教理を捨て聖書に帰れ

現代キリスト教は、教理を切り離してはキリスト教の存在自体が考えられないほどに、全ての教会が教理に深い中毒となっている。100~200年前我が国では、農作をする時すきやかまなどの農機具が必需品で、その当時の農夫たちはこうした農機具を切り離しての農作は考えもしなかった。しかし農耕技術が先進化した現代では、そうした農機具がなくてもトラクター1台で農作をするようになったのと同様に、キリスト教で教理を強調するのは、単に信仰の習慣に過ぎない。こうして教理に依存することに固執して信仰を固守するのは、トラクター1台で農作ができる時代に、まだ旧時代的なすきやかまなどの農機具に固執しているようなものだ。多くの人がキリスト教と教理は絶対的不可分な関係だと主張するが、事実上キリスト教と教理は別個の関係である。

キリスト教は聖霊の宗教である。聖霊による最上の愛の法を備えており、最高の倫理、道徳、規範等、あらゆる律法を聖霊の中で完成する聖霊の宗教である。それにもかかわらず現代のキリスト教は、聖霊より各教派の教理に、より大きな重点を置き忠実に従っている。だが今やキリスト教は各教派間の特定教理から脱し、聖書中心へと帰るべき時である。

1 教理の誕生と背景

ギリシャの哲学を導入した契機

4世紀初めにキリスト教がローマ帝国の国教となってから、早急に解決しなければならない二つの問題に逢着した。

    第一に、キリスト教定立の問題として、ここで古い異教的宗教を破壊すること、つまり異端剔抉の問題が伴った。

    第二に、キリスト教の神秘的要素より、体系的な論理を立てなければならなかった。

二世紀になってから教会は、パレスチナという限定的な地域を脱し、ギリシャ的思考方式が主軸となり、その当時ヨーロッパを支配していたローマを中心に教会の求心点が移るや、異邦人の目にはまだ野暮ったく神秘で愚かに見えるキリスト教の姿をして、彼らに福音を証しすることは容易ではなかった。

彼らの嗜好に合うよう、常識的で一般的に信仰心がなくても簡単に信仰を理解できるようにするには、その当時一般的に使われていたギリシャ哲学の論理を導入するしかなかった。それで多くの弁証論者(教父)たちが、ローマ帝国の上流社会を迎入し、洗練された彼らに近づくには、キリスト教の無秩序で神秘的な要素より、彼らの嗜好に合った、至って洗練された哲学の服に着替えざるを得なかった。

こうした思潮は、キリスト教がローマ帝国の国教となる以前からも、すでにギリシャ文化による浸食を受けていた。ギリシャ教育を受けた教父たちによってギリシャ式に福音が照明され始めた。このように聖書の意味とキリスト教の本質を理解させるにおいて、ギリシャ哲学が使用する論理を聖書解釈の道具に利用し、体系的で美しく整え始めたのである。タートリアンはストア的に、オリゲンはプラトン的傾向の中で聖書を理解させようとし、しばらく後のことであるが、アウグスティヌスは新プラトン主義の影響を経て、西欧神学の規範となった。

このように、その時代のあらゆる思考と習慣、思想が全てギリシャ文化の影響下にあったため、その当時神学の枠を形成していた教父たちは、自然にその時代のギリシャの哲学的潮流によって聖書に近づいた。このように神学(教理)は、ギリシャの母胎の中でギリシャ式に生まれ育って来たのである。純粋な聖霊の宗教であるキリスト教が、こうした人本による論理が接木されながら、結局、教理が誕生する契機となったのである。

2 聖書と教理との関係

教理は、論理という道具を使って、聖書の事実を論証し信仰に到達させる。ギリシャ文化の影響下にあるこの世は、論理という方法で検証、確認されたものを信じるため、この方法でなくては何事も理解させることも説得もできない。この世はこの方法によって他人を理解し、事物を分別、認識する概念を持つようになったのである。しかし聖書は、こうしたこの世の方法ではなく、ただ聖霊の導きと教えを絶対的に信じ、その信仰の方法で人を理解判断し、事物の真偽と善悪を分別する認識と概念を持つよう語っている。

