キリスト教とはどんな宗教か

宗教とは、自分たちが信ずる神との交感(交わり)が成される時はじめて彼らの宗教の絶頂に至る事ができる。神との交感が成されないと言うのはもはや死んだ宗教である。生命力を失ってしまったもので、このような宗教を哲学宗教と言う。それは崇拝すべき対象がないと言うことだ。神の啓示ではなく、学問で自分たちの教理を作り信仰の規範として歩むことで、彼らが追求する理想的目的に到達しようとするものだ。それで仏教、儒教、道教等を哲学宗教と言うのである。

一方、キリスト教やシャーマニズム(巫俗信仰)は、一切が霊によって導かれる霊的宗教としての共通点を持っている。巫俗信仰は雑霊との霊媒を通し呪術行為を行なうが、キリスト教は‘創造主の霊でありイエスの霊’であられる聖霊との交わりを通して、直接聖徒たちを導き教えられた事を、その通り信じる信仰である。従ってキリスト教の最高の祝福と恩寵は、すでに牧師たちが祝祷で使っているように、聖霊との交わりである(Ⅱコリント13:13)

旧約時代は律法を通し神(創造主)に仕えた。新約では、律法は次の二つの戒めに要約される。“イエスは彼らに言われた。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」これが大切な第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです” (マタイ22:37-40)。この二つの戒めが、全律法と預言者の綱領である。この綱領とは、愛に至らせ聖霊の導きを受ける始発点を作るためのものである。律法は即ち、聖霊を受けるための一切の準備過程に過ぎない。

 新約では、旧約時代とは異なり、愛の戒め(Ⅰコリント13章)以外は何も提示や強要をしていない。それはただ聖霊との正しい交わりのためである。汽車がレールの上を走らなければ脱線するように、愛から離脱した心霊は、聖霊ではなく悪霊を受けるようになるため、愛だけに従いなさいと言うのだ。創世記からバプテスマのヨハネまでは、聖霊時代のために愛を準備する過程であり、バプテスマのヨハネ以後、即ち‘その日の後’からは、聖霊の時代のための準備過程であった。これが新しい契約の約束である。

 キリスト教とは、旧約の律法と、預言者たちが預言した新しい契約に立脚し、聖霊の力と導きによってのみ歩む宗教を言うのである。「新しい契約」の約束は全て、イエス・キリストを語っている。更に具体的には、イエス・キリストの実体であられる聖霊に関する預言である。キリスト者の基本は聖霊充満から始まる。聖霊がなければキリスト者ではない。聖霊があることは、内的・外的なしるしや証として表われることでわかる。(‘聖書が語る反キリスト、異端、惑わす者とは’参照) このように聖霊による信仰を‘インマヌエル信仰’と言う。

‘インマヌエル’とは、“神は私たちと共におられる”という意味である(マタイ1:23)。これは即ち、聖霊によって私たちと永遠に共におられ(へブル9:14)、様々なことを教え、思い起こさせ、平安によって私たちを統治し導かれる、先生として(マタイ23:8)、監督者として(使徒20:28)、指導者(マタイ23:10)等として、共におられるという意味である。このように、時に応じて導かれる神の教訓と教えを信じて歩む人を、キリスト者と言うのである。また聖書は、インマヌエル信仰に対する教えと教訓であり、この教訓を通して完全なインマヌエル信仰ができるように導く信仰の指針書である。

それで使徒パウロは、ひたすら聖霊との交わりの中で、聖霊の導きである聖霊の教えと、聖霊の御力の役事通りに歩むことを宣べたのである。こうしたインマヌエル信仰が即ち、キリスト教信仰である。聖霊によって歩む以外の全ての信仰を異邦宗教と言い、聖霊によって歩んでいないのに自分たちをキリスト教だと主張するのが‘反キリスト’だ。また、聖霊が導き教えて下さった教訓以外のことを教えるのが‘異端’である。

使徒時代以後、キリスト教は論争と混乱の中でキリスト教の本質、本来の姿を忘れ去ったまま今日まで漂流している。こうした漂流はすでに聖書に預言されている。バベルの塔の出来事はどの時代にも常にある象徴であり、神を排除し人間の理性によって作られた今日の教理を象徴している。これは、‘我々なりに生きて散らされるのを免れよう’としたが、言語の混乱によってばらばらに散る結果を迎えたように、聖霊によらず人間の理性によって完成された教理は、常に尽きることのない論争により言語の混乱を残すだけだ。バベルの塔の象徴は今日も成就されている。

