艱難の日に信仰をどのようにすべきか

    日本にこのメッセージをお伝えすることになったのは、2020年1月31日、夢で、上皇后さまが助けを求めておられる声が聞こえた。そして再び眠りにつく中、今度は上皇さまが助けを求められる夢を再び見た。この夢を見た後、何を意味するのだろうかと祈っていたところ、神から、急いで日本に伝えよという御言葉があり、再び日本の皆様とキリスト者の方々にこのメッセージをお伝えするものである。

   日本はこれまで経済的に豊かに暮らしてきた。しかし今、人が生きるにあって、そのいのちが、所有の豊かさにあるのではないことを悟る過程にある。人間が人生を生きて行くにあたり、好き嫌いを問わず、必ず守って行くべき絶対的なものがたくさんある。しかし今まで我々人類は、極めて大切な価値あるものを教えて来なかった。

   ただ食べて行くことに忙しく、学校、お金を稼ぐ方法、出世等に焦点を合わせ、これがまさに幸福への直結であると思って生きて来た。また、科学の便利さと安全性、そして豊かさは得てして、絶対的な幸福をもたらす完全なる保障であると信じ、前だけを見つめて走って来た。ところが今日、全ての人類が環境災害と艱難の時代を迎えたのである。

   艱難の時代とは、審判を通し、毒麦は焼き、麦は蔵に納める期間、即ち、麦と毒麦を分別する期間である(マタイ13:30)。これを通し人間たちは、これまでの人生の結果について、正しい事と偽りに対する分別力を持ち、また、如何に生きるべきかについて大きな教訓を受ける機会である。人類はこの教訓を子孫たちに末永く残さなければならない。

   艱難の日についてイエス・キリストは、「荒らす憎むべきもの」が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさいと言われた(マルコ13:14)。このように、数多くの偽りが横行し、混沌と非常識、非理性、非論理、非正常が、まるで正常のように包装されて混乱させること、即ち、荒らす憎むべきものが、事実のように欺き、その場所に立っているなら、まさに審判の時であることを、私たちに悟るよう教えておられるのである。

   艱難と災難は、神の預言の御言葉に従って、古代から現代を超え未来まで、人類の罪と悪が満ちれば常に繰り返し起こることである。イエス・キリストは二千年前からキリスト者たちに、10人の娘の比喩をもって艱難の準備をされた。つまり、油を用意した5人の娘だけが花婿を迎え救われるが、油を用意していなかった5人の娘は、戸がしまり救いの機会を失うのである(マタイ25:1-13)。この比喩で見るように、イエスを信じ救われるには、油の用意が必須である。そうしてこそ花婿を迎え、救いに至れるのであるが、それができなければ、花婿が来ても、自分のことに熱中し、欲と主張、固執、頑固さによって悟ることができず、機会を逃してしまうのである。

   油の用意とは、①聖霊によって気付き、教えられ、未来を知ることだ。そして、それに従って必要なものを、前もって準備しておくことである。②艱難の中で、自分や家庭、社会、国家に対し、前もって救いの約束を直接主から受け取ることである。これを、新しい契約と言う。約束を受け取るには、主の命令と戒めである愛を死守することを誓い、これまで世の中で生きながら、主の戒めを守らず、肉の属性に従って思うままに生きて来たことを悔い改めることである。

   即ち、兄弟を憎み、偶像崇拝し、この世を友として生きて来た、淫乱、淫行。また、神の御言葉よりも、科学をより信じ頼り、従順しなかったこと等、愛から逸れてしまったことを悔い改めることである。こうした悔い改めを通してのみ、主と共に新しい契約に参加できるのである。そして契約後には、どんな艱難にぶつかっても、自分が主と契約されたその信仰をもって通過して行くのである。今日のような艱難の時代、不確実な時代には絶対的に必要な新しい契約である。それは、愛の中に留まっていなければ成し遂げることはできない。

   新しい契約が成されれば、決して感情に従って生きてはならない。神の契約である真理は永遠である。感情は状況によって生じたり消えたりする霧、また風によって動く葦のように瞬間的であり、今という状況、環境に敏感だ。こうした感情の世界、つまり、虚像の世界に振り回されないよう、現在を揺れ動くことなく岩の上に立てることが信仰である。

   それでキリスト者たちは、神から油を注がれることで知り得た、聖霊の教えの真理をもって、揺れ動くことなく、信仰によって、こうした虚像、偽り、心配、懸念、恐れ、等の現実に打ち勝つのだ。それで信仰によって救われるというのである。キリスト者たちは、こうして油を準備することで艱難から救われるべきなのに、いまだに我々は、愛の神がなぜこうした苦痛を抱かせるのかという疑問であふれんばかりの幼い信仰水準にとどまっている。

   キリスト教は、あらゆる宗教の完成である。それは、愛の戒めをもって完成される。その理由は、愛の完成した豊かな心霊の中でのみ、何を語られても信じることができ、その信仰によって主に会えるからだ。そしてその時、主の命令を奉じ仕えることができるからである。愛の戒めを守らず、もっぱら小さい子供のように意地を張り、駄々をこねたからといって、それが真理となることはない。こうして我々キリスト教は、成長しなければならない年であるにもかかわらず、いまだに子供のように自分の好きなものを離さず、癖を直さないまま、互いに主張し合い、自分の正しさに意地を張り続けている。