● 教理と信仰

この世は論理による検証で全ての理致が区分されるが、聖書は、聖徒の心霊に聖霊が直接証しして下さる。こうして証しされた方法で信仰を持って生きることが、真のキリスト教的な正しい信仰の方法と手段であり、これが聖書的なことだ。しかし教理はこうした過程を否定し、論理だけで理性に伝達しようとする。つまり聖書が主張するのは、聖霊によって人の霊に伝達することだが、一方、教理の役割は、論理で人の理性に伝達する。

キリスト教の目的とするところは肉 (理性) ではなく、霊である(ローマ8:6)。霊に到達させるのはただ聖霊だけができるのである。この時、信仰の満足と、霊、魂、肉等、全人の満足が遂げられ信仰の窮極に達する。だが教理に過度に依存したり、強要や強調するのは、人本の手段や方法に過ぎず、聖書本来の目的に逆行することである。ところが既にキリスト教では、教理を切り離しては信仰自体が考えも想像すらもできないほど、全ての教会が教理に全面的に依存している実情だ。

● 教理と聖霊 

人間の概念では如何なる方法をもっても説明することも考えることもできない、高次元的で形而上学的な聖書 (聖霊)を、今の教理は2次元的な解釈で低俗に解いてしまった。こうした教理の発達は、つまり聖霊なくとも救いに至ろうと言う、人間のはかりごとから出た人間の計略であり徹底した人本主義である。

即ち、教理(神学、知識)に頼るようにさせながら、キリスト者にでもなったかのような錯覚に陥らせ、聖霊がなくても信仰ができるよう作り出したごまかしであるから、聖霊を受けるのに教理では何等の助けも効力も期待できない。教理はかえって信仰とは反対の役割をする。そのため聖徒たちを高慢と誤謬と錯覚に陥らせるだけだ。

聖書は人間の概念では解くことはできない。ただ聖霊により聖霊だけがすることだ。聖霊の教えがある時に完全となり、聖霊がある者だけが真理の本質を悟ることができる。これが聖霊固有のわざなのである。

このように聖霊に満たされれば、労して三位一体などの教理を知らずとも、聖霊が聖徒の心霊に信仰によって認識し刻印し確信させるため、強いて難しく知識を習得する必要がない。それで聖書では“聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」と言うことはできません”(Ⅰコリント12:3)と断言しているのだ。このように信仰とは、教理によって信じ神 (創造主)をわかるのではなく、聖霊によって神がわかるのである。

教理、即ち理性による教えは理解が理性にまでしか届かず、人の霊までは達することはできない。聖霊だけが聖徒の霊に確信と信仰を与えることのできる完全な原動力となるため、聖書は、聖霊によらなければ、誰もイエスを主だと認めることができないと、はっきりと釘を打っている。つまり聖霊によらなければ、信仰に至ることも、キリストを知ることも、神の御心を悟ることもできないのだ。

このように、聖霊によって確認されたことは、直ちに行ないに出るよう信仰と行ないが一つに連結されるが、理性である論理(教理)で理解した福音は、聖徒が知性に依存しての理解であるため、信仰の行ないに出るまでは多くの段階と過程が必要である。理性の段階も結局は、聖霊の段階を経てはじめて信仰の実を結ぶのである。理性の段階で実を結ぶ最善の方法は従順なのだが、実を結ぶまでには失敗する確率が非常に高い。

教理によって養成された信仰は知的で美しい形はあっても、実質的信仰においては信仰の実を結べず、神の力を表わせない理由がここにある。それで聖書は‘聖霊がなければキリストのものではない’と断言したのだ。キリスト教は、誰もがみな救われるよう門は開かれているが、必ずや聖霊のある者だけが救いの恵沢を見ることのできる狭い道である。我々が理解しているような大衆的で一般的な、理性で推し量って悟り、歩むそうした宗教ではない。ひたすら聖霊の力を受け、その力でどんなことでも行なうことのできる宗教だ。