キリスト教は、聖書で語る真のキリスト教とはあまりにも遠く離脱し異邦宗教化している。神学は今もって教会の本質すら糾明の合意が見られない。こうした結果の全ての原因は、聖霊の宗教を、人間の理性による思弁的な神学によって完成させようとしたところから始まった。

現代キリスト教が目指し望む使徒時代は、聖霊の役事が生々しい時代だった。また「使徒の働き」を通して見る使徒たちの行跡は、実質的な三位一体を適用させる手本を見せてくれた信仰だった。その中の一つが、聖霊の交わり(導き)だ。使徒たちは聖霊の交わりの中で力を供給され、信ずる対象を見つけ方向感覚をつかんでいった。しかし今の時代は、聖霊について全く証を受けたこともなく、理論上でしか理解していないため、教理で形式的には三位一体を主張するが、実質的には聖霊を排除した二位一体信仰をしている。その結果、信仰と生活が別々という死んだ信仰を量産した。

 聖霊はイエス・キリストの実体である。また永遠に時代を超越し、現在という現実の中で肉身に表われる、救いの原理であり作用だ。教会と聖徒たちは、この聖霊の原理と作用に従わなければ、人類の希望である救いは、実現化することのない理想論として終わることだろう。

キリスト教は救いについて、現実とは関係のない、来世という、死んでからの死後の世界への希望という誤った理解をしている。真の救いの窮極は霊的救いである。‘神のかたちへ回復’され、聖霊と共に歩むこと(安息に至ること)だ。肉的救いは‘私が願わない一切のことからの開放’である。

これまで、救われたと確信していた数多くの牧会者や主の民たちが、自分たちの意思とは関係なく、願わざる数多くの病苦や、癌からの救いを受けられないまま、苦痛の中に倒れて死んでいくのを、今も周辺でとても多く目にする。彼らが常に主張したとおり、口で告白するだけでも救われると言う教理的な救いは、病魔や死の前には無用のものと化し、確信した信仰は水の泡のように消えていく。このように、実際的信仰と教理の間には、思いもよらぬほどの乖離があることを自ずと気付くようになる。

真のキリスト教信仰は、その時々に起こる、人生の出来事という現実の中で、求め、探し、たたいて、聖霊の力をまとい、霊的には神のかたちへと回復され、肉的には私が願わない一切のものからの開放(救い)を得る実質的な信仰である。また、聖霊によって、生きて働く神を感じ、共にし、常に異蹟や奇蹟を体験していく生きた宗教なのである。しかし教理による信仰は、来世という死後の世界の仮面の中に隠れ、抽象的で不可視的な理想論として存在するだけだ。神とは全く関係のない、人間たちが作った人間による人間たちだけの宗教だ。果たしてキリスト教とはどんな宗教なのか言及してみよう。

1.神のかたちへの回復

● キリスト教はただ聖霊を通し啓示を受け、啓示の通り信じ歩む宗教だ。

(創造主)は、神のかたち(創1:26)にアダムを創造されたが (創1:27)、アダムが善悪の実の事件によって堕落するや、神の愛の発露によって、堕落した人間を神のかたちに再び回復させる、人類救いの大プロジェクトを構想された。この計画は、旧約の数多くの預言者たちの預言を通し主の民たちに約束されたのである。

その救いは、霊的救いとしては、アダムの堕落によって罪の中で生きていた人間が、堕落前のアダムの本来の姿である、神のかたちへと再び回復されることを言う。これを通し安息に至る事がキリスト教信仰の窮極と言えよう。

 神のかたちへの回復とは、主と結び合わされ一つの霊となることである(Ⅰコリント6:17)。堕落以後、罪によって失われた、本来の創造時の神のかたちである神性と聖さを再び回復することであり、神の性品 (Ⅱペテロ1:4)、つまり、神の本質と要素である愛 (Ⅰコリント13章)への回復を言う。こうした愛と完全に一致し符合した心霊へと変わる時はじめて、愛の神であられる主のかたちを着たと言うのである。(へブル1:3)

神のかたちを作る唯一無二の方法は、悔い改めを通し聖霊を受けることだ。聖霊の力が我々の心に注がれることで愛が築かれ(ローマ5:5)、神の性品であるイエス・キリストのかたちを築く。この時をはじめてキリスト者と言い、その時を、新生、生まれ変わると言うのである。