   今日のイスラエルは、神の民でありながら、環境は常に艱難の渦の中で平安と安息の救いを得られずにいる。これは神が顔をそむけておられるのか。それは固執と頑固さにより、悔い改めてイエス・キリストに帰って来ないがために、預言された通りに顔を隠されているのである(申命記31:17)。イスラエルの救いは、真にイエス・キリストを受け入れ、悔い改める時、救いの奇蹟が起こるのである。

   このようにキリスト者たちもまた、最後まで自分の固執と頑固さを押し通せば、それは恰も、岩の塊が、寒さと暑さ、そして風などにより、長い時間をかけて少しずつ少しずつ、かけらが砕けて行くように、苦難と苦痛の長い鍛錬の期間を通し、固執と頑固さを砕かれるのである。

   従って艱難の時は、自分の欲と罪が死ぬまで困難な環境は続く。真鍮や鉄のように頑固な心霊が、こうした艱難を通じてはじめて罪が罪として見え始め、そして偽りと真実が見え、騙されたと感じ、振り返って神を探し求めるまで、艱難は続くであろう。絶叫に満ちた声で悪を憎み、罪を告白し、救いを願う時までである。

● 救いの非常口

   艱難からの脱出は、固執、頑固、そして自己主張を捨て、信仰と従順によって抜け出すことである。これだけが救いの非常口に出る近道だ。それでキリスト者たちに対し、信仰と従順、感謝を最も喜ばれるのである。このように艱難時の災害は、神を知り真理に帰って来なさいという愛のむちである。それは恰も、悪性腫瘍のガンのかたまりを除去することで健康な体に再び回復するように、災難を通し、神の怖さと、生きておられることを知らせておられるのである。

   今、神は、人類を伝染病によって打ち始められた。地震や自然災害を含めたあらゆる天災事変をもって打ち、苦痛の時代を越えさせるであろう。こうした災難を通じ当然ついて来るのが経済大恐慌である。こうした窮乏を経て人類は、神の正道である真理を悟るようになる。こうした神のむちは厳しく霊肉を打たれ、多くの人たちが死に至るであろう。その始まりが今起こっている。これは、今後始まる数多くのむちの始まりに過ぎない。人類はこうした艱難を通じ、自身がどれほど神の前に傲慢であったのか、粗末な自分たちの姿を見、その時はじめて神の御言葉を謙遜に聞くようになるであろう。

   人間にとって恐怖心は、人間の頑固さを砕く神の強力な愛のむちである。キリスト者たちには恐怖の前にまず、心配や懸念をもって恐れを与えられる。この恐れは直ちに起こる恐怖を防ぎなさいという神の御言葉と同じである。今、人類の前の置かれている恐れ、この恐れの前に我々キリスト者たちは、遅れてしまったが、悔い改めと慟哭の涙で痛悔し罪を告白しなければならない。そして人類の罪によって自然が壊され、砕かれ、崩れたことに対し、その理由を探し、一つ一つ綿密に誤りを悟って悔い改め、救いを願い求めなければいけない。“ホサナ、ホサナ”即ち、“救い給え、救い給え”と、声を上げて叫ぶ時、その艱難は終わる。

   現在、神の公道の法と、この世の偽り、欺き、謀略等、善と悪の対決が始まった。今、我々キリスト者たちは、神の真理の側に集まらなければならない。そして、これまでの誤り等を悔い改め、絶叫と慟哭の涙をもって愛の中に帰っていかなければならない。キリスト者たちがこのように教派を超え、愛の中で一つに和合し、ひとかたまりとなって祈る時、即ち、人類が苦痛を受けるこの艱難の期間を減らしてほしいと、絶叫と哀願の中で、人類のために愛の祈りを捧げる時、この艱難の時代を少しでも減らすことができるのである。

   我々キリスト者たちは、この時のために存在する。特に主のしもべたちは人類のために、最も低い姿勢で彼らと一緒になって、共に泣き、共に笑い、心を痛め、苦しみを共に甘受しながら、大胆に神の御言葉を伝えることが、この時代、良心のある主のしもべとしてしなければならない当然の義務である。そうして子孫たちに代々引き続き、光と闇を教え、警戒させ、未来の我々人類の全ての子孫たちが繁栄できるようにしなければならない義務と責任が、この時代21億の全てのキリスト者たちにあるのである。

   主よ! 日本の殉教者20-30万人の殉教を覚えて下さり、今、意気消沈しているキリスト者たちの悔い改めと叫びに目をそむけないでください。この御言葉を聞いた心霊各自に、悔い改めの霊を注いでください。主よ!ひたすら神を仰ぎ見られる上皇さまと、キリスト者の方々を覚えて下さい。我が主イエス・キリストのみ名によって切にお祈りいたします。アーメン

草はしおれ、花は散る。しかし主のことばは、とこしえに変わることがない。

憐れみと慈悲の主よ! 世々限りなく主に栄光あれ。ハレルヤ

(2020.2.22)