聖霊は、知識が多いからと受けられるのではなく、ただ信仰によって可能なのである。その信仰は理性から出る信念ではなく、聖霊から来る、心霊の深い所から自然に湧き出るものだ。だが聖霊から供給されるべき信仰を、キリスト教は聖霊の座で教理が信仰の代行をしている。このように教理で代行された信仰は、単に教理主義や律法主義と同じ脈絡を成していると言っても過言ではないだろう。

こうした風潮は、イエス様から叱責の対象で、サタンの集まりだと定罪されたパリサイ人と同じ存在だと言えよう。教理は、信仰の最後の断崖絶壁の端に掛けられた手すりであり、防柵線の様な最後の信仰の手段と方法である。

これまでの教理の役割は、初心者や異邦人たちに信仰概念の認識と分別、そして思慮等ができるようにする程度の役割に過ぎない。そのため、教理に全面的に頼った信仰は、キリスト教の本質である聖霊と愛への完全なる到達は決してできない。

  ● 信仰の完成

キリスト教はどの宗教より愛を正確にはっきりと提示しており、愛の実践を第一に優先する宗教だ。愛が築かれる時はじめて聖霊が共にあり、聖霊の導きを通し信仰の完成に至るのである。それには教理 (理論) 中心ではなく、実践を中心に信仰しなければいけない。こうした実践信仰の行動綱領を3通りに言及すれば次の通りだ。

① 行ないの基準は、マタイの福音書5章全体の御言葉を行動綱領と手本とする。(心の貧しい者は幸いです…喜びなさい。喜びおどりなさい(マタイ5:3-12)。わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい(マタイ5:39-42)。)

② 良心の基準は、コリント第一13章(寛容、親切、人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜ぶ、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ)の愛をもって、全ての聖徒の良心基準とする。

③ 教理を捨て聖霊だけに頼り、聖霊の導きを信仰の中心思想として完成していく。

信仰生活において、聖徒たちはこのように数多い聖書 (律法) の求めを、何をもって満たせるのか?これは、聖霊によってのみ可能であり、聖霊だけが聖書の全ての求めを満たすことができる。聖霊のない律法主義的な信仰では、聖書の核心であり大前提である愛、施し、犠牲、奉仕を、無理やり義務感でしかできない。だが聖霊が共にあれば、いつも喜び、すべてに感謝し、賛美と感謝の中で愛、施し、犠牲、奉仕等どんなことでも実践できる信仰の実際的力が自然と流れ出す。このようにキリストのうちにある聖徒たちを、生動感ある信仰生活ができるよう助け、行なう力を下さるのが聖霊固有のわざである。

従って、完全に聖霊に頼る信仰へと帰る時、真のキリスト教と言えるのである。

教理はどんな役割だったのか

教理は、これまで聖霊なくキリスト教を理解させる方法として次のような役割をした。

①信仰の最後の手段として断崖絶壁の端に掛かる手すり、防柵線の役割をした。

②キリスト教の甚だしい変質(異端化)と腐敗を防ぐ防腐剤の役割。つまり異邦宗教や異端への変質を防ぐ囲いの役割をした。

③これまで聖霊のないキリスト教の上に、キリスト教という形態を維持させた。だが教理の発展で、福音を伝えキリスト教の形態の従属はできたが、本来神が語らんとする聖書の基準で見るとき、その内容は完全に異なってきた。

たとえば、千年昔の人の姿を残した肖像画がないため、勝手にその人の姿を描いて使ったとしよう。勝手に推測して描いた肖像画は広く普及し、全ての人がその肖像画に慣れ親しんだ。そんなある日、彼の墓からその人の実際の姿が発見され立証された。それでも世の人々は、これまで勝手に描いた肖像画が刻印され、偽物の肖像画に慣れてしまって、事実の肖像画に戸惑い否認する境地にまで至る。この比喩は、今日のキリスト教が処している聖書と教理の関係と言えよう。