新しい人を着たのです。新しい人とは、造り主のかたちに似せられて ますます新しくされ、真の知識に至るのです”  (コロサイ3:10)

 罪によって神との関係が絶たれていた人間は、神のかたちを着る時はじめて‘神との交わり’が成され、こうした交わりの中でのみ‘主と共に’が成り立つ。この時 (主と共に)を、神のわざに同参したゆえ‘嗣業’を受けたと言い、嗣業を受け継いだ後継となったため、はじめて‘子ども’と言うのである。

キリスト者の中でも、霊の完全な導きを受ける子ども(ローマ8:14)になってはじめて、神の嗣業を受け得る‘後継’となれる(Ⅰペテロ1:4)。後継は、神の御心に共に同参し、神の御心をこの世に成就することである。これを神と共にある‘協力者’(Ⅰコリント3:9)と言い、イエス・キリストとは‘友’となるのである(ヨハネ15:4)。神の御心が世に成就する時はじめて、神が‘栄光’を受け、我々はこれを、栄光を現わしたと言う。これが‘安息’であり、安息まで至るのがキリスト教信仰の窮極である。

神との同行が成される時、贖い主の救いの窮極、即ち最初のアダムを創造された時の、創造目的に再び復帰する。これは即ち、罪によって神と断絶した人間が、再び神のかたちに回復されて(救い)、神と交われることを言う。これを霊的救いと言う。神はこうした救いの大プロジェクトを遂げる手段として、キリストの犠牲と、我々に示す手本となる初穂が必要であった。従って贖いの中心は、イエス・キリストである。

キリストは、神性としてはアダムの完全なかたちであり(へブル1:3)、人性としては罪がないのに罪ある人間の姿として来られ、人間の罪を贖う贖罪の羊としての使役を遂げられた。また、死に至るまで神の御心を慕い求め、その御心のままに従順することをもって、アダムへ回復することのできる手本を我々に見せて行かれたのである。その手本は、ご自身の思いを捨て、父の御心だけに従い、死に至るまで従順することによって(ヨハネ8:28)、アダムへの回復、つまり、神のかたちへの回復と言う救いの初穂の手本を我々に見せて下さり、我々をその道に従って来るようにされた(ヨハネ14:31)。こうした手本に従って、その見本をまず使徒たちが歩み、また、今日キリスト者たちが歩んで神の嗣業を受け継いできているのである。

● 父の御心は何なのか

イエス様が我々に見せて下さった手本 (ヨハネ14:31、8:28、5:30)は、父の御心を慕い求め、父の御心だけを死に至るまで従順されたことだ。父の御心とは何なのか。勿論聖書には父の御心はたくさん出ているが、しかしその御心は総論に該当する。今我々には各論に該当する具体的な信仰の行動指針が必要だ。

神がダビデを愛した理由は、神と心を合わせ、神の御心だけに仕えたからだ(使徒13:22)。それに比べサウルは、自分の意思だけに従って仕えたため、神に捨てられたのだ (Ⅰ歴代10:13-14)。預言者バラムもやはり神の御心を捨て、自分の思いでバラクを祝福し捨てられたにせ預言者だった (民22:28-33)

常に救済論の論争となっているマタイの福音書7章の内容を通して、この時代に神が教会と聖徒たちに語ろうとされる、その御心をはっきり知るべき時だ。聖書は‘主よ、主よ’と言う者がみな天国に入るのでもなく、聖霊を受けて内的外的しるしを現わし、預言をし、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって多くの奇蹟を行なったとしても、主の御心通り行なわなければ、キリスト教信仰の根本が百害無益どころか、かえって不法を行なう者として神から捨てられると言うことだ。従ってキリスト教信仰の核心は、まさに、父の御心を行なうことである。

 父の御心通り歩む時にのみ真理であり、合法であり、キリスト教信仰の真髄だと言える。それ以外には、どんなに主の事に一生懸命邁進したとしても、神とは関係のない不法となる。その理由は新しい契約に立脚していないからであり、神との契約違反となるからだ。新しい契約とは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけると言うことである(へブル8:10)。わたしの律法とは、神の絶対的で善なる御心を言い、父の御心を真理、御言葉と言う。(ヨハネ17:17)

わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけると言うのは、新しい契約の骨子である。神の御心を聖霊が直接聖徒たちの心霊に教え、思い起こさせることを言い、聖霊の導きを語られているのである。

