教会は信徒をこのように教えよ

(スポーツ、スクリーン、セックスを打開する根本的な解決策)

   今日、現代教会は、スポーツ (sports)、スクリーン (screen)、セックス (sex) から、信仰の大きな脅威を受けている。特にスポーツとスクリーン (テレビ、映画等) は、教会を急速に世俗化させる大きな要因の一つとして作用している。信仰の純粋性を変質させ教会を世俗化させるために、サタンはいつの時も時代ごとに主題と内容は異なるが多様な姿で現われ、常に信仰の挑戦と危機を招く。このような状況で教会はサタンから信仰を守るためあらゆる心血を注いできた。

 現代に至ってはその危機が、文明の急速な発達により、スポーツ、スクリーン、セックスが社会問題にまで大きく拡大し、これによってキリスト教の信仰も大きな脅威を受けている。信徒たちはテレビに接すれば接するほど、ヒューマニズムと真理との混沌、常識的なことと真理との矛盾の中で価値観を喪失し、混乱に陥るのである。

 こうした危険な状態で世にさらされている信徒たちに、細心の管理と正しい信仰教育を並行しなければ、①一度罪を犯した信徒は崩れた良心によってさらに大きな堕落をもたらすことがあり ②聖霊のない律法や道徳主義は、かえって言葉と行動が相反する二律背反的な行動へと表われる。

 現代教会が解決しなければならない最も差し迫った問題は、スポーツ、スクリーン、セックスからどのように純粋な信仰を守るのかということだ。信仰者たちがスポーツ、スクリーンに接すれば接するほど、この世の考えに自然と中毒になり、サタンの手引きのまま振り回されるため結局信仰が麻痺してしまう。こうして麻痺した信仰は、自分でもわからないうちに価値観と良心が崩れ、神に向かう信仰は解体され、その崩れた良心は直ちに性的な堕落へと連結され、信仰の総体的な破滅をもたらすようになる。さらに進めば人類の破滅を招くことになる。これは過去の歴史が証明している。

● サタンの窮極目的

① 性的乱れは、人間の理性では想像することのできない多くの霊的秘密がこめられている。

サタンが道徳的に堕落させようとする究極的な目的は、性的な乱れを起こすためだ。この性的乱れは結局、神との関係において、交わりを断絶させる絶対的な打撃を受けるようになる。

 性欲を我慢できなければ、男は自分の妻を持ち、女も自分の夫を持ちなさいと言われた (Ⅰコリント 7:2)。このように信仰の中では自然で望ましいことであるが、不貞な方法の性的乱れというのは、たとえば、平凡な罪が神との関係において、手榴弾一つを爆発させる威力だとすれば、セックスは核爆弾のようなもので、ある一個人や社会、国家を破滅できるほどの威力がある。従って道徳的な弛みを通して性的堕落に陥らせ、神と聖徒の間を断絶することがサタンの計略であり最終目的だ。

 聖徒が、神の許しのない快楽を自分の思うままに得ようとすることを‘霊的盗み’と言う。

“人がみな、食べたり飲んだりして、すべての苦労の中にしあわせを見い出すこともまた、神の賜物である”(伝 3:13)

“神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し…”(伝 5:18-19)

真理は、自分が植えた分だけ楽しむことのできる福を神から受ける。しかしこの世は、お金と時間と若ささえあれば、自分の思い通りにいつでも楽しめると言う誤った考えが澎湃している。こうした堕落主義 (世俗主義) が、教会の中にまで澎湃すると言うもどかしい現実に直面している。

 真のキリスト者は、復讐することや (へブル 10:30) 兄弟をさばくことまでも (ローマ14:10) 神の許しなしには何事もできない。全ての主権は神にあるため、聖徒には善を行なう権利しかない (エペソ 2:10, テトス 2:14)。しかし、神の許しのない快楽や耽美は、自分が勝手に楽しんだ分だけ、神との霊的断絶は勿論のこと、報いの法則に従って、心の苦痛や困苦、或いは肉体の病気などで償わなければならない (ガラテヤ 6:7-8)。これが真理である。昔も今も、未来にも、この世はこうした法則 (真理)によって運行していることを留意すべきだ。

