真のキリスト教の正統とは、使徒時代の使徒たちの行跡である「使徒の働き」に合わせ、愛を通し聖霊の導きの中で信仰することを言う。今キリスト教は、幼稚で盲目的な教理という枠から脱し、キリスト教の行動綱領である愛という大きな枠で望む時にこそ、キリスト教の本質に達することができるのだ。

イエス・キリストの教えはただ愛であり、愛を通し信仰の窮極である聖霊に至らせようとされたのだ。聖書66巻の内容は、マタイの福音書5章全体にキリスト信仰の行動指針として要約されている。これが聖書の核心となるゆえ、マタイの福音書5章の指針から逸れることは、御言葉から逸れることであり、またキリストの教えから逸れることである。

だがマタイの福音書5章全体を守ることは、律法である人間の人格や努力の限界を超え、神の性品である (Ⅱペテロ1:4) 聖霊による神の境地 (ヨハネ10:35)に入らなければ、到底守ることのできない行動と信仰の求めであるため、人間の理性による教理では、マタイの福音書5章全体を守ることは絶対に不可能である。

イエス様は、“世に勝った” (ヨハネ16:33) と言われたが、“世に勝った”と言うのは、キリスト教の窮極である愛によって勝利したと言うことである。反対に勝てなかったと言うのは、愛ではなく反目、嫉視、さばき等によってこの世に支配され引き回されていると言うことだ。

この世を泰山のような岩の塊だとするなら、教理は卵に喩えられよう。どんなに卵を投げても岩を砕くことはできない。このように、教理による信仰ではキリスト教の本質である愛に達することはできず、信仰が空回りするだけである。従ってイエス様が、律法に徹頭徹尾したパリサイ人たちの信仰に対し、白く塗った墓だと叱責されたのだ。このように、教理による信仰では、形式的で皮相的な宗教に転落するだけだ。

この世という岩を砕くのは、聖霊にしか破壊できない。聖霊の力によらずに教理による信仰を強調するのは、まるで、水一滴もない砂漠のど真ん中で、バラを一輪咲かせようと言う幻想に染まっているのと同じだ。キリスト教はほとんど二千年間こうした幻想に染まり信仰をしてきた。それで使徒パウロはただ聖霊による信仰だけを強調したのである。

律法の最後の預言者だったバプテスマのヨハネは、イエス様に対し、私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもないと告白した。こうした告白はいろいろな解釈があるが、その中には、私の律法による信仰の水準では、霊的なあなたの信仰の水準に到底及ぶことはできませんと言う解釈も内包している。

このように人間の努力では不可能なことを聖霊の力で助けて下さり、叫び、探し、求める者にはどこの誰でも簡単にマタイの福音書5章を行なえるようにすることで、異邦人たちに神が生きておられる事と御力を表わしたいと望んでおられる。そして信じる者たちが光と塩の役割を行なうことで栄光を受けることを望んでおられるのである。しかし逆に現代キリスト教は、異邦宗教にも及ばない倫理道徳性を持って、マタイの福音書5章の前には成す術も無くもっぱら無力な信仰生活をしている。その理由は、聖霊なくとも人間の力で信仰生活を営めると誤った紹介をされて偽りに惑わされているからだ。

聖書の核心である愛の戒めを守らなかったと言うことである。これは‘愛しなさい’と言う聖書の御言葉に逸れたもので、聖書の違反であり、また反キリスト的な行為である。愛を破壊し砕いてまで異端論を云々と主張し弁論すること自体が、聖霊を否認することであり聖書に違反する。従ってキリスト教は、如何なる教理や教派、規範等も、キリストの新しい戒めである (Ⅰヨハネ2:8)‘愛’よりも優先されることは決してない。愛を土台にした聖霊の導きに従い守ることが、真なるキリスト教の信仰である。

使徒の働きに記されている使徒たちの行跡は、まさに聖霊の行跡であり、聖霊の模範を示してくれている。即ち、聖霊の力と導きの中でのみ使命を果たしたのであり、使徒たちこそが聖霊の導きを受ける者たちの見本だと言える。その反面、イエス・キリストから叱責の対象であったパリサイ人たちは、この時代の、聖霊の役事とは関係なくただ人間の知恵と知識と努力だけで歩もうとする、形式的で教理主義的な現代教会や牧会者たちの代表的な見本と言えよう。

現代教会は使徒の働きそのままを再現すべきだ。その時はじめて真のキリスト教としての復活が可能なのである。聖霊によらない全てのものがまさに‘異端’‘反キリスト’‘惑わす霊’である。

一部の教理主義者たちは、これまで証したメッセージに対し否定するが、キリストの御名によって断言する。彼らに聖霊がからし種ほどでもあるなら、いずれ、このメッセージに対して否定したくちびるが、自分も知らぬ間に、自分の口からこのメッセージの内容をそのまま証している自分を見るであろう。そうしたらその時その役事が聖霊の強い役事であることを悟り、このメッセージに対して裁くことがないよう願うものである。

    今から再び、異端論を言及する者たちは、神の災いとのろいと御怒りがあるであろう。

    耳のある者たちは聖霊の語る声を聞きなさい。

ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光あれ  アーメン