 旧約の律法(律例と規例)は、新約では、神の御心を完全に内包する聖霊の法に帰結する。旧約の時には律法を守らないことが不法であったが、新約では聖霊の導きに従って神の御心を行なわないことが不法となる。それで、ひとたび伝えられた信仰の悟りである(ユダ1:3)聖霊の御言葉を聞いて、心を頑なにしてはならないと言われたのである(へブル4:7)。聖霊への逆らい、そしり、冒涜が、キリスト教で許されない重罪人だと言明している理由だ (マタイ12:31-32,ルカ12:10)。では、神の御心は何であり、それはどのように探すことができるのだろうか?これを創世記に出てくる、いのちの木を通して追論してみよう。

 いのちの木

創世記には、エデンの園の中央にあるいのちの木の実を取って食べれば永遠に生きると記されている(創3:22)。いのちの木の実を取って食べれば永遠のいのちを得るということは、いのちの木の実は、いのちと永遠のいのちであるイエス・キリストを象徴しているため (コロサイ3:4)、いのちの木の実を取る唯一無二の道とは、いのちであり永遠のいのちであるイエス・キリストを通して得る方法しかない。一般的に現代教会では、永遠のいのちについて、救われた者が天国で主と共に永遠に生きるという意味の、永遠のいのちを考えているが、聖書では永遠のいのちの真意を“唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです” (ヨハネ17:3)と定義している。

つまり、父と御子を知ることが永遠のいのちなのだ。父と御子を知る方法は、子が父を知らせようと心に定めた人 (啓示を受ける者)のほかは、誰も父を知ることができないと言っている(ルカ10::22)。即ち、父の御心は、啓示を受ける時にのみ知ることができるのである。そして啓示は、聖霊を通してのみ受けられる。父の御心であるその命令の伝達者は、聖霊から恩賜を通して我々に伝えられ(ローマ6:23)、その命令は啓示を通し各自の心に記され降りてくる(へブル10:16)聖霊からの導きの中で、神の御心と神を知ることができるのは、すでに永遠に生きることのできる、いのちの木の実を取って食べたのと同じである。

神の御心を遂げるために、イエス・キリストは常に父の御心を慕い求め、その御心に従順し、自身の意思で行なったことは一つもなかった。イエス・キリストはこのように父の御心を行なう手本を我々に見せて下さった(ヨハネ8:28、7:17、12:50)

アダム以前には、その実を食べることで永遠のいのちに至ったのであるが、新約のキリスト教は、イエス・キリストを信じることで永遠のいのちを得るのである。具体的には、イエス・キリストの実体であられる、聖霊の導きを信じ行なう時はじめて、永遠のいのちを得るのである。

2 .キリスト教は神(創造主)を聖霊によって啓示する啓示の宗教だ

 聖霊の原理と使役

“それらの日の後、わたしが彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしはわたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける” (へブル10:16)

キリスト教とは、神がご自身の御心である神の法を、聖徒たちの心霊に啓示を通して書いて下さることにより、神が直接教え導く宗教だ (ヨハネ6:45)

啓示とは、奥義の中にある神の知恵を言うのである(Ⅰコリント2:7)。それは聖霊を通し聖徒たちに伝えられる。聖霊は神のあらゆる奥義を知っている方であり、神の深みまでも通達する、通達の霊であられる。また、啓示の要素と属性をもつ啓示の霊である(Ⅰコリント2:10)。神の全知性の中には、明らかにされていないこの世の奥義が内包されている。こうした神の全知性の奥義についての知恵、知識等の全ては、聖霊の三大原理の中の一つである教えを通し聖徒たちに伝えられる(ヨハネ16:13)

神の全知性を、限りなく広がる、果てしない無限な運動場だとすれば、聖霊の導きとは、真っ暗な運動場の暗闇を照らす懐中電灯のようなものだ。聖徒各自の状況と必要に応じて、叫び、探し、求める部分に対してのみ、神の御心を教えてくれる部分的な全知性である。こうした全知性をもって、聖霊は神の御心を教え、思い起こさせ、平安を下さるのである。やがて起こることをあなたがたに示す(ヨハネ16:13)と言われたように、キリスト者を啓示によって導いていく。これが聖霊の使役である。啓示と預言は共に有機的関係にあるため、啓示の性格によっては預言となることもある。

