人間にとって‘恐れ’は神の刑罰である

(神の最後の約束、涙の契約―敷衍メッセージ1) 2017.11


全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。(Ⅰヨハネ418

人間にとって恐れがやって来るのは、愛を失ったために受ける神の刑罰である。アダムが善悪を知る知識の木の実を食べてから、一番初めにとった行動が、それまでは裸でいたにもかかわらず、恐れて、いちじくの葉をつづり合わせ、自分たちの腰のおおいを作ったことだった。(創3:7-10)アダムが善悪の木の実を食べる以前は、神のかたちである愛(コリント13書)の中で生きていた。

“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反する事をせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”(Ⅰコリント1347

そうして神の御言葉は何でも信じて暮らしていたが、自ら善と悪を食べて罪を犯してから、まず初めに現れた症状が、恐れである。その恐れのために、まず最初に服を作って着たのだ。つまり、蛇のように、蛇の属性通り、偽りと偽善によって自分を隠し、意識的に自分の恥部を覆い始めたのである。

我々人間に、今起こる多くの出来事のほとんどの発端は‘恐れ’だ。未来に対する恐れ、貧困の恐れ、自分の恥部が発覚されないかと言う恐れ、恥をかかないかと言う恐れ、人にだまされて利用されないかと言う恐れ、テロの恐れ、災難の恐れ、等、数知れない恐れのために悲劇が醸し出され、この恐れが人間の世界を支配し王座を占めている。

今は、極度の恐れを超え、恐怖の時代だ。4世紀から始まった民族大移動を成した動力は、恐怖であった。こうした恐怖は、神のかたちである愛から離れたために受ける刑罰である。従って、恐れを克服する道は、唯一神のかたちである愛を回復し、神に再び帰ることである。それで聖書には、愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。(Ⅰヨハネ4:18)と記されている。罪を犯せば、罠があなたを取り巻き、恐れがにわかにあなたを脅かし(ヨブ記22:10)わざわいは罪人を追いかける。(箴言13:21)それで、人間たちの霊に患難や困苦があるのである。

このように人類が善悪の木の実を食べた結果‘善’を失い、悪の結果である恐れや、災いの死の中に閉じ込められているのである。災いは、各々の人が罪を犯した分に比例して、恐れ、恐怖、心配、懸念、憂い、没落、病魔、等の苦痛をもって、その罪を全て返済し終えるまで、罪と悪を火によって消滅させ、焼き尽くす期間である。それで詩篇には、災いについて、私を取り囲んで中傷する者の悪意を、災いの日、と記しており(詩49:5)、また、患難と苦悩とは、悪を行うすべての者の上に下る(ローマ2:9)と記されている。災いは、冬が過ぎれば春が来るように、人間たちの罪が満ちれば、そのことの終末として、その人が行った通り審判を受け、その服役が終われば、また新しく始まるのである。そしてまた罪が満ちれば、また再び審判を受ける連続の人生である。ここで救いを受け、いのち、永遠の命へと行く道は、唯一‘善’に帰ることである。

(‘神の最後の約束、涙の契約’メッセージ参照)

(2017.11)