 これまで、スポーツ、スクリーン、セックスがキリスト教に及ぼす悪影響と深刻性について多くの方たちの言及があった。これに対し教会はこうした風潮を防ごうと、様々な信仰教育を通しそれなりの多くの努力をしてきた。しかし努力のわりに成果がないのを痛感しながらも、教界では明瞭な解決策を提示できずにいるもどかしい実情だ。今、教会の奥深くまで入り込み、聖徒たちに信仰の放縦をもたらす、スポーツ、スクリーン、セックスを打開してゆく根本的な解決策と、日増しに腐敗しゆく世に向けてのキリスト教の役割についてもう一度言及してみよう。

1. 光と塩の役割をするよう教えるべきだ

キリスト教の危機はいつの時も豊かさと安楽から始まった。教会史を見れば、どの時代にも豊かさと安楽が怠惰を生み、贅沢と享楽の風土に倣い、純粋で清い信仰の情熱もさめてゆき、結局教会は力が消滅し、要式行為と形式主義へと流れてしまった。

 こうして堕落していく世に対して、キリスト教は如何なる役割をするのか。それに対する解決策を提示してあげたのか?聖書では、世に対して聖徒たちを光と塩 (マタイ 5:13-16) だと言った。キリスト教はどの時代であれ、塩としての本分さえ果たしていたなら、堕落しゆく世を真理へと導いていく、キリスト教らしい役割を果たしたであろう。  

 だがこの役割を果たすには、光と塩の意味する霊的な象徴が解けずして、真の教会の役割と本質は明確にわからない。今日のように、塩を、世に対して腐敗防止や、もしくは味をつけるだけの次元で解釈をするなら、教会の目的と本質は永遠に謎として残らざるを得ない。

 ● 塩とは

 これまで教会は光と塩の役割について、倫理、道徳的な側面だけの言及だった。道徳的な枠の中で、説教者が塩について脚色して説教したことで、道徳主義に基づいた信徒たちを量産した。今、教会はもっと具体的に、塩についての霊的な意味を正しく提示してあげるべき時である。

 聖書に出てくる虹が永遠の契約を象徴するように、塩は旧約時代、ヤーウェの神とイスラエル民族との間に結ばれた約束を表わす契約の象徴である。捧げ物の規定で、穀物の捧げ物や、その他の捧げ物に塩をふることによって、神とイスラエルの民との間の契約を永遠に守ると言う、契約の象徴として塩を使用した。これを‘塩の契約’と言う。

“あなたの穀物のささげ物にはすべて塩で味をつけなければならない…あなたの神の契約の塩を…” (レビ 2:13) 

“イスラエルの神、主が…塩の契約をもって…” (Ⅱ歴代 13:5)

“それは、主の前にあってあなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる” (民 18:19)

 結婚する男女がお互いに対して、変わらない愛の約束のしるしとして指輪を交わすように、塩の契約の意味は、一度約束したことを最後まで遂げ、成就すると言う意味で塩を象徴として使ったのである。こうした塩の契約は、新約ではイエス・キリストを十字架で死なせることで約束を守り履行され、また、死なれた後に、聖霊として再臨され、永遠に共にすると言う約束を履行されたのである (使 1:4-5)

  物々交換の時代には、必要に応じて米、皮、貝殻等がお金の役割をしたが、現代では貨幣や信用カードがお金の役割をするように、旧約の時は塩が契約の象徴だった。それが新約になって、イエス・キリストの血の代価として来られた聖霊によって、神と聖徒との和解が維持され、救われるようになったのである。

 このように、①旧約時代、救いを受ける唯一の方法の捧げ物の規定に基づき、穀物の捧げ物に塩をふることで神と和解できた。②新約では、永遠の救いの約束が履行された、塩の契約 (Ⅱ歴代 13:5) の窮極点は、イエス・キリストの血の代価である聖霊なのだ。即ち、塩が意味する真意は聖霊である。旧約の塩をふると言うのは、新約では聖霊を受けることと同じ意味であり、これが即ち、契約にあずかることである。

● 恩賜の役割

 キリスト教は霊的な宗教だ。聖霊を土台にし、聖霊の導きを通し完成され、聖霊の役事があってはじめて真のキリスト教の本質に忠実と言える。しかし聖霊の導きと役事のない教会は、キリスト教としての本質を喪失した異邦宗教に過ぎない。