啓示に対して教理主義者たちは、‘啓示は使徒時代の黙示録で終わった’と言い、聖書以外の啓示はもう必要ないと主張するが、それは聖書に対する大変な誤解だ。聖書に収録されている全ての御言葉と預言書には、その全ての啓示と預言を、聖霊によって再び、各自に直接啓示 (聖霊の導き)して下さるというのが、新しい契約の主要核心骨子なのである。

新しい契約は、学校で1時限目の授業の終わりを知らせるベルは、2時限目の授業の始まりを意味するように、聖書の内容は、教理主義者たちが主張する啓示の終わりではなく、また再び、聖霊によって各自に神の法を心霊に啓示することで、細部的に導くということである(へブル10:16)。つまり、聖書に記された全ての御言葉 (預言)を総論だとするならば、聖霊の導きは、細部事項である各論だと言えよう。

たとえば、パウロが聖書に記されたとおり“御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい”(Ⅱテモテ4:2)と言う、福音の証に対する総論に基づいて、アジアに福音を伝えようとした時、聖霊は使徒パウロの意思とは関係なく、アジアではなく‘マケドニアに行け’と導いて下さった(使徒16:9)。もし聖書の御言葉だけに基づき無条件に福音だけを伝えていたら、正確で繊細な神の御心をわからなかったであろう。

このように、総体的な枠に該当する聖書の御言葉だけをもっては、個別的で実際的な、状況に合う信仰生活を営むことはできない。それはただ啓示(聖霊の導き)を受ける時にのみ、神の御心を正しく知ることができる。このように聖霊の導きで始まる新しい時代を、聖書では‘その日の後’と言っている。

● その日の後

それらの日の後わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は、こうであると主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる”  (へブル8:10、エレミヤ31:33)

‘その日の後’から始まる宗教をキリスト教と言い、‘その日の後’という呈示に立脚して信仰する人を、新しい契約に同参したキリスト者と言う。その日の後からの信仰は、五旬節にマルコの屋上の間から始まった、聖霊による信仰方法である。バプテスマのヨハネまでは律法に基づいて信仰してきたが、イエス・キリスト以後からは、天国 (聖霊充満)に攻め入る宗教である(ルカ16:16)

その天国は、天の御国であり、聖霊によって義、平安、喜び (ローマ14:17)があふれる、神が統治する神政国家が、我々の心霊に築かれる世界を言う。旧約の時には幾人かの特定な人たちと預言者たちだけに、神の霊の感動により、神の御心を、預言等を通し宣布し成就されたが、イエス・キリスト以後は、誰でも条件 (信仰、悔い改め等)さえ合えば聖霊に満たされることができる。聖霊充満になった時はじめて、王のような祭司長、預言者の職分のような役割と力を行なうことができるのである。

旧約の御言葉である律法と預言は‘その日の後’に焦点が合わされている。これは、イエス様の実体である聖霊に関する一切の啓示と預言であった。この預言に従ってイエス・キリストは、一次使役である贖罪の羊としての使役と、神の御心に死に至るまで従順することによって、アダムへ回復することのできる手本を見せて下さり、十字架で死なれた後には本格的な二次使役に突入するようになる。

それは、十字架の血の代価によって聖霊として来られ(Ⅰコリント15:45)、今や霊として、誰でも叫び、探し、求める者に、各自の状況と環境に合わせ、君主として(イザヤ55:4)、指導者として(マタイ23:10)、先生として(マタイ23:8)、司令官として(イザヤ55:4)等、様々な姿で我々を導き助けて下さると言うのだ。

このように、新しい契約の実体であられるイエス・キリストの霊、即ち聖霊によって始まる時代を‘その日の後’と言う。これはつまり律法の時代は過ぎ、新しい聖霊の時代の始まりを意味する。古い昔の旧約の成文化された律法で神に仕えるのではなく、今、神は聖霊によって直接臨在され、我々の心霊を宮とし、各自の心霊に書いて下さる啓示によって、神の法を教え導いて下さるもので、これを‘油注ぎ’と言う。

● 油注ぎ

油注ぎとは聖霊を意味する。油を注ぐと言うのは、聖霊の力を受ける(使徒10:38)という意味だ。旧約では王、預言者、祭司長等の特定な人だけに油を注がれたが、新約では誰でもイエス・キリストを信じ、探し求める者には油を注がれ、聖霊によって役事される。油注ぎは、我々の心霊に神の法を記すと言うことである(へブル8:8-12)。我々の心霊にご自身の律法を、直接啓示を通して導いて下さると言うのだ。