聖書の理解を助けるためにキリスト教初期に形成された教理が、今日の神学の母胎となっている。それが現在の西欧を福音化した。これまで聖霊がなくとも約二千年間をからくもキリスト教の命脈を維持してきた功労は教理の徳だと言えるが、だからと言って影が実体とはなり得ない。そのように聖霊のないキリスト教は真のキリスト教ではない。

 ● 教理と聖霊の関係と役割

聖霊は誰もが受けられる普遍的なものでありながらも、聖霊の求めに符合した者だけが受けられる特別なものだ。聖霊を受けてない大多数の信徒には、聖霊の代わりに、彼らの信仰生活を辛うじて維持できる囲いの役割をする教理が必要だった。しかし、聖霊のある信徒には、教理はかえって信仰の大きな障害となるため、キリスト教において教理はむしろ必要悪的な要素である。

これは、足の不自由な人には松葉杖が必要だが、健常者には不必要であるように、聖霊が共にする人にはかえって信仰の妨害要素となる。聖霊のある聖徒たちに無理やり教理を強調するのは、健康な人をわざわざ障害者にするような愚かなことだ。故に、現代教会は聖徒たちを教理で武装させるのではなく、聖霊で武装させるべきである。

このように教理と聖霊が互いに一致することはない。聖霊のない人本が如何なる結果をもたらすかは、過去のキリスト教史が証明し、はっきり検証している。即ち‘教理に忠実だと聖霊を受けられず、聖霊に忠実にすると教理は守れない’と言う結論に達する。

今の多くの教会は、聖書で主張する聖霊の導きを説教し教えてはいる。しかし彼らにとって聖霊論は、信仰の実践において実現の可能性のないひとつの理想論にすぎず、教える事と実践行為が徹底的に二分化している。つまり信仰と生活が別個とならざるを得ない二律背反を教えているのだ。この時代、ある聖徒が聖霊に導かれて進み信仰を実践したら、その人は直ちに異端視されるというキリスト教のもどかしい実情だ。これはまるで、二つの目を持った正常な人が、片目の国に行けば逆に不具者になるのと同じ状況だ。

根本からが異なる聖霊と教理の一致を、粘り強く追及し努力してきた西欧の教理に立脚した現キリスト教は、このまま行けば結局自ずと没落するだろう。西欧で失敗したキリスト教の神学的体制をもって、東洋に福音を伝播するのは不可能である。従ってキリスト教が聖霊によって生まれ変わらなければ、東洋の福音伝播と言うこの民族に下された使命を完遂することはできない。今キリスト教は、西欧ではなく東洋の福音伝播という大命題のもとに新しい局面を迎えていることをもう一度強調しておきたい。

 教理は時代に合わせ聖書的に再び生まれ変わるべきだ

言及した通り、初期のキリスト教はギリシャ文化の思想に染まっていた西欧に福音を証しするため、彼らに必要な服を着て彼らと同じ姿で現われたのだった。このような今の教理では東洋伝道は不可能だ。今の東洋を伝道するには、東洋の文化と思想に合う、彼らに似合う服を着てくるべき時に、キリスト教はいまだに傲慢と放心の深い眠りに陥っている実情だ。

キリスト教初期の教父たちは、その時代に蔓延していた哲学思想等を、神学の教理で圧倒することでキリスト教の優越性を表わした。その結果キリスト教が約1700余年間、西欧の思想と西欧を支配してきた。このように、これから東洋を伝道するには、彼らより絶対的に優越した教理、即ち、東洋の様々な宗教や思想を超越し、萎縮させ、圧倒できる絶対的教理が必要である。だが今のような西欧キリスト教を発展させた次元の低い教理では、東洋の福音化は不可能だ。

これまでキリスト教が最高の宗教と自任しながら、東洋の仏教、道教等を伝道し説得できなかった理由は、東洋哲学は形而上学的な思想であるため、西洋哲学のような論理に基づいた文字的な解釈では決して東洋哲学を凌駕することはできない。つまり西洋哲学は、肉の目で見え、つかめるものを優先した思想である。それが自然科学、社会科学へと発展し、今日のアメリカを有らしめる実用主義を生んだと言っても過言ではない。