 聖霊の役事は九つの恩賜である。知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒しの賜物、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力 (Ⅰコリント 12:8-10) が、信仰生活に共に一つとなる時はじめて、真のキリスト教信仰の本質に忠実だと言える。恩賜とは、聖霊と交わる聖徒に表われる自然的な現象である。信仰が追求するのは霊的であるゆえ、霊的でなければ信仰をする意味がない (ローマ 8:9)

 特にキリスト教は霊的宗教であるため、聖霊を土台として始まり、聖霊の導きを通して完成されていく。聖霊を通してのみ聖徒と神との交わりが成され、力を注がれ (Ⅰコリント 2:4-5)、神を感覚し、感じ、見るのである。この時はじめて聖徒は信仰が成長していき健やかになるのである。

“神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです” (ローマ 8:14)

御霊と御力の現われでした” (Ⅰコリント 2:4-5)

 信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストによって (ローマ 10:17) 信仰が成長するように、信仰は必ず聖霊の役事と恩賜がある時完全となる。恩賜は見えない神を見せる、目や耳や手、足となるもので、特に預言が成就するのを見る時、神を畏れるようになり、神が生きておられるのを感じるのである。

 恩賜の力を通し、自分の能力を超越したある神秘な力を体験し、自分の力ではない神の力を感じるようになる。この時我々の中で神が働かれるのを感じることで、信仰は成長し完全となっていく。我々が栽培する植物や草花も肥料をあげれば良く育つように、恩賜は聖徒たちにとって信仰の肥料のような役割をする (Ⅰコリント 12:7)

● 塩の真の意味

 塩とは、我々が一般的に理解しているような、腐敗防止や信仰の味を出すための律法的、道徳的な行為としての役割ではなく、ひたすら聖霊の役事を世に現す事を意味する。聖霊の導きと役事と力に従って動く信徒と教会が、塩の役割を果たすのである (Ⅰコリント 2:4,13)従って今教会は、信徒たちが世に対して真の光と塩の役割を果たせるよう、塩が象徴する真の意味である聖霊を、正しく提示してあげるべきだ。

2. 証人となる生き方をするよう教えるべきだ

   キリスト者としての存在意味 (使命感) を確実に確立させ、イエスを信じるというのは、ただ善を行なうために存在するということを教育すべきだ。

“私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです” (エペソ 2:10)

良いわざに熱心なご自分の民を…” (テトス 2:14)

 世に対しては、愚鈍であるが如く、常に何事につけ損する事を厭わない覚悟を持つよう教えることが、聖書的な教育方法である。そのように歩むことが神の聖徒たちに向けられた願いであり、この世はこれを、教会に対し徳があると考える。だが逆に、世の人々の生き方より、キリスト者たちがもっと賢く、薄情で、利己的だと感じる時には、世はむしろ教会に向かって不満と爪弾きの矢を飛ばす。教会は、聖徒たちがこの世を生きて行く方法として、マタイの福音書5章37-48節に基づいて生きるよう‘キリスト教実践倫理として教育’すべきだ。

“あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。…だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。”   (マタイ 5:37-48)

● 聖徒がこのように (マタイ 5:37-48) 生きなければならない理由は二つある。

① 真理をこの世に確認させることが証人となる生き方であるからだ。神の御言葉である真理は、この世で通用する世の常識や、世俗的な人間の考えや知恵で成り立つものではなく、神の御言葉通り万物が運行し、真理に従って成り立つと言うことを、この世に見せるためである。

 しかし大部分、この世の法と真理は逆説的だ。

 この世は、私が生きるためには相手を倒さざるを得ない。私が富を蓄積するには相手の物を奪い取るしかないのがこの世の論理と方法である。しかし、真理が求める通りに生きるには、死ななければならず、得る為には捨てなければならない (マタイ 10:39)。それで聖徒は生活の中で真理の通り生きることで、結局は、真理の通り成就することを、この世に確認させてあげること。これが証人となる生き方だ。

② 聖徒にとっては、このように生きることが神の属性 (宇宙の本質) に復帰することである。

 神は愛である(Ⅰヨハネ 4:7-8)。神の本質の愛によって天地を創造されたゆえ、聖徒が愛に歩むことはつまり、創造の原理の本質に復帰することである。これが神との一致を意味するからだ。即ち愛することが主のかたちを着ることである(Ⅰコリント13:4-8)。この二つが成し遂げられる時、主が栄光を受けられるのである。