これは聖書の全ての御言葉と、新・旧約に約束された、人類救済と贖罪史の窮極である聖霊の導きに帰結する。聖霊に導かれた御言葉は、聖書の御言葉と同じ真理であるため、誰かに教えてもらう必要がなく、教えられた通りに聖霊の導きに従いなさいと聖書は語っている。これが油注ぎの定義である。

“あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで誰からも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、 ──その教えは真理であって偽りではありません──  ”  (Ⅰヨハネ2:27)

これは、現金と小切手が同じ価値として通用するように、聖霊に導かれた御言葉は、聖書の御言葉と同じ御言葉、同じ真理として、同一で同等な権威と効力が発生するゆえ、聖書は、聖霊を真理だと言っている(ヨハネ15:26)。即ち、聖霊の導きを受けることは、真理の導きを受けることである(ヨハネ16:13)。聖霊の油注ぎは、新しい契約の核心的宣言であり、それは各自に啓示(聖霊の導き)するということである。聖書に記された全ての預言の核心であり、また聖書全体の内容である。油注ぎは賜物を意味する(使徒10:38,Ⅰコリント12:4-11)。賜物によってそれぞれ各自に神の御心を知らせ、表わす作用である。

3. 神の御心は聖霊の賜物を通し成し遂げられる

 賜物の作用と役割

“神の御心は、聖霊の賜物を通し具体的に現実化して現われる。”  (へブル2:4)

“父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話した すべてのことを思い起こさせてくださいます。…あなたがたにわたしの平安を与えます” (ヨハネ14:26-27)

聖霊は神の御心を我々に全て教え、全てを思い起こさせ、平安を下さることで悟らせて下さる。これを普遍的な聖霊の3大原理だと言えよう。(義について、罪について、さばきについて悟らせて下さるのは3大原理の中に隷属している)

これはまた、聖霊の作用である9種類の賜物(Ⅰコリント12:4-11)を通して聖徒たちの肉身に臨まれる。こうした作用は一般的に神の御力と、聖徒の心霊に感化、感動、悟り等として来る。賜物は神の御心を、聖徒たちを通して教会に知らせるのである。聖徒たちの信仰の度合いに応じ、神の御心を各自に聖霊を通して示すものだ。こうした聖徒たちの部分的な示しが全部集まり一つになる時、教会は完全な神の御心を悟っていくのである。

言及したとおり、神の全知性が、限りなく広がる、果てしない無限な運動場だとするなら、聖霊の導きは、真っ暗な闇の中の懐中電灯のようなもので、聖徒各自の状況と必要に応じて叫び、探し、求める部分に対してのみ神の御心を教えて下さる、部分的な全知性だ。

 賜物とは、神の全知性を、必要に応じて聖徒たちに表わすことで、神がご自身の御心を伝える方法である(へブル2:4)それで賜物を永遠のいのちと言うのだ (ローマ6:23)。教会はこうした聖徒たちの集まりによって、聖霊の賜物と作用を通し神の御心を遂行することで、教会が教会としての使命を果たすことができるのだ。従って聖霊の賜物と作用は教会が存立する完全な核心的原理であり、原動力となるのである。

教会の役割は、神の全知と全能性を表出する所である。賜物の作用を通し神の現々たる事を表わす所であるため、真理の柱となるのだ。

 教会の目的は“天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって” (エペソ3:10)と言われているように、聖霊を通し神の御心を知り、その御心を成就させることで、世に対して‘草はしおれ、花は散る。しかし主の言葉は、とこしえに変わることはない’ (Ⅰペテロ1:24-25)と言うことを見せて神の栄光を表わし、世に対し、神が現々たる事を示し、終局には‘人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による’ (マタイ4:4、申命記8:3)ことを人間たちに知らせることにある。これがイエス・キリストを通した福音の目的とするところであり、福音の窮極である。

このように教会は神からの直接の啓示(聖霊の導き)によって、神の御心通り運営されるため、真理の柱と言うのだが、啓示と賜物がなく世に対して光と塩の役割をしようというのは理屈に合わないことだ。これは教会の存立自体が絶対不可能な事である。