その一方、東洋哲学は形而上学的で、見えない内面の概念、つまり事物の源泉的で根元的な問題の解決を、霊的に近寄り、説明しようとする。従って聖書の霊的解釈こそが、あらゆる東洋思想や哲学を統制することができる。これまで東洋を伝道できた原動力は聖霊の役事である恩賜、いやし、力などであった。東洋の篤い価値観や規範と習慣、倫理観等を簡単に崩せたのは、聖徒の心霊で働かれた聖霊の役事であって、教理ではなかったことを忘れてはならない。

聖霊の役事は論理と説得力には欠けるが、ただ聖霊を受けた者の心霊の中に確かなる信仰として役事する。その役事された信仰を信じることが、真の信仰である。東洋を伝道するには使徒時代と同様、その時々に起こる聖霊の役事と知恵と力しかない。

聖霊のない人たちには、西洋がしてきたように、東洋の情操に基づく新しい教理として聖霊論の照明が必要だ。聖霊論だけが東洋のあらゆる宗教や思想を凌駕する完璧な形而上学的教理となるだろう。今から教会が一致して東洋に合った新しい教理を立てずに、今のような教理を持って維持しようとするなら、キリスト教は東洋思想に蚕食され、数十年の内には完全な没落をもたらすであろう。

新しい酒は新しい皮袋に入れろと聖書に記されているように、時代ごとにその時代に合う変化が必要だ。たとえば壁を張り替えるのに、家全体を剥がし取るのではなく、その時々に合った壁紙などで変化をもたらすように、教会は真理という基本の枠の上に、各時代と状況に合わせて適用できる対応策を準備せよと言うことだ。(開放神学のような人本主義的な世俗を取り入れろと言うことではないので誤解のないよう願う)

 5 聖書に帰るべきだ

初代教会当時には、教理が正しく定立していなかったにもかかわらず、むしろ現代教会が望む教会の理想郷的モデルとして、初代教会を目指すのは何故だろうか?教理はこれまで聖霊のないキリスト教の上に、キリスト教と言うわずかな、あるいは似通った形を支える囲いの役割をしたに過ぎない。これまで教理が教会の生命力を導いて来たのではなく、ただ死ぬ直前の命を、床の上でかろうじて生命だけを維持したに過ぎない。今後このような教理に頼るという愚かなことは、キリスト教の将来のためにも、これ以上してはならない。ただ聖書(聖霊)に帰るべきだ。

聖書に帰ろうと言うのは、パウロの思想(パウロ神学)を通して見るとその意味がわかる。パウロの思想とはパウロ的信仰観を言い、その中心思想は聖霊である。聖霊以外の(教理、組織等)如何なるものも認めず、ただ聖霊の力、役事、知恵だけに頼り、聖霊の導きによる信仰を語っている。だが今の神学体制をもってはパウロ思想をそのまま受け入れることは全く不可能である。

聖霊は、我々が一般的に知っているこの世の方法の教理や論理等では、到底規定することも糾明されることもない。信仰は霊に属するもので、こうしたものを人間の理性で計ること自体が、人間の無知から出た高慢の極地だ。このように人間の知恵である理性では、キリスト教の高さと深さは到底測り得ない高次元的なものである。キリスト教はただ聖霊によって、聖徒の心霊に信仰により規定され、糾明されるのである。

今キリスト教は、キリスト教と教理とは絶対的不可分の関係と言う、習慣的で独善的な固執を捨て、純粋に再び聖書に帰るべきである。そうした時、真の聖霊の力と導きで未来のキリスト教を考えることができ、時代ごとに導いて行くことのできるキリスト教として、新しく生まれ変われるのである。

聖霊の名によって、このメッセージを傲慢と放心の中にあるキリスト教と、真理を愛する、全ての聖霊のしもべの方たちに捧げるものである。

ハレルヤ! 世々限りなくただ主に栄光がありますよう  アーメン