3. 報いを教えるべきだ

   聖書では全ての罪に、審判と報いが前提となっている。この世はその真理の通り運行され、その報いに対しては、徹底した様々な苦痛の刑罰が成されている。神の属性の中には、愛とともに報いがあることを聖書は語っている(エレミヤ 17:10, ローマ 2:6)

● 悔い改めと報い

 イエス様も、種を蒔けばその刈り取りもします (ガラテヤ 6:7) と言われたように、罪は赦されても、自分が行なったその罪の価に対しては、どのような形態であれ報いは必ずついてくると言う事実をはっきりと教えるべきだ。

 聖書に、1万タラントの借りのあるしもべが、主人に全額を免除されながらも、自分に百デナリの借りのあるしもべ仲間には、その借りを免除してやらず、かえって獄に投げ入れた。するとその知らせを聞いた主人が怒り、そのしもべを再び捕え、1万タラントを全部返すまで獄吏に引き渡したと言う比喩がある (マタイ 18:23-35)。このように自分は許されることを願いながら、相手に対する許しがないなら結局、私自身も神から許されないと言う事を知るべきだ。

 悔い改めとは、だまし取った物に対して4倍にして返すと言う決心の中で、ザアカイが救いを受けたように (ルカ 19:8-9)、私が犯した罪に対して、報いとして4倍を返すと言う心の誓いと覚悟を行動に移す時、真の悔い改めが成立する。私がまず悔い改めを通して許され、また、私が犯したのと同じ罪を他人が私に犯したら、許してあげることで私の罪が赦される、報償、報いの法則があることを知るべきだ。これが真理である。これだけが、罪悪が蔓延したこの世で、罪に鈍感になっている現代教会の聖徒たちの罪をある程度防ぐ事ができる。

4. 教会は聖霊をまず受けるようにすべきだ

教会は、聖霊の働きがある時に真の教会だと言える。そして教会らしくなる。即ち、神との交わりのない教会や聖徒は、教会とも聖徒とも言えない。従って、現代教会が抱える最も差し迫った問題は、聖霊を回復することである。

● 救いとは

 聖書での救いの概念は‘聖霊を受けた時。聖霊によって歩み助けを受けた時’を救われたと表現する事が多くある。砂漠の真ん中で喉の渇きに苦しむ人には、一杯の水が救いとなり、極度の寒さと飢えに苦しむ人には、外套や温かい食事が救いとなる。このように、聖霊は我々が突き当たる実生活において、霊、魂、肉等、全人的に、広範囲に救いを適用する万能である。そのため、時代的思潮や変化する環境、思想、理念等を超える、超越的な救いが適用される。どの時代であれ、聖霊に満たされてさえいれば、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが燃える炉の中でも生き残ったように、この世という甚だ激しく燃える炉の中でも、聖徒たちは完全な信仰を営むことができるのである (ダニエル 3:27)

● 教会の義務

キリスト教の教えは、聖霊に満たされるまでを言及している。従って牧会者の分は、信徒たちが聖霊を受けられるよう、準備過程を教育し、道を案内することだ。その次からは直接聖霊が教え導くと言われた。

聖霊に満たされなさい (エペソ 5:18)

“お遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…” (ヨハネ 14:26)

“真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます” (ヨハネ 16:13)

 これは、中学校に入学すれば、小学校の担任の先生の指導を離れ、中学校の担任の指導を受けるのと同じである。聖霊がなく律法のもとにある時には、愛に基づいた生活をして行き、そして聖霊が来られたら、聖霊の導きを受けて行けばよいのである (ガラテヤ 3:23)

 たとえば、大田(テジョン)から目的地であるソウルまで汽車に乗って行く場合、聖書の教えは、大田駅で汽車に乗るまでを教えている。ここで汽車とは聖霊を指す。汽車に乗るには、運賃と駅まで行く若干の努力が本人に必要なように、聖霊を受けるための若干の努力 (悔い改め、愛、等) を教えるまでを、教会が指導すればよいのだ。その次は、汽車に乗れば楽に座り無事にソウルまで到着するように、聖霊が臨まれれば、その次の段階からは聖霊が直接指導し導かれる (ヨハネ1 2:27)。汽車に乗った後にも、汽車の中で、本人がソウルまで行くと言って、走って努力する愚かな人は誰もいないだろう。