● 真の礼拝なる霊とまこと

教会の礼拝方法についても、イエス・キリストはサマリアの女に‘神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません’と語られた(ヨハネ4:24)。霊とは‘聖霊に教えられたことば’ (Ⅰコリント2:13)を言う。それは聖霊の9種類の賜物による礼拝を指しているもので、代表的にコリント教会の礼拝方法をあげることができる。

“兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まる時には、それぞれの人が賛美したり、教えたり黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい”  (Ⅰコリント14:26)

 教会は、聖徒各自のこうした賜物を通して神の善なる御心を悟り、その御心をその通り成就することが真の礼拝だ。この礼拝のために聖徒は心、思い、性品、命を尽くしてはじめて真実さに到達でき、こうした真実さをもって叫び、探し、求める時に、神の御心を悟ることのできる聖霊が臨まれるのである。それが即ち、永遠のいのちが臨むことである。

もし現代教会の中で、コリント教会のような方法で賜物に基づいた礼拝を捧げたなら、教界内では即座に、聖書ではなく教理の物差しをもって異端だと烙印を押すことだろう。そして彼らをむしろシャーマニズム的教会として扱うだろう。だが聖書では皮肉にも、使徒時代の礼拝方法はこうした賜物が基礎に成り立っている。その方法がまさに、神の御心を探しその通り従順し成就する、霊とまことの礼拝 (ヨハネ4:23) の見本なのだ。

教会の真のコイノニアは、親睦団体のように教会員だけの親睦を図るのではなく、各自に働かれる聖霊の役事等、即ち賛美、教え、黙示、異言、解き明かし等を通し、互いの意見が交換されて神の御心を探して行くことを、真のコイノニアと言うのである。

賜物を通し神の御心を悟る時に、教会と聖徒は聖められる。聖さとは即ち、御言葉によって聖別、区分されることであり、神の属性に共に同参することである。神の御心に立っている時、聖められるのである。教会は必ず賜物に基づいて成り立っていなければならない。賜物によって形成された集団を真のキリスト教会と言うのだ。賜物によって形成されなければそれは教会ではなく、異邦宗教もしくはただ世によくある親睦団体に過ぎない。

キリスト教と聖霊の関係は、共に離す事のできない不可分の関係であるにもかかわらず、聖霊の賜物と言えば無条件に異端だとか、おかしなものとして拒否する傾向がキリスト教内に澎湃している。勿論これまで聖霊に対する数多くの失敗があった。聖霊充満な者たちは賜物が臨んで、彼らはすぐに教会を離脱し各自の家庭で祭壇を築き、祭壇主義へと流れた。また一部は終末信仰と接木され、ことごとく聖霊の運動が終末論や妙な様相へと流れたことは事実だ。しかしこうした多くの過ちと失敗の教訓を通し、聖霊の賜物について正しい解釈が出て、真実に到達できるはずなのが、教理主義者たちは、聖霊の賜物と言えば覆いかぶせ、異端だと定罪する間違った信仰観を教会に植え付けている。

これはまるで、ある王が、自分の愛する王子と王女がご飯を食べて食中毒にかかったと言って、食中毒の原因は究明せず、全国民に無条件に米農業をやめさせ、ご飯も食べてはならないと命令する、あきれた正気でない王のようなものだ。神学は、こうした正気でない狂った真似をためらいもなく恣行する王のように、律法と言う知識の鍵をもって、私も入れず、人も入れないようにする過ちを犯している。

 旧約時代の規例と律例は今の聖霊の導き

旧約時代には律法を通して、守らなければならない規例や律例等の法度が具体的に明示されていて、それだけ守れば信仰生活が可能であったが、新約では新しい戒めなる愛以外には如何なる規範も規則も制定していない。今日までキリスト教が、イエス・キリストを信じてどうするべきかわからずに、混沌と混乱の中にあった理由がここにある。使徒時代でさえ、イエス・キリストを受け入れてどうしたらいいのか、多くの混乱と議論の中で、ただ‘偶像に供えた物と、血と、絞め殺したものと、不品行を避けることです’と言う、若干の規則だけで(使徒15:29)キリスト教の全ての事を行なっていた。

このように、信仰をいかに営むべきかについての規範と規則が無くなるや、人間は自分たちの言い伝えや戒めなる教理を作り出した。キリスト教は今日まで二千年間をその教理に基づいて信仰生活を営み、維持してきた。規範と規則がそれほど重要ならば、神はなぜ作っておかなかったのか、その理由は何なのか? それは、異邦宗教とは異なり、ただ聖霊の導きを受けなさいと言うことだ。キリスト教は、聖霊の導くままに、その時ごとに信じて従順に従い、行ないさえすればよい宗教であるゆえ、如何なる規範や規則も別途に制定していないのである。