 だが現代教会は愚かにも、この聖霊の座まで我が物として座り、聖霊の導きが何であるかさえもわからないまま、その次の段階までも人間的な方法 (理性) で教えようとしている。これは信仰の助けではなく、かえって毒になるという事実を知るべきだ。それで使徒パウロも、組織神学や具体的な信仰の仕方を提示しなかった。ただ聖霊に満たされることと、聖霊の導きだけを強調して終わっている事を忘れてはいけない。また使徒ヨハネは、ヨハネの手紙第一2章27節に、注ぎの油がとどまっていれば、誰からも教えを受ける必要がないと言っており、イエス様も遺言として聖霊を受けるように言われた (ヨハネ 14:16)

“あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについて、あなたがたを教えるように…”  (Ⅰヨハネ 2:27)

 聖徒たちは聖霊の働く説教者の御言葉を聞く時、それによって聖徒の心霊の中に聖霊が転移する (へブル 4:12)。その後には罪を犯したくても良心が痛んで犯すことができない。たとえ罪を犯したとしても、悔い改めずには苦しくて眠れず、心の苦痛にもがくのである。その理由は、罪から抜け出すまで、聖霊は執拗に聖徒の良心に働きかけるからである。教会は今、スポーツ、スクリーン、セックスにさらされている信徒と青少年たちに、悔い改めの祈りの中で聖霊を受けるようにしてあげることほど最高の信仰教育はない。塩である聖霊は、時代を超越し、最後で最善の信仰の方法である。即ち、救いの万能であるゆえ、現代、また未来の科学文明の時代に打ち勝つ道は、ただ聖霊を受ける以外はない。

 5. キリスト者がスポーツ、スクリーン、セックスを遠ざけ敬虔に生きなければならない理由

● 盗みと報い

 前述したように、神の賜物によって受けたのではなく、人間自ら快楽を探し行なうことを‘霊的盗み’と言う。人間が受ける福は、はっきりと神 (主人) が許す福の限度の中だけで享受するのである (伝 3:13, ルカ 12:18-21)。その許しがなく享受することを盗みと言う。

 今我々の周辺には快楽の種が山ほど積まれ、その気にさえなればいつでも自分の思うままに快楽を得られる混濁した社会構造の中に生きている。だから教会は、スポーツ、スクリーン、セックスを求め楽しんだ分だけ、その報いとして困苦や苦痛をもって賠償しなければならない事実を教えるべきだ。神が下さった福ではなく、自分自身が探して得た快楽に対する報いは、患難や困苦、苦痛によって常に賠償しなければならないため、快楽を遠ざけ節制し敬虔に生きなければならない理由がここ(報い)にある (ローマ 2:6, ヨブ 34:11, マタイ 16:27…)

 今聖徒たちが敬虔に生きるべき理由は、信仰者という義務感だけで節制し、敬虔を求められるのではなく、聖徒が霊、肉の苦痛なく、自由と安らかさの中で信仰をできるようにとの神の願いであり、これが聖書の教えなのである。従ってスポーツ、スクリーン、セックスを遠ざけなければ、その報いとして苦痛(恐れ、心配、心痛、ねたみ、嫉妬、肉体の各種の病気等)が常に付きまとい、霊的には、罪があればその罪によって神との交わりが断絶する。そのためサタンは、神と聖徒の間を離間、分離させようと、この世に快楽という罠を張り、聖徒を誘惑し待っているのである。

● 世俗に勝つ解決肢は聖霊だけだ。盗みと報い

 スポーツ、スクリーン、セックスによって益々堕落して行く世の中で、救いを受けられる解決策とキリスト教の役割は次の通りだ。

  ①教会は光と塩の役割と ②証人となる生き方をし ③報いについてはっきり教え ④信徒たちが聖霊を受けられるよう教育し導いてあげるべき義務と責任がある。これだけが教会が生存することのできる絶対的な解決方案である。

 以上のように、塩である聖霊は、どの時代に限らず、過去にもそうであったが、今、現代を生きる聖徒たちは勿論、未来にもこの方法しかない。これだけが世に打ち勝っていく最善で最後の防御線であり、全ての解決策であり、信仰の解決肢である。

ハレルヤ! ただ主に世々限りなく栄光がありますよう  アーメン