以上のように、キリスト教は聖霊の導きに従って準備され、また聖霊の計画と導きによって始まり、聖霊の力によって進行され、聖霊によって終わらなければならない聖霊の宗教、即ち、啓示の宗教だ。ただ聖霊だけが先生として(マタイ23:8)、指導者として(マタイ23:10)、教会の監督者として(使徒20:28)、司令官として(イザヤ55:4)、信仰生活に親密に一定して関与されるのである。キリスト者はその聖霊の導きだけに従って行けばいいのだ。聖霊の導きを受けるためには、まず悔い改めが先行される。悔い改めを通して、律法の完成である愛 (マタイ5章)に到達するのである。その時はじめて律法信仰から聖霊による霊的信仰へと転換されるのである。

聖霊の導きは成長した者の信仰である。完全な信仰の土台の上に成り立ち、毎日毎日を愛 (Ⅰコリント13章)に完全に焦点を合わせて生きなければならない。その愛に符合できなければ叫び、探し、求め、哀痛して聖霊の助けを受け、完全に第1コリント13章の愛の中に留まる時、‘キリストが私の中に、私がキリストの中に’共にするのをはっきり明確に感じられる。その中で義、平安、喜びが完全に築かれること、それを聖霊充満と言うのである。

この時が、主のかたち、即ち神のかたちへの回復であり、これを新生、生まれ変わると言う。この時はじめて完全で完璧な神との交わりが成されるようになるのである。聖徒はこの聖霊充満を常に一生涯維持しなければならない。こうした状態が維持される時、神との交わりの中で神の御心を正確に知ることができ、その御心にそのまま従順し主と共に生きるのである。

この時を、子どもと言うのだ。子どもとは、主の霊に完全に導かれた人である(ローマ8:14)。こうした子どもたちだけが嗣業を受ける後継となり、天の御心を完全に成就させるのである。主と共に歩む中、心霊に記された通り行なうこと、それが聖霊の導きを受けていくことである。この時、神は栄光を受けられ、聖徒は神に栄光を捧げたのである。

キリスト教が失敗した理由を端的に言えば、啓示と預言を通した聖霊の導きを否認し、無視した結果である。これはイエス・キリストの十字架の功労を完全に挫き、イエス・キリストが救い主であることを完全に否定する、反キリスト的な行為である。

キリスト教は使徒時代以後、約二千余年にわたり数多くの教父と神学者を輩出した。彼らは人間の理性だけで神を知ろうと努力し、神について数多くの言及をしてきたが、聖霊は、彼らの主張を一瞬にして白紙にし、彼らが説明しようとするものを瞬間にして説明して下さる。即ち、数知れない神秘の知識を、ある御力によって一瞬のうちに理解させる全知を、全能をもって表わそうとされるのである。

その例としてパウロがあげられる。モーセから1500余年の期間をもって立てられたユダヤ教の熱烈な追従者であったサウロが、パウロに変えられたのは、ダマスコでの瞬間的な聖霊の力によるものだった。それは即ち、1500余年の期間をもって立てられた律法宗教のユダヤ教の知識等を、聖霊の力によって一瞬のうちに打ち壊したことを意味する。

従って使徒パウロは、ただ聖霊の教えと力だけを主張した。それはまた、キリスト教の核心である。今キリスト教は教理を捨て聖書に帰るべきだ。それは即ち、聖霊に帰ることを意味し、また、真の三位一体の信仰に生まれ変わることだ。その時、神のかたちを通し聖霊の導きを受け、救いの窮極である、神と共に生きることを果たすのである。

このしもべは、神から受けた使命を、付け加えることも、取り除くこともなく、受けたそのままをこの時代に証しするものである。

このメッセージが、決して御言葉の終結だとは言わない。今キリスト教は教理を捨て、聖霊に立ち帰る時はじめて、真のキリスト教に生まれ変わることができる。ただこのメッセージの御言葉を基礎にして、過ってしまったキリスト教が聖霊によって再び復活し、また、真に真理を探し求める人にとって、揺るぎない信仰の基礎となればと言う、切なる望みと願いである。

ハレルヤ! 万民から世々限りなく、

ただ主だけが栄光を受けられますよう アーメン